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2012年6月28日 (木)

神仏習合について雑感

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「習合」の辞書的な意味は「相異なる教理などを折衷・調和すること」(広辞苑)だそうですが、そういう解釈だと習合のダイナミズムや習合のねっとりとした感じが出てきません。習合の意味をとてもゆるやかに考えると以下の2つのタイプがありそうです。

ひとつは、「君、僕のチームに入らないか。ちょうどいいポジションが空いているだけれど。」「君、わが社にどうかね。外国人としての君の能力が思う存分発揮できる新規事業があるのだが。」というような発展する組織の運営戦略にもとづいた取り込みタイプの「習合」。これは、チベットや日本などの密教曼荼羅に見られます(オリジナルはインド)。

もうひとつのタイプは、そのお宅をおうかがいすると表札が二枚あって一枚は天竺風・唐風の名前でもう一枚は和風の名前が書かれています。本名とペンネームといった同じ人の別々の名前が掲げられているのではなく、雰囲気や匂いが似ているところはあるのだけれどもどうも育ちや氏素性が異なっているに違いない別人の表札。訪問客にわかりやすいように表門に並べて二枚という場合と、表門と裏門にそれぞれ一枚という場合があり、いずれにせよ二人が同居しているのは確かなようです。男性二人なのか、女性同士なのか、男性と女性なのかは状況によって違いますが、そういうのがもうひとつのタイプの「習合」で、日本人の我々には生まれた時からある程度はおなじみのもの。ただしここにも、押しかけ女房的な自然発生風のもの(ただし表札は別姓維持)と、おとなしく間借りしていたのがいつのまにか元の主人と立場が入れ替わったようなもの、それから自然発生的というよりは制度的に表札を二枚にするという対応まで、いくつかのバリエーションがあります。

日本の神様は八百万(やおよろず)なのでとても全部の神様に幣帛(へいはく)をささげる(平たく言えば、お賽銭をチャリン)わけにはいかないのだけれど、そういうことは別にして、山の神・海の神・水の神・田の神・川の神・火の神・風の神・樹の神・航海の神・旅の神など森羅万象をつかさどる日本のさまざまな神様は、神様同士のコラボレーションだけでなく、仏教の「仏」や「菩薩」や「明王」などとの緊密なコラボレーションやジャム・セッションも得意です。日本の神々の体系の中で、地位は高いがちょっとはみ出したような立場の神様、あるいは理由は明確ではないのだけれども地位の低そうな神様、あるいは途中でどこかに彷徨(さまよ)い出たのか系図に明確には現われてこないような神様は言うにおよばず、系図の主軸やその周辺にまします神々も、仏教とのコラボレーションを嫌ってはいないようです。このコラボレーションやジャム・セッションのことを神仏習合と呼んでいます。

仏教も日本の神々だけでなく、日本に渡ってくる以前から他の宗派の神々とのコラボレーションが好きだったようです。「神」なるものの細かい定義を気にしなければ、つまり仏教以外の宗教・宗派の崇拝対象・崇敬対象を総じて「神」ということにすれば、仏教はバラモン教(ヒンズー教)やそれ以外の神々との「神仏習合」も得意でした。東寺・講堂の羯磨曼荼羅(かつままんだら)、いわゆる立体曼荼羅の前に立てば、仏教の「如来」や「菩薩」が、「明王」(不動明王など)や「天」(広目天、多聞天など)と仏教風に名前を変えたヒンズー教などインドの伝統的な宗派の神々とコラボレーションしている様子が圧倒的な迫力で伝わってきます。日本の神々とのコラボレーションやジャム・セッションはひそやかで温和で中間色で湿っているところもあり、ヒンズー教の神々との交響曲的なコラボレーションとはその性格がずいぶんと違いますが、「習合」という大袋に一緒に詰め込むことはできそうです。

縄文時代を「狩猟と自然採取、山の神・海の神など八百万(やおよろず)の自然神崇拝、稲作(アジア的農耕)以前の日本の霊的(スピリチャルな)基底」、弥生時代とそれ以降を「稲作、大和朝廷による稲作を軸とした神の体系化、黙想・形而上学的思弁と現世利益の両面を持つ仏教の浸透」とすると、神仏習合とは「稲作以前の日本の霊的基底」と「黙想・形而上学的思弁と現世利益の両面を持つ仏教」のコラボレーション、ジャム・セッションということになります。

制度的な神の体系化となじまない八百万の神、つまり稲作以前からある日本の霊的基底の生命力は非常に強くて、それが日本の文化基盤を形づくってきましたが、「神仏習合」というプロセスを通過することでその粘着力が強化され、またその色彩に深みが出たようにも思います。

「お宮参りは神社、結婚式は神前で、初詣(はつもうで)は神社か寺院、葬式はお寺で」というのが私たちの標準的な行動パターンであり、それぞれにふさわしい場所が伝統的に(あるいは、無意識的に)選択されますが、「神仏習合」という千数百年のジャム・セッションを通して見れば、どちらの表札を選ぼうとも底の方では同じ場所の別の表札とつながっていることになります。両者の密かなつながりがよくわかるのが、私の考えでは、初詣です。神社にお参りしても初詣、お寺にお参りしても初詣。よく練られたコラボレーション・システムだと思います。

関連記事は「祈りのこもったお米、そうでないお米」、「磨崖仏(まがいぶつ)」。

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