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2013年10月25日 (金)

「井筒」と「死者への七つの語らい」

ある秋の日、旅の僧が初瀬参りへの途中に大和の国の在原寺に立ち寄り寺にゆかりのある在原業平とその妻の冥福を祈っていると、ひとりの里女が現れる、というのが「井筒(いづつ)」の始まりです。「井筒」や「松風」といった、成仏しきれずに妄執に悩む亡霊や怨霊が生者である僧や修験者のところにやってきて救いを求めて悲しむ物語が能にはあります。そして、死霊や怨霊(それから、ときには「葵上」に出てくるような生霊)は、僧に弔われて静かに消えていきます。

ユングの「死者への七つの語らい」とは、死者が、生者であるところの著者(作品の中では、著者はアレキサンドリアのパシリデスという二世紀初期のグノーシス派の師ということになっている)に教えを乞うという物語です。「死者たちは、探し求めたものを見出せず、エルサレムから帰ってきた。彼らは私の家にはいり、教えを得ることを願った。そこで、私は教えを説き始めた。」(河合隼雄・藤縄昭・出井淑子 訳)

死んでもわからないものはわからない。死の世界に場を移したからといって、世界の意味や生と死の風景が、生きていた時以上に見えてくるわけではない。此岸では生と死を繰り返すので、彼岸にいかない限りは死んでも救われない。こういう思いから、死者が、生きている人間に魂の救済を求めるという構図が生まれるのでしょうが、「死者への七つの語らい」における対話の空気はやはりキリスト教文化を背景としているので、仏教の僧侶が死者に語りかけ死者の亡霊を供養している雰囲気とはずいぶんと違います。しいて東洋風のたとえ方をすれば、老荘思想の師が、いささか暗い西洋風の語彙と口調で、死者に、存在と非存在と存在・非存在の生まれる前の様相を語りかけている感じです。

妄執に悩む亡霊や怨霊が僧に弔われて静かに消えていくように、「死者への七つの語らい」でも、生と死、神と悪魔の意味に迷ったままであった死者たちが、グノーシス派の師であるところのパシリデスが生と死、神と悪魔、そして人間について語り終わるのを聞くと、「沈黙し・・・夜中に家畜を見守る牧者のたき火の煙の如く、立ち上って」いきます。しかし、煙のように立ち上っては行くのですが、僧に弔われて静かに消えていく亡霊とは違って、どこにどういう風に立ち上っていったのかがわからないような不可解さ・不気味さがあるように僕には思えます。

もっとも、仏教でもその不可解さ・不気味さは同じようにあり、死者を弔う、死者の冥福を祈るという行為は、死者の死後の幸福を生者であるところの我々が祈るということなので、つまり、死者は必ずしも幸福であるとは限らないという我々の思い、死者の魂は、時には成仏できずに死霊や怨霊となってそのあたりを漂っているかもしれないという我々の不安を反映しているのかもしれません。

ふと夢から覚めて、あるいは夢から覚めきらない状態で布団の中でぼんやりとしていると、生と死は同じものの別の顕れなので、生から死へというのはある顕れから別の顕れへのよどみのない推移だという思い(というよりもそういう感覚)がとても身近なものになる場合があります。そのぼんやりのなかでは、仮寝の夢の中で死霊や怨霊を弔った僧も供養された亡霊も渾然と一体ですが、「死者への七つの語らい」の対話の光景は、そういうぼんやりの状態にはどうもうまくなじまない。


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