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2015年1月 6日 (火)

座標軸を少しずらして、中国思想に関する刷り込みを見直し

雪には埋もれてはいるものの日中は晴れ間の多かったお正月休みも使って、中国思想に関する本とおつきあいしました。理論編とでもいうのが二冊、事例研究編が二冊。理論編は、津田左右吉著「シナ思想と日本」と中村元著「東洋人の思惟方法(シナ人の思惟方法)」。事例研究編は、本棚から引っ張り出してきた文庫本で、紙の色に経年変化が感じられるところの「論語」と「荘子」です。

目的は、中国思想に関してぼく自身のなかに刷り込まれてきたものの位置を見直すことです。そのためには、刷り込まれてきたものが依拠していたであろう座標軸とは距離を置いた座標軸を持っている著作物が役に立つ。距離を置いた座標軸を持っているとは、シナ思想にかぶれでいない視点を持っていること、シナ思想を冷静にそして相対的に位置づけられるような視座に立っているということです。

タマネギの皮を外側から一枚一枚剥いていくような文体で、どこまで剥いていくつもりなのか読んでいる途中では定かでないし、剥き方にも適当にアドリブが入るので、そういう意味では目的地についていくのに我慢を強いられるのが、津田左右吉の「シナ思想と日本」です。文体に慣れるころには、二つあるうちの最初の論文をそれなりに読み進んでいることに気づきます。

「シナ思想と日本」と「東洋人の思惟方法(シナ人の思惟方法)」に共通しているシナ思想の本質をひとことでまとめると、シナ思想とは、政治の術・処世の術としての実用思想であり、したがって非思弁的・非形而上学的である、ということになります。

『シナの知識社会に発達した思想の特色として先ず考へられるのは、すべてが直接に人の現実の生活に関係のある、いはば実際的の、問題に集中せられてゐるといふことである。道徳か政治か、然らざれば処世の術、成功の法か、あらゆる思慮は殆どみなその何れかについてである。儒家の説くところが道徳と政治とに関するものであることはいふまでもなく・・・特に政治の術に於いてさうである。』(「シナ思想と日本」)

本の目次とは本来そういう役目を担っているものですが、「東洋人の思惟方法(シナ人の思惟方法)」の目次を書き写すと、著者の考えるシナ思想の箇条書き要約ができ上がります。

・具象的知覚の重視
・抽象的思惟の未発達
・個別性の強調
・尚古的保守性
・具象的形態に即した複雑多様性の愛好
・形式的整合性
・現実主義的傾向
・個人中心主義
・身分的秩序の重視
・自然の本性の尊重
・折衷融合的傾向

そういうシナ思想を日本人は書物を通して勉強しました。『シナ思想の淵源が一定の古典にあり、日本人のシナ思想を知るのは後世までも主としてそれによったのであるが、その古典は宗教的に崇敬され、それに万世不窮の教えが存する如く考へられたからである。日本に伝えられたシナ思想は儒教が主になっていたのであるが、それは人の道を説くものであって、その道を学ぶものにはそれを実践することが要求せられ、従ってその説くところの道が絶対の権威を有するものとして教えられたので、その意味に於いて一種の宗教的性質を有つてゐた。』((「シナ思想と日本」)

中華のまわりの日本や匈奴やベトナムといった国々は夷狄(東夷とうい・北狄ほくてき・西戎せいじゅう・南蛮なんばん)と呼ばれていました。中華文化を身につけていないので、その扱いは禽獣と同じレベルです。しかし、中華の文化は少しずつは夷狄にこぼれおちていくことになっていました。実際、朝鮮や日本は必死に勉強して漢文化を吸収したので、結果としてそうなったわけです。

このあたりの考えは、富はグローバル経済から国民経済や地域経済にトリクルダウンする(あるいは、することになっている)と主張するグローバル経済のお好きな方の仮説に似ています。つまり、グローバル経済思想は当然のことながら「政治術・処世術としての実用思想」ですが、「国民経済・地域経済」という「夷狄」との関係の考え方において、シナ思想、中華思想のコピーと云えなくもない。

「シナ思想と日本」と「東洋人の思惟方法(シナ人の思惟方法)」では、儒学も老荘思想も処世の学という枠で「ひとくくり」になっています。その「ひとくくり」が正しいなら、処世の術や政治の術のヒントをパラパラと頁を繰りながら本文中に捜すような接し方以外の近づき方だと、「論語」や「荘子」は、つまらない書き物を途中で放り出すような具合になるに違いない。しかし、必ずしもそうでないなら、それは必ずしも処世の術や政治の術の実用書というわけではない。

「事例研究編」らしく、意識的にそういう視点で「論語」と「荘子」をそれぞれ通読してみます。論語は、学生時代から今までも必要な箇所を必要に応じて辞書風に参照していますが、全体の通読には縁がありませんでした。荘子は内篇や外篇の刺激的な部分や好きなところは何度も熱心に読んでいます。今回は「内篇」や「外篇」のお気に入り以外にも目を通します。ぼくは、今でも新聞広告のいちばん多い処世術実用書にとっては決していい読者ではないので、読み始めて退屈だと感じたら、「論語」にしろ「荘子」にしろ、著者たちの主張が正しいということになる。

「論語」という儒学の基本図書は孔子の発言記録集ないしは言行録で、いわば、国家公務員総合職試験用のテキストです。ぼくにとっては内容があいかわらず退屈だったので、ちょうど半分くらい目を通したところで我慢できなくなって中止しました。そこまで我慢する必要もなかったのですがやはり「論語」というものついての知らぬ間の刷り込み圧力がそうさせたのでしょう。だから「論語」が、官僚向けの『道徳か政治か、然らざれば処世の術、成功の法か』についての言行録と云うことには間違いがなさそうです。

一方、「荘子」は退屈することがない。神秘哲学的な記述・形而上学的な記述以外に処世術風の記述も混じっているのですが、そこには儒者の知や世間知に対する棘や毒や足払いなどが含まれていて、退屈せずに読める。だから、『道家、即ちいはゆる老荘、の思想は保身の道、成功の道、もしくは治民の術であり・・・、畢竟、(儒家と)等しく処世の術である』(「シナ思想と日本」)という見解には同意しない。

たとえてみれば、「荘子」を読むのは、キース・ジャレットのケルン・コンサートやその他の複数のソロ・コンサート、ジョン・コルトレーンのマイ・フェイヴァリット・シングズを続けて聴くみたいなものです。思弁的・形而上学的な音の流れ、官能的な音の洪水の後に、次の音の啓示に出会うまでの手さぐりのような、つなぎのような音の流れと途切れがある。「荘子」の処世術風の記述はキース・ジャレットやコルトレーンの手さぐりやつなぎです。聴く方も少し姿勢を緩める。また緩みを締める。飽きることがない。

今回は勝手で簡単なシナ思想についての座標軸の見直し作業でしたが、津田左右吉の著作には、シナ思想に限らず、ぼくの内部に徐々に刷り込まれてきた「日本」というものについての座標軸を自覚的に見直すためにも役に立ちそうなものが多いようです。

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