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2015年2月 5日 (木)

「座標軸を少しずらして、中国思想に関する刷り込みを見直し」・補遺

座標軸を少しずらして、中国思想に関する刷り込みを見直し」の続きです。

孔子に関して次のような理解や考えもあります。孔子のお好きな方の、あるいは孔子と同化傾向のとても強い方の贔屓の引き倒しの感もありますが、同時に強い説得力もある。

(その一)

「山内得立氏は次のようにのべておられる。唯一神の理解が、孔子、老荘においてすでにあったことをみた。孔子は、それについて語らなかったが故に、かえって深い理解があったとみることができる。しかしながら、語られないことは、伝わりにくく、後世の誤解を生むことになる。」(鈴木秀夫「超越者と風土」)

(その二)

 「孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。」(白川静「孔子伝」) 

「孔子は偉大な人格であった。中国では、人の理想態を聖人という。聖とは、字の原義において、神の声を聞きうる人の意である。孔子を思想家というのは、必ずしも正しくない。孔子はソクラテスと同じように、何の著作も残さなかった。しかしともに、神の声を聞きうる人であった。その思想は、その言動を伝える弟子たちの文章によって知るほかはない。人の思想がその行動によってのみ示されるとき、その人は哲人とよぶのがふさわしいであろう。」(白川静「孔子伝」)

孔子は、「子、怪力乱神を語らず」(論語 述而篇)で、超越的なものについては沈黙を守ったそうですが、「神の声を聞きうる人」であり、唯一神について「かえって深い理解があったみることができる」という考えも、彼が二千五百年前の中国で「巫女の子」として生まれたのなら、代々の巫覡(ふげき)のDNAを引き継いでいたに違いないので、不思議ではありません。「巫女の子」という視点で「論語」(の、それらしきところ)を読み直すというのも、適度な牽強付会の範囲なら、無駄ではないかもしれないとは思います。

たとえば、「子曰く、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む」(論語 述而篇)の「古」を老子の「玄」で強引に置き換えてみると「述べて作らず、信じて玄を好む」となり風景が一変します。

刷り込みと云うことに関して云えば、儒教についてぼくにひそかな刷り込みを働いたのは、「老子」や「荘子」以外だと、空海の二十四歳の処女作である「三教指帰(さんごうしいき)」と、五十七歳の時に撰述した「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中の「十四問答」です。刷り込み効果という点では、私度僧であった若い空海が「唯、憤懣(ふんもん)の逸気(いっき)を写せり。誰れか他家の披覧(ひらん)を望まん。<ただ、内部の悶え憤るものを写し表わしたもので、誰か他の人たちに開き見てもらおうとは思わない>」という勢いで八世紀の終わりに書き、ぼくが二十世紀の後半に同じような年齢の頃に読んだ「三教指帰」の影響力は大きい。

「三教指帰」(最初は「聾瞽指帰(ろうこしいき)」と題されていた)は儒教・道教・仏教のドラマ仕立ての比較宗教論というか比較思想論、「十四問答」は儒教と仏教がそれぞれの立場から質疑応答劇・論争劇で、そこでは、「儒学とはすなわち忠孝と官僚・官吏」という構図になっています。「神の声を聞きうる人」を想起させるような官僚は、残念ながらというか、当然ながらというか、この二つの著作物には登場しません。

今のところは、この、儒教にとってはネガティブな刷り込みを、どこか外に押しやるつもりはありません。

___ii
       「聾瞽指帰(ろうこしいき)」の本文書き出し部分

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