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2011年10月

2011年10月31日 (月)

食品会社の売上状況と、ヒト・家畜・養殖魚の食生活

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ある新聞の投資・財務欄記事によれば、この食品会社の今年度の上半期の営業利益が過去最高で、その理由は、売り上げ面から見ると「内食指向の高まりで主力調味料類の販売が堅調に推移」「即席スープ類の新商品効果などによる売上高増」「飼料用アミノ酸を中心としたバイオ・ファイン事業の堅調さ」だそうです。

会社四季報によると、その食品会社の特色は「調味料国内最大手。アミノ酸技術で医薬、飼料等多面展開。」、主要製品(商品)タイプは売り上げの多い順番に「国内食品、海外食品、バイオ・ファイン、医薬など」となっています。バイオ・ファインは、少し以前の四季報だと「アミノ酸」と表記されている。

もともと料理用旨味成分であるところのアミノ酸の開発と販売が得意な会社ですが、主力の飼料用アミノ酸とはある必須アミノ酸(リジン)のことで、モノの本によれば「リジン」は「サワラ、サバ、小麦胚芽、オートミール、そば、大豆、高野豆腐、納豆など」の食材・食品に多く含まれているそうです。必須アミノ酸なので、ヒトの場合はそういう食品を食べるか、それが面倒な場合は、お手軽サプリメントを飲むか。猫用のリジン入りサプリメントも販売されています。

豚や鶏や牛が主たる対象ですが、海面養殖されている魚類向けの配合飼料としても有効だそうです。豚・鶏・牛などの成長に最も必要なアミノ酸であるリジンが通常の飼料原料(穀類や油粕)では不足しているので、彼らの成長速度が遅くなる。そこに結晶リジンが添加されるとアミノ酸バランスが大幅に改善されて、家畜類だけでなく養殖魚類の成長も促進されるというプロセスです。

「ヒト・家畜・魚の食生活」と書きましたが、地面を飛び回っている放し飼いの地鶏や放牧されている肉牛・乳牛、天然ものの魚や栽培(さいばい)漁業される水産物などを除けば、サプリメント入りの飼料を食べた家畜や魚を、サプリメントなしではうまく栄養バランスが取れないヒトが食べているという構図です。つまり、全メンバーがそうではないにしても、ヒトも家畜も魚も、それぞれの集団のそれなりの参加者が似たような食生活をしていることになり、少し不気味な感じもします。

食品添加物というのは、食べる人の味覚というか脳を刺激して食欲を増進させますが、家畜や魚が結晶リジンが添加された飼料をそれだけ多く食べてくれたらそれだけ早く成長し、そこに需要があれば、より多くの売上がより早く期待できます。

【註】「栽培(さいばい)漁業」と「養殖漁業」:「栽培漁業とは、卵から稚魚(ちぎょ)になるまでの一番弱い期間を人間が手をかして守り育て、無事に外敵(がいてき)から身を守ることができるようになったら、その魚介類(ぎょかいるい)が成長するのに適した海に放流(ほうりゅう)し、自然の海で成長したものを漁獲(ぎょかく)すること」(農水省)で、生簀(いけす)や水槽で出荷サイズになるまで育てる「養殖漁業」とはその点が違います。北海道では、鮭やヒラメが栽培漁業対象の魚です。

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2011年10月28日 (金)

オーボーな自転車に対して、うれしいニュース

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新聞記事(の一部)を最初に引用します。

<自転車>車道走行促す 歩道は原則禁止 警察庁が対策強化

自転車の交通ルール違反が後を絶たず、事故も多発していることから、警察庁は25日、自転車の原則車道走行を促すことを柱とする自転車交通総合対策をまとめ、全国の警察本部に通達した。自転車通行が可能な歩道を減らすとともに自転車レーンの整備を進めることにより、自転車と歩行者の分離を図り、悪質で危険な運転の取り締まりも強化する。歩道走行を事実上容認してきた従来の姿勢を転換した。(毎日新聞 2011年10月25日)

配偶者や僕のような歩道を歩くのを好む人たちにはうれしいニュースです。

2年半ほど前に、別の場所に以下のようなことを書いたことがあります(『・・』部分)が、現在までその状況は変わっていません。

『札幌と名古屋の共通点のひとつは、歩道を走る自転車のオーボーなことです。東京の自転車の方がはるかにおとなしい。

フラフラとやってくるおばさん自転車や、視線の定まらない危なそうなオニーサンやオネーサンが運転する自転車には近寄らないように用心しますが、ボーソー自転車は避けようがない。ヒヤッとした経験がいっぱいあります。手に、もぐらたたきゲーム用のツチでもあれば、その場でキュッという音をたててひっぱたいてやりたくなります。

(中略)

札幌も名古屋も広い道路が整備されており自動車にはとても便利な都市です。そんな車道を自転車で走るのは恐怖です。従って、歩道を走ることになるのでしょうが、歩道をボーソーするだけでは退屈でしょうから、車道を軽車両の制限速度いっぱいかそれを適度に越えたあたりで、トラックと張り合うくらいの勇気を発揮してほしいものです。』

警察庁の通達なので札幌も対象になります。どこまで新しいルール通りにきちんと運用されるかはわからないけれども、ケータイでメールを読んでいるような自転車が前から向かってきたり、ボーソーオネーサン自転車が視界に入ったら、あるいは後ろからいかにもヤバそうな風情のが近づいてきたら「シッシッ」と野良犬でも追い払うように追い払うことが、今週からはさっそくできそうです。

危険なのが、夜の歩道を灯りをつけずに結構な速度で走ってくる自転車。「シッシッ」では効果がなさそうなので、接近してきたら警笛(交通巡査の使う笛)でも「ピー」と鳴らしてみますか。

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2011年10月27日 (木)

迷ったら、食べ物は、安全サイド

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一般消費者というか、日常に生活していて朝ごはんや晩ごはんを食べる人は、何しろ毎日食べないと飢えるので、専門家の意見がどうであれ(どう極端に分かれていようと)どういう食材をどういう風に食べるか、あるいは家族に食べてもらうかは自分で判断するしかない。我が家ではそうしています。気に入った専門家の意見に素直に(ないしは盲目的に)従うというのも選択肢のひとつだとは思いますが、それは僕の流儀ではない。

ものごとの判断に迷う時に、安全サイドの選択肢をとる人とリスクの高い方を好む人の二通りのタイプがいますが、食べ物などに関しては、僕は(あるいは我が家では)安全サイドを選択するようにしています。

農薬や化学肥料や食品添加物、それから、たとえば大豆などの遺伝子組み換え農産物(そういう農産物は、たいていは農薬とタネがセット販売されている)やBSEの検査をきちんとしているのかどうか定かでない国の牛肉などといったものは、食材に関して僕たちが接する日常のパラメーターですが、一応は、そういうものは現在の日本ではそれなりに管理されているので、農薬や化学肥料の多い野菜やお米を食べたからといって病気になるわけではない(ただし、ときどき輸入品などに例外があって大騒ぎになる)。食品添加物がいっぱいの弁当やラーメンや加工食品を頻繁に食べているからといってとくに健康が損なわれるわけではありません。いい味、繊細な味がすぐにわからなくなり、より強い舌への刺激を求めてそういう人工的な味に囲い込まれるという欠点は確かにありますが、まあ、それだけのことともいえます。

我が家では、できるだけ(しかし、無理はしない)、有機栽培や特別栽培(低農薬・低化学肥料)の農産物を選択し、食品添加物の入った加工食材やお店の食べ物は遠慮するようにしています。なので、普段から食材の選択に関して自分なりの選択軸・選択基準を持っている人や家庭は、放射線量(被曝量)とガンなどの発症リスクの関係に対しての専門家のさまざまの主張に対しても、食材に関しては、それなりに対応が取れているのだろうと思います。

被曝した放射線量とガンなどの発症リスクの関係に関する専門家の考え方は、被曝量が多くて議論の余地なしという場合を別にすれば、孔子・孟子・老子・荘子といった春秋戦国時代の諸子百家というよりも、戦後の中国の百花斉放(ひゃっかせいほう)・百家争鳴(ひゃっかそうめい)に近い状態なので、非専門家は非専門家としての判断が必要となっています。

ある集団が、事故などが原因で、一定量以上の放射線量をある時間幅で被曝(内部被曝と外部被曝)したときに、ガンの発症リスクがある割合で確実に増加すると考えられていますが、その一定量以上という時の一定量も20ミリシーベルトとする専門家、100ミリシーベルトという研究者、200ミリシーベルトと考えている専門家、250ミリシーベルトとする人や1,000ミリまで大丈夫という学者もいて、これだけでけっこう百家争鳴状態なのですが、単位期間あたり100ミリシーベルト未満の低線量被曝といわれるもののリスクの形がどんなものかについても意見が分かれているようです。

高い線量に関しては、下の2色のラグビーボールみたいな手書きの図だと、放射性物質から放射線をいっぱい被曝するとヤバイというのは合意されていても、右上の黒丸の位置が専門家によってそれなりに幅があるということです。

100ミリシーベルト未満の低い線量被曝に関しては、再び以下の2色のラグビーボールでいうと、日常生活でいちばんわかりやすいのが赤の直線でリスクと(被曝)放射線量が比例しているもの。(【註】これがLinear Non-Threshold : LNT仮説<閾値のない直線仮説>と呼ばれているもので、閾値という難しそうな漢字は「いきち」、あるいは「しきいち」と読み、そこを超えるとヤバイといった時のそのヤバさが始まる値のこと。だから「閾値なし」とは、そこから突然状況がかわるという「そこ」はなくて状況はスムーズに変化していくという意味です)。

Photo

低い線量の場合は健康の心配はない、蓄積被曝量とガンの発症リスクは単純には比例しないという専門家もいて、そうなると、ラグビーボールの緑色の下に膨らんだ部分か、その下のずーと横に伸びて突然カーブが立ち上がる感じになります。専門家の中には「閾値なし直線仮説」(つまり赤い直線)などは笑止千万とおっしゃる方もいらっしゃるようです。

要は、詳細はよくわからない。

しかし、よくわからないでは困るので、判断に迷った場合は、安全サイドを選択することにしています。その選択基準は、食べるものに関してはできるだけ安心・安全なもの、そしておいしいもので、関連パラメーターが農薬でも食品添加物でも遺伝子組み換え作物でも放射性物質汚染が懸念される農産物・畜産物・水産物でも同じこと。塩もここに含めた方がいいかもしれません。

農薬を大量に使った農産物の大規模機械化生産よりは、小規模・中規模の有機栽培や低農薬&低化学肥料栽培を食べる、種と農薬をセット販売することでビジネスと生産量を拡大している輸入遺伝子組み換え作物よりは、国産の「非」遺伝子組み換え農産物を選ぶ、純度の高すぎる塩化ナトリウムだけの精製塩よりはミネラル分をいっぱい含んだ伝統的な作りの自然海塩を使う、食品添加物のいっぱい入った加工食品を買い、またそういう種類の食べ物を外のお店で食べるよりは自宅で安心な食材で料理する、それから放射性物質汚染に関しては国の暫定基準以下などというおおまかな表示ではなく、地域あるいは生産者・漁獲者が汚染濃度をきちんと測定し明示してある食材を買う、といった具合です。だから、「迷ったら、安全サイド」といってもそれなりに手間隙(てまひま)はかかります。

◇ ◇ ◇

客観的にわかりやすく放射線リスクとその対処法を解説した本のひとつが「放射線から子どもの命を守る」(高田 純 札幌医科大学教授)だと思いますが、その本から、(胎児や乳児や子供ではなく)大人やそれに近い年齢層に当てはまる記述を一部を引用します。

「これまでの研究で、200ミリシーベルト以上の放射線を一度に被曝すると、後年、白血病や甲状腺がん、乳がん、肺がん、胃がん、結腸がん、卵巣がん、多発性骨髄腫を発症する確率が高くなることがわかっています。このうち白血病は、最短で2~3年の潜伏期間の後に発症し、発症率は6~7年後に最大になります。また、被曝線量が高い人ほど早く発症する傾向にあり、被曝した年齢が若い人ほど発症のリスクが高くなることがわかっています。」

「放射線の影響としてがんを発症する確率は、線量に比例していると考えられています。少なくともこれまでの研究で、200ミリシーベルト以上の線量では、比例関係が確認されています。しかし、それ以下の線量については、まだ検証されていません。」

「結論からいうと、100ミリシーベルト未満の被曝で生じる影響については、まだ明確なデータがないため、専門家や研究者の間でも見解が分かれています。」

「一度に被曝」という場合の「一度」の時間幅の長さがこの文章だけではよくはわかりませんが、ある幅をもった時間の流れだと少しあいまいに、つまり安全サイドに僕は解釈しています。

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2011年10月26日 (水)

「くえ」と「あら」

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「くえ」や「あら」は東京でも一般消費者向けの魚屋さんや魚売り場で見かけることは非常に稀(まれ)ですが、札幌だと事情ははるかに悪い。(九州北部では「くえ」のことを「あら」というのでそのことを知らないと魚の違いで混乱する場合もある。)

蛇足ですが、魚売り場で魚(たとえば鯛や平目)をさばいてもらった時に「アラはどうします?」と聞かれる場合の「アラ」とは違います。

どちらも日本の真ん中から西寄りないし南寄りで獲れる大きな魚で、大きな種類はマグロなどを別にすれば、味がぼんやりとしていることが多い。しかし、「くえ」や「あら」は大きくて、そしてびっくりするくらいおいしい。高級なマグロのトロと「くえ」あるいは「あら」のどちらかをあげると言われたら、僕は躊躇なく「くえ」あるいは「あら」を選びます。

行きつけの魚屋さんにその「くえ」の切り身が並んでいました。めずらしい。札幌の魚売り場では僕は初めてです。この魚屋さんでは水産物の漁獲地や産地を必ず明記してありますが、この「くえ」の漁獲地は沖縄です。そばにいた買い物中の中年婦人が不思議そうな表情で、彼女の目には変わったものを買っていると映っているであろう僕と売り場のおばさんの会話を聞いていました。

沖縄から札幌に運ばれてきて、それに切り身で販売ということは生では食べるなというメッセージなので、鍋にするか、粕(かす)漬けにして焼いて食べるか。

どんな魚かは写真がないとわかりづらい。ウェブ検索で「くえ」や「クエ」とやるといろいろな写真が出てきますが、勝手にリンクを張らせていただいたこのサイトだとその大きさや姿がよくわかります。

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2011年10月25日 (火)

「ゆめぴりか」と小学生の味の感性

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なかなかにいいプロモーションの方法かもしれません。ただし、年に一度きりのイベントでなく、活動を一定の期間継続すれば、の話ですが。

旭川市内の「ゆめぴりか」生産振興会という団体が、旭川市や近所の2つの町の小学校・中学校に新米「ゆめぴりか」を2.5トン、学校給食米として提供したそうです。値段の高い「ゆめぴりか」と標準給食米との価格差を「助成」する形での提供なので、価格差の一部を補填(ほてん)したのかなと読み取れます。(日本農業新聞<2011/10/20>の記事を参照しました。)

対象地域の小学生と中学生の人数はわかりませんが、米1合が150グラムなので、1人分が米100gの量のご飯とすると、2万5000食分。子供の人数を調べるのは面倒なので、1人当たり1食分か2食分の「ゆめぴりか」が提供されたことになります(と、します)。「各校では18~20日の間に、給食の献立に『ゆめぴりか』のご飯が登場。」となっているのでそう考えていいと思います。

面白かったのは子供(小学3年生の女の子)の感想。「ゆめぴりか」は「軟らかくて、おいしい」。

僕の感想だと、「白くつややかに輝いており、粘りのあるお米です。・・・淡白すぎるというか、控えめというか。・・・米そのものの甘さや旨みを遠慮して押し隠しているような風情です。粘りがあって、味がない。」「おかずをとても上手に引き立てるタイプのお米といえるかもしれません。存在を主張しないことによって、かえって存在感がそこに感じられるような性質のお米です。」となるのですが(「さっそく、『ゆめぴりか』」、「品揃えが少しにぎやかになってきた『ゆめぴりか』」)、この女の子は「軟らかくて、おいしい」。なるほどと納得するわかりやすい感想です。

生産振興会に少し長期で活動する余裕があれば、家庭でお母さんに学校給食で初めて食べた「ゆめぴりか」のおいしさを伝え、そこからその家庭で「ゆめぴりか」を食べる回数が増加する、家庭では別の品種が定番になっていてその定番の交替はないにしても、学校給食での頻度が高いと大きくなってからもその味を覚えていて、大人になって、望ましくは北海道以外の街で生活を始めた時に「ゆめぴりか」をご飯として食べ始めるといった効果が期待できますが、粘りと時間はかかります。

別に毎日提供する必要はなくて、月に2度ないしは月に1度くらいの頻度で「ゆめぴりか」を1年間ほど提供(差額補填)し、家庭に配布する給食メニュー案内に、差額補填の対価として「ゆめぴりか」のおいしさをそれなりに記載するといった手段もあるかもしれません。(北海道をはじめ、関連する市や町もいっしょにプロモーションしている種類のお米なので学校でのこうした方法も問題にならないでしょう。)

ないものねだり風の提案をすると、地元の小学校・中学校を対象にしたこの方法は「地産地消」の活性化には向いていますが、「地産『他』消」には効果がないので、今後「ゆめぴりか」を食べてもらいたい北海道以外の特定都市部の学校をこの活動の対象にするといったことも考えらます。「北海道物産展」「北海道うまいもの展」といったデパートなどの催事を別にすれば、北海道以外の顧客への売り込みに遠慮がちな北海道ですが、「ゆめぴりか」の全般的なプロモーション戦略の中にそういうものを組み込むことも可能です。

(【註】「軟らかくて、おいしい」が紙面に登場するその子の感想のすべてなので、大人であるところの記者がその子のもっと長い感想を原意とずれた方向に編集をしていないという前提で書いています。)

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2011年10月24日 (月)

こうなれば、姥捨て山(うばすてやま)

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「こうなれば、姥捨て山(うばすてやま)」とは穏やかでないタイトルですが、理由があります。なお、姥(うば)とは、おばあさんのことです。

北海道各地の旬の農産物や畜産物の秋の収穫祭と銘打った展示即売会が某デパートであったので、僕は荷物運びの執事として配偶者とそこに出かけました。お買い得というのもあるのですが、目的はこういう機会を逃すと手にいれるのが難しい秋の農産物を購入するためです。対象品目は3つ。ひとつは「はるゆたか」という小麦粉(強力粉)で、もうひとつが「スズマル」という名の小さなサイズの大豆。それから「紅玉」という昔のタイプの酸っぱいリンゴ。

国産小麦粉でパンを焼いたりピザ生地を作ったりしようと思えば、いろいろと他の品種を試してみましたが、「はるゆたか」をしのぐものはまだないようです。「はるゆたか」は生産量が少なく、今年はある程度持ち直したものの昨年も一昨年も不作だったので、業務向け用途にはそれなりの量が流れていると思いますが、一般消費者には入手困難な小麦粉です。その即売会会場での値段も、たとえば5~6年前の倍に近い。

「スズマル」は小ぶりな大豆で、我が家ではもっぱら納豆の原料。小粒納豆がお好きな向きにはたまらない大豆です。会場では枡(ます)の単位で計量販売していました。「紅玉」はアップルパイに使います。

会場に入った途端、おばあさんの多さに圧倒されたのですが、おそらく平均年齢は70歳。道路際の花壇整備などのボランティア活動におけるおばあさんパワーなら歓迎するけれども、おばあさん達(全員ではない、念のため)のその会場での傍若無人ぶりには、驚きを通り越して腹が立つ。(とても傍若無人の振る舞いなので、この記事ではここからはそういうおばあさんは、おばあさんとは書かずに婆さんと書く。)

おそらく各地の農協勤めと思われる販売担当者との会話を楽しみながら買っていると、見知らぬ婆さんが急に割り込んできて、傍(かたわ)らに僕たちがいないがごとき態度で、あるいは我々の存在を露骨に無視して、その販売担当者に注文をし始め、僕たちは押しのけられてしまう。そういうことが違った売り場で3度ありました。

昔々は日本の各地に姥捨て(うばすて)という風習があったという民話や伝説が伝わっていますが、こういう傍若無人な婆さんはまとめて網ですくってそのまま姥捨て山にでも捨ててほしいと思います。おじいさんは対象外です。傍若無人なおじいさんには少なくともその会場で出会わなかった、というのがその理由です。

棄老(きろう)伝説では棄(す)てられるのはお年寄りで、そこにはおばあさんもおじいさんも入っています。たとえば、「ダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣(や)るの習(ならい)ありき。」(柳田国男「遠野物語」)というふうに男女の違いはありません。

広く捜せば傍若無人な爺さんもいっぱいいると思いますが、しかし、どうしてこの会場では傍若無人は婆さんばかりなのか。

これは僕の仮説ですが、婆さんの感覚では、あるいは婆さんの世界認識では、商品を売っている催事はどのような種類のものであれすなわちバーゲンセールなのかもしれません。平均年齢70歳の婆さん達は30年前は40歳で、つまりバーゲンセールにとても親しんだ世代といえそうです。かつてのテレビニュースで放送されたバーゲンセール会場での女性客の映像を思い出すと、ワー、キャー、ドンの連鎖なので、この会場でのちょっとした傍若無人ぶりなどたいしたことではない。

だから、そういう婆さん連中を大きな網に放り込んで姥捨て山に持っていって捨ててくるという空想には捨てがたい魅力がありますが、「君子は危うきに近寄らず」の方が現実解としてはいいのかもしれません。しかし、それにしても恐ろしい光景でした。

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

著者:柳田 国男

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2011年10月21日 (金)

今年最後の自家製野菜

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プランター栽培のミニトマトの収穫も9月末まで、それ以降の若い彩り(いろどり)がそばにないのは少々さびしいので8月下旬に小松菜の種をプランターに播いてみました。小松菜は生育途上の若い葉を食べるものですが、それなりの大きさに成長するまでには2か月ほどかかるので、食べごろは10月下旬という想定です。

今年のミニトマトは、脇芽をていねいに取り除いて1本仕立てにしたので収穫個数は去年よりはけっこう少ない。しかし実の大きさが去年よりは大きいので、重量比較をするとほ去年の75%くらい。今年の収穫数は黄色のミニトマトが299個、赤のミニトマトが144個、合計443個。それにカラスに盗まれた分があるので(「空き巣・知能犯・居直り強盗」)それを50個とすると合計は493個。夏(7月15日)から秋(9月29日)にかけてほぼ毎日、自家製の無農薬ミニトマトを楽しめました。たくさんとれた日は自家消費量を超えるので、超過分は近所の知り合いや酒屋さんなどにさしあげます。

小松菜は順調に生育し、葉の色と大きさから判断しておそらく来週の前半が食べごろです。多くの種を播いたのではないので、野菜好きの我が家だとおそらく2~3日分の量でしかありません。小松菜は初めてでしたが、札幌での適切な栽培時期がわかったので、来年はもっと多めに作ってみるかなと考えています。

小松菜は発祥の地が江戸時代の江戸・小松川村といわれている都会型の野菜で、現在でも東京都や埼玉県での生産量が多い。北海道だと札幌市がいちばん収穫量が多くて、北海道でも都会型の野菜となっています。札幌の野菜売り場の小松菜は、だから、すぐご近所で栽培された小松菜ということになります。

我が家のプランター小松菜の収益計算をすればきっと赤字で、野菜売り場で有機栽培か特別栽培(低農薬&低化学肥料栽培)の小松菜を買った方が安く上がります。

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2011年10月20日 (木)

TPPのゴリ押し風に関する違和感

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こちら側にはマイナス(あるいは逆にプラス)のことが、単独ないし複数の相手にとってはプラス(あるいはマイナス)になる。そういう事項が数多くあり、現在と将来の全体的なプラス効果とマイナス効果を冷静に客観的に勘案して、ある種の合意に達することを交渉といいます。TPPに関しては、プロパガンダ風やゴリ押しや抽象的な理念ばかりが一般的なマスメディアを通じて僕たちに伝わってくるばかりでいささかうんざりしていたのですが、やっと冷静な比較検討作業が政府内で進み始めたようです。

これからTPPと呼ばれる土俵に乗るのか乗らないのかを決定することになっているのですが、利害の世界や政治・経済の世界における土俵は通常は参加当事者の誰かにとって有利なように設計される(設計されている)ので、その図面が気に入らない場合は、図面を描き直してもいいし修正してもいい。しかし、それがとても難しいなら、あるいはそうすることにさほどの意味がないのなら(成果が努力に見合わないなら)、その土俵に乗る必要はないし、その場合は、必要なら、参加当事者の少ない別の小さな土俵を個別に設定すればいいわけです。

プロパガンダ風(ないしゴリ押し風)とは、たとえば2010年10月19日に当時の外務大臣の職にあった方が「日本の国内総生産(GDP)における第1次産業の割合は1.5%だ。1.5%を守るために98.5%のかなりの部分が犠牲になっているのではないか」(「主要各国の「農業の対GDP寄与率」と「穀物自給率」など」)と主張しましたが、それが一つの例。

また、抽象的な理念とゴリ押し風が交じり合っている例のひとつが、現在の首相のTPPに関する考えで、それは「(首相は)首相官邸で内閣記者会のインタビューに応じ、TPPについて『日本は貿易立国であるべきだ。アジア太平洋地域は間違いなく成長のエンジンになるので、高いレベルでの経済の連携をしていくことは日本にとってプラスだ』と述べ、交渉参加に強い意欲を示した。」というものです。(メディアによって同じ大臣の発言が結構に異なるというのを少し前に経験したばかりなので、念のために複数の紙媒体やインターネット・メディアをくらべてみました。メディアによる発言内容の違いはなさそうです。)

この「貿易立国」という言葉を見て、今から何十年か時間をさかのぼった頃の義務教育の教科書の記述を想起しました。なつかしい表現だし、その頃の日本経済の動きと方向をうまく凝縮した表現なのですが、同時に違和感を覚えました。

理念の抽象化が進み過ぎると、現実という平面に埋まらない穴がいっぱい開いてしまうのですが、政府内でやっと進み始めた「医療・食の安全・金融・建設業(政府調達)・漁業・関税撤廃」などを対象とする冷静な比較検討会議が、その穴の形状や大きさや他の穴との関連を遅ればせながら確認しつつあるように見受けられます。

「貿易立国」という表現に感じた違和感に戻ると、その違和感はその発言の背後にあるロジックの組み立てから来ています。その組み立ては僕の印象では、「日本は貿易立国であるべきだ」、だから「TPPに参加する」ではなく、発言者の発想の順番はその逆で、「(何らかの政治的な理由で)TPPに参加するべきだ」ということが先にあり、だから、それを国民やその他のステークホルダーに耳障りなく正当化するための説明として「貿易立国」という用語を登場させたのだと思われます。

かりに「貿易立国」という考え方に同意するとしても、そのための手段はTPPだけではない。たとえば2国間のFTAも十分に高いレベルの経済連携ですし、中国と韓国が参加しない環太平洋戦略的経済連携協定を十分に高いレベルの経済連携と呼ぶのも妙な話です。「貿易立国 → TPP」には牽強付会な論理のジャンプがあり、つまり、それが違和感の原因です。

ビジネス活動一般もそうですが、競争の土俵は最初に自分で線引きできた方がたいていは有利です。誰かの作った土俵に、楽観的な方向にバイアスのかかったリスク評価で、無理に飛び込むことはありません。

◇ ◇ ◇

TPPについての関連記事は「TPPと学習効果」と「主要各国の『農業の対GDP寄与率』と『穀物自給率』など」。

それから、「お米の自由化」についての僕の考えは「お米の自由化を考えるときに、確かめておきたいこと(1)」、「お米の自由化を考えるときに、確かめておきたいこと(2)」、「お米の自由化を考えるときに、確かめておきたいこと(3)」、「お米の自由化を考えるときに、確かめておきたいこと(4)」、「お米の自由化を考えるときに、確かめておきたいこと(5)」、そして「お米の自由化を考えるときに、確かめておきたいこと(6)、(あるいは最後)」にまとめてあります。1年半以上前の記事なのでデータの更新が一部必要かもしれませんが、考え方に変わりはありません。

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2011年10月19日 (水)

原木栽培の原木、菌床栽培のオガ

日本の「きのこ」の中で我が家でいちばんのお気に入りは「シイタケ」です。マツタケは高いので食べないとしても、他のおいしい「きのこ」にはホンシメジやブナシメジ、エノキ、エリンギなどがありますが、いちばん使い勝手がいいのがシイタケかもしれません。もっとも、洋風料理にはいわゆる茶色や白のマッシュルームということになりますが。

乾(ほし)シイタケも生のシイタケもどちらも好みです。しかし、どちらにせよシイタケはやはり原木(げんぼく)栽培に限ります。菌床(きんしょう)栽培だと日本では、ごく一部を除けば、生シイタケしか商品化されていません。菌床栽培の生シイタケは原木栽培の好きな人には物足りない。これは懐との相談になりますが、味と香りと食感を求めるなら、購入数量を減らしても原木栽培でしょう。

シイタケには形状の違いで「どんこ(冬菇)」と「こうしん(香信)」の2種類があり、2種類といってももともとは同じものですが、こんもりと丸いのが「どんこ」、傘が開いたのが「こうしん」。寒い時期にゆっくりと育てると「どんこ」になる確率が高いそうです。どちらも生のものと乾燥させたものが手に入りますが、乾燥して傘の表面がきれいにひび割れた「どんこ」がいちばん値が張るようです。しかし、乾燥した「こうしん」もおいしい。

乾シイタケの主要生産地は九州で、生産量の多い順に、大分、宮崎、熊本、それから愛媛と岩手。生シイタケは主要生産地がとびとびで、多い順に、徳島、北海道、岩手、そして群馬、栃木と続きます。なお、国内生産量は乾シイタケが平成21年に3,597トン(乾燥シイタケなので軽い)、生シイタケは平成21年の国内生産量が75,016トン(林野庁統計)。

原木栽培とは、クヌギやナラといった広葉樹を一定の長さに切りそろえたものに穴をあけそこにシイタケ菌を植え付けると、木が菌の栄養分となってシイタケが育ちます。菌床栽培はクヌギやナラの丸太を使うのではなく、栄養添加物を加えたオガ(おが屑のオガ)がシイタケ菌の寝床になります。

原木やオガはシイタケ栽培の必需材料ですが、シイタケ農家が必ずしも自己生産・自家調達できるとは限りません。シイタケ栽培農家が自己所有の裏山でクヌギやナラを調達できればよいのですが、原木の自己調達比率は40%、菌床(オガ)の場合は自家生産比率は49%です(平成21年、林野庁統計)。つまり、原木はその60%、オガは51%がどこか他の地域から購入されていることになります。

シイタケの好きな家庭は、今後しばらくは、去年までとは違った商品選択や意思決定が必要かもしれません。

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2011年10月18日 (火)

食堂定食での、玄米や胚芽米の登場回数

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ある測定器メーカーの社員食堂の定食メニューが評判で、それをまとめたのが出版されています(「体脂肪計タニタの社員食堂」)。ベストセラーのようです。配偶者が食事メニューの参考になるかもとその本を買ってきたので、僕も目を通してみました。

この本は「本日の日替わり定食」という主要部分と「裏メニュー」という補足部分から構成されていますが、「本日の日替わり定食」がここでの対象です。

本日の日替わり定食は31種類が登場しますが、僕の興味は各メニューの「ご飯」(お米)の種類です。その種類は、白米と玄米、そして胚芽(はいが)米。定食なので「ご飯」は必需品ですが、その内訳は以下の通り。

・白米 :  24回 (77.4%)
・玄米 :   4回 (12.9%)
・胚芽米:  3回 ( 9.7%)

ところで、玄米とは以下の絵のような構造になっています。「玄米=胚乳+胚芽+ぬか」というわけです(胚芽の位置を上にしたお米の絵や写真が多いのですが、僕の手書きデザインの都合上、左下に持ってきました)。「玄米」から「ぬか」を除いて「胚芽(はいが)」を80%以上残したのが「胚芽米」、そして、「ぬか」と「胚芽」をすっかり取り除くように精米したのが「白米」です。

Photo

玄米が組み合わさった定食は

・鶏肉のピーナッツバター焼き定食
・ささみの衣揚げレモンあん定食
・オクラとナスの肉みそ炒め定食
・さばのみそ煮定食、

胚芽米が一緒なのは

・豚肉の南部焼き定食
・ぶりのにんにくしょうゆ焼き定食
・タンドリーチキン定食。

我が家の日常の好みのご飯は「3分搗(つ)き」で、「3分搗き」には「ぬか」も「胚芽」もそれなりに残っており、「玄米」と「胚芽米」の中間の存在です。朝ごはんの時などには、3分搗きに少量の岩手産の雑穀を混ぜる場合もあります。

ときどきは好奇心から、「ゆめぴりか」「つや姫」「龍の瞳」といった話題の品種や外食産業で人気の北海道米を買ってきて食べますが、そういう場合は白米です。それから、これは我が家の経験値なので一般化していいのかどうかわかりませんが、「白米」の方がより多くの量を食べるみたいです。「3分搗き」は、お米の品種の食味にもよるのでしょうが、噛む回数が多いためか食べる量は「白米」よりは少なめです。

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2011年10月17日 (月)

紅玉(こうぎょく)のアップルパイ

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配偶者がアップルパイを焼いている香りが漂ってくると、そろそろ寒くなってくるのだなと思います。そういう匂いが初めて台所から出てきたのは今年はいつもよりも遅く、昨日。

我が家ではアップルパイには「紅玉(こうぎょく)」という昔のタイプのリンゴを使います。小ぶりで赤くて酸っぱいリンゴで、歯の丈夫な方は丸かじりを楽しめますが、トマトと同じで、わが国では生食用には甘いやわらかいリンゴが好まれるので、店頭で気軽に買い求めるというのが難しくなっています。札幌ではとくにその傾向が強い。加工用のリンゴという分類です。

北海道のリンゴの産地は小樽から比較的近いミニトマトの産地と重なっていて、というか、以前はリンゴを栽培していた農家がリンゴではつらいので、さくらんぼやミニトマトに主要品目を切り替えた結果だといった方がいいかもしれません。北海道各地の農産物を集めた特別な催事などではこの地域産の「紅玉(こうぎょく)」や紅玉と他の品種の交配種である「あかね」なども手に入りますが、数は限られています。だから、僥倖(ぎょうこう)に恵まれた場合は近所の「紅玉」を利用しますが、そうでない時は青森産の「紅玉」を使います。

アップルパイの甘さは「紅玉」の持つほのかな甘さのみ。砂糖などはいっさい使いません。

中年(以上の年齢)向きの味といえますが、以前、札幌ではないところで、職場でお世話になっている若い女性や以前若かった女性に、つまり女性限定で、一人分用の丸い小さな「紅玉」アップルパイを配偶者にそれなりの数を焼いてもらい、3時のおやつに食べてもらうという楽しみを継続していたこともあります。普段はとても甘いケーキなどが好きな女性たちにも、そのほのかな甘さが結構気に入られたようです。

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2011年10月14日 (金)

お米(コメ)のフランスパン

大阪のビジネス街や繁華街から歴史の古い方の大阪の空港に行くには、リムジンバスが最も便利だと思います。夜の便に乗るために夕方のビル内の商店街を突っ切って専用バス乗り場に歩いていく途中で、「米のチカラ」という赤い字のポップ風の上品な布飾りが目に入ったので足を止めると、そこはパン屋さんでした。東京や札幌ではまったく見かけないパン屋さんなので、おそらく大阪だけで展開しているパン屋さんなのでしょう。

面白いなと思ったのは、2つのタイプのお米パン。普通の山型の米粉パンは自宅でも簡単に焼けるので、それ以外の種類に関心が向かいます。それ以外のタイプのひとつは小型サイズの「フランスパン」。売り場に並んでいたのは「お米のフィッセル」と「お米のクロワッサン(カニの形)」という実にスタンダードなものでした。もうひとつは「お焼き」風の作りで「野沢菜やきんぴらや肉じゃがの入ったお米の平焼きパン」。小麦粉パンも当然並んでいますが、それらは今回は興味の対象外。

近所に住んでいたら「お焼き風」も試しに買ったかもしれませんが、「お焼き」そのものをとくに好きなわけではないし、札幌まではそれなりに時間がかかるので追加の持ち物は軽くしたい。すぐにでもその食感と味を確かめてみたいと思った「お米のフィッセル」と「お米のクロワッサン」に購入対象を限定して2個ずつ袋に入れてもらいました。

翌日の朝ごはんに、スープやお茶などをお供に食べてみました。どちらもうまい。

米粉パンを自宅で焼いてみると、その味は小麦粉パンに引けを取らないというか、もちもちとしてふわっとやわらかい別の方向のおいしさが出てくるのに気づきますが、この「お米のクロワッサン」は、米粉の比率がどれだけかはわからないけれど、いわゆる普通のおいしいクロワッサンに近い。「お米のフィッセル」の方は、外皮の硬さも含めて、お米パンのやわらかさがより強く出ています。

お米の品種は、袋にいっしょに入れてくれた商品案内チラシにも書いてないので不明。しかし、どこかのおいしいお米であることは間違いなさそうです。

米粉パンを作り始めたところは多いですが、小麦(小麦粉)文化が底流であるところの北海道が米粉パン市場の拡大に先鞭をつけるのは少々辛いとしても(「北海道の省略時解釈値は洋風料理」)、なぜ大阪でこういうパンが作られたのか。配偶者に聞くと、このパン屋さん以外にも大阪には米粉パンの得意なパン屋さんがあるそうです。理由は、今のところ、不明。隣の神戸がパンの街というだけでは説明にならない。

関連記事は「日本風味のパン」。この中に出てくる「米粉50%の小型フランスパン風」を札幌のとあるパン屋さんで買ったのが2009年の12月。このパンは、札幌ではわずかしか売れなかったのか、まもなく棚から姿を消してしまいました。

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2011年10月13日 (木)

品揃えが少しにぎやかになってきた「ゆめぴりか」

低価格でまあまあの品質ではなく、高い水準をねらった製品や商品がブランド力を身につけていくためには、吟味された品質基準を設定してそれを維持し続けることが条件のひとつとなります。製品や商品のタイプにもよりますが、製造者自身や第三者によってその製品に、特定の顧客層向けにある種の付加価値が付け加えられていくようになるとその商品や製品のブランド化はいい方向に向かっているといえそうです。

今まで好みのお米を食べてきた人が、何かの理由で新しい品種を検討する場合、なんとなくそれが目に入ってためしに食べた結果、あるいはそれをお店で専門知識を持った店員に勧められて食べた結果、それをたしかにおいしいと思えばそのままファンになる場合もけっこうあります。必ずしも複数の候補を食べくらべ、他の候補の栽培状況を細かく調べるとは限らない。そういう顧客層にとっては、そのお米の商品としてのバリエーションが広がるというのは悪いニュースではない。

「ゆめぴりか」(北海道が昨年から本格的なブランド化と全国展開を目指している北海道産米)の品揃えが、少しにぎやかになってきたようです。「ゆめぴりか」の味が好きな人たちにとっては、付加価値をもった「ゆめぴりか」の登場ということになりますが、冷静な目をそなえた人には自家撞着的な付加価値のつけ方と映るかもしれないものもあります。将来の一番の競合相手であると考えられている山形の「つや姫」のトータルな商品戦略と比較すると、そのサブセットが遅ればせながらビジネスマインドの強い個々の生産者や流通業者の個別商品戦術・販売戦術として実現されつつある様子です。

当初の、つまり「ゆめぴりか」を北海道の戦略米として市場展開を企図した時の「ゆめぴりか」の味の品質基準が「タンパク質の含有量比率が6.8%以下」でしたが、生産量の歩留りなどの問題があって、2010年産米では食味は変わらないという理由でその基準を緩和して生産量を確保しました。他の目的もあったかもしれませんが、「ゆめぴりか」農家の収入を確保するためというのがもっとも大きな動機だったのでしょう。

他の品種のブランド米では、たいていは有機栽培米や低農薬米(特別栽培米と呼ばれている)も一緒に提供されていますが、今まではそういう種類の「ゆめぴりか」はなかったと思います。しかし、やっと、この秋から特別栽培米(低農薬&低化学肥料の米)も一部の米穀店の店頭にならぶそうです。また、この秋から「タンパク質の含有量比率が6.8%以下」のものだけを特別に商品化する農協も出てきたようです。6.8%以下の「ゆめぴりか」を付加価値のついた「ゆめぴりか」と呼ぶのは最初の基準値を考えると自家撞着的ではあるのですが、そういう品質基準のものが常に選べるというのも「ゆめぴりか」の好きな消費者にとっては悪い話ではありません。

特別栽培の「ゆめぴりか」は、ときどきお世話になっている小口パック販売が得意な米穀店の棚に並んでいたので、先週末に2㎏袋(白米)を購入し、その日の晩ご飯でさっそく食べてみました。目的は今年の「ゆめぴりか」の味見と特別栽培の「ゆめぴりか」を生産している農家に対するごくわずかな応援。

この特別栽培の「ゆめぴりか」の生産地は深川の近所。上川・旭川・深川・滝川・新十津川・砂川・岩見沢と、北から少し西に進んで南へと向かう、水の地名が連続する地域が北海道のお米の主要な産地です。

さて、今回の「ゆめぴりか」の味についてです

さっそく、「ゆめぴりか」』という1年ほど前のブログ記事で書いた感想 (「白くつややかに輝いており、粘りのあるお米です。・・・淡白すぎるというか、控えめというか。・・・米そのものの甘さや旨みを遠慮して押し隠しているような風情です。粘りがあって、味がない。」) と基本部分で変わったところはとくにはありませんが、去年のよりは食が進みます。

精米したての米粒は白く輝いていますが、去年のもの(慣行栽培米)よりは少し小ぶりです。その味に関して、1年前とは少し違った表現をすると、おかずをとても上手に引き立てるタイプのお米といえるかもしれません。存在を主張しないことによって、かえって存在感がそこに感じられるような性質のお米です。我が家では常食米にはしませんが、ときどきは楽しみたいと思います。

なお、こういう書き方をするとないものねだりになるのですが、当該「ゆめぴりか」のタンパク質含有量比率は商品パッケージ等には記載されていませんでした。

「ゆめぴりか」と「つや姫」のビジネス戦略や味に関する関連記事は、「気になるお米、気になる競合(その1)」、「気になるお米、気になる競合(その2)」、「続『気になるお米、気になる競合』、あるいは『つや姫』」。

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2011年10月12日 (水)

お米の品種別の価格と地域別の価格 (2011年産米)

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10月になると2011年産米の流通も増えてきて、一部の品種はまだですが、主要なお米はすでに市場に出回っています。「お米の流通とコシヒカリの地域別価格差」という記事では対象を全国の「コシヒカリ」に絞って価格(相対取引価格)を比較してみましたが、今回は対象を拡げます。

指標は今回も「相対取引価格」(JA 全農発表、適用期間10月3日~10日)という1次卸価格に相当する価格を使いますが、「新潟県の一般コシヒカリ」の価格を基準値 (100) としたときのそれぞれのお米の相対値(それより安い場合はたとえば80、それよりも高い場合はたとえば120)で表示します。

山形の「つや姫」はすでに登場していますが、北海道の「ゆめぴりか」はまだのようです。

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2011年10月11日 (火)

続・ 箱入りのお買い得な、旬のスダチ

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スダチが好きなので露地物の出回る旬の時期には、安い値段で箱買いをします。「買った2箱のうちの半分は搾ってガラス瓶につめて冷蔵庫で保管。1箱は毎日1個ずつ晩ごはんに使います。次のが入荷すると思うので、近いうちにまた2箱買う予定」(「箱入りのお買い得な、旬のスダチ」)でしたが、実際には追加で3箱買ったので、合計で5箱。

搾ったままをガラス瓶に詰めて冷蔵庫、でもいいのですが、それは1箱分だけにして、3箱分は少し手を加えてポン酢として保存することにしました。そうしておけば、たとえば、湯豆腐の時などには「たれ」としてすぐに手軽に使えます。

我が家のスダチのポン酢の素材は、「絞って粗濾し(あらごし)したスダチ汁、醤油、煮切り味醂(みりん)、米酢、かつお節、昆布(利尻昆布)」、これを1か月くらいガラス瓶に詰めて寝かしておき、そのあと昆布を取り除きかつお節を濾(こ)して、また瓶に詰めると出来上がり。瓶は大型のいわゆるマヨネーズ瓶。専門店に行けばこの手の瓶は簡単に手に入るし、標準品なので蓋(ふた)も別売されています。

けっこうな手数がかかるのが、1箱分だと32~33個のスダチを搾るという作業で、これは僕の役目。指でギュッと絞り取るやり方では、税務署にでも勤務しているのでない限り、10個で嫌になるし、完全には搾れない。

そこで、スダチやシークヮーサーのような小型の柑橘類向きの搾り器を使います。アルミ合金製の搾り器で、要は、陶磁器のレモン搾り器に蓋とハンドルを付けて小型軽量化したもの。上下2つに切ったスダチの半分を切断面が下にくるように載せ、ハンドルをギュッと握るとほとんど完全にスダチ汁が絞り取れます。注ぎ口もついているので便利です。この道具を使うと、ビールでも飲みながら作業が進みます。

1か月ほど後にガラス瓶から取り出した昆布は、細く刻むと、買いたくても買えないタイプの結構に貴重な酒の肴になります。

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2011年10月 7日 (金)

行ったり、来たり (その5)

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「摂大乗論」(しょうだいじょうろん)という5世紀半ば頃に書かれた唯識(ゆいしき)学派の書物(論書)があります。著者はアサンガ、漢字表記は無着(むちゃく)あるいは無著(むちゃく)。ガンダーラ生まれの仏僧。奈良・興福寺のホームページでは、13世紀の初めに運慶・運助が造作した無著立像の写真が公開されています(向かって右側が無著)。

5世紀の形而上学書なので、和訳と注解書にもっぱら依存するのですが、こういう種類の古い書籍がたいていそうであるように、内容と表現の魔力に立ち止まってしまうような個所、思考が別の関連する方向へ進んでいくそのきっかけとなるような刺激的な箇所、読み進むのに相当の我慢が必要な部分、そして、僧侶や仏教学者以外の現代の読者には叙述が特殊に細か過ぎてうんざりする箇所などが登場します。2度目や3度目に読むときには、繰り返し目を通したくなったあたりを中心に時間を使いますが、強い引力を持った箇所が、たとえば12~13年前と現在とでは確実に違ってきています。

「摂大乗論」の全体は、序章とそれに続く10章から構成されていて、1章と2章を理論編、3章から10章までを実践編としている解説書もありその通りだとは思うのですが、そういう分類だと僕はどうもすっきりしない。

1章から10章までを、経営管理やマーケティング・マネジメントに関する書籍風の章立て表現に無理に直すと以下のようになります。僕にはこういう風に実務的に焼きなおした方が、少なくとも全体の構成・構造や論述の展開の具合はわかりやすい。

世界の分析
 1章  世界の根拠(アーラヤ識という深層エネルギー)
 2章  世界の姿とその見え方(三性)<依他性・分別性・真実性>
経営とマーケティング・プロセス
 3章  価値の基軸(唯識)
 4章  6種類の戦略ポートフォリオ(六波羅蜜多)
 5章  10段階の実施プロセス(十地)
マネジメント計画とその実施
 6章  セルフコントロール(戒律)
 7章  瞑想(禅定)
 8章  思索(智慧)<無分別智>
実践の結果とその後の知識共有
 9章  解脱(無住処涅槃)<生死を離れず、涅槃を離れず>
 10章  究極的な智と智の共有(仏の三身)<自性身・受用身・変化身>

唯識は、瞑想(瑜伽)と思索の上に構築された実存的な学説ですが、理論指向と分析指向が非常に強い(強すぎるくらい強い、と僕には思われます)。だから「摂大乗論」も、大ざっぱに言えば、1章と2章だけで、全体のページ数の半分を占めています。

12~13年前くらいまでは、1章(世界の根拠)と2章(世界の姿)に主に興味があったのですが、最近の関心の向かい先は、9章(生死を離れない涅槃)、10章(智の共有)と2章(世界の姿とその見え方)、そして、必要に応じて1章(アーラヤ識)の関連する部分。興味の向かい先が変わってきました。

粘っこい分析についていけなくなったのか、そういうものはどうも退屈だと感じ始めたのか。ページ数としてはとても少ない9章(無住処涅槃)を中心に、それ以外の部分は9章の補足説明、ないしは参考データといった読み方・接し方の方が腑に落ちます。

(「行ったり、来たり」の終わり)

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2011年10月 6日 (木)

行ったり、来たり (その4)

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「柳は緑、花は紅」という言葉はそれだけだと一応はおだやかな春の情景ですが、世の中には穏やかではないことも常にあって、つまり、どこかで毎日人が死に、あるいは殺され、国家内部の、あるいは国家間の戦闘や戦争があいかわらず冷静に、たいていはビジネスを主目的ないし副次目的として、企画・実行されています。

われわれは区分することが本能的な習い性になっていますが、区分するとは、たとえば、ある範囲を善と決めるとその範囲外は悪だとみなすということになり、自分たちの考え方が善なら、その考え方と違う考え方は善という枠の外側に位置するので不善、つまり悪ということになる。善でないものがすなわち悪ということには必ずしもならないが、宗教や国を単位とする政治の世界では善でなければ悪という傾斜が特に強い。だから、大きな不幸や災害をビジネスとして利用することにしか関心がないといった顔つきの連中が、そうした傾斜を冷静に利用することにもなる。離れた地域に住む異なる世界観の人たちを悪の枢軸やテロリストと呼んで爆弾を上空からどんどんとその人たちの住宅地に投下したり、自分たちのテロリズム行為の結果をJustice has been done. などと説明したりもする。地震が発生して原子力発電所が事故を起こし、地域と農地と食べ物が汚染し、事故に関する情報操作が行われ、そして桜が咲き、雲が浮かんで流れ、蝉が鳴き、赤トンボが飛び、稲が実り、つまり、穏やかとはいえない光景も穏やかな光景もはるか昔からそれぞれ時代の匂いをともなって繰り返されています。「柳は緑、花は紅」とは、こういうこともすべて含んで「柳は緑、花は紅」なのかもしれません。思想の違う人たちをテロリストと呼んで爆弾を落とすことを正義と考える連中も、テロリストと呼ばれて爆弾を落とされる人たちも、ともに「存在」の凝縮した結果なので、だとすると、その基盤はお互いに共通だということになる。つまり、「柳は緑、花は紅」を穏やかな情景というだけでは済まない。

そのように、世界はずいぶんと不可解だけれども、世界とはそういうことであり、またそういうものである。そして、世界はそのぐちゃぐちゃとした酷い状態をそのなかに包み込んだ状態で、全体としては清浄だという基本認識が唯識仏教にはあるように思われます。私やあなたが誰かに突然に殺されようが、逆に私やあなたが憤怒から誰かを急に殺害するような事態に陥ろうが、大洪水が多くの住民を呑み込もうが、それらは世界の風景におけるかすかな風のそよぎであり、そういう柔らかい風のそよぎのままで世界は清浄です。湿っぽいフィルターを通してこれを見ると無常感が漂う景色になり、乾いたフィルターを通すと月と岩山と松の木と松の葉を吹き抜ける透明な夜風の虚無的な光景になります。

世界には救いようのないくらいに自我意識の強すぎる人たちがいてその人たちに対してはなすすべがない、そうした落ちこぼれの一群はそのあたりに放っておくしかないといった考え方も、唯識に象徴される仏教の世界認識には含まれており、つまりは情緒的な無常感やニヒリズムなどを突き抜けた凄味もあります。だから、この、自我の強い落ちこぼれの一群にはどうも確実に自分も含まれているらしいということになると、仏教の世界観とは、智慧から遠く離れた人にとっては相当に虚無的でうんざりするものかもしれません。

ヒトがいつごろからコトバを使い始めたのか詳細は知りません。文字と組み合わされる前のコトバには、その頃の人たちにとっては、言霊(コトダマ)のような霊的なものが宿っていたようです。しかし、5千年~6千年前から物事の区分や概念形成にとても便利な道具である文字を使い始めてからはコトバの霊的な力が薄れてきました。分別の便利な道具である文字を使うということは「分別性」「依他性」の世界で暮らすには便利だけれども、それに慣れ親しんでしまうと、分析と区分の世界を離れること、言語の網の目を離れること、霊性の世界に赴くこと、あるいは区分の世界と霊性の世界を往還することは至難の業となります。

ホモ・サピエンス(現生人類)が生まれたのが今から10万年から15万年前、ホモ・サピエンスが野生の動物の襲撃や天災から身を守って生きのびるための武器のひとつがコトバだったことを考えると、それだけ長い間、コトバが「分別性」「依他性」の源泉としてヒトに刷り込まれているので、今後の5万年や10万年といった短い期間では、ごく稀に出現する智慧と霊性の両方を持った人を除いては、ヒトが賢くなるのは難しいのかもしれません。とすれば、「仏教の世界観とは相当に虚無的でうんざりするものだ」などというのは当たり前ということになります。「存在が花する」という転換点を経由した智慧を身につけるつもりなら、その程度の虚無やうんざりはしばらく我慢しろということのようです。しばらくとは、10万年。

インドなど中国よりも西の地域で仏教などにかかわった人たちの時間感覚はおそろしく長大で、唯識関係の書物にも時間に関する記述が出てきますが、劫(こう)という単位がよく使われています。「智慧」がそなわるまでには、劫の複数倍の時間が必要だそうです。

劫とは、僕の好きなある定義によれば、縦・横・高さが7キロメートルの岩山があり、それを誰かが白いフェルトの生地で100年に一度、軽く払うそうです。軽く払ってもそれは岩山を見えないほどかすかに削るので、それが積み重なると、そのうち岩山はなくなってしまいます。その岩山が消えるまでの時間が一劫(いちこう)です。100年に一度払ったとしても、10万年で1000回。やわらかいフェルト生地1000回のかすかな接触でその巨大な岩山が消滅することはないので、さて、一劫とは何年くらいなのか気になります。一劫は43億2000万年という説(計算結果)もあるようです。モノの本によれば、地球の誕生は46億年前、地球上での生命の誕生は40億年ほど前とされているので、そういう構図の中では43億2000万年という時間の長さはたいして驚くべき年数ではないし、ましてや、10万年などものの数ではない。

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2011年10月 5日 (水)

行ったり、来たり (その3)

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言葉を徐々に消してみると・・。

今、街の中心部にある大きな公園のすぐそばの喫茶店でコーヒーを飲んでいます。

歩道で携帯電話を使っているグレーの背広姿の勤め人や、公園で子供を遊ばせている白っぽいセーターとジーンズの若い母親がそこから見える。公園の周りにはオフィスビルがあり、遠くにはさほど高くない山がある。その山の頂に向かってロープウェイが時おり上ったり、また下ったりしている。まだ秋の入り口なので山は濃い緑である。街の南側のその山ではよく見られる光景だが、季節を問わず、頂(いただき)あたりに靄(もや)が現れてはまたどこかに消える。

見ているものや見えているものを表している言葉、それらを指し示している言葉、まわりの光景を感受し理解する媒体としての名詞や形容詞や動詞といったものを消しゴムで消すようにだんだんと消していったらどうなるか。

たとえば、「公園で子供を遊ばせている白っぽいセーターとジーンズの若い母親」という光景は、公園や子供や母親といった言葉を手放すと、まず「広い土地や樹木や花の広がっている場所で、小さな生き物が走り回っているのを、白っぽいそれよりも大きな生き物が見つめている」となる。しかし、それは公園という言葉を排除し、子供や母親という言葉を使わなくして別の言葉に置き換えただけなので、事態はさほど変わらない。そういう中途半端ではなくて、この作業をさらに押し進めて、言葉による事態や事物の分節化をある程度やめてしまうと「空漠とした広がりと色や形の違う物体がそこに立っており、また動いているのが見えるだけ」となります。その程度をもっと進めると、形の形容も色の形容も動きの把握もできなくなるので、そこはじつに漠とした光景となる。それでもあえて最小限の言葉を使って描写すれば、それは「よく見えない有、ないしは何かがうごめく無」とでもいうしかない。

頂に靄が現われては消える低い山も同じことで、山から緑という色が消え、山という名称も消え、木々の違いもその名前もなくなるので、のっぺらぼうではないけれどもある色をもった大きな固まりがそこにあるだけとなる。その色については言葉がないので形容はできない。「昏いぼんやり」。

ここで、僕は身動きが取れなくなってしまう。智慧のある人はその状態を納得しその状態で軽やかに動き回れるらしい。

しばらくすると、また、その「よく見えない有、うごめく無」、あるいは「昏いぼんやり」は言葉を集め始め、輪郭と色と匂いが形となって立ち現われてくる。すると、身動きが取れる。

街の中心部にある大きな公園のすぐそばの喫茶店でコーヒーを飲んでいます。公園では白っぽいセーターとジーンズの若い母親が子供を遊ばせており、遠くに見える山の頂を靄(もや)がゆっくりと流れています。

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2011年10月 4日 (火)

行ったり、来たり (その2)

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唯識(ゆいしき)という仏教の学派(考え方)があります。日本では、奈良の興福寺や薬師寺、法隆寺で受け継がれてきた学派です。

智慧のある人が見る世界の在り様と、そうでない人に見える世界の在り様(ありよう)はなぜ違うのか、その見え方は構造的にどう違うのか、智慧をもたない人が智慧を身に着けたいと思った場合に身に着ける方法はあるのか、あるならどういう方法か、などということを瞑想的・形而上学的に実践・論究してきたのが唯識学派だと理解しています。

唯識(ゆいしき)は、ほんらいひとつである世界が、ヒトの智慧のレベルによっては異なって見えるようだが、その見え方は三種類である。その世界の「見え方」とは、智慧の備わった人が見る「覚(さと)りの世界」、智慧のない人が見る(住んでいる)「区分と現象の日常の世界」、そして「両者の共通基盤とでもいうべき世界」の三つがあるとしていて、その世界は真諦三蔵(しんだいさんぞう)という学僧の漢訳用語だと、それぞれ順番に、「真実性」(しんじつしょう)の世界、「分別性」(ふんべつしょう)の世界、依他性(えたしょう)の世界と呼ばれています。少しとっつきにくいですが、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という西遊記に登場する学僧の漢訳語だと、円成実性(えんじょうじつしょう)、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)、依他起性(えたきしょう)。

違った世界が三つあるというのではなくて、同じひとつの世界が我々の智慧の在り様によって違った見え方をするという意味です。もともとの世界があり、それはそのままなのだが、それが智慧をそなえた人に見える世界(これが覚りの世界)と、そういう智慧を持たない人たちに見える現象の世界(これが我々の日常世界)とにどうも分かれているようです。分かれる前のもともとの世界を、名づけようがないので、ここではとりあえず共通基盤の世界と呼ぶことにします。

この共通基盤であるところの世界、すなわち「依他性(依他起性)」と名づけられた世界は、他に依ってある、他に依って起こっている世界といった意味ですが、我々になじみの深い言葉で言い換えれば、縁起や因縁の世界ということになります。何かの原因で何かが起こるという関係性の世界です。

共通基盤の世界は、アーラヤ識と呼ばれる深層心理的なエネルギー集積体で成り立っていると唯識では説明しています。覚りの世界にもなるし日常世界にもなるという文脈での共通基盤です。区分と現象の日常生活に目を向けると、我々の普段の認識活動における分析意識や自我執着意識の底を途切れることなく流れているのが、このアーラヤ識です。目を閉じれば、別に目を閉じて考える必要はありませんが、確かにそういう実感がわいてきます。だから、依他性(依他起性)と呼ばれている共通基盤は、空間的な表現だと、覚りの世界と日常世界とにひろがって両者を支えている普段は見えない場所、あるいは覚りの世界と日常世界をつなぐ通路ともいえます。

真実性(円成実性)とは覚りの世界のことで、真実や円や成実といった漢字の並びからもそういう完全そうな雰囲気が伝わってきます。

分別性(遍計所執性)とは、我々が、普段、仕事をしたり食事をしたりして暮らしている世界をさした言葉ですが、我々は、まわりの事物や事態を言葉で線を引いて区分・区別(つまり分別)することが長い歴史の習い性であり、それが知性であり、つまりほとんど本能化しているので、そこから離れるのは至難の業です。だから、分別という用語(術語)が選択されたのだと思われます。(「遍計所執性」とは非常に難しげな漢字のつらなりですが、ものごとを何でもかんでも分析し推し測って、その結果に強くとらわれてしまう性質、といったような意味です。「分別性」よりも自我執着や情念がより強く現われた表現といえます。)

依他性(依他起性)とは、繰り返しになりますが、真実性(覚りの世界、あるいは、我々が言語認識をする前の全一的にまとまった世界)と分別性(我々が言葉で区画整理をした区分と現象の日常世界)の底にある共通基盤を説明するための用語(術語)です。

普通、我々が住んでいるのは、分別性とその深層基盤である依他性からなる世界です。

一方、ひょっとして我々のすぐ近所にいて笑っているかもしれない覚った人たちの住み場所は、真実性と依他性からなる世界です。しかし、たいていはそちら側に住みっぱなしではなく、覚った人たちも仕事をしたりご飯を食べたり寝たり遊んだりして生活しているので、依他性という共通の場所を通って、分別性と依他性とで構成される日常世界にも足を踏み入れます。気儘(きまま)に、あるいは目的に応じて自由に、両方の世界を行ったり来たりしているともいえます。生きている間は普通に生きているので、両側の世界に住んでいるといった方が正確かもしれません。

「何かが存在する」というのは少し硬い感じですが、我々が日常に使う表現のひとつです。「花が存在する」「山が存在する」とか「事実が存在する」「法律が存在する」といった感じで毎日のように使っています。したがって、我々はその表現に違和感を持ちません。しかし主語と述語を逆にしてみると、つまり「存在が花する」「存在が山する」と順番をひっくり返すと、その表現からはまず強い違和感が伝わってきます。しかし、そこでその違和感をしばらくの間我慢していると、だんだんと薄まっていく違和感の陰から、とても濃い凝縮感あるいは顕在感とでもいったものが同時に現れてきます。世界の捉え方が徐々に転換します。

(ここで、柳や花のような客体的なものでなく、その代わりに「私」ないし「あなた」という主体的なものをその位置に配してみると、「私が存在する」「あなたが存在する」、「存在が私する」「存在があなたする」となります。「存在が花する」「存在が山する」という表現と向き合っているとそこからは、「その花」や「その山」のとても濃い凝縮感あるいは顕在感とでもいったものがゆっくりと立ち現れてくるようだとすぐ上に書きましたが、「存在が私する」「存在があなたする」という場合はどうなのか。これは我が身のことなので、そういう表現と対峙していると、私(あるいは、あなた)というものは、「存在なるもの」が、「私」(あるいは「あなた」)という個別の形に何かの理由で凝縮した結果なのかもしれないというその凝縮感を、花や山を相手にするよりも、より強く感じられると思います。)

禅語としてお茶の席などいろいろな場面で引用されることが多い「柳は緑、花は紅」は、毎年繰り返す春の色を映した言葉ですが、冗長を承知でそれを二通りに表現してみると、最初のは「(緑の)柳が存在する」「(紅の)花が存在する」、逆の順番だと「存在が(緑の)柳する」「存在が(紅の)花する」。

この世界の捉え方と、さきほどの三つの世界の見方を組み合わせてみます。すると、「分別性」と「依他性」の組み合わさった世界から見える光景、あるいは「分別性」に住んでそこから共通基盤であるところの「依他性」を眺めた光景が「柳は存在する」「花は存在する」となるようです。その柳やその花は個別にそこに存在していて、春という季節を媒介にお互いが我知らずに関係しあって春の情景を演出しています。

一方、「真実性」と「依他性」からなる世界から見える風景、あるいは「真実性」の側から共通基盤の「依他性」の方向を眺めた風景は「存在は柳する」「存在は花する」となります。区画整理される前の全一的な世界からその一部分が走り出し、互いのつながりは持ったまま、その柳やその花として凝縮します。

智慧を持った人・覚った人というのは、両方の世界の違った顕われを同時に見ているともいえるし、両方の世界を自由に往還しているともいえます。

【註】 「存在が□□する」という世界の捉え方・表現と僕が最初に出会ったのは、井筒俊彦氏の「イスラーム哲学の原像」という著作において、です。

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2011年10月 3日 (月)

行ったり、来たり (その1)

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今週は精進料理なので、いつもとは違った雰囲気の記事が5日間続きます。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

この世とは別の「冥界」や「異界」、あるいは日本の古い用語だと「黄泉平坂(よもつひらさか)の向こう側」という言葉で指し示される世界があります。たとえば、あの世とこの世の「橋掛かり(はしがかり)」が夢幻能の基本構図ですが、登場人物が向こう側の世界とこちら側を自由に行き来するような魅力的な物語は現代でも書かれています。

しかし、「冥界」や「異界」という区切り言葉で、我々が今生きているこの現象の世界と向こう側との間にわざわざ区分線を引くこともないというのなら、「存在のもともと」とか「存在の奥底」、あるいは「玄のまた玄(老子)」や「渾沌(こんとん)(荘子)」という言葉を使えば「こちら側」と「むこう側」と「それらのもともと」の全体をさすこともできて、そして、登場人物がそういう全体を軽やかに歩き回っている物語というのも身近に存在しています。唯識(ゆいしき)風に言えば、生死を離れず、涅槃(ねはん)も離れず、結局は同じものであるところの生死と涅槃の両方の世界を、彼(あるいは彼女)が往還する物語です。

物語という言葉が不適当なら、小説、ないしは形而上学的な論考と言い換えますが、そういう形式をとった著作、現代の日本語で書かれた「こちら側と向こう側の往還の物語」の中で僕にとって魅力的ないくつかを並べると、以下のようになります。径の細い僕の管見では、20世紀の後半から21世紀の初頭にかけて鬼籍に入られた方の著作しか思い浮かびません。

・ 折口信夫(1887-1953): 「死者の書」(小説)
・ 吉田健一(1912-1977): 「金沢」(小説)
・ 井筒俊彦(1914-1993): 「意識と本質」(形而上学書)
・ 倉橋由美子(1935-2005): 「夢の通い路」(小説)

なまめかしいのは「死者の書」と「夢の通い路」です。「金沢」と「意識と本質」もなまめかしいと言えますが、「死者の書」の粘性や「夢の通い路」の湿った感じに対して、こちらの方はもっと神秘的で乾いていて、なまめかしさの種類が違います。これらの書物の共通点は繰り返し読みたくなること。ただし、読み進むためには、読者にもそれなりの蓄積が要求されます。

「金沢」は小説ですが哲学風味のエッセイともいえます。「意識と本質」は、神秘的な形而上学の著作で、そこで著者は、「玄のまた玄」の昏(くら)い世界から身近な現象の世界までを格別に叡智なシャーマンとして自由に飛翔したり泳ぎ回ったりしています。

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