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2011年10月 4日 (火)

行ったり、来たり (その2)

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唯識(ゆいしき)という仏教の学派(考え方)があります。日本では、奈良の興福寺や薬師寺、法隆寺で受け継がれてきた学派です。

智慧のある人が見る世界の在り様と、そうでない人に見える世界の在り様(ありよう)はなぜ違うのか、その見え方は構造的にどう違うのか、智慧をもたない人が智慧を身に着けたいと思った場合に身に着ける方法はあるのか、あるならどういう方法か、などということを瞑想的・形而上学的に実践・論究してきたのが唯識学派だと理解しています。

唯識(ゆいしき)は、ほんらいひとつである世界が、ヒトの智慧のレベルによっては異なって見えるようだが、その見え方は三種類である。その世界の「見え方」とは、智慧の備わった人が見る「覚(さと)りの世界」、智慧のない人が見る(住んでいる)「区分と現象の日常の世界」、そして「両者の共通基盤とでもいうべき世界」の三つがあるとしていて、その世界は真諦三蔵(しんだいさんぞう)という学僧の漢訳用語だと、それぞれ順番に、「真実性」(しんじつしょう)の世界、「分別性」(ふんべつしょう)の世界、依他性(えたしょう)の世界と呼ばれています。少しとっつきにくいですが、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という西遊記に登場する学僧の漢訳語だと、円成実性(えんじょうじつしょう)、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)、依他起性(えたきしょう)。

違った世界が三つあるというのではなくて、同じひとつの世界が我々の智慧の在り様によって違った見え方をするという意味です。もともとの世界があり、それはそのままなのだが、それが智慧をそなえた人に見える世界(これが覚りの世界)と、そういう智慧を持たない人たちに見える現象の世界(これが我々の日常世界)とにどうも分かれているようです。分かれる前のもともとの世界を、名づけようがないので、ここではとりあえず共通基盤の世界と呼ぶことにします。

この共通基盤であるところの世界、すなわち「依他性(依他起性)」と名づけられた世界は、他に依ってある、他に依って起こっている世界といった意味ですが、我々になじみの深い言葉で言い換えれば、縁起や因縁の世界ということになります。何かの原因で何かが起こるという関係性の世界です。

共通基盤の世界は、アーラヤ識と呼ばれる深層心理的なエネルギー集積体で成り立っていると唯識では説明しています。覚りの世界にもなるし日常世界にもなるという文脈での共通基盤です。区分と現象の日常生活に目を向けると、我々の普段の認識活動における分析意識や自我執着意識の底を途切れることなく流れているのが、このアーラヤ識です。目を閉じれば、別に目を閉じて考える必要はありませんが、確かにそういう実感がわいてきます。だから、依他性(依他起性)と呼ばれている共通基盤は、空間的な表現だと、覚りの世界と日常世界とにひろがって両者を支えている普段は見えない場所、あるいは覚りの世界と日常世界をつなぐ通路ともいえます。

真実性(円成実性)とは覚りの世界のことで、真実や円や成実といった漢字の並びからもそういう完全そうな雰囲気が伝わってきます。

分別性(遍計所執性)とは、我々が、普段、仕事をしたり食事をしたりして暮らしている世界をさした言葉ですが、我々は、まわりの事物や事態を言葉で線を引いて区分・区別(つまり分別)することが長い歴史の習い性であり、それが知性であり、つまりほとんど本能化しているので、そこから離れるのは至難の業です。だから、分別という用語(術語)が選択されたのだと思われます。(「遍計所執性」とは非常に難しげな漢字のつらなりですが、ものごとを何でもかんでも分析し推し測って、その結果に強くとらわれてしまう性質、といったような意味です。「分別性」よりも自我執着や情念がより強く現われた表現といえます。)

依他性(依他起性)とは、繰り返しになりますが、真実性(覚りの世界、あるいは、我々が言語認識をする前の全一的にまとまった世界)と分別性(我々が言葉で区画整理をした区分と現象の日常世界)の底にある共通基盤を説明するための用語(術語)です。

普通、我々が住んでいるのは、分別性とその深層基盤である依他性からなる世界です。

一方、ひょっとして我々のすぐ近所にいて笑っているかもしれない覚った人たちの住み場所は、真実性と依他性からなる世界です。しかし、たいていはそちら側に住みっぱなしではなく、覚った人たちも仕事をしたりご飯を食べたり寝たり遊んだりして生活しているので、依他性という共通の場所を通って、分別性と依他性とで構成される日常世界にも足を踏み入れます。気儘(きまま)に、あるいは目的に応じて自由に、両方の世界を行ったり来たりしているともいえます。生きている間は普通に生きているので、両側の世界に住んでいるといった方が正確かもしれません。

「何かが存在する」というのは少し硬い感じですが、我々が日常に使う表現のひとつです。「花が存在する」「山が存在する」とか「事実が存在する」「法律が存在する」といった感じで毎日のように使っています。したがって、我々はその表現に違和感を持ちません。しかし主語と述語を逆にしてみると、つまり「存在が花する」「存在が山する」と順番をひっくり返すと、その表現からはまず強い違和感が伝わってきます。しかし、そこでその違和感をしばらくの間我慢していると、だんだんと薄まっていく違和感の陰から、とても濃い凝縮感あるいは顕在感とでもいったものが同時に現れてきます。世界の捉え方が徐々に転換します。

(ここで、柳や花のような客体的なものでなく、その代わりに「私」ないし「あなた」という主体的なものをその位置に配してみると、「私が存在する」「あなたが存在する」、「存在が私する」「存在があなたする」となります。「存在が花する」「存在が山する」という表現と向き合っているとそこからは、「その花」や「その山」のとても濃い凝縮感あるいは顕在感とでもいったものがゆっくりと立ち現れてくるようだとすぐ上に書きましたが、「存在が私する」「存在があなたする」という場合はどうなのか。これは我が身のことなので、そういう表現と対峙していると、私(あるいは、あなた)というものは、「存在なるもの」が、「私」(あるいは「あなた」)という個別の形に何かの理由で凝縮した結果なのかもしれないというその凝縮感を、花や山を相手にするよりも、より強く感じられると思います。)

禅語としてお茶の席などいろいろな場面で引用されることが多い「柳は緑、花は紅」は、毎年繰り返す春の色を映した言葉ですが、冗長を承知でそれを二通りに表現してみると、最初のは「(緑の)柳が存在する」「(紅の)花が存在する」、逆の順番だと「存在が(緑の)柳する」「存在が(紅の)花する」。

この世界の捉え方と、さきほどの三つの世界の見方を組み合わせてみます。すると、「分別性」と「依他性」の組み合わさった世界から見える光景、あるいは「分別性」に住んでそこから共通基盤であるところの「依他性」を眺めた光景が「柳は存在する」「花は存在する」となるようです。その柳やその花は個別にそこに存在していて、春という季節を媒介にお互いが我知らずに関係しあって春の情景を演出しています。

一方、「真実性」と「依他性」からなる世界から見える風景、あるいは「真実性」の側から共通基盤の「依他性」の方向を眺めた風景は「存在は柳する」「存在は花する」となります。区画整理される前の全一的な世界からその一部分が走り出し、互いのつながりは持ったまま、その柳やその花として凝縮します。

智慧を持った人・覚った人というのは、両方の世界の違った顕われを同時に見ているともいえるし、両方の世界を自由に往還しているともいえます。

【註】 「存在が□□する」という世界の捉え方・表現と僕が最初に出会ったのは、井筒俊彦氏の「イスラーム哲学の原像」という著作において、です。

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