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2013年1月11日 (金)

買ったばかりの古本を本棚から取り出して(「『反核』異論」)

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今回、本棚から取り出した1冊は『気になる本を本棚から取り出して(「自由からの逃走」)』の2冊とは関連がありません。先日買ったばかりの古本です。

買ったばかりというのは、先月の「自動車と原子力発電所」という記事で、その本の内容の一部に触れた新聞記事を参照してはみたものの、その参照のしかたが孫引きだったのでどうも落ち着かない、で、原著にあたってみようと思い中古本を購入したものです。本は吉本隆明氏の「『反核』異論」、中古本しか手に入りません(初版は1982年、手元の物は1983年発行の第四刷)。

ここでは、その「『反核』異論」と「自動車と原子力発電所」でも参照した「日本経済新聞」(2011年8月上旬)と「毎日新聞」(2011年5月下旬)の同氏のインタビュー記事が対象です。

著者の「核」(自然科学および政治経済から見た、核エネルギーと核兵器と原子力発電など)についての考えをできるだけ客観的に集約する気持ちで関連個所を引用すると、以下のようになります。

・『核エネルギイの解放もまったくおなじことだ。その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。』(「『反核』異論」)

・『自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また、物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。』(「『反核』異論」)

・『原子力は核分裂の時、莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。原理は実に簡単で、問題点はいかに放射性物質を遮断するかに尽きる。ただ今回(【引用者註】福島原発爆発事故)は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。原子炉が緻密で高度になれば、同じレベルの防御装置が必要で、防御装置を発達させないといけない』(「毎日新聞」)

・『原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。』(「日本経済新聞」)

・『「核」兵器や「核」戦争の問題は、どんな巨大な破壊力と放射能汚染をともなおうと<政治の延長あるいはヴァリエーションとして>の「戦争」の問題であり、その巨大な生産費と生産量の問題は、<経済社会>の生産機構の問題である。これにたいして<恐怖>の心情や<宗教>的な終末観をじかに対置させることも、<地球>の<破滅>という、神経症的な予測やイメージを対置させることもまったく見当はずれなのだ。』(「『反核』異論」)

・『だから・・・はっきりしているわけじゃないですか。つまり、現在、アメリカとソ連の両方で、核爆弾の生産をはじめとする軍需産業をやめちゃったら、いずれも国家として崩壊しますよ。経済・社会的に崩壊します。つまり、違う国家になります。そんなことはわかりきっていることではないですか。』(「『反核』異論」)

・『知識や科学技術っていうものは元に戻すってことはできませんからね。どんなに退廃的であろうが否定はできないんですよ。だから、それ以上の物を作るとか、考え出すことしか超える道はないはずです。』(「『反核』異論」)

僕が著者の云う「本質」の意味を正しく(正しくとはここでは、著者の意図する通りに、という意味)理解しているとすれば、自然科学という文脈における『核エネルギイの「本質」』については著者の主張通りだと思います。しかし、核エネルギーを利用するための生産物・製造物については、生産物・製造物というものの本質からして、そうではありえない。『自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である』にもかかわらず、製造物になった段階ではその同義性は保証されないので、だから『今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。』という(「本質」と同義性を失ってしまった)事態への反省の弁になります。

つまり、『科学が「核」エネルギイを解放したということは』『物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。』については同意しますが、それが『即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。』かどうかについては、繰り返しになりますが、断言できません。

著者は資本主義経済についても造詣が深いと思われます。だから、日本経済新聞のインタビューにおける『(原子力発電は)燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。』という発言には違和感があります。なぜなら、その部分をもう少し経済学的な表現をまじえて言い換えると次のようになるからです。

<電力会社や電力業界が負担する原子力燃料のコスト、つまり民間コストは桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えたときに発生する社会的コストは桁違いに高い。しかし、そういう場合の社会的コストが桁違いに高いからといって原子力発電という科学の成果を後戻りさせるという選択はあり得ない。> 

このインタビューは、原子力発電の発電コストが部外者には全く分からなかった1982年ではなく、2011年の8月なので、その頃には社会的コスト(ただし、「原発事故に伴う被害と被害補償費用」は含まない)を勘案した電源別の発電コスト情報(原子力発電の発電コストが実際は一番高い)がその気になれば入手できました。そういう時間がなかったのでしょうが、粘り強く強靭な思索力が特徴の著者らしくないところです。(関連記事は「原子力発電のコストは安い?(その1)」と「原子力発電のコストは安い?(その2)」。)

石油や石炭と同じく、ウランも埋蔵量があと100年くらいの有限資源なので(関連記事は『続・ 「石炭・石油・天然ガスの可採年数がこの10年でどう変わったか」』、核開発や核利用を進めていくと、核燃料を再生産するための「安全な」高速増殖炉の開発・運用が必要ということになります。しかし、どうも無謀な試みなので各国ともこの技術からは遠ざかりました。その結果、日本でだけ「もんじゅ」が生き残ったようです。著者の考えを敷衍すれば、2~3度失敗して従業員やまわりの住民や自然環境に犠牲が出ても、何しろ知識や科学技術は後戻りできないのだから、うまくいくまでお金をかけて安全な防御装置とシステムを開発・発達させないといけないということになります。

『「核」兵器や「核」戦争の問題は、どんな巨大な破壊力と放射能汚染をともなおうと<政治の延長あるいはヴァリエーションとして>の「戦争」の問題』であるということも、全くその通りだと思います。1961年のアイゼンハウアー大統領退任演説における「軍産複合体(Military-industrial Complex)」から、2007年のナオミ・クラインの著書「ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine)における「惨事便乗型資本主義(Disaster Capitalism)」にいたるまで、戦争(戦略兵器・戦術武器と戦争遂行のためのロジスティクス)は軍需産業やその周辺産業にとっては売上と収益の源泉でした。たとえは悪いですが、ちょうど、補正予算による毎年の公共工事が建設事業や土木工事をなりわいとする企業にとって追加的なビジネスの源泉であるように。

しかし、『だから・・・はっきりしているわけじゃないですか。つまり、現在、アメリカとソ連の両方で、核爆弾の生産をはじめとする軍需産業をやめちゃったら、いずれも国家として崩壊しますよ。経済・社会的に崩壊します。』といったあたりはちょっと発言内容が乗りすぎのように聞こえます。

核関連の軍需産業が大幅に縮小されその影響がおよぶ範囲で当該国の経済と社会が打撃を受けても、当事者企業やその従業員、あるいは政府の利害関係者にはじつに困った事態だけれども、全体としてみれば大騒ぎするほどのことではありません。その二つの国家の傲岸ぶりに影が差し、政治力も核兵器の減少分だけ衰えるかもしれませんが、『いずれも国家として崩壊しますよ。経済・社会的に崩壊します。』というわけではない。ソ連がロシアに名前を変えるくらいの変化は生じるかもしれません。別の理由で実際にそうなりましたが、その程度のことです。

戦争はハイテク戦争でもローテク戦争でも兵器や武器や弾薬を一方的に消耗するばかりなので、いわば乗数効果の存在しない消費活動のようなものなので、経済への悪影響は限定的です。だから、軍需産業を組みこまれた経済をそれなりに活性化し続けるためには、戦争を世界の各地で定期的に繰り返さないといけない。イラクやアフガニスタンなど、実際に、その通りになっています。

おそらく、著者と僕とでは自然科学というもの対する思いの強さが違うのでしょう。僕にとって自然科学とは人の持つ知(智)の様式のひとつで、その得意業(わざ)は人の五感(および五感の延長物)を使ってものごとを測定することです。この知は強力で『核エネルギイを解放』したり、車や新幹線を走らせたり、遺伝子を発見してその組み換え技術を作りだしたりします。しかし、その知の性格は、世界を単純な位置をもつものの集合体として捉えその捉え方に応じた成果物を産出するだけで、それを超える射程距離を持ってはいません。だから、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(芭蕉)や「六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり」(空海)、また「道(みち)の道(い)う可(べ)きは、常の道に非(あら)ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。」(老子)などは、この知にとっては、袖を振り合うことのない世界の光景です。

著者はこの三つの知(智)が一体になったものを、どのような形でなのかはわかりませんが、自然科学のなかに見ようとしているように思われます。僕にとっては自然科学や科学技術の知とはもっぱら「測る知」であり「他と共感する知」や「黙想する智」を含むものではありません。

著者は、人間が引き起こしたこと・引き起こしてしまったことはそれがどんなものであれ人間の知の活動の結果なので、つまり太平洋戦争から福島原発事故まで、あるいは、古事記から遠野物語までの総体は人間の知の活動結果なので、それらのすべてを引き受けてそれらを乗り超えるのが現在の知の責任と考えていたのかもしれません。重くて刺激的な考え方です。しかし仮にそうだとすると、どのような知であれ知と名づけられたものは何でも包み込むことができるという性格を持つことになるので、換言すれば、何でも包み込むことのできるモワモワと広がったものをとりあえず知と呼ぶということになるので、結局、『自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。』という主張が別の衣装をまとっただけのようにも映ります。この主張は、自然科学に代表される知はあらゆる場面でほとんど万能であると云っているのと同義です。

Rev_blog

【註】人の知(智)の様式については、何人もの思索し観想する人が似たような形のまとめ方をしていますが、コンパイル(編集)の仕方が一番うまい(と僕に思える)のがケン・ウィルバーなので、上の絵は、彼の著書 <“Eye to Eye”(邦訳:「眼には眼を」)や “The Eye of Spirit”(邦訳:「統合心理学への道」)>を参考にして作成したものです。

この3つの知(智)を、それぞれが別々の世界に応対するものとして納得しながら、しかしそれらを透視図的に一挙につかんだ禅僧の言葉があり、それは次のようなものです。『老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見(まみ)えて箇の入処有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇(きゅうかつ)の処を得て、依然、山を見るに祗だ是れ山、水を見るに祗だ是れ水なり。』(青原惟信〈せいげんいしん〉)

彼が三十年前に接した「山と水」がそのまま独立して勝手に走りはじめると、それはたとえば、自然科学(と科学技術)の進展に応じてその存在感と機能性と利便性を膨らませてきた「山と水」ということになります。

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