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2011年10月 6日 (木)

行ったり、来たり (その4)

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「柳は緑、花は紅」という言葉はそれだけだと一応はおだやかな春の情景ですが、世の中には穏やかではないことも常にあって、つまり、どこかで毎日人が死に、あるいは殺され、国家内部の、あるいは国家間の戦闘や戦争があいかわらず冷静に、たいていはビジネスを主目的ないし副次目的として、企画・実行されています。

われわれは区分することが本能的な習い性になっていますが、区分するとは、たとえば、ある範囲を善と決めるとその範囲外は悪だとみなすということになり、自分たちの考え方が善なら、その考え方と違う考え方は善という枠の外側に位置するので不善、つまり悪ということになる。善でないものがすなわち悪ということには必ずしもならないが、宗教や国を単位とする政治の世界では善でなければ悪という傾斜が特に強い。だから、大きな不幸や災害をビジネスとして利用することにしか関心がないといった顔つきの連中が、そうした傾斜を冷静に利用することにもなる。離れた地域に住む異なる世界観の人たちを悪の枢軸やテロリストと呼んで爆弾を上空からどんどんとその人たちの住宅地に投下したり、自分たちのテロリズム行為の結果をJustice has been done. などと説明したりもする。地震が発生して原子力発電所が事故を起こし、地域と農地と食べ物が汚染し、事故に関する情報操作が行われ、そして桜が咲き、雲が浮かんで流れ、蝉が鳴き、赤トンボが飛び、稲が実り、つまり、穏やかとはいえない光景も穏やかな光景もはるか昔からそれぞれ時代の匂いをともなって繰り返されています。「柳は緑、花は紅」とは、こういうこともすべて含んで「柳は緑、花は紅」なのかもしれません。思想の違う人たちをテロリストと呼んで爆弾を落とすことを正義と考える連中も、テロリストと呼ばれて爆弾を落とされる人たちも、ともに「存在」の凝縮した結果なので、だとすると、その基盤はお互いに共通だということになる。つまり、「柳は緑、花は紅」を穏やかな情景というだけでは済まない。

そのように、世界はずいぶんと不可解だけれども、世界とはそういうことであり、またそういうものである。そして、世界はそのぐちゃぐちゃとした酷い状態をそのなかに包み込んだ状態で、全体としては清浄だという基本認識が唯識仏教にはあるように思われます。私やあなたが誰かに突然に殺されようが、逆に私やあなたが憤怒から誰かを急に殺害するような事態に陥ろうが、大洪水が多くの住民を呑み込もうが、それらは世界の風景におけるかすかな風のそよぎであり、そういう柔らかい風のそよぎのままで世界は清浄です。湿っぽいフィルターを通してこれを見ると無常感が漂う景色になり、乾いたフィルターを通すと月と岩山と松の木と松の葉を吹き抜ける透明な夜風の虚無的な光景になります。

世界には救いようのないくらいに自我意識の強すぎる人たちがいてその人たちに対してはなすすべがない、そうした落ちこぼれの一群はそのあたりに放っておくしかないといった考え方も、唯識に象徴される仏教の世界認識には含まれており、つまりは情緒的な無常感やニヒリズムなどを突き抜けた凄味もあります。だから、この、自我の強い落ちこぼれの一群にはどうも確実に自分も含まれているらしいということになると、仏教の世界観とは、智慧から遠く離れた人にとっては相当に虚無的でうんざりするものかもしれません。

ヒトがいつごろからコトバを使い始めたのか詳細は知りません。文字と組み合わされる前のコトバには、その頃の人たちにとっては、言霊(コトダマ)のような霊的なものが宿っていたようです。しかし、5千年~6千年前から物事の区分や概念形成にとても便利な道具である文字を使い始めてからはコトバの霊的な力が薄れてきました。分別の便利な道具である文字を使うということは「分別性」「依他性」の世界で暮らすには便利だけれども、それに慣れ親しんでしまうと、分析と区分の世界を離れること、言語の網の目を離れること、霊性の世界に赴くこと、あるいは区分の世界と霊性の世界を往還することは至難の業となります。

ホモ・サピエンス(現生人類)が生まれたのが今から10万年から15万年前、ホモ・サピエンスが野生の動物の襲撃や天災から身を守って生きのびるための武器のひとつがコトバだったことを考えると、それだけ長い間、コトバが「分別性」「依他性」の源泉としてヒトに刷り込まれているので、今後の5万年や10万年といった短い期間では、ごく稀に出現する智慧と霊性の両方を持った人を除いては、ヒトが賢くなるのは難しいのかもしれません。とすれば、「仏教の世界観とは相当に虚無的でうんざりするものだ」などというのは当たり前ということになります。「存在が花する」という転換点を経由した智慧を身につけるつもりなら、その程度の虚無やうんざりはしばらく我慢しろということのようです。しばらくとは、10万年。

インドなど中国よりも西の地域で仏教などにかかわった人たちの時間感覚はおそろしく長大で、唯識関係の書物にも時間に関する記述が出てきますが、劫(こう)という単位がよく使われています。「智慧」がそなわるまでには、劫の複数倍の時間が必要だそうです。

劫とは、僕の好きなある定義によれば、縦・横・高さが7キロメートルの岩山があり、それを誰かが白いフェルトの生地で100年に一度、軽く払うそうです。軽く払ってもそれは岩山を見えないほどかすかに削るので、それが積み重なると、そのうち岩山はなくなってしまいます。その岩山が消えるまでの時間が一劫(いちこう)です。100年に一度払ったとしても、10万年で1000回。やわらかいフェルト生地1000回のかすかな接触でその巨大な岩山が消滅することはないので、さて、一劫とは何年くらいなのか気になります。一劫は43億2000万年という説(計算結果)もあるようです。モノの本によれば、地球の誕生は46億年前、地球上での生命の誕生は40億年ほど前とされているので、そういう構図の中では43億2000万年という時間の長さはたいして驚くべき年数ではないし、ましてや、10万年などものの数ではない。

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