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2013年1月

2013年1月31日 (木)

味噌は2年ものか、それよりも長く寝かせたのにかぎる

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自家製味噌も途中から多めに仕込むようになったので、2年物を楽しめるようになってきました。仕込んでから1年後の1年物と、2年が経過した2年物とは同じような材料とやり方でも味の深みが違います。2年物の旨さを知ってしまうと、1年物はやはり若い。

だから、2年物、あるいは2年超ものを毎日の味噌汁や味噌味の料理に使えるよう、今年も多めに仕込みます。地元(北海道)の大豆や国産大豆、おいしい塩などの材料の準備は完了しました。追加の甕(かめ)の到着を待っているところです。

手前味噌の季節です。我が家のカレンダーでは「札幌雪祭り」の始まるあたりまでに仕込みを完了することになっています。まあ、予定が少々ずれても気にしないのですが・・・。

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2013年1月30日 (水)

2012年の域外移動

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北海道の人たちは北海道内を仕事を求めて移動する域内移動は好きなのだけれど、北海道の外に出て働くといった意味での域外移動は好きではないようです。

『北海道から出たがらない若者についての記事を地元の新聞(のインターネット版)で読んだことがあります。北海道の若者の外に出たがらない、北海道に残りたいという気質が、若い労働人口を蓄積し、それが結果として自動車部品メーカーやコールセンターの優秀な人材供給につながったという話です。僕は散髪は配偶者と同じお店(つまり、オヤジのやっている理容店ではなく、美容室)のお世話になっていて、お店の従業員である20歳台前半の男の子や女の子といろいろと雑談するのを楽しみにしています。彼らに聞いても、たとえば引っ越して原宿や青山の美容室に勤めるといった指向性はほとんど持っていない。東京は観光旅行や買い物の場所かもしれませんが、働く場所ではないとのことです。』と以前のブログ記事に書いたことがあります。

その美容室はずっと贔屓(ひいき)にしているので、ヘアスタイリストの卵である新しい若い男の子や女の子と話す機会も多いのですが、域外移動に対する姿勢に変化はみられません。

総務省の2012年の人口移動報告(ただし、住民基本台帳にもとづく)によると、ネットの域外移動(「転出者数 マイナス 転入者数」)が一番多かったのが福島県で転出超過数が1万3843人、次が千葉県で8188人、3番目が北海道で6745人。

しかし北海道では、札幌市への転入超過数が多く、2012年では9108人。これを先ほどの6745人と比べてみると、北海道では域内移動は好きだが域外移動には関心が薄いという傾向はとくには変わらないようです。しかし、転出超過者が多いというのは、北海道ではこれでもいいやというレベルの雇用機会すら減り続けているのでしょう。

北海道のおいしい有機栽培野菜や低農薬栽培野菜を売り物にしている若い人向きの野菜料理店が札幌にあります。札幌にも複数のお店がありますが、次の店舗展開は東京。さて、その場合に何人が積極的に「域外移動」を希望するのか興味があります。もっとも札幌のお店が東京に展開するので「拡大された域内移動」とも解釈できます。だからそこでの「域外移動希望者数」は変化の兆候の指標としてはあまり参考にならないかもしれません。

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2013年1月29日 (火)

続・気になる本を本棚から取り出して(「自由からの逃走」)

家庭を持った40歳台の会社勤めの中間管理職のビジネスマンを想定してみます。勤務する企業規模は気にしない。彼は、政治面・経済面・社会面の情報ソースが相当に限定されていると思われます。彼に限らず、普通に会社勤めをして仕事中心の暮らしをしているとそうなることが多い。

朝の電車や出勤前のコーヒーショップで読む新聞は、紙媒体か電子版かは別にしてデフォの経済新聞。夜は月曜から金曜は、顧客との食事や部下とのつきあいがある日は除いて、毎日午後9時半過ぎに帰宅。着替えた後、ちょうど時間帯が合うので10時頃からのテレビの報道番組でも見ながらひとりで遅めの晩ごはんを食べる。家族はすでに晩ごはんを済ましているので、奥さんが暖かいおかずをひとつはちゃっちゃっと用意してくれる、お味噌汁をよそおってくれる、食事中に、テレビの音と重なって子供の学校の相談などをもちかけてくるということがあるかもしれないが、ひとりで食べる晩ごはんではあります。夜9時半過ぎの帰宅なので、忙しいビジネスマンではあるが、毎日の帰宅が深夜というほどには忙しいわけではない。職位がもっと上になれば、あるいは同じ中間管理職でも、帰宅は毎日日付変更時刻あたりという方も少なくない。もっとも「9時半過ぎ」の彼も、寝る前に時間帯の違う地域からのメールに1時間ほど目を通すかもしれないので、その場合はけっこう忙しいともいえる。

経済関係・商業関係の情報は、日々の仕事を通してユニークな性格のものに接触する機会が多いとしても、それらは経済界や業界に関するものか、あるいは、特定の企業群についてのものがほとんどなので、その内容が経済新聞記事などの一般論をはるかに突き抜けた射程距離を持つにしても、それらはやはりミクロ情報です。情報の性格、情報が持つ視点や視野が制約されているという意味でミクロです。だから、政治・経済・社会にかかわるマクロ情報は、物理的な時間の制約という事情によって、信用できそうなマスメディアから発信されるコンテンツやメッセージに依存することになります。彼の地位がかりにトップマネジメント層にあっても、同じ情報から引き出すことのできる経営についての洞察の深さに差は出てくるものの、範囲の制約された情報ソース、ないしは、一度意識的にスクリーニングされた情報に依存しているので、そのことによって本質的な差は生じません。また、そのことによって、短期的に日常のビジネスに不都合が生じるわけでもない。

だから、マスメディアでは報道されない情報、マスメディアとは別の視座で捉えられた情報に意識的に接することによって、欠落している情報の穴埋めをするか、複数のソースの情報の持つ矛盾点の整理や再構成を自分の手で行わないと、結局は「世論調査の結果としての世論」や「グローバルスタンダード」なるものに上手に流されていくか、あるいは、時代のトレンドとしての「世論」や「グローバルスタンダード」を利用するためにそれに上手に乗っていくことになります。流されていること(あるいは、それに乗って移動していること)をつねに自覚できていればいいのですが、その事実を忘れてしまうことも多い。

「流されていること(あるいは、それに乗って移動していること)という事実を忘れてしまうことも多い」という状態とは、それをたとえば以下のような文脈にあてはめてみれば、それは無自覚や失念ではなくて、何かから無意識に(あるいは、無意識のふりをして)離れようとしていることかもしれません。

『自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。(・・中略・・)世論のような匿名の権威にたいする服従が存在するのだろうか。』『□□□□の成功の心理的基盤を考えるとき、まず最初につぎのことを区別しなければならない。すなわち、一部のひとびとはなんら強力な抵抗をなすこともなく、しかしまた、□□のイデオロギーや政治的実践の賛美者になることもなく、□□政権に従った。他の一部のひとびとは新しいイデオロギーに深く惹きつけられ、その主張者たちに熱狂的に結びついた。(・・中略・・)より大きな集団と合一していないという感情ほど、一般の人間にとって堪えがたいものはないであろう。』(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』<日高六郎・訳>より。)

該当する状況をいろいろにシミュレーションできるように、上記の引用は、もともとのカタカナ翻訳語を□□ないし□□□□で置きかえました。だからその複数の□に、たとえば、グローバルスタンダードという用語を挿入することも可能です。そして、これは翻訳者には失礼なのですが、訳語を二箇所だけ少し柔らかい表現に変更しました。「屈服した」を「従った」に、そして「狂信的」を「熱狂的」に。

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2013年1月28日 (月)

国産材の「やなぎ楊枝(ようじ)」

配偶者が国産材<北海道産白樺(しらかば)材>を使った楊枝を買ってきました。我が家では割り箸や楊枝は国産材を加工したものを使います。国産材を使った割り箸は簡単に手に入りますが、黒文字(くろもじ)などの高級楊枝を別にすれば、ごく普通のタイプの国産材の楊枝はけっこう手に入れるのが難しい。

そのごく普通のタイプの「やなぎ楊枝」は円柱形の「プラ容器」(ポリエチレン)に入っており、表を包んでいるフィルムに以下のように印刷されています。

『いま日本では、手入れが行き届かず荒廃する森が増えています。国産材の積極的な利用を通じて森のサイクルを促す「木づかい」運動で、温室効果ガスの二酸化炭素 (CO2) をたっぷり吸収する元気な森を甦らせましょう。』

この「やなぎ楊枝」の製造会社にとっては余計なお世話かもしれませんが、僕はこの一文から「温室効果ガスの二酸化炭素 (CO2) をたっぷり吸収する」という部分をすっぱりと削除したい。「温室効果ガス」の原因ということで悪者にされてしまったCO2を、微妙な言い回しで、さらに悪者扱いする必要はないと考えるからです。

さて、我が家で国産材の割り箸や楊枝をなぜ使うか、その理由に相当する箇所を、「間伐材の割り箸」および「割り箸の産地」という2010年5月のブログ記事から引用します。

◇『植物でも樹木でも、とくに人間の手が最初から入ったものは、間引きや間伐という作業をしてやらないと植物や樹木の集合体である山林は元気がなくなりそのうち荒廃してしまうので、どうしても間引きや間伐という作業が必要です。樹木の場合はその作業で出てくる副産物が間伐材で、それを利用して割り箸が作られます。間伐材の売上で得られた利益が間伐作業の費用に充当されます。だから、我が家では国内産間伐材を使った使い捨ての割り箸をお弁当などには好んで使っています。』

◇『かつて北海道は白樺やエゾ松を使った割り箸の一大産地でした。北海道の割り箸は中国物に押されてごく一部を除き壊滅状態で、残ったのは奈良吉野杉の高級品のみ』ということになりました。『もっと正確に』云うと『平成20年の日本での割り箸消費量は227億膳、・・・227億膳のうち輸入品が221億膳(97.4%)、日本製が6億膳 (2.6%)で、輸入品の99%が中国製』『国産品の都道府県割合は、奈良県が70%、石川県が15%、北海道が10%、その他5%という状況です(日本林業調査会、林野庁)。』『北海道のある割り箸製造会社では「白樺」や「しなの木」の間伐材を使って割り箸を製造しており、その年間製造膳数は、会社概要によれば、6900万膳。』

◇『国産の割り箸は、丸太から建築用材などを切り取ったときにできる端材や残材、間伐材を使ってつくられ、割り箸をつくる目的で伐採される木はありませんが、海外(ほとんど中国)では、木材価格が非常に安いため原木を伐採・加工して割り箸にします。』

黒文字は和菓子用ですが、やなぎ楊枝にしても最近の使い方はもっぱら食べものを相手に活躍してもらうか、あるいはToothpick以外の用途(たとえば、対象物に接着剤をわずかにつける)に利用しています。

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2013年1月25日 (金)

札幌中央卸売市場の市場カレンダーと魚

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刺身用の魚などを買おうと思ったら、卸売市場が休みの日に、配偶者のおともで魚屋へ買い出しにいくのは最悪なので、「札幌中央卸売市場の市場カレンダー」で取引のある日とない日を配偶者が確認することにしています。中央卸売市場には水産部と青果部があり、当月を含む3か月分がホームページの最初のページに大きく、年間スケジュールは別のページに一覧表でまとめられています。

濃いピンクがお休み、だいだい色は青果部のみがお休みの日。野菜などは小売店や小売りチェーンへの産地からの直送もあるのですが、こういうカレンダーを頭に入れておくと魚や野菜の買い物には便利です(下の図)。

魚は、季節に応じた新鮮なものをまとめて買い、そのまま刺身で食べるもの、鯛や平目(ヒラメ)といった白身魚で昆布締めや酢締めにするもの、マグロの赤身のような醤油ベースのズケが楽しめるもの(戸井や松前・福島など津軽海峡に面する北海道の漁港で獲れた本マグロが手ごろな値段で札幌の魚売り場に並ぶことも多い)、メヌキのような粕(かす)漬けに向いたもの、味噌漬け(西京味噌にはこだわらない)にするとしばらく保存できるサワラのようなもの、などをうまく取り合わせて処理しておくと、買い出し回数を週に一度か二度にできます。アジなどもタタキだけではつまらないので、酢でしめると少しは長持ちするしタタキとは別種の味の世界とつきあえます。

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「札幌中央卸売市場」のホームページからお借りした市場カレンダー(1月分と2月分)

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2013年1月24日 (木)

大きな声のお客はお断り

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僕は、コンビニはもっぱら食品棚に並べてある食べ物の変化の様子とお客の年齢層の遷り変りを観察するためにいくことが多く、しかしそれでは申し訳ないので、そういう場合はたいていは札幌市指定の有料ゴミ袋を買うことにしています。あとは、急に冷えたビールが必要になった場合や宅配便の持ち込みなどにも利用しますが、回数は非常に少ない。急ぎのA4サイズの書類などは、宅配便でもいいのですが、ある程度の厚さまでなら大型郵便ポストに速達扱いで放り込めるタイプの郵便サービスがあるので、そちらを使います。

あるナショナルブランドのコンビニチェーンでの話です。缶コーヒーでは客を呼べないので、レジカウンターに設置した専用マシンで入れ立てのコーヒーを販売するそうです。寒い時期はどこのコンビニも「おでん」が販売されています。そうすると「おでん」の匂いとコーヒーの香りが入り混じって、その空気の状況を想像すると、僕などはますますそこに近づくのが難しい。

入れ立てコーヒーの連想で思い出したのですが、札幌ではないある大きな都市に、以前よく利用した個人経営のおいしいコーヒー専門店があります。最近は喫茶店という普通名詞は死語に近い感じで、もっぱらカフェという呼び方が好まれているようですが、コーヒー専門の喫茶店という形容のしかたがふさわしいお店です。そのおいしいコーヒー専門店で僕が気に入っているのは、コーヒーの味以外では、入り口に貼ってある以下の文面。

『当店ではお客様に大人のゆっくりとした時間を過ごしていただきたく、次の方のご来店をお断わりしております。

・ 大きな声で会話をする方
・ 携帯電話を使う方(マナーモードでお使いの場合も店外または指定場所でお願いします)
・ 12歳未満のお子さん
・ 泥酔の方

店主』

意訳すれば、話し声がうるさい中年のおばさん連れと、酔っぱらい、ケータイやスマホの電話中毒と、ガキは入るなということになります。知り合いにここからすぐにつまみ出されるに違いない中年・熟年女性がいますが、今度こういうお店があるということを教えてあげよう。

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2013年1月23日 (水)

こういう機会に、基準放射線量を再確認

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『500マイクロシーベルトで避難決定』『原子力規制委員会の有識者検討チームは21日、原発事故時に住民を避難させる放射線量を毎時500マイクロシーベルトとする基準を決めた。』(日本経済新聞 2013年1月22日)そうです。

「毎時500マイクロシーベルト」というのはものすごい放射線量なので、さすがにすぐに非難しないとヤバいと思いますが、では400マイクロシーベルトではどうするのかというのは今回の新聞記事にはありません。おそらく、500未満の高い線量域に対しては、別途、避難勧告とか非難警告とかといった種類の推奨案でも決まるのでしょう。

こういう新聞記事を目にした時というのは、僕たちの日常生活にかかわる基準放射線量を再確認するのにいい機会です。よく知られた基準放射線量は、以下の通りです。家族と再確認します。

・一般人は、「毎時0.1マイクロシーベルト」。これは「年間に1ミリシーベルト」が一般人の被曝量(外部被曝量+内部被曝量)の上限で、それを1時間あたりに直すと「毎時0.1マイクロシーベルト」。(【註】ヒトが地球上で自然に浴びたり吸収したりしている自然放射線から受ける線量の世界平均値が「年間 2.4ミリシーベルト」、日本における平均値は「年間 1.5ミリシーベルト」ですが、それ以外に「年間 1ミリシーベルト」)

・放射線管理区域が、同様に、「毎時0.6マイクロシーベルト」(実効線量が3か月あたり1.3ミリシーベルトを超えないこと)。放射線管理区域とは、我々におなじみの場所では、健康診断などでお世話になる病院のレントゲン室。レントゲン室の入口には『放射線 管理区域 ▼』(▼は外枠が黒くて中が黄色、逆三角形の中には<注意>という文字)と表示されています。

Photo

・健康診断などで我々をレントゲン撮影してくれる放射線技師が、男性の場合は、「毎時5.7マイクロシーベルト」(5年間につき100ミリシーベルトを超えず、かつ、1年間につき50ミリシーベルトを超えないこと)、女性技師の場合は「毎時1.4マイクロシーベルト」(3月間につき5ミリシーベルトを超えないこと)

こういう数字が頭に入っていると、「毎時500マイクロシーベルト」の大きさが一応実感できます。0.1の5000倍、0.6の833倍、1.4の357倍、5.7の88倍。

上記の記事のすぐ下に各地の放射線量一覧があり、20日午前9時から10時の地上1メートルでの放射線量推計値(地上1.8メートル34メートルにあるモニタリングポスト実測値から推計)は、札幌市が「毎時0.030マイクロシーベルト」、福島市が「毎時0.62マイクロシーベルト」。

なお、電気事業連合会が発行している「『原子力・エネルギー』図面集2012」に以下のような実績グラフがあります。対象期間は1980年度から2009年度までですが、放射線業務従事者(原子力発電所で働く人たち、先ほどの男性の放射線技師と同じ基準が適用されている)が受けている平均放射線量が「年間1ミリシーベルト程度」で安定的に推移している(していた)と記載されています。ここでの「年間1ミリシーベルト」は外部被曝量だけだと思いますが、この数値は先ほど見たように、1時間あたりでは「毎時0.1マイクロシーベルト」ということです。

「毎時0.1マイクロシーベルト」という数値の持つ意味を、より深く、あるいはより実際的に理解できます。

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2013年1月22日 (火)

野生種の黒米

奈良時代から1300年にわたってほそぼそと栽培され続けてきた野生種の黒米の玄米です。名前は弥生紫。種類はもち米。産地は四国の徳島。野生種なので籾(もみ)が風で落ちやすく、栽培が難しい。姿は黒くて細長く、アメリカなどでよく見かけるワイルドライスに似た雰囲気があります。

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穀物(稲や小麦など)や野菜(トマトなど)のような農産物も、野生の状態から人に手なずけられた栽培対象(つまり、栽培植物)になった段階で、野生の本性(たとえば、虫や細菌などの外敵からの高度な防御機能)を徐々に減らしていきます。野生の植物が栽培植物になるとは、たとえば、次のようなプロセスをさします。

野生の穀類の特徴のひとつは、種がはじけて地面にバラバラと落下することです(「穀粒の脱落性」)。バラバラとはじけ飛んだその種をエサとしてついばんだ鳥がそれを体内に入れて遠くに運んでいけば、その植物は別の場所で生育できるかもしれない。綿毛のついたタンポポの種は風に吹かれて遠くに飛んでいきそこで発芽します。

しかし、野生種のコメを人が収穫しようとすると、籾(もみ)はバラバラとはじけて落下するので、収穫作業としては、落穂ひろいになってしまい、非常に効率が悪い。だから、人はバラバラとはじける度合いの少ない突然変異種をさがしてきて近場に植え付ける。それを改良する。その結果、多くの稲穂を「一網打尽」にできるような収穫のしやすい稲を作り上げました。その一網打尽が可能な稲穂のイメージは「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」によく出ています。小麦も同じことです。人間に頼っていれば高い確率で将来の種の保存が保証されるという平安と、人間に依存することによって野生の強さを喪失してしまうという、穀類にとってのトレードオフ関係がここで成立します。

21世紀の今でも籾(もみ)が風で落ちやすいというこの黒米(弥生紫)には、したがって、野生の気性がまだ強く残っていることになります。

三分搗きのコシヒカリ一合にたいして、大さじ半分くらいの弥生紫の野生を混ぜて炊いてみました。炊きあがりは、淡いピンクに染まった「うるち米」の地に「もち米」の紫が浮かび、遠目にはほとんど「赤飯」です。

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2013年1月21日 (月)

北海道産「ゆめぴりか」を福島県のお米通販店から買った方のコメント

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「ゆめぴりか 感想」というキーワード検索で、僕のブログ記事のひとつ(「新潟の人に『ゆめぴりか』」)を訪問される方が多いので、「ゆめぴりか 感想」で他にどんなさまざまな情報が出てくるのかを、好奇心から検索ツールでさがしてみました。そうすると最初のページの8番目のトピック(「北海道産 ゆめぴりか 白米10㎏ 24年産新米」の通販)の中に以下のようなコメントが登場し、ため息をつくことになりました。

以下はそのコメントの引用(『・・・』が引用部分)です。(なお、下線太字は引用者)

『精米、福島県だからでしょうか?
2013年1月9日 16:13
先ず!精米所が福島県であることの記載が小さすぎます。家族の希望で北海道米にしていてたまたまお安いのでこちらで注文させて頂きましたが、味が全く違うので驚いています。米屋のご主人のお話し。「ブレンドしちゃえば、こーなる」と言っておられました。でも、『ゆめぴりか』としての商品にはなりますのでね。とも補足していましたが…。複雑です。福島県ですからしょうがないのでしょうか?しかし、残念です。東京人は、米の味が判らないとでも思ったのでしょうかね…。艶も無ければ粘りも無し。正直お返ししたいくらいです!説明が欲しいです。』

下線太字の部分は、この消費者が実際に本物の「ゆめぴりか」を食べたことがあることを物語っています。僕には、そう思える。白米の「ゆめぴりか」は輝くような真っ白な艶と強い粘りが特徴のお米なので、「艶も無ければ粘りも無し」という「ゆめぴりか」は、もはや「ゆめぴりか」ではありません。食べたことのない方からはこういう種類の感想は出ない。だから「味が全く違うので驚いています」ということになるのでしょう。

このお店の自店案内には『お米通販 玄米・分搗き・白米・無洗米 送料/精米無料 発送前日又は当日自社精米の新鮮米直送』とあるので、精米機能を持ったお店であることは確かなようです。そして、商品広告は『平成24年産 北海道産 ゆめぴりか 白米10kg 送料無料』となっています。

精米機能を持ったお米通販店で平成24年産米をお買い求めということは、通常は平成24年産の玄米を精米したばかりのものが送られてくるはずなので、お米の経年劣化などはまったく考えられない。

おそらく、このご家庭の奥様か家族の食生活の安全のために、最近人気の高まっている北海道米の「ゆめぴりか」を希望されたのだと思います。まずどこかのお店から購入して食べた。納得のいく味と色つやだった。しかし、ご主人としては2回目以降は少しでも安く「ゆめぴりか」を手に入れたいので、この精米機能をそなえた通販チャネルを選択された。その結果、どういうわけか、「艶も無ければ粘りも無」い「ゆめぴりか」が送られてきた。

この手の「ブレンド」の話は耳にしていましたが、実際に目にするとあまりいい気分のものではありません。

僕自身が「このお店の現物」を口にしたあとで感想を述べるのが、こうした感想を述べる態度としてはフェアなのですが、コメント投稿者は近所の「米屋のご主人」にも相談されているし、本物の「ゆめぴりか」の味をご存知の方なので(と僕は判断している)、このままにしておきます。このコメント投稿者の方には、少し高いかもしれませんが、最初のお店から、また、「ゆめぴりか」を買っていただきたいと思います。産地直送や(宣伝するつもりはないのですが)「ホクレン」ブランドのパッケージなら「白さと艶と粘り」が楽しめます。精米店から届いた精米したてのお米の風味には抗しがたいものがありますが、それはさておき。

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2013年1月18日 (金)

米粉消費と米粉生産に翳り?

とくに生産統計などを参考にしなくても、女性客で混みあっているパン屋を2~3軒ほど定期的にのぞいていたら状況はだいたいわかります。そういうパン屋では、しばらく前から、米粉を使ったパンをまったく見かけなくなりました。上新粉(じょうしんこ)や白玉粉(しらたまこ)などの伝統的な米粉を利用した煎餅(せんべい)や団子(だんご)はまだ比較的に安定した人気があるのでしょうが、米粉パンでわかるように、新しいタイプの米粉はなかなか消費者に浸透していかない。3~4年前からコメ需要拡大の一環として展開された米粉プロモーション活動も功を奏していないようです。

消費者にとってはどうでもいいことですが、お役所と生産者側の都合で、せんべいやだんご用のコメは「加工用米」、米粉パンなどの新しい用途(新しいタイプの食品)に使われるコメは「米粉用米」と区分されています。

伝統的なタイプの米粉と新しいタイプの米粉の違いは、以前のブログ記事からその説明を引用すると、『うるち米の粉を上新粉(じょうしんこ)といいます。上新粉は柏餅や草餅やだんごなどに使われますが、パン用の米粉とは違って粒が大きいので、指でさわるとキュッキュッといった感じの反応が返ってきます。パン用の米粉は、さらに細かく砕いてあるので、小麦粉と同じでふわふわと柔らかい。』(「ためしに米粉パン」)ということです。

さて、2012年の米粉用米の生産が減少したそうです。生産量が前年よりも14%減り3万4521トンへ、作付面積も6437ヘクタールへと12%減少しました(農林水産省)。米粉を使った新しいタイプの食品の消費が伸びないので米粉が売れない、米粉が売れないので農家への米粉米の注文は減る、したがって生産量と作付面積が減った、ということのようです。ご飯用のお米の生産量は年間に800万トンくらいなので、3万4521トンはその0.43%にすぎません。農水省の目標は2020年に50万トンなので、先は長い。

芥川龍之介に「藪の中」という妖気を放つ短編があります(ご参考までに青空文庫の「藪の中」はこちら )。現在の米粉の消費や生産の状況を、立場の異なる複数の関係者にそれぞれ要約してもらうと、「藪の中」のような様相を呈してきます。小説と違い妖気は漂ってはいませんが、小説と同じなのは、関係者の言い分が食い違っていて真相がよくわからないということ。

関係者の発言を、日本農業新聞(2013年1月14日)から引用します。(『・・・』が引用部分。ただし下線は「高いお米、安いご飯」)

◇「農林水産省」

『(米粉米の)業者はこれまで先読みして、より多くの在庫を持っていたが、ここにきて消費の伸びが鈍化した。しかし用途は増え、需要はむしろ底堅くなっている

◇「新潟県の大手製粉業者」 (【註】米粉製造業者の数は限られており本格的な米粉製粉装置は高価なので、北海道で北海道産米をパン用に製粉しようとしたら地元では加工ができなくて、たとえば新潟の専門業者に製粉を委託している。)。

『もちもち感など、米粉の良さが消費者に伝わっていない。製粉コストは小麦粉より高く、小麦の代替との位置付けでは需要を増やすのは厳しい

◇「フードアクションニッポン推進本部」 (【註】農水省の委託を受けて、米粉を利用した商品をメーカーや小売業者に提案するのがフードアクションニッポン推進本部の役割)

米粉は<どう生き残るか>という段階。用途をどこまで増やせるかが鍵になる』

農林水産省が音頭を取ったマーケティング活動は、農林水産省がとくにそうだというわけではないのですが、どうもあまりいい結果が出ないようです。以前、「朝ごはんと、ディ・マーケティング」という記事を書きましたが、『朝ごはんを食べよう、そして、朝ごはんにはお米を食べよう』という農水省キャンペーンは、朝食欠食率という結果だけから判断すると、プラス効果(マーケティング効果)でなく逆にマイナス効果(ディ・マーケティング効果)につながりました。

我が家のようなお米のご飯を常に食べている家庭で、米粉によってコメの消費量が増加するかと云えば、それは難しい。米粉スナックなどにまったく興味はないし、パンに関してもホームベーカリーで焼く小麦パンをもちもち感が楽しい米粉パンに置き換えるくらいなので、そもそものパンの消費量の相対的な少なさを考えたら、効果は限定的です。

「高いお米、安いご飯」(というブログ)の目的のひとつは、日本のお米の消費量の増加や食料自給率・穀物自給率の上昇を応援することなので、米粉に関するブログ記事もそれなりに多い(読み返してみると、自分の記憶以上に多かった)。この記事の最後に3年分を並べてみます。

ついでに云えば、このブログのなかでは農産物にたいする主たる関心は、基礎農産物、つまり米や麦のような穀物、大豆や小豆といった豆類、それから、タマネギやニンジンやダイコン、ゴボウ、小松菜やホウレンソウ、キャベツや白菜や水菜、ピーマンやブロッコリー、サトイモやジャガイモ、トマトやミニトマトといった健康に生きていくための必需品としての基礎野菜にあります。しかし、農業の高付加価値産業化や農業経営のプロフェッショナル化を主張することが大好きな人たちがおそらく好きであろうと想像されるイチゴやメロンやマンゴーのような高級農産物、あるいは植物工場で効率的に栽培された葉物野菜、つまり効率的農業の事例発表向きの農産物には興味はありません。

以下は、米粉に関する過去3年間のブログ記事一覧(上が古く、下ほど最近のもの)。

そんなに遠慮しなくても・・

日本風味のパン

米粉アプリケーション

草もち

ちまきと柏餅(かしわもち)

お米(米粒)からパンができる

米パンに向いている米粉やお米

ためしに米粉パン

続・ためしに米粉パン

米粉おそるべし

それなりにあとを引く米粉パン

米粉用の小型製粉機

米粉100%のパンと、パン用のブランド米

お米(コメ)のフランスパン

米粉(こめこ)パンと米粒(こめつぶ)パン

米粉用のお米は安く、パン用の米粉は高いという不思議

3分搗き(つき)のパン、あるいはミクロな米パン需要

別の風味をもった米粉パン

「米粒」パンは中止。「米粉」パンはおいしいので継続。

余った米粉と薄力粉で、意外においいパンができた

以上

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2013年1月17日 (木)

冬の緑

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冬の札幌からは寒さと雪で、緑が消えてしまいます。

朝早く起きて、2重窓の内側の方を開けるとすぐに見えるようにおいてある戸外の寒暖計で念のために外気温を確かめてみると、マイナス2桁に近い値を表示する日も続いています。この寒さと雪だと、冬の札幌から緑が消滅するのは、まあ、当たり前です。

真冬でもそばに緑がほしいと思い、ベランダには現在ラベンダーを5鉢置いています。札幌の大通り公園で毎年6月に開かれるフラワーフェスティバル(植物や苗木の展示即売会)で3年前の夏に買い求めた富良野生まれのラベンダーです。富良野は冬の気温が氷点下10度から20度の場所なので、その地のラベンダーは雪に埋もれて冬をすごします。そういうラベンダーなら札幌では真冬でも緑色だろうという期待を込めて買ったものです。

ラベンダーは大き目の素焼きの鉢に植えて外に出してありますが、札幌のマイナス7度やマイナス8度の最低気温はものともせず、淡い緑の葉が、冬には縮こまっている気配もありますが、元気そうです。雪のたびにその白いふわふわが葉や土に降り積もって毛布の役割を果たし、少し暖かいに午後にはわずかに融けて液体になるので、冬の水遣りはそれで十分です。現在の写真と、それからちょっと懐かしいので昨年の夏のラベンダーの写真(花の拡大図)を以下に添付します。

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しかし、それだけでは「冬の緑」にならないので、室内には大事に育ててきた観音竹を置いてあります。鉢は2つあり、白い鉢の大きい方は背の高さが140センチメートルで押し出しもいい。1年半ほど前の夏に株分けした青い鉢の小さい方はまだ50~60センチくらいでとてもゆっくりと育っています。

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2013年1月16日 (水)

お餅は伝統的なファストフード

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先日の新聞記事によれば、お餅(もち)の消費量がこの20年で相当に減少したそうです。その記事が参照している総務省家計調査データだと、1991年の1世帯当たりのお餅の年間購入量は3421グラム、そして2011年は2463グラム、つまり20年間で購入量が28%減少しました。

お餅はもち米で作りますが、ご飯のお米はうるち米。米の種類が違います。お餅の消費量だけが減ったのか、それともお米の消費量が減ったのでお餅の消費量もそれに応じて少なくなったのか。農林水産省が発行している「食料需給表」でお米の全体を調べてみると、1人当たりのお米の年間供給量は、1990年度が70.0㎏、そして2010年度は59.5㎏。つまり20年間で15%の減少です(ここでは購入量 = 供給量とします。ここでの目的に関しては両者の違いは気にしなくていいので)。つまり、最近の日本人は、主食のうるち米を食べなくなった以上にもち米で作られたお餅を食べなくなったようです。

我が家はお餅が好きで、といっても毎日食べるわけではありません。正月の必須品目であるところのお雑煮では1日に2回はお餅(我が家の場合は小ぶりな丸餅が好み)と付き合いますが、何かをちょっとお腹に入れておきたいときのファストフードとしても利用しています。

お餅はその調理の簡単さを考えると、伝統的なインスタント食品や伝統的なファストフードと呼んでもいいと思います。おせち料理は、料理を作るという点では、せめて正月の間は主婦にゆっくりと休んでいただきましょうという意味合いの料理なので、3日間は準備に火を使わない。例外はお雑煮ですが、お餅の手間は焼くだけ。年末に搗(つ)きたてでまだ柔らかいならなら焼く必要はない。出汁も年末に準備しておけば、インスタントラーメンのような感覚で作れるのがお雑煮です。

最近の、店頭価格が4000円から5000円くらいのオーブントースターは、製造会社によって違いはあるのでしょうが調べてみると、チルドピザでもお餅でも非常に上手に焼くらしい。お餅にはほどよい焦げ目がつき中はふっくら、網にもくっつかないらしい。四角い切り餅や小さめの丸餅ならオーブンレンジで5~6分で焼けるので、オーブントースターでも似たようなものでしょう。

忙しい独身男性や独身女性は、ちょっと小腹がすいたときや休日の朝ごはん、あるいは、残業で夜遅くに帰り着いたときにおかずは何とか頑張ってちゃっちゃっと作るとして、切り餅パックや丸餅パックが在庫してあれば、お餅を焼いてご飯代わりに食べられます。マツタケお吸い物パックや味噌汁パック・トン汁パックが手元にあるなら、そこに焼いたお餅をドボンすれば、吸い物仕立て・味噌仕立ての簡易版お雑煮になりそうです。こうなれば、お雑煮というよりも、日常食としての餅入り味噌汁や餅入りスープです。

関連記事は「自炊女子と料理男子」。

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2013年1月15日 (火)

『聡明な女は料理がうまい』

手元の『聡明な女は料理がうまい』という本は2012年9月の発行で、先週、書店の通路を歩いているときに、いい匂いでも漂いだしていたのかその本の前にふわふわと引き寄せられました。この本の成り立ちを読むと、最初は1976年に出版され、その後1990年に文庫本となり、今回その文庫本をもとに一般サイズの本として復刊されたそうなので35年間のロングセラーということになります。

「私は料理をしたことがないけれども、あるいは、私は料理がへただけれども、実は聡明なので、だから料理がうまくなるように運命づけられている」とでも考えた多くの女性が買い続けたのかもしれません。料理を上手になりたいという女性の年齢層は幅広いし、料理のやり方を知らない高学歴の若い世代も次々に登場してくるので、潜在的購買層にはこと欠かない。

この本(最初の「聡明な女は料理がうまい」)を出版した時の著者は40歳のわずかに手前だったので、そういうことも影響しているのか、この本が一番役に立つのは、30歳から40歳くらいの料理にほとんど自信のないワーキングウーマンか同じ年代の料理が得意でない家庭の主婦という気がします。彼女らがたどりついた避難先がこの書物だったのかもしれません。でも、この避難先はさほど甘くない。

Kit Oisix

料理レシピ・料理方法や調理道具、各国の食文化に関する記述は現場仕込みでじつに興味深いのだけれど、僕にとってそれ以上に面白いのが、学校や家庭では教えられないキョウヨウ講座的な部分。僕の云うキョウヨウ講座的な部分とは、たとえば以下のようなものです。

(外でバリバリ働く有能さと台所仕事とは)『時間や何かの問題で、物理的にはしばしば矛盾するけれど、能力としては全く矛盾しないわ。私はね、すぐれた女は必ずすぐれた料理人であるという断固たる偏見の持ち主なの。それはすなわち、料理のへたな女はダメな女でもあるということ。』

『ふだんは仕事が忙しくてきわめて手短な料理しかしない人が「きょうだけは徹底的に料理人だゾ」と思い決し、朝早くからソワソワワクワクと仕込みにかかり、心おきなく時間をかけて凝りに凝った本格的な料理で友だちを感嘆させるのだ。これほどぜいたくな休日の利用法がほかにあるだろうか。』

『それになるべくなら、作りざましを暖めるより、そのとき新しく焼いたり煮たりしたいものである。とくに焼きざましなんて絶対許しがたい。夜まで一生懸命働いて帰ってきた亭主が、蠅帳【引用者註:読みは、はいちょう、ないし、はえちょう。ハエ防止に引き戸に網を張った家具形式のものと、折り畳み式の網の食卓覆いがあるが、ここでは文脈から後者】かぶせた冷たい焼き魚に迎えられたりしたら、茶ぶ台足蹴(あしげ)にしてひっくり返してやりたくなる。(・・略・・)食事のしたくはいっぺんですまそうなどという貧乏ったらしい根性を助長するような“電子温め直し器”【引用者註:電子レンジのこと】には、どうも好意を持てないのである。』

そして極めつけは、食事も『ほんとうにひとりでは張り合いがないし、1人分なら作るより外から買ってくるほうが安上がりなことから、私もしばしばでき合いですませるが、いつもいつもこれをやっていたらたちまち堕落するゾとみずからを戒める。いなりずしやのり巻きや握り飯が毒々しい紅しょうがとプラスチックの笹の葉で飾られた“お弁当”を買ってきて、テレビの昼メロの前にどっかりすわり込むことに恥を覚えなくなったとき、その人は確実に堕落の道を歩み始めているのだ。』

聡明で料理のうまい女性が、そうでない女性(聡明度は別にして少なくとも料理のへたな女性)に対して書いているので内容がきつめのトーンになっているところがあるかもしれませんが、僕の経験に照らし合わせても、料理のへたな女性、あるいは料理が下手なんだけれどもその自覚がない女性、あるいは料理が下手であるにもかかわらず自分ではうまいと思い込んでいる女性は、独身であるか結婚しているかにかかわりなく会話も退屈なことが多い。そういう女性の作った料理を、その女性をまじえ何人かで食べるような羽目に陥ると、まずい食事とつまらない会話(自分の仕事や自分の身の回りの話題ばかりで意味がよく分からないし、会話が動きのある流れにならない)の音の外れた二重奏で、食事の最中のイライラを抑えるのにとても苦労します。

料理のへたには二種類あって、見かけも味つけもへたなのと、それから、見かけだけは格好をつけようとして頑張っているのだけれど味がその頑張りを台無しにしてしまいけっこう悲惨な状態になっているタイプのへたに分かれます。後者のタイプの方が、主婦であったのが別居などして独り暮らしを始めて生活から緊張感がなくなると、それまで頑張っていた料理の見かけの方も崩れてくるようです。

そういう方向にすでに走り始めている方、あるいはその予備軍かもしれないという自覚のある方には、この本が役に立つかもしれません。

関連記事は『カット野菜と「姥(うば)捨て山年齢・症候群」』。

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2013年1月11日 (金)

買ったばかりの古本を本棚から取り出して(「『反核』異論」)

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今回、本棚から取り出した1冊は『気になる本を本棚から取り出して(「自由からの逃走」)』の2冊とは関連がありません。先日買ったばかりの古本です。

買ったばかりというのは、先月の「自動車と原子力発電所」という記事で、その本の内容の一部に触れた新聞記事を参照してはみたものの、その参照のしかたが孫引きだったのでどうも落ち着かない、で、原著にあたってみようと思い中古本を購入したものです。本は吉本隆明氏の「『反核』異論」、中古本しか手に入りません(初版は1982年、手元の物は1983年発行の第四刷)。

ここでは、その「『反核』異論」と「自動車と原子力発電所」でも参照した「日本経済新聞」(2011年8月上旬)と「毎日新聞」(2011年5月下旬)の同氏のインタビュー記事が対象です。

著者の「核」(自然科学および政治経済から見た、核エネルギーと核兵器と原子力発電など)についての考えをできるだけ客観的に集約する気持ちで関連個所を引用すると、以下のようになります。

・『核エネルギイの解放もまったくおなじことだ。その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。』(「『反核』異論」)

・『自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また、物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。』(「『反核』異論」)

・『原子力は核分裂の時、莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。原理は実に簡単で、問題点はいかに放射性物質を遮断するかに尽きる。ただ今回(【引用者註】福島原発爆発事故)は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。原子炉が緻密で高度になれば、同じレベルの防御装置が必要で、防御装置を発達させないといけない』(「毎日新聞」)

・『原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。』(「日本経済新聞」)

・『「核」兵器や「核」戦争の問題は、どんな巨大な破壊力と放射能汚染をともなおうと<政治の延長あるいはヴァリエーションとして>の「戦争」の問題であり、その巨大な生産費と生産量の問題は、<経済社会>の生産機構の問題である。これにたいして<恐怖>の心情や<宗教>的な終末観をじかに対置させることも、<地球>の<破滅>という、神経症的な予測やイメージを対置させることもまったく見当はずれなのだ。』(「『反核』異論」)

・『だから・・・はっきりしているわけじゃないですか。つまり、現在、アメリカとソ連の両方で、核爆弾の生産をはじめとする軍需産業をやめちゃったら、いずれも国家として崩壊しますよ。経済・社会的に崩壊します。つまり、違う国家になります。そんなことはわかりきっていることではないですか。』(「『反核』異論」)

・『知識や科学技術っていうものは元に戻すってことはできませんからね。どんなに退廃的であろうが否定はできないんですよ。だから、それ以上の物を作るとか、考え出すことしか超える道はないはずです。』(「『反核』異論」)

僕が著者の云う「本質」の意味を正しく(正しくとはここでは、著者の意図する通りに、という意味)理解しているとすれば、自然科学という文脈における『核エネルギイの「本質」』については著者の主張通りだと思います。しかし、核エネルギーを利用するための生産物・製造物については、生産物・製造物というものの本質からして、そうではありえない。『自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である』にもかかわらず、製造物になった段階ではその同義性は保証されないので、だから『今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。』という(「本質」と同義性を失ってしまった)事態への反省の弁になります。

つまり、『科学が「核」エネルギイを解放したということは』『物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。』については同意しますが、それが『即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。』かどうかについては、繰り返しになりますが、断言できません。

著者は資本主義経済についても造詣が深いと思われます。だから、日本経済新聞のインタビューにおける『(原子力発電は)燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。』という発言には違和感があります。なぜなら、その部分をもう少し経済学的な表現をまじえて言い換えると次のようになるからです。

<電力会社や電力業界が負担する原子力燃料のコスト、つまり民間コストは桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えたときに発生する社会的コストは桁違いに高い。しかし、そういう場合の社会的コストが桁違いに高いからといって原子力発電という科学の成果を後戻りさせるという選択はあり得ない。> 

このインタビューは、原子力発電の発電コストが部外者には全く分からなかった1982年ではなく、2011年の8月なので、その頃には社会的コスト(ただし、「原発事故に伴う被害と被害補償費用」は含まない)を勘案した電源別の発電コスト情報(原子力発電の発電コストが実際は一番高い)がその気になれば入手できました。そういう時間がなかったのでしょうが、粘り強く強靭な思索力が特徴の著者らしくないところです。(関連記事は「原子力発電のコストは安い?(その1)」と「原子力発電のコストは安い?(その2)」。)

石油や石炭と同じく、ウランも埋蔵量があと100年くらいの有限資源なので(関連記事は『続・ 「石炭・石油・天然ガスの可採年数がこの10年でどう変わったか」』、核開発や核利用を進めていくと、核燃料を再生産するための「安全な」高速増殖炉の開発・運用が必要ということになります。しかし、どうも無謀な試みなので各国ともこの技術からは遠ざかりました。その結果、日本でだけ「もんじゅ」が生き残ったようです。著者の考えを敷衍すれば、2~3度失敗して従業員やまわりの住民や自然環境に犠牲が出ても、何しろ知識や科学技術は後戻りできないのだから、うまくいくまでお金をかけて安全な防御装置とシステムを開発・発達させないといけないということになります。

『「核」兵器や「核」戦争の問題は、どんな巨大な破壊力と放射能汚染をともなおうと<政治の延長あるいはヴァリエーションとして>の「戦争」の問題』であるということも、全くその通りだと思います。1961年のアイゼンハウアー大統領退任演説における「軍産複合体(Military-industrial Complex)」から、2007年のナオミ・クラインの著書「ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine)における「惨事便乗型資本主義(Disaster Capitalism)」にいたるまで、戦争(戦略兵器・戦術武器と戦争遂行のためのロジスティクス)は軍需産業やその周辺産業にとっては売上と収益の源泉でした。たとえは悪いですが、ちょうど、補正予算による毎年の公共工事が建設事業や土木工事をなりわいとする企業にとって追加的なビジネスの源泉であるように。

しかし、『だから・・・はっきりしているわけじゃないですか。つまり、現在、アメリカとソ連の両方で、核爆弾の生産をはじめとする軍需産業をやめちゃったら、いずれも国家として崩壊しますよ。経済・社会的に崩壊します。』といったあたりはちょっと発言内容が乗りすぎのように聞こえます。

核関連の軍需産業が大幅に縮小されその影響がおよぶ範囲で当該国の経済と社会が打撃を受けても、当事者企業やその従業員、あるいは政府の利害関係者にはじつに困った事態だけれども、全体としてみれば大騒ぎするほどのことではありません。その二つの国家の傲岸ぶりに影が差し、政治力も核兵器の減少分だけ衰えるかもしれませんが、『いずれも国家として崩壊しますよ。経済・社会的に崩壊します。』というわけではない。ソ連がロシアに名前を変えるくらいの変化は生じるかもしれません。別の理由で実際にそうなりましたが、その程度のことです。

戦争はハイテク戦争でもローテク戦争でも兵器や武器や弾薬を一方的に消耗するばかりなので、いわば乗数効果の存在しない消費活動のようなものなので、経済への悪影響は限定的です。だから、軍需産業を組みこまれた経済をそれなりに活性化し続けるためには、戦争を世界の各地で定期的に繰り返さないといけない。イラクやアフガニスタンなど、実際に、その通りになっています。

おそらく、著者と僕とでは自然科学というもの対する思いの強さが違うのでしょう。僕にとって自然科学とは人の持つ知(智)の様式のひとつで、その得意業(わざ)は人の五感(および五感の延長物)を使ってものごとを測定することです。この知は強力で『核エネルギイを解放』したり、車や新幹線を走らせたり、遺伝子を発見してその組み換え技術を作りだしたりします。しかし、その知の性格は、世界を単純な位置をもつものの集合体として捉えその捉え方に応じた成果物を産出するだけで、それを超える射程距離を持ってはいません。だから、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(芭蕉)や「六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり」(空海)、また「道(みち)の道(い)う可(べ)きは、常の道に非(あら)ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。」(老子)などは、この知にとっては、袖を振り合うことのない世界の光景です。

著者はこの三つの知(智)が一体になったものを、どのような形でなのかはわかりませんが、自然科学のなかに見ようとしているように思われます。僕にとっては自然科学や科学技術の知とはもっぱら「測る知」であり「他と共感する知」や「黙想する智」を含むものではありません。

著者は、人間が引き起こしたこと・引き起こしてしまったことはそれがどんなものであれ人間の知の活動の結果なので、つまり太平洋戦争から福島原発事故まで、あるいは、古事記から遠野物語までの総体は人間の知の活動結果なので、それらのすべてを引き受けてそれらを乗り超えるのが現在の知の責任と考えていたのかもしれません。重くて刺激的な考え方です。しかし仮にそうだとすると、どのような知であれ知と名づけられたものは何でも包み込むことができるという性格を持つことになるので、換言すれば、何でも包み込むことのできるモワモワと広がったものをとりあえず知と呼ぶということになるので、結局、『自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。』という主張が別の衣装をまとっただけのようにも映ります。この主張は、自然科学に代表される知はあらゆる場面でほとんど万能であると云っているのと同義です。

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【註】人の知(智)の様式については、何人もの思索し観想する人が似たような形のまとめ方をしていますが、コンパイル(編集)の仕方が一番うまい(と僕に思える)のがケン・ウィルバーなので、上の絵は、彼の著書 <“Eye to Eye”(邦訳:「眼には眼を」)や “The Eye of Spirit”(邦訳:「統合心理学への道」)>を参考にして作成したものです。

この3つの知(智)を、それぞれが別々の世界に応対するものとして納得しながら、しかしそれらを透視図的に一挙につかんだ禅僧の言葉があり、それは次のようなものです。『老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見(まみ)えて箇の入処有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇(きゅうかつ)の処を得て、依然、山を見るに祗だ是れ山、水を見るに祗だ是れ水なり。』(青原惟信〈せいげんいしん〉)

彼が三十年前に接した「山と水」がそのまま独立して勝手に走りはじめると、それはたとえば、自然科学(と科学技術)の進展に応じてその存在感と機能性と利便性を膨らませてきた「山と水」ということになります。

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2013年1月10日 (木)

気になる本を本棚から取り出して(「自由からの逃走」)

日本における現在という時間の流れが、すっきりとしない方向に向かう速さを増しつつあるようです。そういう政治的・経済的・社会的な流れ(流れの中には、国家、国民と呼ばれる人々、そそして、国の境を気にしないというか国の境を飛び超えたタイプの経済活動を営む企業などがふくまれている)を形づくっているものの内実や構造や為政者と被為政者の心性(マインドセット)を自分なりに整理しておきたいと思い、本棚の奥の方から古い翻訳本を2冊引っ張り出してきました。古い本を引っ張り出してきたのは、しばらく前から気になりはじめていた箇所を確認するためです。 

1冊目は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」(【註】原著の出版は1941年、時代背景はドイツのナチズム)、それからもう1冊は、同じ著者の「正気の社会」(【註】原著の出版は1955年。「自由からの逃走」のテーマが全体主義・ファシズムにおける自由からの逃走であったのに対し、「正気の社会」のそれは20世紀の民主主義国家・資本主義社会における「自由からの逃走」)です。

「自由からの逃走」と「正気の社会」から、気になっていた箇所を以下に引用します。(引用部分は『・・・』。)

◇「自由からの逃走」(日高六郎訳)より

・『自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。もしそういうものがないとしたら、指導者への服従がこんにちあれほどまで多くのひとびとを引き付けていることを、どのように説明したらよいのであろうか。服従というのは、常に目にみえる権威への服従であろうか。あるいは義務や良心というような内面化された権威とか、人間の内側にひそむ強制力とか、また世論のような匿名の権威にたいする服従が存在するのだろうか。服従することのうちに、一つのかくされた満足があるのだろうか。その本質はなんであろうか。』

・『他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由になればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。』

『ナチズムの成功の心理的基盤を考えるとき、まず最初につぎのことを区別しなければならない。すなわち、一部のひとびとはなんら強力な抵抗をなすこともなく、しかしまたナチのイデオロギーや政治的実践の賛美者になることもなく、ナチ政権に屈服した。他の一部のひとびとは新しいイデオロギーに深く惹きつけられ、その主張者たちに狂信的に結びついた。(・・中略・・)ナチ政権にたいするこのような簡単な服従は、心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる。そしてこの状態は、・・・、現代における個人の特徴であり、それは民主的な国々においてさえも例外ではない。(・・中略・・)より大きな集団と合一していないという感情ほど、一般の人間にとって堪えがたいものはないであろう。』

◇「正気の社会」(加藤正明・佐瀬隆夫訳)より

・『ある社会の成員の精神状態をみるときに、非常にまどわされやすいことは、かれらの考え方にたいし「合意による確認」をしてしまうことだ。つまり大多数のひとびとが、同じ考えや感情をもっているから、この考えや感情は妥当だと、単純にきめてしまう。これほど真理から遠いものはない。だがこういう合意による確認は、理性や精神の健康とはまったく無関係である。ふたりの人間が互いに「感応性精神病」をおこすのと同じように、何百万人のあいだに「感応性精神病」がおこる。何百万という人間がみな悪いことをしたからといって、この悪事が美徳になるわけではなく、全員が同じ多くの誤りをおかしたからといって、この誤りが真理になるわけでもない。さらにまた、何百万の人間が同じような精神異常を示しているからといって、これらのひとびとが正気だとはいえない。』

さて、以上の引用部分は、表現や用語を現在の日本の状況に合うようにわずかに変えたただけで、たとえば、2012年12月なかばの我が国の第46回衆議院議員選挙結果の背景にあるものの、みごとな社会心理学的な要約として通用するかもしれません。

「正気の社会」から引用した一節は、その部分だけを切り出せば、それを使う人の好みの文脈で利用できるという柔軟さ(ないし、恐ろしさ)を持っています。だから、たとえばこの一節は、民主政治とは衆愚政治の謂(いい)だと考えている政治家やそれに類する人たちを元気づけることもできる。

国民とは権威主義的なガイドラインなしではものごとを冷静に分析・判断する能力のない愚かな連中の集まりだとしか考えていないような政治家が、この一節を読めば、「フロム君、君は民衆というものの本質がじつによくわかっているじゃないか」と云うに違いありません。「国民の間に感応性精神病による合意をなんとか作り出してしまえば、あとは簡単だよ。」そして、そういう政治家は往々にして自国の利益や自国民以外の方向を向いて仕事をしていることが多い。「社会の木鐸」ということの意味をどうも(実際には意図的に)勘違いしているらしい大規模新聞の牽強付会な論調をもった社説の執筆者なども、そういう政治家と似たようなマインドセットの持ち主なのだろうと推察します。

「自由からの逃走」からさらに別の一節を引用してみます。

『ヒットラーは通例、かれの権力欲を合理化し正当化しようとつとめる。主な正当化は次のようなものである。すなわち、かれの他国民支配は他国民自身の福祉のためであり、世界の文化の繁栄のためであるとか、また権力欲は永遠の自然法に根ざしており、彼はこの方法を認識し、ただそれにしたがっているだけであるとか、また彼自身はより高い力 ― 神、運命、歴史、自然 ― の命令のもとに行動しているとか、またかれの支配計画は多民族が彼やドイツ国民を支配しようとする企図に対するたんなる防衛であるとかいうのである。かれはただ平和と自由のみをのぞんでいるという。』

「かれ」「かれ自身」や「ドイツ国民」をどこかの適当な国の名前に置き換えたら(単一の国家名でも、複数の国の名前でも)、この文章は手直しなしに現在でもそのまま使えそうです。

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2013年1月 9日 (水)

慈姑(くわい)を焼いて食べる

「土を喰う日々」という精進料理についての文庫本が本棚にあります。著者は作家の「水上勉」で、副題は「―わが精進十二か月―」。配偶者が以前に買ったもので、発行は平成五年の第八刷。最初の章である「一月の章」に、「くわい」を焼いて食べる話が出てくるので、その一部を引用します(引用部分は『・・・』)。

『くわいを焼くのは、この頃(引用者註:禅宗寺院の小僧さんの頃)からのぼくのレパートリーだった。(・・略・・)一般には煮ころがしか、あるいは炊き合わせにしかされないこれを、ぼくは、よく洗って、七輪にもち焼き網をおいて焼いたのだった。まるごと焼くのだ。・・・ぷーんとくわい独特のにがみのある匂いが、ぷしゅっと筋が入った亀裂から、湯気とともにただようまで、気ながに焼くのだ。(・・後略・・)』

全部の「くわい」をおせち料理の煮物にするだけではつまらない。で、2年前の正月にこの本のマネをして「焼きくわい」を試してみました。1年前はうっかりとこの楽しみを実行するのを忘れてしまい悔しい思いをしたので、今年の正月はそういうことのないように用心していました。

さすがに「七輪」と「もち焼き網」というわけにはいかないので、サツマイモやパイを焼くのと同じような要領で、つまりクッキングシートに「くわい」をのせてオーブンで丸ごとゆっくりと焼き上げ、焼き上がったらあつあつを縦に半分に切ります。あつあつのお尻の部分だけわずかに皮を剥き(焼けた皮も芽もおいしいのでそのまま残す)、中の淡い黄色になったほかほかの実に塩をつけてかじると、実のほのかな苦みと甘さと、そして焼けた皮の香ばしい渋さが口中に広がります。塩味の効いた焼き栗(くり)に近い風味と風情です。「くわい」はこの時期以外は手に入らないので、年に一度のちょっと贅沢な食の遊び。

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                    <焼く前の「くわい」(慈姑)4個>

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2013年1月 8日 (火)

2013年の春の七草粥(かゆ)

昨日(7日)の朝ごはんは七草粥(ななくさがゆ)、自家製の梅干しとタクアンが隣りに並びます。七草の産地は愛媛県西条市(愛媛県東部の瀬戸内海沿岸)。配偶者と一緒に出かけた近所のお店で6日に買ったものですが、1パックが398円でした。

3年前の記事に「七草粥(かゆ)」というのがあり、そこで『「春の七草パック」の出荷数は、四国で120万パック、岐阜と愛知で25万パック、九州は宮崎と熊本で10万パック、これらがおもに京阪神市場をカバーし、神奈川(三浦半島)からの110万パックが関東から北海道までをカバーしているようです。だから全部で265万パックとなります。』『廃棄がないとすると、265万家庭で七草粥が食卓に並んだことになります。』『2人以上の世帯数に限ると3461万世帯なので、そうすると、七草粥をつくる手間と時間を惜しまないほどにお米の好きな家庭の比率が7.7%』と書きました。

七草パックの出荷数や2人以上の世帯数に特別な変動はないと思うので、七草粥などを楽しんでいるのは、13軒に1軒です。ご近所野菜や有機野菜の品ぞろえがよくなり1年半ほど前から配偶者がひいきにし始めた近所の小売店(札幌)には、春の七草は神奈川や愛知ではなく四国からやってくるようです。

西条市の七草生産者の紹介記事(「えひめの食」)の一部を勝手に引用させていただくと『七草のパック詰めは1月1日から1月4日にかけて一斉に行います。』『新鮮さを保つため決して早取しないのがこだわり。』『8月末から栽培が始まりますが・・・栽培期間、七草の生産者は気を抜くことができません。』ということなので、七草の生産者にお正月休みはなさそうです。もっとも4日間の出荷で1年分を売り上げると考えたら、三箇日の忙しさも気にならない。

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2013年1月 7日 (月)

九つ仕切りの小分け皿

このお皿を最初に見かけたのは、所用で出かけたホテルのレストラン。そこで、昼食時に「カレー&パスタのランチバイキング」をやっており、カレーは日替わりで3種類、パスタも日替わりで3種類。その他の肉や魚の料理やサラダも当然食べられるので、このお皿とこれとタイプの違う仕切り皿をトレーに乗せた20代と30代の働いている女性連れや、40代と50代の働いていない女性のグループで混雑しておりました。

今年は、おせち料理の盛り付けにこのお皿も使ってみました。煮物類(くわい、里芋、蓮根、さやえんどう)はお重に、祝い肴(黒豆・数の子・田作り)や酢の物(紅白なます、など)、口取り(かまぼこ、など)はこの九つ仕切りの小分け皿に。

遅めの午後の陽の光も差し込んできて、お節料理を食べ終わった後のお皿の景色が水彩絵の具のパレットみたいでよかったので、写真に撮ってみました。配偶者は食べる前の盛り付けたばかりの華やかな状態を撮ってほしかったようですが、そのリクエストには別途応じることにして、ここでは「宴のあと」。

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何が盛り付けられていたか、あるいは、並べられていたか。左上から右下にかけて、

□黒豆         □たたきゴボウ    □田作り
□白かぶ千枚漬け □数の子       □赤かぶ千枚漬け
□紅白なます      □かまぼこ      □酢れんこん

という順番で、かまぼこ以外は、全部配偶者の手作りです。かまぼこの小分け部分の底が茶色いのは、二切れはそのままの微妙を味わい、残りの二切れには醤油を一滴だけ垂らすつもりが、お酒ですでに相当にいい気分だったので、一滴のはずがポタポタポタとなった次第です。しかし、結果としては、いいアクセントになりました。

この九つの小分け皿は普段でも使えそうです。ただしその場合は、九つの全部を使うのでなく、空きスペースを含んだ全体がきれいに配置されたような盛り付け方をするか、あるいは一皿を二人でケンカしないように共用するか。

配偶者のリクエストに別途応じたのが下。最初の写真は正月二日目のお昼。二番目のは同じ日の晩ごはん。昼と夜の違いは「□かまぼこ」が「■ブリの粕(かす)漬け焼き」に入れ替わっただけ。

□黒豆           □たたきゴボウ       □田作り
□白かぶ千枚漬け □数の子          □赤かぶ千枚漬け
□紅白なます      ■ブリの粕漬け焼き   □酢れんこん

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