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2014年2月26日 (水)

ダニ・ロドリク著「グローバリゼーション・パラドックス」と、下村治著「日本は悪くない(悪いのはアメリカだ)」:グローバリゼーションと国民経済

ナオミ・クラインの著書「ショック・ドクトリン」に「ダニ・ロドリク」という経済学者が二度ほど現れます。

その本の中で「ダニ・ロドリク」は、ミルトン・フリードマンに代表される「市場原理主義」の特徴を、あるいは、その考え方とその強引な実施方法につきまとうところのうさんくささの原因をクールに客観的にまとめることのできる才覚を持った、一般的な米国人経済学者とは違った雰囲気の学者として、描かれています。

「・・と、ロドリックは一九九四年に書いている。『この概念はミクロ経済改革とマクロ経済改革をワンセットにパッケージ化したものである。構造調整は、危機に陥った経済を救済するためにその国が実施する必要のあるプロセスとして売り込まれた。このパッケージを取り入れた政府にとっては、対外均衡と安定した価格を維持する健全なマクロ経済政策と、(自由貿易のような)開放性を決定する政策との区別は曖昧化される。』原理は単純だ。(略)民営化と自由貿易政策が経済的救済とワンセットになって提示されれば、それを受け入れる以外に選択の余地はない。」(「ショック・ドクトリン」〈岩波書店〉第8章)

ところで「市場原理主義」とは、すべてを市場、つまり自由経済に任せた方がものごとはうまく進む、断然効率的である、政府の役割は警察機能の提供など最小限でいい、政府は社会的・経済的なことがら、たとえば公共投資や貿易規制や労働者の雇用条件の改善や国民の社会福祉などには手を出さない方がいい、生産性の低い産業(たとえば、日本の農業など)を助ける必要はない、という考え方(ないしは信念)のことです。

「グローバリゼーション・パラドクス」という著書の特徴は、グローバリゼーションや自由経済・自由貿易を語るときに、国民国家の国民としての常識が組み込まれていること、つまり全体的なバランス感覚の良さです。

この著作の主題は「グローバリゼーション」と「国家主権(ないしは国民経済)」と「民主政治」は「トリレンマ」の関係にあり、この三つの目標のどれかを激しく追い求めると、他のどれかがそのための犠牲になる、つまり、これら三つを同時に成立させることはできない、だからこの三つをどこかで協調させるか、妥協させるか、まあ、そういう種類の節度が必要だというものです。

著者自身は、世界はグローバリゼーションなしで済ますわけにはいかないので、グローバリゼーションと云うパラメータを、他の二つよりも大きくはしたいという立場のようです。

しかし、「グローバリゼーション・パラドクス」は教条主義からは遠く離れており、「市場原理主義者」が信念により当然のこととして気にもせずに通り過ぎてしまうようなところを、データの相関分析と分析結果の客観的な解釈にもとづいて「物言い」をつけるようなところのある面白い本です。

たとえば、「関税が撤廃されるということは、単に誰かが勝って誰かが負けるということではない。そのとき起こる再分配の規模は『純』利益を圧倒するほどのものなのだ。これが、現実的な状況で貿易政策がもたらす一般的な結果なのだ。この論点をよく理解するために、かつて私は、自由貿易を擁護する際に経済学者が用いる標準的な仮説に従って、効率性改善による利益に対する再配分の規模の比率を定量化したことがある。その数値は莫大なものだった ―― 実際あまりにも大きかったので、間違いを犯していないことを確認するために、何度も再計算せざるを得なかった。」(「グローバリゼーション・パラドクス」〈白水社〉第三章)

ちなみに、(規模の小さい貿易収支の差がもたらすところの)とても規模の大きな再配分とは、金持ちはより豊かに貧乏人はより貧しくという方向に働く再配分のことです。

「グローバリゼーション・パラドクス」は刺激的で、米国東海岸の著名大学で教えているけれども「脱米国的」というか、世間的な道理のわかっている人が書いた本という雰囲気が漂っています。調べてみると、ロドリクは米国人ではなく、東洋と西洋が融合するイスタンブール(トルコ)の生まれのようです。さもありなん。

「グローバリゼーション・パラドクス」は確かに刺激的な内容なのですが(それにユーモアもある)、下村治の「日本は悪くない(悪いのはアメリカだ)」という表題の本ほどには刺激的ではない。僕の勝手な判断では、前者の持つ社会経済哲学としての誘因力は後者のそれには及びません。下村治は池田勇人の経済政策ブレーンだった人です。「所得倍増計画」の実質的な立案者です。

「グローバリゼーション・パラドクス」は原著の出版が2011年。一方、下村治の「日本は悪くない(悪いのはアメリカだ)」が上梓されたのが1987年。下村が76歳か77歳の時の著作です。

「日本は悪くない(悪いのはアメリカだ)」と「グローバリゼーション・パラドクス」との間には四半世紀の隔たりがあるのですが、内容は、国民経済と自由貿易(つまり、現在用語では国民経済とグローバリゼーション)の関係についてのもので、そういう意味では両著の基本部分は重なり合っている。しかし、国民経済(国民経済は民主政治と言い換え可能)に対する思いの深さに相当の差があるように感じられます。そのあたりが「グローバリゼーション・パラドクス」の誘因力が「日本は悪くない(悪いのはアメリカだ)」よりも弱い原因なのかもしれません。

前述のように、下村治は池田勇人の経済政策ブレーンだった人ですが、国民経済と自由貿易(現在語だと国民経済とグローバリゼーション)の関係についての分析は見事です。25年前に書かれた本だとは思えない。読んでいて飽きない。

ミルトン・フリードマンは自分の経済学が、物理学や天文学などと同じように「自然科学」であると考えていたようですが、下村治は経済という学をそういう風には考えない。経済は人間の基本理念を反映し、同時にさまざまな感情と思惑と利害と思い込みが飛び交いそれがプロセスに否応なく影響を与えるものなので、ある人が自分の経済理論や経済政策が自然科学であると主張することは、その考え方の射程距離の短さと矮小さを表明することにもなりかねません。自然科学的な客観性を持っていると胸を張っている「市場原理主義」は僕の眼には(部分的には説得力と客観性があるにせよ、つまりもっともらしく聞こえるが、全体的には)客観をよそおった信念(教条主義)と映ります。

下村治の基本理念とは、たとえば以下のようなものです。国民経済への情熱が伝わってきます。(「日本は悪くない(悪いのはアメリカだ)」〈文春文庫〉第四章と第六章)

・「では本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きていくかという問題である。・・・・その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」

・「経済の問題に政治の問題が登場する根本の条件というのは、経済を国民経済の問題として考えなければならないからである。・・日本でいえば・・この一億二千万人に十分な雇用の機会を与え、できるだけ高い生活水準を確保する、これが国民経済の根本問題である。そうして、世界経済は、こういう国民経済がからみ合って成立しているのである。だから国際経済の問題に政治的な問題が登場する。為替レートや貿易自由化の問題も、実は国民経済の問題なのである。」

・「自由貿易主義の決定的な間違いは、国民経済の視点を欠いていることだ。」

・「自由貿易とはそういう(【註】完全雇用を達成するために輸入制限の強化が必要であればそれを受け入れるというような性格の)ものである。決して、神聖にして犯すべからざる至上の価値ではない。強大国が弱小国を支配するための格好な手段でもあることをもっとハッキリと認識すべきだ。」

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