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2013年12月 5日 (木)

気になる本を本棚から取り出して(「ホロン革命」)

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ラベンダーの植わった鉢をいくつか並べてあるのですが、先月に引き続き今月も烏(カラス)に鉢の土が例外なくほじくり返されていました。寒くなり雪も降ったのでエサが見つかりにくい。で、お手軽なところにエサを探しに来たのでしょう。そのあたりを土だらけにして立ち去るので、後片付けに時間をとられます。

後片付けで、掘られた鉢の土を整えるときに、「毒薬」でも混ぜ込んでおくかという気になりますが、毒薬はさすがにかわいそうなので、30分くらいは体がしびれて動けなくなるような虫の味と形をした「痺(しび)れ薬」が「カラス撃退用グッズのコーナー」にでも置いてあれば迷うことなく使うかもしれません。それを食べると、パタパタパタと飛んでいる間に、翼が徐々に動かなくなり、地面に急降下。そこであわれにも30分ほど横たわっていないと回復しない。そうなると、カラスは頭がいいし、それに仲間への情報伝達も得意そうなので、あの家の鉢は危ないという評判が立つに違いない。カラスの悪戯は停止する。しかし、カラスがそれ以上に頭がいいとなると、あの家は安全だ、なぜなら体は痺れるが決して致命的な事態にはならない、攻撃可能である、という回覧板でも回るかもしれません。

エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を読み返したくなるような時代の相になってきました(『気になる本を本棚から取り出して(「自由からの逃走」)』)。「自由からの逃走」を再読後、しばらく時間が経過しましたが、気になることがあったのでアーサー・ケストラーの「ホロン革命」を本棚から引っ張り出してみました。本棚に置いてあった翻訳本は、1986年発行第七刷ですが、原著は1978年の出版です(原著タイトルは “JANUS” ヤヌス)。500ページくらいの本ですが、「プロローグ」と「第一部 システムとは何か」はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の主題のひとつをもっと大きな文脈で考察したものです。

「自由からの逃走」は、内面化された強制力や世論といった匿名の権威に対するわれわれの服従欲求について分析しています。

『自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。もしそういうものがないとしたら、指導者への服従がこんにちあれほどまで多くのひとびとを引き付けていることを、どのように説明したらよいのであろうか。服従というのは、常に目にみえる権威への服従であろうか。あるいは義務や良心というような内面化された権威とか、人間の内側にひそむ強制力とか、また世論のような匿名の権威にたいする服従が存在するのだろうか。服従することのうちに、一つのかくされた満足があるのだろうか。その本質はなんであろうか。』(フロム「自由からの逃走」)

ケストラーの「ホロン革命」は、国家や大義やイデオロギーといった集団や集団信条への、われわれの忠誠心と献身が引き起こす恐ろしさについて語ります。「ホロン革命」が書かれて35年ほど経過した現在では、「国家や大義やイデオロギー」の具体例として「グローバリズム (Globalism) やコーポラティズム (Corporatism) 」を付け加えないと適切な風景にならないかもしれません。

『以上から、人類の苦悩はその過剰な<攻撃性>にあるのではなく、そのなみはずれた狂信的<献身>にあるという、あまり耳慣れない結論に到達する。歴史にざっと目を通せばわかることだが、人間の悲劇のなかでも動機が利己的な個人規模の犯罪など、部族、国家、王朝、教派、政治的イデオロギーへの没我的忠誠心のなかで虐殺された人びとに比べれば、きわめてささいだ。問題は<没我的>だ。ごく少数の金めあての傭兵やサディストを除けば、戦争は個人の利益からではなく、王、国家、大義への忠誠心と献身からおきている。』『くりかえして言おう。人類の全歴史を通じ、旗、カリスマ、信仰、政治的信条への自己超越的献身により殺害された人間の数をおもえば、過度の個人的自己主張がひきおこした破壊行為など、量的に無視しうるほど小さい。』『人間は必要とあらばいつでも人間性を放棄する。特異な個性を大きな団体構造に溶けこませるには、そうせざるをえないのである。』(ケストラー「ホロン革命」)

そして、『それだけではない。個人の精神はさまざまだが、もし集団が・・その結束を維持しようとするとするなら、「シングル・マインド」(一致団結)でなければならない。となると集団精神はすべての構成員に理解できるような知的レベルで機能せねばならないから、必然的に「シングル・マインド」は「シンプル・マインド」になる。こうしたことから集団の情緒的な力は高められると同時に、知性は減少する。』(ケストラー「ホロン革命」)

1930年代の終わりから1945年の8月までの我が国の状況を「井上ひさし」の著作から引用すれば(作中の新聞記者に語ってもらえば)、以下のようになります。

『たとへば、(新聞の)讀者にしても、自分たち國民が國家そのものであると信じ切つてゐた。』『大日本帝國といふ國家がなくなれば當然、日本人は存在できなくなる。したがつて、最後の一人になるまで徹底して抗戰し、一億の日本人はみな玉砕するしかない。・・・さう思い込み、さういふ立場で紙面をつくってゐたわけですよ。だが、ちがつた。』(井上ひさし「東京セブンローズ」)

「シンプル・マインド」については、タスキをかけた中年女性を揶揄するわけではないのですが、『大日本婦人會の襷(たすき)を大袈裟にかけて<進め一億、火の玉だ>と連呼しながら、そこの不忍(しのばず)通りを嬉しそうに提灯行列してゐたのはどこのだれだ』という一文があります。(井上ひさし「東京セブンローズ」)

殺戮場面のあるドラマを観ることによって人間の持つ闘争本能は昇華されますが、それはランボーのような映画向きで、その影響マグニチュードはたいしたことはありません。なぜなら、劇場をあとにすればそんなものは消えてしまうからです。上述の僕の例でいえば、悪戯(いたずら)カラスに痺れクスリを食べさせたらどうなるか頭の中でシミュレーションをするといった程度のことです。

一方、劇場映画でもNHKの大河ドラマや民放の長時間ドラマでも何でもいいのですが、戦国時代や明治維新、日清・日露戦争や太平洋戦争を時代背景に、誰かが誰かを抹殺する、あるいは、ある集団が他の集団を信念の下に殺すことが主題の不可欠な一部であるような物語の人気は衰えません。つまり、視聴者はこういうタイプの戦いと殺人、ケストラーの用語を拝借すれば「国家や集団や信条への献身・忠誠心」が物語の中である程度明らかな場合には、敵の殺戮を応援するのが生来的に好きだと云えそうです。

「敵の殺戮」は、いくぶん穏和なレベルでは、「信条への献身を共有しない相手への怒りや差別」という衣装で現れます。温和なレベルであっても、事態の方向や本質に差はありません。「地元の食材、給食、食べて応援」といったキーワードが、集団や信条への没我的な献身を生み出さなければいいのですが。

以下は、10か月ほど前のある新聞記事(の一部)の引用。

『牛乳飲まず・米飯は持参…福島、給食不安消えず』

『福島市教委は東京電力福島第一原発事故を受け、学校給食に使うコメを福島市産から原発から遠い会津産に切り替えたが、「放射性物質の検査体制が整った」として今年1月から同市産に戻した。地元産を不安に思う家庭には米飯の持参を認めたため、実態を把握するため小学生約1万4400人と中学生約8000人を対象に、同月に調査を行った。

調査結果によると、牛乳を飲まなかったのは小学生203人、中学生1人で、米飯を家庭から持参したのは小学生41人、中学生5人。米飯持参の46人は、全員が会津産から福島市産米に切り替えた1月から持参してきていた。給食そのものを食べずに弁当を持参する児童・生徒も4人(小学生2人、中学生2人)いた。

地元産米の再開については、一部の保護者が内部被曝ひばくへの不安や行政への不信感などから強い懸念を示していたが、市教委はほとんどの児童・生徒が地元産の食材を受け入れていることから、「充実した放射性物質検査が評価されている」としている。』(2013年2月4日 読売新聞)

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