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2013年12月24日 (火)

続・「Is That All There Is? こんなもんなの?」、あるいは、処方箋が見つかりそうにない病状 (その1)

アーサー・ケストラーは「ホロン革命」という本の中で、ホモ・サピエンス(私たち人類)が持ち続けてきて、そして現在も変わらずに持っている「病状」を以下の4つにまとめています。30年と少し前に書かれた本ですが、30年くらいでは人類の「病状」は変わらない。

・ 怒れる神を鎮め喜ばせるための生贄の儀式
・ ホモ・サピエンスという同じ種の内部で、飽きもせずに繰り返されている戦争と殺戮
・ 理性と情緒の、あるいは合理的な思考と感情に縛られた不合理な信念の、分裂
・ 科学技術と倫理の成長曲線のいちじるしい差

しかしその4つにはいくぶんの重複があるとも見えるので、少し強引ですが、最初の二つは同じ事柄を外側と内側からそれぞれに観察したもの、あとの二つも同じ現象を外的な視点と内的な視点で眺めたものだとしてみます。そうすると、最初の2つは「戦争と殺戮」、あとの2つは「科学技術と倫理(の成長曲線の乖離)」と病状を要約できます。

まず、戦争や大量殺戮についてです。ホモ・サピエンス内部の戦争や殺戮は、第二次世界大戦後も、話題には事欠きません。たとえば、チベット。たとえば、ベトナム。それから、イラクやアフガニスタンやリビア。それらに比べると小規模ですが、多発テロと呼ばれているところの9月11日の事件をここに追加することもできます。こうした戦争や殺戮は人間の闘争本能から発生したのではなく、そういう理由による部分もあるかもしれませんがそんなのは微々たるもので、はるかにもっと大きな原因はケストラーの語彙を借用すれば、「怒れる神」を鎮め喜ばせるためです。怒れる「神」は、19世紀以降は「イデオロギー」という別名を持ち始めました。「怒れる神」や「怒れるイデオロギー」のために、信者であるところの人々は、それらに、献身的に、生贄をささげます。

そういう文脈で、ヒトラーのナチズムやスターリン主義や毛沢東思想による侵略や虐殺や粛清を眺めると、彼らを頂点にして彼らのまわりに、多くの献身的な、あるいは滅私奉公的なイデオロギー信者が活躍していたことがわかります。ブッシュが唱えた「悪の枢軸」との戦いというのも、米国の為政者や国民としてはそういうのがないと困るので無理やりに作った「イデオロギーもどき」ですし、我が国を振り返れば「神国日本」「八紘一宇」というのが70年前にはありました。そういう考えをよしとした献身的な人たちがいたわけです。

チリなどの南米諸国をターゲットに実施され始め、日本にも10年以上前に到達し金融業界や雇用市場にダメージを与えた「市場原理主義」も新興イデオロギーのひとつです。ナオミ・クラインは、フリードマンに代表される市場原理主義というイデオロギーを「ショック・ドクトリン」「惨事便乗型資本主義 (Disaster Capitalism)」と命名しましたが、他国や対象地域の経済不況や政治不安、自然災害などにつけこむことを軸とするタイプの資本主義なので、云い得て妙です。

次に、「科学技術」と「倫理」の成長曲線のいちじるしい差、あるいは「合理的な思考」と「不合理な信念」の分裂について、です。科学技術は月や宇宙ステーションに人を送り込み、新幹線を走らせました。しかし、私たちの「民度」が昔よりも上がったかどうかについては、私たちは自信がない。

ある理論生物学者は「いわゆる人類の進歩とは、純粋に知的な事柄に限られる。・・・倫理的側面にあまり進歩は認められない。はたしてネアンデルタール人が敵の頭蓋骨を割るために使った石より、現代の戦闘方法の方が好ましいと言えるのだろうか。だが、老子や荘子が説いた倫理基準が、現代のわれわれのものに劣らないことだけははっきりしている。」(ベルタランフィ)と述べました。

老子や荘子が倫理基準のようなものを熱心に説いたかどうかは別にして、『道のいうべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。・・・玄のまた玄、衆妙の門なり。』(老子)や『むかし、荘周は夢に胡蝶(こちょう)となる。栩栩然(くくぜん:ふわふわするさま)として胡蝶なり。・・・知らず、周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるかを。』(荘子)に匹敵する洞察を現代の書き物に見つけることは非常に難しいとは云えます。つまり、形而上的な分野や霊的な分野では、成長曲線は高い方には成長せずに横ばいをしたままです。あるいは下降傾向を示しているかもしれません。

二百年前や五百年前、あるいは千年前、ないしは二千五百年年前に書かれた著作物の内容が、今となっては歴史や学説史の講義の素材程度の意味しかない場合、その領域における人間の知(智)は進歩・進化したといえます。しかし、そうでない場合、人間の知(智)はその領域においては、進歩がなかったということになります。つまり、下の図で云えば「測る知」が前者、「黙想する智」と「思考し共感する知」が後者です。

Rev_ib_blog

数世紀前に出版された「測る知」の書物には、測る知に黙想の智の香りがわずかに忍び込んでいるものもあり、その部分は面白いのですが (たとえば、「人間の精神の養いとなる多くの、そうして種々の学藝の研究のうちで、最大の熱意をもって追求すべきものは知識の最美にして最高なるものに関する研究であると私は思う。・・・美しいものをすべて確実に包んでいるところの天よりも美しいものが何があろうか。・・・・・先ず宇宙は球形であることを言う必要がある。理由はこの形が最も完全であって接ぎ目も何も要らない・・・」<コペルニクス「天体の回転について」>)、「測る知」に関する部分は、現在では、科学史の研究者や学生以外にはとくに役に立つとは思えません。

この、一方では科学技術に見られるように、その成果が累積して、パラダイムの変化を吸収しながら前に進み、他方では、いい方向へ向かっての社会構造の変化など(たとえば、基本的人権とデモクラシー)は確かにあるのだけれど、それを支えるはずの「人間知性」が停滞して前に進みません。たとえば、平成25年(2013年)の「特定秘密保護法」は、昭和16年(1941年)の治安維持法へと知性のレベルが逆戻りした結果だともいえます。当分の間は、どうも、「測る知」と「その他の知」の格差傾向が続くのだろうと思うしかなさそうです。別の表現をすれば、「特定秘密保護法」は「合理的な思考と感情に縛られた不合理な情念の分裂」のもっとも最近の身近な例かもしれません。

「合理的な思考と感情に縛られた不合理な情念の分裂」は常に我々につきまといます。かつて、ある人は 『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか』 と謡い舞い、その直後に敵という相手を殺しに出かけて行ったのですが、この光景に立ち会った人、あるいは、のちに物語になったこの光景を観るたいていの人は、これを美しいと感じます。つまり、こういう方向の情念が我々にはあります。他方、そういう種類の情念を振り払い、そういう情念との間に距離を置ける「不合理でない」人も身近にいて、そういう人は 『あゝおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや』 という歌を詠みます。

どうしてそうなるのか。

(その2、に続く)

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