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2012年7月30日 (月)

「神仏の習合」と「漢字の訓読みによる漢語と和語の習合」:日本文化の習合力についてのメモ(その2)

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◇漢字の訓読みによる漢語と和語の習合

漢字が中国から伝わってきて日本で本格的に使われるようになったのは、各種の参考書を参照すると、4世紀の末から5世紀の初め頃のようです(沖森卓也著「日本の漢字1600年の歴史」など)。その当時日本列島で使われていた(より正確には、ずっと以前からその当時まで使われ続けてきて、その当時も使われていた)言葉(ただし、文字はなかった)を、「大和言葉」や「日本語」と呼ぶのは、「大和」は売出し中・勢力拡大中の地方国家名ではあっても日本列島全体のことではないし、「日本」という表記が登場するのはもっと後のことなのでどうもしっくりときません。しかし、そういう厳密さはここでは不要なので、とりあえず日本でその当時の人々が話していた言葉を「大和言葉」や「和語」と呼ぶことにします。つまり、もっぱら「大和言葉」が話されていた日本列島でも、4世紀の末から5世紀初めにかけて、渡来人を中心とした文書・記録専門家集団だけでなく一部の日本人階層でも、中国(漢民族)の言語が漢語として本格的に使われるようになっていたということだと思います。

「憲法十七条」(官僚の倫理規範)が作られたのが604年、小野妹子が、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや」という結構飛んでいる書き出しで始まる国書を持って遣隋使として隋に派遣されたのが607年、聖徳太子の著作とされている「三経義疏」(さんぎょうぎしょ:勝鬘経・維摩経・法華経の注釈書。8世紀後半以降に誰かが書き加えたらしいが「序」の前に「この注釈書は大和国の上宮王聖徳太子がみずから撰述したもので、海のかなたの書物ではない。」とあるのが面白い。)が7世紀の初めに書かれたとすると、本格的に漢字が使われるようになってから200年ほど経過したその頃には、言語講座・教養講座担当の中国語ネイティブ・スピーカーによってもたらされた知識基盤の上に、帰国留学生や帰国留学僧の知識が加わり、漢文の素養だけでなく、漢字の訓読みや漢字文の日本語順配列(たとえば、「作薬師像」ではなく、「薬師像作」という具合に「作」という動詞を文の最後に持ってくる)といった漢字ローカリゼーションが知識階級やその周辺には相当に普及・浸透していたのでしょう。

【蛇足的な註】:「十七条憲法」は「一に曰く、和をもって貴(とうと)しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。」で始まりますが、第八条は「もろもろの官吏は、朝は早く役所に出勤し、夕は遅く退出せよ。公の仕事は、うっかりしていると暇がない。・・後略・・」つまり、当時から、官僚のありさまは「十七条憲法」に書かれている風でなかった、書かれていることから大きくずれていた、ということになります。

万葉仮名で書かれた万葉集が編まれたのは7世紀後半から8世紀後半。その成立を759年あたりとすると、その頃の「日本語」では、「漢語(漢字語彙)」と「大和言葉」が漢字の音読みと訓読みを媒介にして相当に深く「習合」していたと思われます。

二つのものが「習合」するということは、辞書的な意味は「相異なる教理などを折衷・調和すること」(広辞苑)ですが、「神仏習合」や「漢語と大和言葉の習合」という場合は、(その1)の冒頭にも書いたように、自然神信仰や大和言葉という日本にもともとあるものが、外来の思弁的な思考(仏教)や実務的な概念形成に向いた言語(漢語)を静かにしっとりと包み込んでいるように僕には感じられます。中国直輸入の漢字・漢語の意味するものに対応するする大和言葉を組み合わせたら、音読み・文字・訓読みのセットが出来上がります。そのセットは個々の要素がきれいに並んだ組み合わせではあるのですが、訓読みに潜む「大和言葉の基底のようなもの」が外来のものにしっかりと触手を伸ばしているらしいと言うこともできます。

「大和言葉の基底のようなもの」とは、岩や山や樹や海や川などに縄文時代やそれ以前から住んでいる古くからの神様、それからそうした神々と人間とのかかわりあいやかかわりあいの風景のことです。古事記・日本書紀のような大和朝廷の説明神話(つまり神様の正史)に、主人公としてではなく物語の展開に必要な周りの脇役として登場する数多くの神様の持つ霊的属性もその風景に含まれます。

古事記と日本書紀は、それぞれの編纂・撰修時期が、古事記は712年、日本書紀は720年。ともに8世紀になってからで、結構ゆっくりしています。古事記や日本書紀は大和朝廷の正史なのでその編纂動機は、たとえは悪いですが、会社が起業後30年で一部上場企業になったのでサクセスストーリー(成功物語)としての社史でも出版してみるか、といった感じに近い。社史は主要株主や主だった取引先に配りますが、支配体制が落ち着いてきたので、外交プロトコル上の必要から、あるいは国内政治の必要から大和朝廷も似たようなことをしたのでしょう。

古事記は、漢文で書かれていますが、訓読みが頻繁に顔をのぞかせています。これは編纂者である太安万侶(おおのやすまろ)自身が本文中に記した注釈を見るとわかるのですが、たとえば「大国主神」の項にある「われ共に追い下(おろ)しなば」(書下し文)というのは、原文では「和禮 此二字以ㇾ音 共追下者」(ただし、ㇾ は返り点のㇾ点)。下線部分「此二字以ㇾ音」は安万侶のつけた注釈で、つまり「和禮 此二字以ㇾ音」とは「和禮はわれと読む」の意です。(下線は「高いお米、安いご飯」)

また、その数行あとに「麗しき壯夫(おとこ)に成りて、出で遊行(あそ)びき。」(書下し文)とあるのは、原文では「成麗壯夫 壯夫 云袁等古 而出遊行。」(ただし① ②は返り点の一二点)。下線部分「壯夫 云袁等古」は安万侶の注釈で、その意味は「壯夫は訓読みだと、袁等古(おとこ)と云う」。(下線は「高いお米、安いご飯」)

こうして、中華文化圏、漢字文化圏の中ではとてもユニークな漢字の訓読みという文化習合が成立しました。そのあとには、万葉集の万葉仮名、平仮名、片仮名が続きます。

中国人は自由に漢字を創作しましたが、大和言葉の意味するものをうまく表現できない場合には、漢字制作に関して中国人がそうであったように、中国人の漢字制作方法(六書)を見本に日本人も適切な和風漢字(国字)を創りました。辻や峠や畑・畠などはその一例。「畑」は「火」と「田」なので、日本でも1970年くらいまでは一部の山間部で行われていた焼き畑農耕などにはぴったりの漢字(会意文字)だと思います。

関連記事は、「神仏習合について雑感」。それから、「インターネットの時代では英語が世界標準言語というのは本当?」と「『インターネットの時代では英語が世界標準言語というのは本当?』・補遺」。

<「神仏の習合」と「漢字の訓読みによる漢語と和語の習合」:日本文化の習合力についてのメモ>の終わり。

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