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2015年5月11日 (月)

巫祝や祭祀者を好む方の、推量と断定のリズムの妙

白川静の著作に「孔子伝」があります。巫祝(ふしゅく)の血を引いているらしい孔子についての記述が、推量・推測と断定の間をリズミカルに交互し、ほとんど小説の展開という趣きです。祭祀者の流れを引いているらしい荘子についても似たような論述が見られます。

「孔子はとくに卑賤の出身であった。父のことも明らかでなく、私は巫児の庶生子ではないかと思う。」(「中公文庫」版、15ページ)

「孔子は孤児であった。父母の名も知られず、母はおそらく巫女であろう。」(同、19ページ)

「孔子は、巫女の庶生子であった。いわば神の申し子である。父の名も知られず、その墓所など知る由もない。」(同、22ページ)

「孔子の世系について『史記』などにしるす物語は、すべて虚構である。孔子は、おそらく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。」(同、26ページ)

「政治的な成功は、一般に堕落をもたらす以外の何ものでもない。」(同、28ページ)

「私はさきに、孔子が巫祝の子であり、おそらく巫祝社会に成長した人であろうと述べた。それはその伝記的事実の解釈から自然に導かれたものであるが、儒教の組織者としての孔子を考えるとき、このことはまた、必要にして不可欠の条件であったと思われる。古代の思想は、要約すれば、すべて神と人との関係という問題から、生まれている。」(同、69ページ)

神話と呪術が好きな漢文学者・古代漢字学者の白川静は、「孔子伝」のなかでは、「述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む」(論語 述而篇)という信念でほとんど孔子と一体化しているように見えます。だから同時に、その思想が孔子とは全く違うタイプであっても、巫祝の子である孔子に似た出自の、祭祀者の流れをくむと思われる人たちにも惹きつけられます。

「荘子がどのような生活者であったのかは知られない。しかしこの文章からみると、彼が祭祀者の流れをくむものであったことは、疑いないように思われる。ノモス的世界のなかで神は見失われている。しかし人は、神を棄ててよいのであろうか。物をして物たらしめるもの、その真宰の存在を知らなければならない。イデアは実在する。荘子はそのために、多彩な論証法を展開するのである。」(同、241~242ページ)

「この文章」とは荘子「斉物論篇」の「地籟(ちらい)<地の管楽器>」すなわち「風」についての形而上学的で象徴的な説明です。「風」とは、荘子にとって、存在以前の存在のことです。その「風」が「大木の竅(あな)」という個別の存在と出合って多様な音を響かせる。引用している「この文章」の最後に「福永光司、荘子、少し改めた」とあります。(原文は別途参照していただくとして)訳が流れるような日本語なのでそのまま書き写してみます。

『山林はざわめきゆれ 百圍(ももかかえ)の大木の竅(あな)という穴 鼻に似たる 口に似たる 耳に似たる 枡(ますがた)に似たる 圏(さかずき)に似たる 臼に似たる ふかきくぼみに似たる あさきくぼみに似たる 風はたぎつ水の音 矢走る音 叱する音 いき吸う音 叫ぶ音 声あげてなく音 くぐもれる音 遠ほえる音 前なるものは于(ふう)と唱え あとなるものはごうと唱える 冷風はさやかに和し 飄風は大きく鳴りひびく どよもす風が吹き過ぎたあとは あらゆる竅がひそやかとなる 見たまえ 樹樹は調々とゆらぎ 大木は刀々(ちょうちょう)としてそよぐを』(同、241ページ)

ぼくにとって「荘子」は気が向けば気が向いた箇所を何度も読み返したい種類の書物ですが、「論語」はそういうタイプの言行録ではありません。しかし、白川静にとっては孔子も荘子も巫祝や祭祀者の流れをひいた、それぞれの「古(いにしえ)」の体現者なのでしょう。

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