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2013年1月10日 (木)

気になる本を本棚から取り出して(「自由からの逃走」)

日本における現在という時間の流れが、すっきりとしない方向に向かう速さを増しつつあるようです。そういう政治的・経済的・社会的な流れ(流れの中には、国家、国民と呼ばれる人々、そそして、国の境を気にしないというか国の境を飛び超えたタイプの経済活動を営む企業などがふくまれている)を形づくっているものの内実や構造や為政者と被為政者の心性(マインドセット)を自分なりに整理しておきたいと思い、本棚の奥の方から古い翻訳本を2冊引っ張り出してきました。古い本を引っ張り出してきたのは、しばらく前から気になりはじめていた箇所を確認するためです。 

1冊目は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」(【註】原著の出版は1941年、時代背景はドイツのナチズム)、それからもう1冊は、同じ著者の「正気の社会」(【註】原著の出版は1955年。「自由からの逃走」のテーマが全体主義・ファシズムにおける自由からの逃走であったのに対し、「正気の社会」のそれは20世紀の民主主義国家・資本主義社会における「自由からの逃走」)です。

「自由からの逃走」と「正気の社会」から、気になっていた箇所を以下に引用します。(引用部分は『・・・』。)

◇「自由からの逃走」(日高六郎訳)より

・『自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。もしそういうものがないとしたら、指導者への服従がこんにちあれほどまで多くのひとびとを引き付けていることを、どのように説明したらよいのであろうか。服従というのは、常に目にみえる権威への服従であろうか。あるいは義務や良心というような内面化された権威とか、人間の内側にひそむ強制力とか、また世論のような匿名の権威にたいする服従が存在するのだろうか。服従することのうちに、一つのかくされた満足があるのだろうか。その本質はなんであろうか。』

・『他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由になればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。』

『ナチズムの成功の心理的基盤を考えるとき、まず最初につぎのことを区別しなければならない。すなわち、一部のひとびとはなんら強力な抵抗をなすこともなく、しかしまたナチのイデオロギーや政治的実践の賛美者になることもなく、ナチ政権に屈服した。他の一部のひとびとは新しいイデオロギーに深く惹きつけられ、その主張者たちに狂信的に結びついた。(・・中略・・)ナチ政権にたいするこのような簡単な服従は、心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる。そしてこの状態は、・・・、現代における個人の特徴であり、それは民主的な国々においてさえも例外ではない。(・・中略・・)より大きな集団と合一していないという感情ほど、一般の人間にとって堪えがたいものはないであろう。』

◇「正気の社会」(加藤正明・佐瀬隆夫訳)より

・『ある社会の成員の精神状態をみるときに、非常にまどわされやすいことは、かれらの考え方にたいし「合意による確認」をしてしまうことだ。つまり大多数のひとびとが、同じ考えや感情をもっているから、この考えや感情は妥当だと、単純にきめてしまう。これほど真理から遠いものはない。だがこういう合意による確認は、理性や精神の健康とはまったく無関係である。ふたりの人間が互いに「感応性精神病」をおこすのと同じように、何百万人のあいだに「感応性精神病」がおこる。何百万という人間がみな悪いことをしたからといって、この悪事が美徳になるわけではなく、全員が同じ多くの誤りをおかしたからといって、この誤りが真理になるわけでもない。さらにまた、何百万の人間が同じような精神異常を示しているからといって、これらのひとびとが正気だとはいえない。』

さて、以上の引用部分は、表現や用語を現在の日本の状況に合うようにわずかに変えたただけで、たとえば、2012年12月なかばの我が国の第46回衆議院議員選挙結果の背景にあるものの、みごとな社会心理学的な要約として通用するかもしれません。

「正気の社会」から引用した一節は、その部分だけを切り出せば、それを使う人の好みの文脈で利用できるという柔軟さ(ないし、恐ろしさ)を持っています。だから、たとえばこの一節は、民主政治とは衆愚政治の謂(いい)だと考えている政治家やそれに類する人たちを元気づけることもできる。

国民とは権威主義的なガイドラインなしではものごとを冷静に分析・判断する能力のない愚かな連中の集まりだとしか考えていないような政治家が、この一節を読めば、「フロム君、君は民衆というものの本質がじつによくわかっているじゃないか」と云うに違いありません。「国民の間に感応性精神病による合意をなんとか作り出してしまえば、あとは簡単だよ。」そして、そういう政治家は往々にして自国の利益や自国民以外の方向を向いて仕事をしていることが多い。「社会の木鐸」ということの意味をどうも(実際には意図的に)勘違いしているらしい大規模新聞の牽強付会な論調をもった社説の執筆者なども、そういう政治家と似たようなマインドセットの持ち主なのだろうと推察します。

「自由からの逃走」からさらに別の一節を引用してみます。

『ヒットラーは通例、かれの権力欲を合理化し正当化しようとつとめる。主な正当化は次のようなものである。すなわち、かれの他国民支配は他国民自身の福祉のためであり、世界の文化の繁栄のためであるとか、また権力欲は永遠の自然法に根ざしており、彼はこの方法を認識し、ただそれにしたがっているだけであるとか、また彼自身はより高い力 ― 神、運命、歴史、自然 ― の命令のもとに行動しているとか、またかれの支配計画は多民族が彼やドイツ国民を支配しようとする企図に対するたんなる防衛であるとかいうのである。かれはただ平和と自由のみをのぞんでいるという。』

「かれ」「かれ自身」や「ドイツ国民」をどこかの適当な国の名前に置き換えたら(単一の国家名でも、複数の国の名前でも)、この文章は手直しなしに現在でもそのまま使えそうです。

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