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2013年2月 5日 (火)

『東京セブンローズ』という日本語論(その2)

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『東京セブンローズ』という日本語論(その1)から続く>

何をめざしていたのか実際のところはよくわからない、戦争責任の所在にいたってははなはだ曖昧模糊(あいまいもこ)であるというのが、丸山眞夫の分析した日本の「軍国指導者の精神形態」ですが、それと対極的なのがナチズム指導者の持っていた「仮借ない明確さ」で、その「仮借ない明確さ」とは、同じく丸山眞夫によれば、たとえば、ヒトラーやヒムラーの次のような言葉です。

『余はここに戦端開始の理由を宣伝家のために与えよう――それがもっともらしい議論であろうがなかろうが構わない。勝者は後になって我々が真実を語ったか否かについて問われはしないであろう。戦争を開始し、戦争を遂行するに当っては正義などは問題ではなく、要は勝利にあるのである。(ヒトラー)』

『諸民族が繁栄しようと、餓死しようと、それが余の関心を惹くのは単にわれわれがその民族を、われわれの文化に対する奴隷として必要とする限りにおいてであり、それ以外にはない。(ヒムラー)』

ヒムラーの発言の一語を以下のようにわずかに変えると、地球上のどこかで現在進行形の表現、ライブ表現になります。

『諸民族が繁栄しようと、餓死しようと、それが私の関心を惹くのは単にわれわれがその民族を、われわれの文化に対する属国の民・属領の民として必要とする限りにおいてであり、それ以外にはない。』

そのような「仮借ない明確さ」と対比すると、丸山眞夫の論文における「軍国支配者の精神形態」と井上ひさしの小説における「軍国市民・敗戦市民の生活と精神形態」が全く違う形をしているとは考えにくい。なぜなら両者は同じ土壌の産物だからです。だから、前者がたとえば上向きの三角形なら、後者も前者のきれいな相似形をしているかどうかはわからないけれど、やはり上向きの三角形らしき形をしているに相違ない。

両者に違いがあるとすれば、「軍国市民・敗戦市民の生活と精神形態」の三角形は、その中に上下が逆さになったような小さな三角形や小さな四角形や円形といったいろいろな違った向きや形がいろいろな色彩で少なからず入りこんでいるということかもしれません。これが市民・庶民の強さと柔軟さとしたたかさで、異民族の侵入で国を捨てるといった民族大移動の悲惨さ・壮大さはないけれど、戦国の世で領主が入れ替わる、国替(くにがえ)で新しい領主がくるといった「お上」の交替には伝統的な抵抗力というか適応力があります。だから支配者が「天皇」から「濠端(ほりばた)天皇」(マーカーサー)に替わっても実際のところは大騒ぎになることはない。

しかし、「軍国支配者の精神形態」によく似た部分が強く出すぎると、「軍国市民・敗戦市民の生活と精神形態」も、『東京セブンローズ』の一節を引用すれば、次のような状態を呈します。

『・・・満蒙(まんもう)は帝國の生命線、昭和維新、高度國防國家建設、非常時の波高し、國民精神總動員、擧国一致、堅忍持久(けんにんじきゅう)、代用品時代・・・』『大東亞新秩序、紀元二千六百年、月月火水木金金、一億一心、大政翼贊、八紘一宇、玉砕、どれもこれもぴかぴかの漢字、かういつた御立派な漢字で天下國家を論じて、それで日本はどんな國になりましたか。少しでも立派な國になりましたか。答えは出ています。すつかりだめな國になつてしまつた』

『大日本婦人會の襷(たすき)を大袈裟にかけて<進め一億、火の玉だ>と連呼しながら、そこの不忍(しのばず)通りを嬉しそうに提灯行列してゐたのはどこのだれだ』

『たとへば、(新聞の)讀者にしても、自分たち國民が國家そのものであると信じ切つてゐた。』

逆に「軍国支配者の精神形態」に必ずしも相似していない部分が市民の間で安定していると、『東京セブンローズ』で七人の女性と一緒に活躍する新聞記者の言葉を借りれば、以下のような冷静な省察になります。

『大日本帝國といふ國家がなくなれば當然、日本人は存在できなくなる。したがつて、最後の一人になるまで徹底して抗戰し、一億の日本人はみな玉砕するしかない。・・・さう思い込み、さういふ立場で紙面をつくってゐたわけですよ。だが、ちがつた。たしかに大日本帝國はなくなった。それぢや日本人が存在できなくなったかといへば、さうではない。ここにかしこに日本人がゐて、日本語がある。つまりなくなったのはかつての支配層だったんです。もっといへば、大日本帝國の實體、その中身というのは、なんのことはない、當時の支配層のことだつたんですな。そんな簡単なことがわからなかつたのだから情けないといってゐるのです』

七人の女性の冒険大活躍があって(ここではそういうことにしておきます)、幸いなことに僕たちは、漢字と平仮名と片仮名のまじりあった日本語を使い続けています。

最近は片仮名言葉が多すぎるような気もしますが、対応する日本語が未成熟なので(存在するが、こなれていない)しかたがないものも多い。たとえばデフォ(Default Value 省略時の値、既定値)やコストパフォーマンス(Cost Performance 価格性能比)などは、もともとはギョーカイ用語だったものが急に一般消費市場に浸透してきたものです。ギョーカイ人の先端に漢籍の素養をもった人がいればいいのですが、ないものねだりはしない。

コストパフォーマンスという考え方の親戚にROI(Return On Investment 投資収益率)というのがあります。この考え方を言語に適用すれば、日本語は漢字を2000字から3000字程度は覚えなくてはいけないので、アルファベット(ラテン字母など)を使う言語に比べると初期投資が大変ですが、初期投資の回収が終わって損益分岐点を通過すると、その後は、漢字は組み合わせ(熟語など)の応用が利くので、その後は収益はどんどんと増加します。あるいは収益分岐点通過後のメンテナンスコスト(維持費用)がとても少ないと云ってもさしつかえない。

漢字を2000字覚える努力とアルファベット26文字を覚える努力とどちらが大変かなどという愚かな比較を議論する人は、今はさすがにいないと思いますが、そういう比べ方をするなら漢字を2000字覚える努力は、英語の単語や慣用句を6000ほど覚えるのと同じだと云った方が説得力があるかもしれません。かりに英語を母国語とする人たちであっても、6000の単語や慣用句を身につけるまでにギリシャ語やラテン語の基礎的な語源に親しんでおかないと初級段階・中級段階はいいにしても、専門語・術語が混じってくる段階にさしかかると歩みが突然遅くなるというかというかそれ以上はいけない。初期投資は少なくて済むかもしれないが、そこで安心しているとあとで出費がかさむのが欧米系の言語の特質です。

最後にまた『東京セブンローズ』から「井上ひさし」らしい愉快な一節を引用してこの記事をおしまいにします。「員」という字の説明です。

『この員なんぞもはなはだ淫亂です。社に抱きついて社員となり、外交に秋波を送つて外交員となり、議に色目を使って議員となり、動と同棲して動員となる。署と乳繰つて署員、審判と驅け落ちして審判員、座を引つ掛けて座員、隊に撓垂れ(しなだれ)かかって隊員、役をたらしこんで役員といふ具合で、漢字はじつに多産なんです。時代の要請に應じていくらでも新しい漢語を産んでくれます。かういふ生産力は假名にはないんですな。』

<『東京セブンローズ』の終わり>

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