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2014年1月 9日 (木)

こんなもんなの?、あるいは、ケストラーと鈴木大拙

アーサー・ケストラーは現代の人類の病の状況というか、紀元前500年~600年くらい昔から現在に至るまでの3千年近くの、ないしは、過去1万年の人類の病状に関して的確な診断を下していると思いますが、その病状をなんとかするために処方箋を書くことには熱意を持っていなかったようです。彼の云う病状とは、お互いの項目の間に重複もあるけれど、以下の4つです。<関連記事は、続・「Is That All There Is? こんなもんなの?」、あるいは、処方箋が見つかりそうにない病状 (その1)

・ 怒れる神を鎮め喜ばせるための生贄の儀式
・ ホモ・サピエンスという同じ種の内部で、飽きもせずに繰り返されている戦争と殺戮
・ 理性と情緒の、あるいは合理的な思考と感情に縛られた不合理な信念の、分裂
・ 科学技術と倫理の成長曲線のいちじるしい差

「機械の中の幽霊」を書いたころには、人間性への深い不信感に、まだわずかな期待が入り混じっていますが、「ホロン革命」という著作の時期になると、処方箋の作成に熱意がない、というよりも、病は不治なのでもう諦めたという気分が濃厚に漂っています。

たとえば「機械の中の幽霊」(日高・長野訳)の最後のあたりには「自然は私たちを見かぎった。神は受話器を切りっぱなしで取上げようとしないようにみえる。そうして時間は尽きようとしている。研究室で合成された救済に望みをつなぐのは、唯物的とも気違い沙汰とも単純素朴だとも見えるだろう。」という記述がありますが、これが「ホロン革命」(田中・吉岡訳)では「地球文明(農業や文字などを開始点とする)は、おおまかに見積って、齢一万年である。・・・・それから先は、自然選択 ― いや『選択的除草剤』と言うべきか ― が、宇宙的規模でその後を継ぐことになる。そして、生物学的な不調和によって生じた病める文明は、いずれ自らの死刑執行人としての役まわりを演じ、汚染された惑星から消滅していく。・・・・宇宙の除草剤の作用によって、こうした(「地球文明」と「地球「外」文明」を合わせた)文明のうち、『善玉』だけが生き残り、『悪玉』は消滅するというのは、心安らぐ思想である。宇宙は善玉の場所であり、われわれ人類はその善玉に取り囲まれている ― じつに結構な話ではないか。」となります。

「機械の中の幽霊」(原著の出版は1967年)のなかの「人類の苦境」という章に次のような一節があります。

「この(侵入してくる現実に対抗して個人が自分の幻想を保護するために頭の中に用意する)カーテンの背後には、二重の魔術の世界がある。『醜いものは美しく、偽りは真であり、またその逆のこともいえる。』これはオーウェルのいいぐさではない。近代的禅の第一の提示者である故鈴木〈大拙〉教授が、反対物の一致の原理を説明するため、大まじめで書いたものである。大衆禅(ポップ禅)の逆説は反対物の一致ということを手品のたねに使い、共産党員のそれは歴史の弁証法をたねにし、スコラ学者のは聖書とアリストテレス論理学の組み合わせを使っている。公理はそれぞれ違っているが、それから先の惑わしの手口は大同小異である。外濠を突破できた事実や議論は、最後に『偽り』が『真』となり圧政が真の民主主義となりニシンが競馬ウマとなるまで、弁証法的な方法で処理を受ける。」

引用や参照部分を論述の文脈に組み入れるときに、その文脈に合うように牽強付会な感じでそれらを組み入れるというのはケストラーに限らずわりにみられる傾向で、上でもその印象がぬぐえませんが、そういうことはここでは気にしないことにします。

マルクス主義者の得意とする歴史の弁証法という箇所にはとくには反対の気持ちはないのですが、仏教(ここでは禅についての鈴木大拙の論述)に関するケストラーの断言には結構な違和感を覚えました。「註」を見ると、引用部分は鈴木大拙が1959年に書いた禅に関するエッセイから持ってきたらしい。どのエッセイかはわからない。『醜いものは美しく、偽りは真であり、またその逆のこともいえる』というのは、文脈上の意味は「空不異色 色不異空」や「無は有 有は無」、「不二法門(ふにほうもん)」の敷衍だと思われるので、関係ありそうなものを調べてみると鈴木大拙の「東洋の心」というエッセイと講演を集めた本に「禅と欧米の人々 ― さとり」という昭和35年(1960年)に書かれた一文があり、その中にケストラーの禅観についての記述がありました。

【註】不二法門(ふにほうもん): たとえば有と無、生と死のような互いに相反する二つは、二つに分かれたものではなく、もともと、一つであるという意味

曰く、「(エンカウンターという近着の英国の雑誌の十月号に)アーサー・ケストラー氏の禅に関するかなり長い一編が載っていて・・・この禅観は一般の欧米人のように、もちろん不徹底ではあるが、ずいぶん広い範囲にわたって禅に関するものを読んでおる。・・・ところが・・『こんな年寄りの涎(よだれ)を垂らしたような文字は、故意に意地悪くも、読者の心を迷路に導かんとするものだ。理性を昏迷させようとする禅者の手品の一くさりだ。・・・驚くべきは、その規模のいかにも雄偉な点に存するといってよい。』と、ケストラー氏はこういうのである。多少大げさな点もあるが、ともかく有が無で、無が有だなどというと、びっくりしてしまうのだ。きっちりと論理のわくにはまらないと、何事も一場の滑稽にすぎないと片付ける。ここが欧米人多数の考え方なのである。」

つまり、鈴木大拙によれば、ケストラーのイライラも欧米インテリによくある話であるらしい。僕もそれで納得しかけたのですが、同時に別の違和感にもとらわれることになりました。

僕たちの日常の法事や写経に頻繁に使われるのが「般若心経」という極めて形而上学的な内容に満ちたところの短いお経ですが、読経や写経を通して、そのなかに含まれる「色不異空 空不異色」と「色即是空 空即是色」の音の響きや文字の様子が多くの日本人の心に深く、あるいは、長年にわたってなんとなく沁みこんでいます。そう考えることにとくに無理はありません。しかし、そういう「色不異空 空不異色」の沁みこんだ男女が、1945年以前では戦争勝利の提灯行列に参加し、現在では「食べて応援」で放射性物質汚染度のよくわからない(現物に測定値が表示されていないという意味を含めて)農産物や水産物を食べることに「献身的に」熱心です。

原子力発電所事故の被災地を社会的・経済的な意味で「支援すること」(そこには、除染促進や域外移住支援、もっと基本的には火力発電やその他の非「核」発電への転換などが含まれる)と、政府主導のプロモーションであるところの「食べて応援」や同じ趣旨の「瓦礫を受け入れて応援」とではその性格が大きく違います。

福島原発事故とその後の原子力発電の位置付けの曲折、「食べて応援」・「瓦礫で応援」といったプロモーション活動、東京オリンピック招致時の放射能汚染状況の説明(the situation is under control)を順に眺めると、ケストラーでなくてもジョージ・オーウェルの「1984年」を引き合いに出したくなります。「1984年」に登場するようなタイプの為政者にとって、国民を自分の思う方向に洗脳し監視するには、政治的な文脈で利用できるように変質させた「色不異空 空不異色」や「不二法門(ふにほうもん)」はとても便利な道具かもしれません。だから、そういう意味では、視点の置き所によりますが、アーサー・ケストラーはただの形式論理にとらわれた愚か者というだけではなさそうです。

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