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2012年6月15日 (金)

インターネットの時代では英語が世界標準言語というのは本当?

グローバル・スタンダードという言葉があります。その言葉の意味を素直に考えると世界標準ということです。情報技術などのハイテク分野では、市場シェアという点でデファクト・スタンダードになった技術や方式がグローバル・スタンダードとみなされるという現象はくりかえし観察されてきましたし、今後もそう推移するに違いない。そのような文脈でのこの言葉の使われ方には、さほどの違和感はありません。

一方、国や地域の政治や経済のやり方や方法についてこの言葉が利用される場合があります。そういう文脈におけるその言葉の意味を、世界の政治・軍事・経済に関する経験的な事実に照らし合わせて素直に考えると、グローバル・スタンダードというのは標準というわけではなくて、自国の都合と利益しか眼中にないらしい、ある大きくて乱暴な振る舞いを得意とする国が、他の国や地域に押し付けようとしてきた、そして現在も押し付けようとしている、その当該国に有利に働く政治経済のしくみや考え方やものごとのやり口のことだといえそうです。

インターネットやコミュニケーション関連技術の急速な拡大と浸透で、その領域ではどうも英語がグローバル・スタンダード「みたいな」言語になっている「ような」「気がしないでもありません」。わざとぼやけた言い方にしてみました。「インターネットの進展で、今や、英語が言語としてのグローバル・スタンダードである」という断定的な主張を聞くとどうも眉に唾をつけたくなるからです。

かりに、英語が、グローバル・スタンダードみたいな言語になりつつあるかもしれない雰囲気のある分野とは、「食と3種類の知とヘルシーエイジング」と題した記事で使った次の図をここでも利用すれば、左下側の「測る知」の領域だけだと思います。【註:3種類の知(智)については、区分の仕方とまとめ方が洗練されているケン・ウィルバーのモデルを参照】

「測る知」の領域では、「知」の主要な中身は計測された情報であり、情報伝達や情報共有には伝達速度も重要なので、世界標準言語としての英語の浸透といった事態も起こるかもしれません。しかし、文学や漫画や道徳や論理学にかかわる「思考し共感する知」の領域や、まして「黙想する智」の領域で、英語というけっこう偏った性格を持っている言語による言語独占状態が起こるとは考えられない。

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日本語のような、題目(主題)があれば事足りて、主語を必要としない言語があります(三上章 著「象は鼻が長い」)。日本語では、状況がお互いに了解されている場合には、主格や目的格が邪魔な存在となる場合もある。一方、主語がないと始まらない、主語に過大に依存する英語のような言語もあります。主語がないと始まらない言語である英語とは、つまり、基本の性格が「〈俺が俺が〉言語」、「〈私が私が〉言語」ということです。その「俺」や「私」は、目的とする対象に働きかけます。これは個人主義を基盤とした現在の経済や政治のしくみとよく合っています(とくに、経済)。そう考えると、インターネットの急速な拡大で英語が、左下の「測る知」の領域で「グローバル・スタンダードみたいなもの」(世界標準みたいなもの)になりつつあるというのはよくわかる。おそらく「俺が俺が」の度合いが一番進んだ言語、主語が目的語を支配するという関係がもっとも進んだ言語、主語がないと始まらない言語が、現在の「進歩した(屈折性が退化した)」英語なのでしょう。

かつて古典ギリシャ語の授業を聴講する機会がありました。だらしないことに1ヶ月で逃げ出したのですが、その時使った教科書にも主語(代名詞)のない例文が結構あり、その時まで外国語としては英語とごくわずかのドイツ語しか知らなかったので動詞の形などから主体を推し量る作業は慣れないと混乱の極みだけれども面白い経験でした。「ギリシャ語においては、人称や数が動詞の変化の中に示されているわけであるから、とくに強調せんとする時以外には、代名詞の主語を置くということはない。従って外見上主語のない文章はギリシャ語においては極めて普通のことである。」(田中美知太郎・松平千秋 著「ギリシャ語入門〈改訂版〉」)

これも途中で学習を放り出したというか、そもそも入門の入門の入門くらい以上には立ち入るつもりがなかったサンスクリット語にも同じ特徴があるようです。「主語が人称代名詞のときには、強調する場合のほかは省略する(サンスクリット語の高度の屈折性のためである。)」(二宮陸雄 著「サンスクリット語の構文と語法」)

言語の屈折性とは、動詞の活用(人称変化や時制)や名詞の曲用(格変化)などの文法的性質のことです。高度な屈折性をそなえた言語とは、それを母国語とする人には肌理(きめ)細かい配慮の可能な言語ですが、外国語や古典語としてそれを学ぶ人にとっては、自国語がそういう性質のものでない場合は、その屈折性が学びの高い参入障壁になります。ここで意気消沈してしまう場合も多い。しかし、そのややこしさが、文化や歴史の深さの反映ともいえます。日本語の「は」「が」「を」「に」「で」などの使い方も複雑なので、屈折語と膠着語という違いがありますが、日本語を学ぶ外国人にとっては、似たようなものかもしれません。

古典ギリシャ語やサンスクリット語(サンスクリット語は日常会話用の言語ではなかった)は、「思考し共感する知」や「黙想する智」に不可欠な言語だったのですが、現在の英語と比較すると、「我」の出方が控え目なタイプだったように思われます。(「我」の出方についての印象は僕の直感にすぎませんが。)

「俺が俺が」の度合いが強すぎる言語、主語が目的語を支配する度合いが強すぎる言語は、「測る知」を相手にしている時には大手を振って歩けても、「思考し共感する知」や「黙想する智」とは相性が良くない場合がある。その言語の「俺が俺が」指向が、逆に、知(智)の深化にとっては邪魔な存在になることも多い。

日本語のような、主語を必ずしも必要としない言語が、日本語を含めて何種類か、英語に替わって世界にひそかに蔓延すると、世界の状況はどう変化するか。そんなことをぼんやりと考えています。

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