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2011年10月 5日 (水)

行ったり、来たり (その3)

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言葉を徐々に消してみると・・。

今、街の中心部にある大きな公園のすぐそばの喫茶店でコーヒーを飲んでいます。

歩道で携帯電話を使っているグレーの背広姿の勤め人や、公園で子供を遊ばせている白っぽいセーターとジーンズの若い母親がそこから見える。公園の周りにはオフィスビルがあり、遠くにはさほど高くない山がある。その山の頂に向かってロープウェイが時おり上ったり、また下ったりしている。まだ秋の入り口なので山は濃い緑である。街の南側のその山ではよく見られる光景だが、季節を問わず、頂(いただき)あたりに靄(もや)が現れてはまたどこかに消える。

見ているものや見えているものを表している言葉、それらを指し示している言葉、まわりの光景を感受し理解する媒体としての名詞や形容詞や動詞といったものを消しゴムで消すようにだんだんと消していったらどうなるか。

たとえば、「公園で子供を遊ばせている白っぽいセーターとジーンズの若い母親」という光景は、公園や子供や母親といった言葉を手放すと、まず「広い土地や樹木や花の広がっている場所で、小さな生き物が走り回っているのを、白っぽいそれよりも大きな生き物が見つめている」となる。しかし、それは公園という言葉を排除し、子供や母親という言葉を使わなくして別の言葉に置き換えただけなので、事態はさほど変わらない。そういう中途半端ではなくて、この作業をさらに押し進めて、言葉による事態や事物の分節化をある程度やめてしまうと「空漠とした広がりと色や形の違う物体がそこに立っており、また動いているのが見えるだけ」となります。その程度をもっと進めると、形の形容も色の形容も動きの把握もできなくなるので、そこはじつに漠とした光景となる。それでもあえて最小限の言葉を使って描写すれば、それは「よく見えない有、ないしは何かがうごめく無」とでもいうしかない。

頂に靄が現われては消える低い山も同じことで、山から緑という色が消え、山という名称も消え、木々の違いもその名前もなくなるので、のっぺらぼうではないけれどもある色をもった大きな固まりがそこにあるだけとなる。その色については言葉がないので形容はできない。「昏いぼんやり」。

ここで、僕は身動きが取れなくなってしまう。智慧のある人はその状態を納得しその状態で軽やかに動き回れるらしい。

しばらくすると、また、その「よく見えない有、うごめく無」、あるいは「昏いぼんやり」は言葉を集め始め、輪郭と色と匂いが形となって立ち現われてくる。すると、身動きが取れる。

街の中心部にある大きな公園のすぐそばの喫茶店でコーヒーを飲んでいます。公園では白っぽいセーターとジーンズの若い母親が子供を遊ばせており、遠くに見える山の頂を靄(もや)がゆっくりと流れています。

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