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2012年6月

2012年6月29日 (金)

庖丁を研ぐと、少しいい気分

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切れ味がすこし鈍くなってきたときやキンピラゴボウなどを多めに作ったあとには配偶者から庖丁研ぎの依頼が来ますが、自分でも庖丁を使う機会があるので野菜などを切っていてスパッという感じに物足りなさが出てきたら、隙間を見つけて研ぐことにしています。夜遅くの場合もあるし、野菜や花に水遣りをしたあとの週末早朝の隙間(すきま)時間という場合もあります。

砥石を水につけておいて頃合いになれば研ぎ始めますが、研ぎ終わったあと、指の腹で刃の感触をゆっくりと確かめる瞬間はなかなかにいいものです。

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2012年6月28日 (木)

神仏習合について雑感

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「習合」の辞書的な意味は「相異なる教理などを折衷・調和すること」(広辞苑)だそうですが、そういう解釈だと習合のダイナミズムや習合のねっとりとした感じが出てきません。習合の意味をとてもゆるやかに考えると以下の2つのタイプがありそうです。

ひとつは、「君、僕のチームに入らないか。ちょうどいいポジションが空いているだけれど。」「君、わが社にどうかね。外国人としての君の能力が思う存分発揮できる新規事業があるのだが。」というような発展する組織の運営戦略にもとづいた取り込みタイプの「習合」。これは、チベットや日本などの密教曼荼羅に見られます(オリジナルはインド)。

もうひとつのタイプは、そのお宅をおうかがいすると表札が二枚あって一枚は天竺風・唐風の名前でもう一枚は和風の名前が書かれています。本名とペンネームといった同じ人の別々の名前が掲げられているのではなく、雰囲気や匂いが似ているところはあるのだけれどもどうも育ちや氏素性が異なっているに違いない別人の表札。訪問客にわかりやすいように表門に並べて二枚という場合と、表門と裏門にそれぞれ一枚という場合があり、いずれにせよ二人が同居しているのは確かなようです。男性二人なのか、女性同士なのか、男性と女性なのかは状況によって違いますが、そういうのがもうひとつのタイプの「習合」で、日本人の我々には生まれた時からある程度はおなじみのもの。ただしここにも、押しかけ女房的な自然発生風のもの(ただし表札は別姓維持)と、おとなしく間借りしていたのがいつのまにか元の主人と立場が入れ替わったようなもの、それから自然発生的というよりは制度的に表札を二枚にするという対応まで、いくつかのバリエーションがあります。

日本の神様は八百万(やおよろず)なのでとても全部の神様に幣帛(へいはく)をささげる(平たく言えば、お賽銭をチャリン)わけにはいかないのだけれど、そういうことは別にして、山の神・海の神・水の神・田の神・川の神・火の神・風の神・樹の神・航海の神・旅の神など森羅万象をつかさどる日本のさまざまな神様は、神様同士のコラボレーションだけでなく、仏教の「仏」や「菩薩」や「明王」などとの緊密なコラボレーションやジャム・セッションも得意です。日本の神々の体系の中で、地位は高いがちょっとはみ出したような立場の神様、あるいは理由は明確ではないのだけれども地位の低そうな神様、あるいは途中でどこかに彷徨(さまよ)い出たのか系図に明確には現われてこないような神様は言うにおよばず、系図の主軸やその周辺にまします神々も、仏教とのコラボレーションを嫌ってはいないようです。このコラボレーションやジャム・セッションのことを神仏習合と呼んでいます。

仏教も日本の神々だけでなく、日本に渡ってくる以前から他の宗派の神々とのコラボレーションが好きだったようです。「神」なるものの細かい定義を気にしなければ、つまり仏教以外の宗教・宗派の崇拝対象・崇敬対象を総じて「神」ということにすれば、仏教はバラモン教(ヒンズー教)やそれ以外の神々との「神仏習合」も得意でした。東寺・講堂の羯磨曼荼羅(かつままんだら)、いわゆる立体曼荼羅の前に立てば、仏教の「如来」や「菩薩」が、「明王」(不動明王など)や「天」(広目天、多聞天など)と仏教風に名前を変えたヒンズー教などインドの伝統的な宗派の神々とコラボレーションしている様子が圧倒的な迫力で伝わってきます。日本の神々とのコラボレーションやジャム・セッションはひそやかで温和で中間色で湿っているところもあり、ヒンズー教の神々との交響曲的なコラボレーションとはその性格がずいぶんと違いますが、「習合」という大袋に一緒に詰め込むことはできそうです。

縄文時代を「狩猟と自然採取、山の神・海の神など八百万(やおよろず)の自然神崇拝、稲作(アジア的農耕)以前の日本の霊的(スピリチャルな)基底」、弥生時代とそれ以降を「稲作、大和朝廷による稲作を軸とした神の体系化、黙想・形而上学的思弁と現世利益の両面を持つ仏教の浸透」とすると、神仏習合とは「稲作以前の日本の霊的基底」と「黙想・形而上学的思弁と現世利益の両面を持つ仏教」のコラボレーション、ジャム・セッションということになります。

制度的な神の体系化となじまない八百万の神、つまり稲作以前からある日本の霊的基底の生命力は非常に強くて、それが日本の文化基盤を形づくってきましたが、「神仏習合」というプロセスを通過することでその粘着力が強化され、またその色彩に深みが出たようにも思います。

「お宮参りは神社、結婚式は神前で、初詣(はつもうで)は神社か寺院、葬式はお寺で」というのが私たちの標準的な行動パターンであり、それぞれにふさわしい場所が伝統的に(あるいは、無意識的に)選択されますが、「神仏習合」という千数百年のジャム・セッションを通して見れば、どちらの表札を選ぼうとも底の方では同じ場所の別の表札とつながっていることになります。両者の密かなつながりがよくわかるのが、私の考えでは、初詣です。神社にお参りしても初詣、お寺にお参りしても初詣。よく練られたコラボレーション・システムだと思います。

関連記事は「祈りのこもったお米、そうでないお米」、「磨崖仏(まがいぶつ)」。

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2012年6月27日 (水)

変な添加物や保存料は入っていませんので・・・

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「変な添加物や保存料は入っていない」ということである加工食品が先週末に我が家にやってきました。どういう経路で我が家にたどり着いたのかについてはの詳細は述べません。せっかくのものなので、僕はお酒のおつまみとして楽しむつもりです。20個ぐらい入っているので4~5日はもちます。

以下はその商品の「品名」「名称」「原材料名」の写真。

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配偶者と雑談になりました。「変な添加物や保存料は入っていない」とはどういう意味かについてです。

「添加物や保存料が入っていない」という方を重視すると、この加工食品には明らかに「添加物」や「保存料」が入っています。ふれこみと矛盾します。しかし「変なのは入っていない」ということに重きを置くと、「変でないの」が入っていてもとくに不思議ではなくなります。「変でないの」とは、つまり、この手の加工食品に頻繁に日常的に使われる添加物や保存料のことです。そういうのが入っていても、それは「ごく普通の添加物や保存料」で「変な添加物や保存料」ではない。そういうことかもしれないと、一応は納得しました。

商品パッケージを裏返して「原材料名」欄を確認するというのはある種の勇気と知識が必要な行為なので、そういうお客は売り場ではあまり見かけないようです(その時点では、まだ買っていないので潜在顧客ではあっても本当のお客ではありませんが)。しかし、たまにはやった方が、お店はいい気分ではないと思いますが、お店の品揃えの刺激になるかもしれません。

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2012年6月26日 (火)

タマネギと稲の二毛作

大ざっぱにいえば、佐賀の新タマネギが晩春から初夏にかけて野菜売り場のタマネギコーナーを独占した後、7月下旬から8月にかけて主役は淡路島のタマネギにうつり、そして9月から10月に収穫される北海道のタマネギが、秋とその後の寒い時期に大量に市場に出回ります。タマネギは収穫から出荷までの時間調整が柔軟なので、タマネギが野菜売り場に並ぶ期間は長い。

二毛作と聞くと、すぐに思い浮かべるのは稲と麦の二毛作です。同じ場所が季節によって水をたたえた水田になったり、乾いた畑になったりします。しかし、淡路島で盛んなのは「タマネギ」と「稲」の二毛作です。

タマネギの種まきは9月、定植が12月、そして5月から梅雨入りの直前までがタマネギの収穫時期。そのあと、風通しのいい場所で保存。その、雨露をしのいでよく風を通す場所がタマネギ小屋。タマネギの出荷はタマネギがその小屋で乾燥した後の7月下旬から8月にかけてです。小屋でタマネギは熟成しおいしさが増す。収穫を終えたタマネギ畑は水田になり、タマネギ小屋は田んぼに囲まれる。だから梅雨以降の南淡路はタマネギがいっぱい吊るされたタマネギ小屋とそのまわりの青々とした水田が一緒になって独特な二毛作の風景になります。

下の写真は「淡路島の一期幾会(旅館若潮ブログ)」様からお借りしたもので、2011年7月上旬の風情ある光景。写真奥のタマネギ小屋にはタマネギがいっぱいぶら下がっており、手前の水田で稲は順調に生育中です。

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関連記事は「タマネギの季節」と「淡路のタマネギ(玉葱)、札幌のタマネギ(玉葱)」。

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2012年6月25日 (月)

熟した梅と梅のジャム

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梅は香り。熟した南高梅(なんこうばい)です。産地は和歌山。枝からそろそろ落ちるかもしれないものを、その前に手摘みしたもの。熟しているので、捥(も)ぐときにヘタが自然にとれたものとヘタが残っているものが混じっている。熟しているので青梅と違って、残っているヘタもしごく簡単にとれる。写真の生梅は、量が 1kg。配偶者が梅ジャムにするために 2kg 買ってきたのを半分拝借。

ジャムは甘くないとジャムでないし、保存がきかないとジャムでないので、梅の重量に対して一般には同量かその 80%くらいの量の砂糖を使いますが、配偶者は 40%~50%程度に抑えるそうです。すぐに冷蔵庫保存するので、50%以下でも問題ないとのこと。僕はジャムというものにはあまり興味がないのですが、梅は香りも食べるものなので、出来あがったのがいい匂いでおいしそうだったら、それほど甘そうでもないので米粉パンにでも少しつけて食べてみますか。

出来あがって冷めたのを試食すると、「砂糖をまったく使わない紅玉のアップルパイ」と同じで、味の感じが実に大人向きでした。さっぱりとしてわずかに苦みがあります。女子供に食べさせるのはもったいない。

【註1】 我が家のアップルパイ: アップルパイには固くて酸っぱい昔風の紅玉(こうぎょく)を使います。砂糖の類はいっさい入れません。リンゴの持つ甘みだけをゆっくりと引き出してやると、大人向きの抑えた甘さのアップルパイができあがります。

【註2】 細かいことですが・・・。2㎏の生梅を、2回茹(ゆ)でこぼして種を取ると、重さは1.2㎏になります。それに対して砂糖の使用量は我が家では700g。つまり、生梅重量に対しては 35%、茹でて種を取ったものに対しては 58%。


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今年の梅の出荷のピークは6月20日頃だと聞いているので、先週紀伊半島に上陸した台風の雨や風の影響は少ないかもしれませんが、まだ残っている梅が傷ついていないことをお祈りします。

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2012年6月22日 (金)

磨崖仏(まがいぶつ)

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先日、九州に行く機会がありました。大分と宮崎。大分は国東半島と国東半島を少しはみ出すあたりと、それから臼杵(うすき)。宮崎は高千穂(たかちほ)。神仏習合が(おそらく制度的に)初めて生まれたとされる宇佐神宮、それから富貴(ふき)寺、熊野や臼杵(うすき)の磨崖仏(まがいぶつ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が機嫌が悪くなって岩戸に隠れてしまい神々がその対策を協議した場所など、その気にならないと簡単には行けない交通の不便な土地をゆるゆるとめぐっていました。

宇佐神宮は、「4万社あまりある八幡さまの総本宮」(宇佐神宮ホームページ)で、最澄や空海が参拝した場所(「宇佐神宮由緒記」)。その時期がいつだったのかは「由緒記」には記述されていませんが、遣唐使で唐に出かける際に参拝したのでしょう。二人が一緒に航海の安全を祈願したとは考えられないので(遣唐使前の身分が違いすぎる、つまりその時、最澄は名と地位の確立した僧侶、空海は私度僧上がりの全く無名の僧侶)、二人が同じような時期に参拝したとすると、先に最澄が、かろうじて遣唐使にもぐりこんだ空海があとで、という順序だったのかもしれません。

モノの本によれば、空海が入唐前に祈願したのは、宇佐八幡と香春(かわら)大明神。空海のような立場の遣唐使は膨大な額の渡航費用・滞在費用を自前で調達することになっていましたが、そのスポンサーへの挨拶に(旧国名だと)豊前(ぶぜん)の国に行ったのかもしれません。東寺の正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院(みろくはちまんさんそうじふげんいん)」の2つの名称があるそうです(「大師のみてら 東寺」教王護国寺)が、東寺と宇佐八幡宮とのつながりがわかります。

かつて豊前(ぶぜん)や豊後(ぶんご)と呼ばれた土地では密教の香りが今でも濃く漂っていますが、地元の方とお話ししていると、真言宗以上に天台宗の影響が大きかったようにも思われます。

磨崖仏とは、崖に彫られた石仏のことです。多くの磨崖仏が彫られましたが、その作成時期は平安時代から鎌倉時代。そのなかで、その前に居続けたいと思った磨崖仏が臼杵(うすき)の大日如来(だいにちにょらい)でした。空海にとって大日如来は世界の根源。有と無と空のブラックホール、同時にそれらのホワイトホール。常に動き続ける曼荼羅の原初。東寺の大日如来の前に一人で立ち続けることはなかなかに難しいのですが、梅雨入り直前の臼杵では、そういう幸運な時間の流れがありました。

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2012年6月21日 (木)

我が家風の「らっきょう漬け」

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ゆで過ぎたスナップエンドウ、ゆで過ぎたブロッコリーやカリフラワーは悲惨以外の何物でもありません。こりっと歯ごたえのあるくらいでないとおいしくない。

「らっきょう漬け」の「らっきょう」も同じことで、いちど塩漬けしその後甘酢に本漬けするというやり方もありますが、それだと、「らっきょう」のパリパリ感、噛んだ時のあの心地よい食感が削がれるので、我が家では塩漬け工程は省略し甘酢にじかに漬けることにしています。よいお酢と唐辛子が必需品。じか漬けだと、「らっきょう」の味も素直に伝わってきます。

我が家で使う「らっきょう」は鳥取県の砂地で栽培されたもの。この時期はデパ地下の野菜売り場などで、たいていは1㎏パックで並んでいます。

2か月ほど冷暗所で保存したら、食べられます。このやり方だと1か月では漬けが若すぎる。伝統的な冷暗所などないときは、現代の冷暗所であるところの冷蔵庫で保存。写真は今年使う冷蔵庫向けのガラス製保存容器(ガラスの種類は懐かしいというかごく平凡なソーダガラス)。2リットル型。

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2012年6月20日 (水)

今年の自家製梅干し

頼んであった生梅が田辺(和歌山県)から届きました。早採りの青梅ではなく、熟した生梅です。届いたのがこの前の日曜日の夜の9時。宅配便の担当者の話では、その日は父の日で期日指定の宅急便が大量にあり、我が家の生梅も普段なら明るい午後に到着する予定が、夜遅い時間になったそうです。「これからまだ20軒分の荷物が残ってるんですよ。」「そりゃ、ご苦労様です。」

この時刻からの梅干し作りはしんどいのですが、熟した生梅なので、すぐに作業にとりかかった方がいい。容器や塩、焼酎は準備済み。箱を開けると熟した生梅の香りがふわっと拡がりました。そのまま食べてしまいたい気分になりますが、そこは我慢です。

梅干し作りの工程は以下の通り。容器や重石は強い焼酎で消毒。

①生梅を洗う。量は5㎏。熟した梅なのでヘタはほとんどないのだが念のためにチェックし、もしあれば竹串で取り除く。

②梅の水気を取る。

③焼酎をまぶす。焼酎の入った大きなボールの中でゆっくりと梅を転がす。我が家で使う焼酎は44度の麦焼酎。

④保存容器に、塩と梅を交互に入れる。このとき、知恵の輪ではありませんが、熟した程度の相対的に低そうなのが下に、とてもよく熟しているのは上にくるように、そして、できるだけ隙間なく並べていく。この梅並べは、配偶者が能(よ)くするところです。我が家の梅干し用の塩分濃度は18%なので、5㎏の生梅に対して塩は900g。いちばん上に多くの塩を載せるように按配する。

⑤中蓋兼用の重石をする。原則は梅と同じ重さの重石だが、1個が2.2㎏の重石を最初は3個載せ、水(白梅酢)が十分に上がってきたら2個に減らす。

⑥葉の部分だけをていねいにちぎった赤紫蘇を入れる。

⑦暗冷所で、一般的には、梅雨明けを待つ。6月の札幌では雨はそれなりに降るが北海道に梅雨はないそうなので、夏の太陽と気温を待つ。

⑧いわゆる土用干しをする。ただし、札幌の土用干しの時期は、8月になって夏の太陽や気温と相談してからゆっくりと決める。

⑨保存する。

その夜に、日付が変わるまで、作業工程の①から⑤の途中まで実施。配偶者との協働作業ですが、けっこう疲れました。おいしい梅干しのためなので、いたしかたありません。梅酢が上がってくるのを待ちます。

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2012年6月19日 (火)

「糠(ぬか)漬け」セットと、「らっきょう漬け」用ガラス容器

我が家は玄米を三部搗(つ)きにして食べているので、糠(ぬか)は貴重な副産物。毎日の糠漬けの糠床にも使うし、余ったのは保存しておいて10月の終わりころからとりかかるタクアン作りに利用します。

糠床(ぬかどこ)を毎日かき混ぜるのは配偶者の仕事ですが、たまに僕が担当することもあり、糠床は冷蔵庫に寝かせてあるので、真夏はいいとしてもそれ以外の季節では、手が凍えそうになる作業です。「糠味噌臭い(ぬかみそくさい)」という表現がありますが、そういう作業をすると、女性が所帯じみているという比喩的な意味でなく、実際に手が糠味噌臭くなるのは、経験者ならお分かりのことと思います。

糠漬けセットというのか糠床セットというのか、ともかくそういう商品が売られているのは知っていましたが、糠床が実際に使えるようになるには、つまり糠床がこなれてくるには、たいていは購入者の若干の準備作業と日数が必要だと思っていました。

先週末に2リットルくらいの大きさで使い勝手のよい「らっきょう漬け」のためのガラス容器をさがしに配偶者と近所の巨大スーパーに行ったときに見つけたのですが、野菜売り場の一角に、「すぐに使える糠漬けセット」というのが4個ほど並んでいました。準備作業や追加作業は不要。キュウリやニンジンやナスなどを切って放り込めばそれでOKだそうです。その場所は、漬物というくくりなのか、袋詰めされた「塩漬けらっきょう」売り場のとなり。

自分で糠漬けをつくりたいという意欲があって、同時に不精な人に向いています。しかし、そのまますぐに使える糠床が常温で販売されているということは、何か人工的な味付けがされていて、また、腐りにくく加工されているのだろうと思い、原材料欄を拝見すると、それらしいものが記載されていました。でも、スーパーの棚に並んでいる漬物を買うよりはいいかもしれません。

「らっきょう漬け」用に買ったのは、「果実酒」用のガラス容器(以下の写真)。家庭で梅酒などをつくるのに使うものです。容量は2リットル。上蓋に取っ手がついており、容器の形状からして冷蔵庫収納(2リットルのペットボトルサイズなので冷蔵庫のドアポケットに収まる)や持ち運びが楽そうです。中蓋もしっかりとしている様子で、らっきょうのニオイが漏れだすことはないと思う。今年もらっきょうの使用量は2㎏。それを「らっきょう漬け」にすると2リットル容器でちょうど2本分です。昨年は1リットルのいわゆるマヨネーズ瓶を4本使ったのですが、貯蔵場所の移動でいくぶん苦労したので今年は作戦を変更。

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2012年6月18日 (月)

「インターネットの時代では英語が世界標準言語というのは本当?」・補遺

敬語(謙譲語)に関して、僕にとっては「目からウロコ」の話です。

日本語は敬語や謙譲語が豊かな言葉です。謙譲語のわかりやすい例は、たとえば「拝」のついた「拝見する」「拝聴する」「拝受する」、あるいは「もらう」に対して「いただく」などです。「食べる」の謙譲語は、これも「いただく」。「行く」の謙譲語は「うかがう」。主体の位置が下がっています。国語文法の授業などで教えられた謙譲語の意味とは、主体がへり下り譲ることなので、ここまでは何の不思議もありません。

しかし、「もらう」や「食べる」の別の謙譲表現である「頂戴する」、それから「行く」「訪ねる」の謙譲語である「参上する」や「言う」の謙譲語の「申し上げる」となると、主体である自分の位置を下げることよりも、対象となる相手の位置を高くすることに主眼が置かれているようです。僕が記憶している謙譲語の説明はこのあたりがとても曖昧というか、このあたりの説明が欠如していました。結果として自分の相対位置が低くなるから、という以上の理由付けはなかったように思います。で、習うより慣れろ、でやってきました。

三上 章 著「象は鼻が長い」所収の「増補第二回 日英文法の比較」より目的語や対象と敬語の関係について記述された箇所を引用します。この一節を読み、敬語(とくに謙譲語の一部)に関して目からウロコが落ちる思いがしました。いちどじっくりと目を通さねばと気にかけてきたのが「象は鼻が長い」という、初版が1960年、改訂増補が1969年という今から40年ないし50年以上前に出版された本です。もっと前に読んでおくべき本でした。

<引用開始>

 世界の言語を二分して、目的語をデクノボウにする言語(あるいは主格と対格以下とをシュン別する言語)とそうでない言語とにすれば、英語はもちろん前者に属し、日本語は後者にはいる。
 日本語には「が」格と「を」格とが並行する現象がいくつもある。・・・中略・・・。
 動詞に反映する現象としては敬語法がある。動詞が尊敬の形を取るのは、「が」格が目上の人のときばかりではない。「を」格や「に」格(間接目的)に目上の人があらわれても、動詞に敬辞がつく。

  をお待ちする、 にお渡しする、 に御通知する、 に申し上げる、 を存じ上る、・・・・

 教科文法では、これらを謙譲(へり下り)の形としているが、「お」「御」「上げる」が下でなく上、謙辞でなく敬辞であることは、だれの目にも明らかであろう。
 という線に沿う改訂版は、教科書や副教科書のうちでは最も早い方だろう。(下線三上)

  『話題についての敬語の中で一つを尊敬語とすることはよいとしても、他の一つを謙譲語と呼ぶことは適切でない。ここでは、敬語の本質をより正確にとらえようとして、これを動作主尊敬語・対象尊敬語とした。これによって、従来の尊敬語・謙譲語で理解しおおせないところがより明らかになるであろう。(馬淵和夫『古文の文法』63)』

 つまり、敬語動詞にはsubjective(主格)とobjective(目的格)との二種があるというのである。・・・後略・・・。

<引用終了>

日本語では「を」格や「に」格への敬意が動詞に反映して、たとえば、『馬子がスシュン天皇を弑(しい)し奉った』(文例は「象は鼻が長い」より)という表現になります。これは古文の例(あるいは、それに類した文脈での使用例)だけれども、日本語では、現代でも、目的語を「デクノボウ」扱いにしない。目的語にいろいろと気遣いを見せて動詞表現が変化するのが日本語です。これは、前にも後ろにも気を遣いすぎて動けなくなる、その結果、意見や態度が曖昧になるという、欧米語を母国語とする人たちと較べた場合の日本人の特徴につながりますが、この「特徴」は必ずしも「欠点」というわけではない。インターネットが「測る知」とともに地球を覆ったらしい現在ではかえって「余人をもって替えがたい」長所かもしれません。

いずれにせよ、「動作主尊敬語・対象尊敬語」と「目的語をデクノボウにする言語・しない言語」という視点によって、敬語・謙譲語に関する「もやもや」のひとつが消えました。

〈【註】馬子:蘇我馬子。弑す(しいす):臣下が主君を、また子が親を殺すこと。奉る(たてまつる):その動作を行う主体が動作の及ぶ主体より下位であることを表す言葉。〉

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2012年6月15日 (金)

インターネットの時代では英語が世界標準言語というのは本当?

グローバル・スタンダードという言葉があります。その言葉の意味を素直に考えると世界標準ということです。情報技術などのハイテク分野では、市場シェアという点でデファクト・スタンダードになった技術や方式がグローバル・スタンダードとみなされるという現象はくりかえし観察されてきましたし、今後もそう推移するに違いない。そのような文脈でのこの言葉の使われ方には、さほどの違和感はありません。

一方、国や地域の政治や経済のやり方や方法についてこの言葉が利用される場合があります。そういう文脈におけるその言葉の意味を、世界の政治・軍事・経済に関する経験的な事実に照らし合わせて素直に考えると、グローバル・スタンダードというのは標準というわけではなくて、自国の都合と利益しか眼中にないらしい、ある大きくて乱暴な振る舞いを得意とする国が、他の国や地域に押し付けようとしてきた、そして現在も押し付けようとしている、その当該国に有利に働く政治経済のしくみや考え方やものごとのやり口のことだといえそうです。

インターネットやコミュニケーション関連技術の急速な拡大と浸透で、その領域ではどうも英語がグローバル・スタンダード「みたいな」言語になっている「ような」「気がしないでもありません」。わざとぼやけた言い方にしてみました。「インターネットの進展で、今や、英語が言語としてのグローバル・スタンダードである」という断定的な主張を聞くとどうも眉に唾をつけたくなるからです。

かりに、英語が、グローバル・スタンダードみたいな言語になりつつあるかもしれない雰囲気のある分野とは、「食と3種類の知とヘルシーエイジング」と題した記事で使った次の図をここでも利用すれば、左下側の「測る知」の領域だけだと思います。【註:3種類の知(智)については、区分の仕方とまとめ方が洗練されているケン・ウィルバーのモデルを参照】

「測る知」の領域では、「知」の主要な中身は計測された情報であり、情報伝達や情報共有には伝達速度も重要なので、世界標準言語としての英語の浸透といった事態も起こるかもしれません。しかし、文学や漫画や道徳や論理学にかかわる「思考し共感する知」の領域や、まして「黙想する智」の領域で、英語というけっこう偏った性格を持っている言語による言語独占状態が起こるとは考えられない。

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日本語のような、題目(主題)があれば事足りて、主語を必要としない言語があります(三上章 著「象は鼻が長い」)。日本語では、状況がお互いに了解されている場合には、主格や目的格が邪魔な存在となる場合もある。一方、主語がないと始まらない、主語に過大に依存する英語のような言語もあります。主語がないと始まらない言語である英語とは、つまり、基本の性格が「〈俺が俺が〉言語」、「〈私が私が〉言語」ということです。その「俺」や「私」は、目的とする対象に働きかけます。これは個人主義を基盤とした現在の経済や政治のしくみとよく合っています(とくに、経済)。そう考えると、インターネットの急速な拡大で英語が、左下の「測る知」の領域で「グローバル・スタンダードみたいなもの」(世界標準みたいなもの)になりつつあるというのはよくわかる。おそらく「俺が俺が」の度合いが一番進んだ言語、主語が目的語を支配するという関係がもっとも進んだ言語、主語がないと始まらない言語が、現在の「進歩した(屈折性が退化した)」英語なのでしょう。

かつて古典ギリシャ語の授業を聴講する機会がありました。だらしないことに1ヶ月で逃げ出したのですが、その時使った教科書にも主語(代名詞)のない例文が結構あり、その時まで外国語としては英語とごくわずかのドイツ語しか知らなかったので動詞の形などから主体を推し量る作業は慣れないと混乱の極みだけれども面白い経験でした。「ギリシャ語においては、人称や数が動詞の変化の中に示されているわけであるから、とくに強調せんとする時以外には、代名詞の主語を置くということはない。従って外見上主語のない文章はギリシャ語においては極めて普通のことである。」(田中美知太郎・松平千秋 著「ギリシャ語入門〈改訂版〉」)

これも途中で学習を放り出したというか、そもそも入門の入門の入門くらい以上には立ち入るつもりがなかったサンスクリット語にも同じ特徴があるようです。「主語が人称代名詞のときには、強調する場合のほかは省略する(サンスクリット語の高度の屈折性のためである。)」(二宮陸雄 著「サンスクリット語の構文と語法」)

言語の屈折性とは、動詞の活用(人称変化や時制)や名詞の曲用(格変化)などの文法的性質のことです。高度な屈折性をそなえた言語とは、それを母国語とする人には肌理(きめ)細かい配慮の可能な言語ですが、外国語や古典語としてそれを学ぶ人にとっては、自国語がそういう性質のものでない場合は、その屈折性が学びの高い参入障壁になります。ここで意気消沈してしまう場合も多い。しかし、そのややこしさが、文化や歴史の深さの反映ともいえます。日本語の「は」「が」「を」「に」「で」などの使い方も複雑なので、屈折語と膠着語という違いがありますが、日本語を学ぶ外国人にとっては、似たようなものかもしれません。

古典ギリシャ語やサンスクリット語(サンスクリット語は日常会話用の言語ではなかった)は、「思考し共感する知」や「黙想する智」に不可欠な言語だったのですが、現在の英語と比較すると、「我」の出方が控え目なタイプだったように思われます。(「我」の出方についての印象は僕の直感にすぎませんが。)

「俺が俺が」の度合いが強すぎる言語、主語が目的語を支配する度合いが強すぎる言語は、「測る知」を相手にしている時には大手を振って歩けても、「思考し共感する知」や「黙想する智」とは相性が良くない場合がある。その言語の「俺が俺が」指向が、逆に、知(智)の深化にとっては邪魔な存在になることも多い。

日本語のような、主語を必ずしも必要としない言語が、日本語を含めて何種類か、英語に替わって世界にひそかに蔓延すると、世界の状況はどう変化するか。そんなことをぼんやりと考えています。

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2012年6月14日 (木)

根気のいる初夏の作業: 実山椒と赤紫蘇

札幌の6月は天候によっては初夏だという気がまったくしない日もありますが、いちおう日本の標準に従って初夏だとすると、おいしいものを作るために相当に我慢してやる初夏の作業があります。作業対象は「実山椒(みざんしょう)」と「赤紫蘇(あかじそ)」。

「実山椒」の作業とは、山椒の実を枝から一粒ずつきれいに取り外すこと。そうすることでおいしい自家製「ちりめん山椒」(山椒味のちりめんジャコ)を楽しめます。山椒の実を糠床(ぬかどこ)に入れると糠漬けの風味が増し、床の持ちもいい。

「赤紫蘇」の作業は、茎から葉をはずして洗う作業のこと。少量なら疲れない単純作業ですが、これが大量だと苦行になります。しかし、おいしい自家製「梅干し」の重要な副原料なので、ともかく我慢。日の丸弁当をつくろうと思ったら、赤紫蘇の鮮やかな赤は不可欠です。

だから、こういう作業は、作業のリーダーは配偶者ですが、僕も共同作業者として加わり二人で事をすすめた方が作業の「うんざり」に耐性がでるので、たいていは二人で週末のおそい午後あたりに、実や葉っぱの取り外し作業をすすめます。作業が終了すれば、冷えたビールが待っています。

【註】 ひょっとして「日の丸弁当」をご存じない方のために、以下がその写真。米は三分搗き(つき)、梅干しは自家製、弁当の容器は秋田杉の曲げワッパ。

Photo

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2012年6月13日 (水)

続・花より野菜

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小松菜は成長が速かったので、数回に分けて食卓に登場してもらいました。小松菜の後には、少し土を入れ替えたあと、ビニールポットの中で待機させていた赤紫蘇を移植。間に合えば、梅干しに使う予定。

太陽がいっぱいでここちよく暑いという日は少ないので(ありていに言えば、寒い毎日なので)、キュウリやナスがなかなか成長しません。やっと花をつけはじめた状態。ミニトマトは、好きな気温や気候が違うので、こちらの方がやや順調に生育していますが、それでもぼんやりとしています。

Photo  ← キュウリの花

Photo_2 ← ミニトマトの花

Photo_3 ← ナスの花

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梅干しは香りも食べる

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どんな梅を使うかにもよりますが、完熟した梅をていねいに天日干しして作った自家製梅干しの醍醐味はその香りです。甕(かめ)から取り出し小皿に置くと、枝からぽたっと落ちた時のようないい匂いが漂います。梅干しを食べるとは、香りも食べることです。ちょうど、天婦羅(てんぷら)が、旬の食材だけでなく香りのいい油を食べる料理であるように。

今年も、梅干しの準備を気にする時期になりました。

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2012年6月12日 (火)

祈りのこもったお米、そうでないお米

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さる神社の話し上手な宮司(ぐうじ)からその神社の由来を拝聴しましたが、その中でお米に関する脱線気味のいい話がありました。以下(『・・』部分)がその要旨。

『天皇陛下は、お米、つまり食べるものがご担当。皇后さまは養蚕や機織り(はたおり)、つまり着るものがご担当。そういう役割分担です。日本のお米には天皇陛下の祈りがこめられている。だから、皆さん、天皇陛下の祈りがこめられていない外米(がいまい)は決して食べないように。』

天皇とは、現在まで連綿と続く新嘗祭(にいなめさい)という祭事の責任者であることからわかるように、言葉は悪いですが、稲作技術の統領、稲作の元締めのことです。新嘗祭とは天皇が新米を供えて神々を祭る稲作儀礼のことですが、天皇が即位後に行う最初の新嘗祭は大嘗祭(だいじょうさい)と呼ばれており、これが即位後の最も重要な祭祀です。つまり稲作技術責任者としての地位の相続が最も重要だということになっているようです。

そういうことを踏まえた「脱線気味のいい話」です。

関連記事は「東京の真ん中で稲の種籾(たねもみ)まき」。

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2012年6月11日 (月)

米と麦の二毛作の風景

久しぶりに米と麦の二毛作の風景に出合いました。湛水(たんすい)作物である夏作の稲と、畑作物である冬作の麦を組み合わせたのが、米麦二毛作。収穫直前の麦畑と田植え直前の水を張った水田が隣あって並んでいる。6月初めの、大分県・国東(くにさき)半島です。

最初の写真は、麦畑。「麦ごはん」に使う麦、「貧乏人は麦を食え」の「大麦」です。

2番目の写真は、左の黄金色が収穫前の麦畑。右隣が水を張った水田。池ではありません。まもなく田植えです。

Mini


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稲作休耕地は、蕎麦(そば)の栽培に利用されています。次の写真は、その蕎麦畑の光景。緑色が鮮やかです。

Mini_4

麦畑や水田の向こうには里山があり、お米を座標軸にした時の、日本の原風景のひとつです。

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2012年6月 4日 (月)

6月4日の週は、ブログをお休みします

6月4日の週は、都合でブログをお休みさせていただきます。

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2012年6月 1日 (金)

「米粒」パンは中止。「米粉」パンはおいしいので継続。

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いろいろと試したけれど、どうやっても「米粒」パンはおいしくない。おいしくないものを無理して食べることもないので、丁寧に使ってきた家庭用米粒パン製造器(米粒を使ってパンを作るホームベーカリー)を中古品市場で売却しました。これからは、米粒が食べたければ米粒パンではなく炊いたご飯を食べます。

しかし、「米粉」パンはおいしい。コシヒカリの米粉に驚きました。

コシヒカリは新潟に限らず各地で栽培されています。コメの名産地とは認識されていない地域で生産されたコシヒカリの米粉が手に入ったので、それを使ってさっそくパンを焼いてみたら、実においしいかった。味とは関係がないことですが、その米粉の値段はその時だけの特別価格だったのか、コシヒカリにもかかわらず、なぜか他の一般的な米粉よりも安い。環境上の理由がある地域で収穫されたコシヒカリではありません。こういう米粉も一部でひっそりと流通している。

我が家の米粉パンの材料は、「米粉、小麦グルテン、バター、塩」のみ。砂糖や牛乳は使わない。コシヒカリの米粉パンには、コシヒカリという米の甘さが静かに溶け出していました。パンは、これからは、米粉パンと小麦粉パンに絞ります。

ここまでは我が家の個別事情です。小麦アレルギーがあってパンの好きなお子さんのいらっしゃる家庭ではこのホームベーカリーは便利な道具ですが、他のご家庭は、米粒パンの香りや風味や食感に満足されているのかどうか、気になるところです。

米粒ホームベーカリーの最近の値動きを見ていると、どうも需要が一巡したように思われます。電気店は、需要がまだ強ければ店頭価格を高値域で移動させることができるのですが、今はそれなりに値を下げないと在庫を順調にさばけない様子です。家電量販店やそれに準ずる店舗でのこの半年の変化です。次の需要の波が来るのかどうかはわからない。

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