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2017年5月

2017年5月31日 (水)

「正法眼蔵」のなかの「われ」

「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」のような著作では、キーワード的な用語の定義はゆるやかであり、固定的ではありません。読者は、普通、同じ著作物の中ではある用語が同じ意味を担い続けることを期待しますが(なぜなら、そうでないと読みにくいし、通常はそういう約束事が書き手と読み手の間に成立していると思っているので)、道元の「正法眼蔵」は必ずしもそういう具合に進んでくれません。議論の文脈や話題が変われば、その用語の意味合いがドラスティックに遷移します。
 
「正法眼蔵」は「空(くう)」についての形而上学的な著作なので、そこに描かれた世界は「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界・文節的な世界」「そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な(空の)世界」そして「非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる(戻ってくるしかない)、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」という(三層構造のような)構造になっています。(「文節」や「非文節」といった考え方や用語は井筒俊彦の「意識と本質」や「Toward a Philosophy of Zen Buddhism」から)
 
そういう世界の見え方、あるいは、世界と自分とのそういう三重の関係性を、中国、宋時代のある禅僧(青原惟信)は平明な日常用語で次のように述懐しました。
 
「上堂して言った,わしは三十年前,まだ禅に參ずる以前,山を見れば山であり,川を見れば川であった。のちになって親しく善知識にお目にかかり,入り口が見つかった時,山を見ても山でなくなり,川を見ても川でなくなった。今は落ちつく場所が得られて,前と同じく,山を見ればただ山であるだけ,川を見ればただ川であるだけだ。諸君,この三種の見かたは,同じか別か。はっきりと区別がつけられる者がいたら,わしと出逢ったと認めよう。」(「嘉泰普灯録」、訳文は衣川賢次著「感興のことば」から引用)
 
だから「正法眼蔵」に登場する「われ」も、
 
・「外界と内部をともに二元論的に区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」
・「主客の区分や固定的な実体の存在しない無文節な(狭義の)空の世界におけるわれ」
・「無文節な空や無の世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した(広義の空の)世界に住んでいるわれ」
 
の三つの衣装を文脈や状況に応じて纏うことになります。
 
「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻の冒頭には意味合いの異なる二つの「われ」が、最初は明示的に、つづいてもうひとつは非明示的に現れます。
 
「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。・・・・しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」
 
「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。」の「われ」は明示的な「われ」で、「外界と内部をともに区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」です。だから、そういう「われ」にとらわれない世界では、二元論的な対立概念であるところの迷いも悟りも、生も滅もともに存在しない。二つの区分そのものがない。
 
「しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」(そうではあっても、きれいな花が散ってしまうのは惜しいし、雑草が繁茂してくるのを見るのは嫌いだ)と感じる(明示的でない)「われ」は「無文節な世界を経て再び分節化した世界に住んでいるわれ」です。しかし、そういう空や無を経た「われ」でも分節化した日常では花を惜しみ雑草を嫌う。
 
「われ」はそこにとどまりません。「有時(ゆうじ、ないし、うじ)」という巻に登場する『われ』は、また別のニュアンスを持っています。
 
「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいるわれ」には違いないのだけれど、文節的な「われ」がどうも強く匂うようです。
 
ぼくたちが「世界」や「われ」という言葉と出会ったときには、ぼくたちのなかで世界が分節化していても分節化していなくても、存在論的な意味合いでの「世界」や「われ」というものがまず頭に浮かびます。時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」というのはどうも後回しになる。時間としての「世界」、時間としての「われ」というものには、ぼくたちはなじみが薄い。ぼくたちの成長過程で刷り込まれることになっているものの一つがアイデンティティーや自我の確立ですが、そういう場合のアイデンティティーや自我とは存在論的なそれのことです。
 
だから、「われを排列(はいれつ)しおきて尽界(じんかい)とせり、この尽界の頭頭物物(ずずもつもつ)を時時(じじ)なりと「しょ見」すべし。物物(もつもつ)の相礙(そうげ)せざるは時時の相礙せざるがごとし。・・・・われを排列して、われこれを見るなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。」といった一文を前にすると、ぼくたちは、時間論的な「われ」の出現でどうにも落ち着かない。
 
ぼくたちをもっと落ち着かせなくさせるのは、この一節における文節的な「われ」の香りの強さです。「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいる『われ』」には違いないのだけれど、その『われ』のなかからどうしても文節的な「われ」が強く匂いだしてくるように感じられます。ぼくには、これは道元がわざとそうしていると思われるのですが、その理由は、時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」に不慣れな人たちに「有時」という衝撃を与え、「有時」に引き寄せるためには「われを排列して、われこれを見るなり」といった文節的に見える「われ」の在りようが必要だったからです。
 
「有時」とは、普通は「或る時は」くらいの意味ですが、道元はそれを、「存在(有)」と「時間(時)」がいっしょになったもの、(存在とは時間であり、時間は存在であるという意味で)存在と時間の一体性を表すもの、として使っています。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」時間はもともと存在である、存在とは時間のことである。
 
塵(ちり)の小片ひとつの中にも世界のすべてが含まれている。「華厳」とはそういう存在論的に輝く世界です。しかし、そういう世界観だけでは、時間論的な「われ」の出現を聞かされたぼくたちの「落ち着きのなさ」は消えないかもしれません。だから、文節的な「われ」と勘違いしそうなくらいの「スーパー華厳的な『われ』」が、ここでは持ち出されたのでしょう。それが「有時」における「文節的なわれ」風の香りの強さにつながっているように思われます。
 
そういう香りを持ちながら「正法眼蔵」の「われ」は時空を貫きます。「われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず(自己に時があるはずである。自己がすでにあるのだから、時が自己を離れて行ってしまうはずがない)」。
 
過去が現在を呑み込みながら現在を吐き出しているとも考えられますが、「われ」という現在が過去を呑み込み、同時に新たに、現在と過去を吐き出しているのでしょう。

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2017年5月30日 (火)

お気に入りの、とても頑丈な段ボール箱

ものすごく頑丈で、中に相当に重いものを入れても左右にしっかりとした布の持ち手があるので比較的楽に運べる、そういう按配の段ボールの箱です。20年近く使い続けています。
不要なものはどんどん捨てるか中古品屋に売ってしまいます(不要なものが発生しないのが望ましいですが、間違いはあります)。しかし、気に入ったもの、ボロでも役に立つものは使い続けます。この段ボール箱もその一つ。
 
この段ボール箱が我が家にやってきたときは、そこには、ペアで使う製品がぐらつかないようにしっかりと支える土台(黒く塗られた四角い鉄のかたまり)が2個セットで入っていました。
 
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当初の役目は、新聞紙をゴミとして出す前の保管箱でした。4つに畳んだ新聞紙を長い方を縦にして入れるときっちりと収まります。いっぱいになるか、新聞紙の収集日が来ると中身はゴミ袋に移動します。
 
7年くらい前から、その役目は、甕(常滑焼)用のいくつかのサイズの重い中蓋(実質的な役目は重石)の収納箱に変わりました。それなりの枚数があるので、こういう頑丈なものでないと収納できません。

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2017年5月29日 (月)

外側パリパリ内側しっとりの米粉パン

米粉パンはグルテンなしでは膨らみませんが、熊本産のミズホチカラという米粉用のコメから作られた米粉は、米粉に製粉するときのデンプンの損傷が少ないため、グルテンなしでも膨らむらしい。でも、最初の、少なめの米粉でやった実験なので期待したほどうまくいきませんでした。
 
ミズホチカラ(ご飯として炊くとパサパサでおいしくないそうです)からは、お菓子用の米粉とパン用の米粉が作られています。パン用に大きめの粒度で製粉した米粉でパンを焼いてみました。グルテンは入れません。オイルも使いません。塩少々。砂糖少々(酵母のエサとして)。適量の水。道具は、ある家電メーカーのホームベーカリー。
 
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たとえてみると、和風のフランスパン。外側表面がパリパリで、中はしっとり。外側のパリパリは、どうも煎餅のパリパリ感に近い。だから、評価は、最初の実験なので期待したほどうまくいかなかった、ということにしました。でも、ぷわっと膨らんでいないという意味で格好はよくないけれど、おいしい食べ物であることには違いない。米粉の量を普通にまで増やし、オイルを少し加え、水の量を調整してやれば、期待通りの結果になるだろうと思います。

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2017年5月25日 (木)

チラシと興味深いセグメンテーション

郵便受けに入ってくるチラシには、新聞に折り込まれたものやポスティング業者によってポスティングされたものなどがあります。申しわけないのですが、ほとんどは、目を通すことなく、雑紙専用のゴミ箱に直行させます(たまった雑紙は、決まった曜日に札幌市が無料で収集していってくれるので)。
 
しかし、ときどきは、興味深い切り口のメッセージが印刷されたチラシに出会うこともあります。ぼくにそういうニーズがあるというのではなくて、チラシの作成者の目の付け所がユニークなのでつい目を通してしまう、マーケティング用語を使うと、セグメンテーションのやり方が面白いのでチラシの文章を最後まで読んでしまうということです。
 
先日、女性の経営するある行政書士事務所からのポスティング・チラシが入っていました。訴求相手を絞り込んだ内容のもので訴求対象は「共同生活者に住宅・マンションやその他の資産を確実に遺したいが、さて、どうしたものか」と、その方法に悩んでいる人たちです。
 
「あなたの資産を奥様に遺す遺言書作成をサポートします」という大きな活字の書き出しで始まり、「公正証書遺言作成支援」の料金と「*別途、公証人役場へ支払う手数料が発生致します」というコメントが記載され、そのあとに「下記に該当する方は、公正証書遺言をおすすめいたします」という本文と、その該当者の状況例が続きます。
 
その状況例とは、「お子様がいない場合」「旦那様に前妻との間に出来た子供がいる場合」「現在内縁の妻と購入したマンションに住んでいる場合」など。
 
どれくらいのサイズのセグメントかはわかりませんが、セグメンテーションのしかたはユニークです。好奇心からこの行政書士事務所のウェブサイトを拝見すると「当事務所は、“離婚公正証書”の作成に重点を置き、相手方と交わした取り決めを確実なものにしていくことを大切にしています。」とあるので、セグメンテーションのしかたは筋が通っているようです。

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2017年5月24日 (水)

魚の切り身のマーケティング

なかなかに気の利いたポップメッセージに出会いました。場所はさるデパ地下の魚売り場、丸ものの対面販売のコーナーではなく、パックにした切り身を並べてあるエリアです。
 
商品名(魚の種類)、産地(水揚げ地)、値段、消費期限など、食品表示関連の法律で決められている項目だけをラベルに記載というのが、ぼくが記憶している限り、このお店のやり方でした。丸ものの対面販売のコーナーでは、たとえば厚紙にその魚の宣伝文句を書けますが、切り身パックに関しては、目玉商品を除き、普通はそんな場所がない。
 
どこかの地域のお店でそれをやり、お客の評判がよかったので取り入れたのか、それともそのお店が始めたのかわかりませんが、商品ラベルにポップ(宣伝文句)を入れたところがなかなかにいい。
 
「時さけ」というのは、もともと「時不知(ときしらず)さけ」と呼ばれていた(今でもそう呼ばれていますが)鮭で、なぜ「時不知」かというと、鮭は秋に大量に収穫されそういう鮭は「秋さけ」と総称されています。秋ではなく春に水揚げされる鮭なので「時しらず」と呼ばれるようになったそうです。
 
味は、断然「時不知」です。だから、この時期の鮭は、本当は、時を知らないのではなく、(ヒトにとっておいしい)時を知っている鮭ということになります。「時さけ」と呼ぶのは理にかなっています。鮭は秋、ということにとらわれている人たちには、「生時さけ(北海道産)〈今が旬!!〉」というのはポップだけではなく啓蒙メッセージの役割も兼ねています。
 
それから、黒カレイの簡単でおいしい食べ方をよく知らない、たとえば、奥さんになったばかりの女性や独身男女には「くろがれい(紋別産)〈お煮付がおすすめ〉」というのは、とてもシンプルで訴求力のあるアプリケーション(調理)ノートです。
 
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2017年5月23日 (火)

酒粕でクラッカー

酒粕(さけかす)でパウンドケーキとクラッカーを、配偶者が作ってくれました。
 
酒粕は日本酒を絞った絞り粕のことですが、どこまで絞るかは酒蔵や日本酒のタイプによって違います。今回使った酒粕はあまり絞らない酒蔵の酒粕だったので、パウンドケーキからはお酒の匂いが立ち上り、お酒に弱い人なら確実に酔っぱらってしまいます。
 
クラッカーは、酒粕100gに対して米粉が200gという割合が基本で、そこに全粒粉(小麦粉)と塩を足します。砂糖類は入れない。お気に入りのフードプロセサで生地をつくり、生地を薄くのばし、あとでパリッと切り離せるようにカッターで点々の切り込みをいれ、オーブンで焼いて点々に沿って切り離すと、大人の風味のクラッカーのできあがりです。こちらは、加熱でお酒は残っていません。
 
このクラッカーはおやつにも向いていますが、お酒の肴としてもけっこう便利です。胡椒を加えてもいいし、バジル風味も面白い。塩のシンプルさがいちばんではありますが。
 
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関連記事は「酒粕でお菓子、酒粕で甘酒」。
 

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2017年5月22日 (月)

烏(からす)の行水

「烏の行水」(からすのぎょうずい)とは、入浴時間がきわめて短いことのたとえです。お風呂に入って、よく体を温めているのかいないのか、よく洗っているのかいないのか、10分もあれば風呂場から出てくる人の入浴行為をさして「烏の行水」といいます。
 
では、烏の行水を実際に見た人がどれくらいいるのか。烏の行水は本当に短いのかどうか確かめたことがあるのか、と問われると答えに窮する人が多いに違いない。
 
五月下旬の樹木のなかで新緑を楽しむために、北海道大学植物園に配偶者と行ってきました。週末の遅めのとても暖かい午後の、簡便な森林浴です。
 
こういう植物園は烏の天国です。ぼくたちを明らかに不法な侵入者とみなしている。広葉樹が広がる一帯の草原の上が、天然のエサが多いのか、好みのようです。針葉樹の方はそうでもないらしい。
 
この植物園には水生植物も多いので池があります。バシャバシャとうるさい音がするので何かと思って近づいてみると、その池で烏が二羽、連れだって水浴び(行水)をしていました。しばらく見ていましたが、けっこう長い間、羽をバシャバシャと水に漬けたり、頭から水に入ったりと忙しい。ヒトの平均的な入浴時間よりは短いかもしれませんが、けっこう真剣な様子です。あまり「烏の行水」という感じではありませんでした。シャワーだけで済ませるタイプのヒトよりは真面目かもしれない。だれが「烏の行水」と言い始めたのか。
 
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2017年5月19日 (金)

郵便ポスト雑感

写真は近所の郵便箱には貼ってある郵便物の集荷時間です。これを拝見するとハガキや手紙やその他のポストに入る郵便物を集めることを郵便局は「取集め」というらしい。
 
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赤い郵便箱はこれ以外にも近所にあるのですが、以前の記憶だと、ここ以外は、レターパックのようなA4の書類がある程度の厚さで入って配達状況がトレースできる大型手紙風の郵便物の受け口が箱の右側に「ない」タイプが設置されているので、何を出すにも便利な場所の郵便箱を利用するようになりました。(今は、新しいタイプに置き換わっているかもしれませんが、確かめていない。)
 
以前は、一日の「取集」回数は、平日や土曜日は4回だったと記憶していますが、3年ほど前から一日3回になったようです。最近は、宅配便会社の郵便物相当物の取り扱いも盛んなので、この赤い箱の利用頻度や利用料が減少し、それで4回が3回になったのだろうと勝手に考えています。あるいは郵便局のコスト削減の結果かもしれません。
 
下は2011年に高野山で出合った古いタイプの郵便ポストです。A4サイズの大型封筒向きではありませんが、風情があるので旅の便りの投函には最適です。
 
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2017年5月17日 (水)

新しい緑と古い緑

街路樹の柔らかい新緑が楽しめる時節になりました。写真は「エゾモミジ」です。この時期の樹々の緑色はその色合いが日々変化するので、ぼんやりとしているとその柔らかさをめでる頃合いを逃がしてしまします。
 
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小さい鉢に入っていたのを買ってきて、鉢を大きなものに取り換えながら8年以上お世話になってきた観音竹(「竹」という名前がついているがヤシ科の植物)を先日、処分しました。定期的に間引きはするのですが、成長力が強いので鉢の容量が限界のようです。葉の先の様子から判断すると根詰まりを起こしているに違いない。
 
これ以上大きい鉢は重くてぼくの手に負えないし、葉の掃除も大変なので、思い切って処分することにしました。頑丈なタイプの剪定鋏でバシャっバシャっと切っていきます。頃合いの大きさと長さに切りそろえて、燃えるゴミにしました。
 
今まで観音竹があった場所は何もない空間になりました。その空間を別の何かで埋めるか、それとも余分なもののない見通しのよさを、さらに、楽しむか。
 
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2017年5月15日 (月)

道路わきの春

上の薄紫色はビンカ・ミノールという名の植物で公的な建物の敷地や公園、車道わきの街路樹用の細長い緑地のグラウンドカバーとしてよく使われています。花の色は写真のような淡い紫、他に濃い紫や白いのもあります。最初にきちんと植え付けておけば、毎年、この時期になれば、緑の葉が地を這い花が咲く。寒い土地でも大丈夫。
 
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ビンカ・ミノールの近所やとなりで、西洋タンポポがいっぱい、黄色い花を咲かせていました。写真は、そのごく一部です。商用先まで歩いている途中で撮影。その日も、薄めのコートを羽織らないと寒い朝だったのですが、写真の彼らには気にしていない風情でした。こういうのは歩いていないと出会えません。
 
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2017年5月12日 (金)

食用油脂のことなど

必ずしもそうとは言えないとは思うのですが、いちおう、長生きの方がそうでないのよりもいいことだということにしておきます。
 
食用油脂、とくに植物油や植物油を使ったマヨネーズのような加工食品は食品会社のマーケティングがとても盛んな領域なので、ときどきはそのマーケティングメッセージの内容を眉に唾をつけて見ることも必要です。食用油脂に関して参考になった本のひとつが「油の正しい選び方・摂り方―最新 油脂と健康の科学」です。8年ほど前に、食用油脂の雑駁な知識の整理のために読んでみました。今もときどきの参照目的のために本棚においてあります。
 
その本の著者がある雑誌(「通販生活」)のインタビューで食用油脂について語っていました。アップデート情報もあったので興味深く読ませてもらいましたが、その骨子は、記事のタイトル通りで「『バターやラードなどの動物油より、サラダ油などの植物油のほうが体にいい』は間違いです。」
 
その方のお勧めの食用油脂は、
 
□飽和脂肪酸であるところの「動物性脂肪」を多く含む「バター」と「ラード」
□多価不飽和脂肪酸であるところの「αリノレン酸(オメガ3系)」を多く含む「エゴマ油(シソ油)」「アマニ油」「魚油(DHA・EPA)」。
 
多価不飽和脂肪酸であるところの「リノール酸(オメガ6系)」を多く含む「ごま油」「大豆油」「コーン油」「紅花油(サフラワー油)や、トランス脂肪酸がいっぱい入っている「マーガリン」を推奨していないのは当然としても、一価不飽和脂肪酸であるところの「オレイン酸(オメガ9系)」を多く含む「オリーブ油」や「菜種油」「キャノーラ油」「(高オレイン酸型の)ヒマワリ油」などもおすすめ対象ではありません。
 
コレステロールに関する箇所では「体に悪いどころか、コレステロ ールは人間に欠かせない成分です。・・・略・・・細血中のコレステロール値が高いと心臓病が増えるとする研究も一 部にはあります。しかし、研究対象の集団に偏りがあり、心臓病のリスクが強調され過ぎています。そもそも心臓病のリスクが多少減ったとしても、長生きできなければ意味がありません。」と語っています。
 
「血中のコレステロール値が高いと心臓病が増えるとする研究」(者)は、血圧の高さと循環器系疾患の関連を妙に強調する人たちと似ています。血圧を下げる薬を飲んで(飲み続けて)心臓病のリスクが多少減ったとしても、長生きできなければ意味がありません。しかしながら、最近ではまた、血圧は130未満というのが勢いを盛り返してきたみたいです。「『収縮期血圧が147以下』で『拡張期血圧が94以下』なら高血圧を気にしなくてもいい」という一般健常者にとって実際的なガイドラインはどこかに隠れてしまいました。
 
 

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2017年5月11日 (木)

サクラガサイタ・補遺

「桜は満開よりも、六分七分の方が好き」ですが、ゴールデンウィーク中の先日夕方、札幌のあるところで、満開の桜の樹の下から上を見上げてシャッターを押したときに、偶然、華やかだけれども想像以上にしっとりとした風情の満開の花が撮れていました。満開の桜もこういう按配ならうんざりもしませんし、艶めかしすぎてひょっとして樹の下に屍体が埋まっているのではないかなどと考える必要もありません。
 
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桜は象徴的な表象なので、満開に限れば、実際の桜よりも、手前と向こうに三重くらいに重なり合うのが四角に切り取られたこの写真のような淡い桜色のぼんやりとした花の集合の方が、桜らしいとも云えます。その桜の近くには、こんな外壁の家がありました。いい組み合わせです。
 
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2017年5月10日 (水)

2016年度産の最後のタクアン

 
2016年度のタクアン」の最後に「数日間、発酵の始まる様子を見ながら、必要なら日本酒を追加するなどの工夫をします。落ち着いてきたら蓋が閉まるまで重しを減らし、寒い中でゆっくりと寝かせてやる。食べ始めるのは来年1月の中旬くらいから。5月の連休あたりまで、ほぼ毎日、朝食で味わうことになります。」と書きましたが、この前の日曜日(5月7日)に最後の6本を取り出しました(すぐに食べないのは、真空パックして冷蔵庫へ。真空パックをすると風味が逃げず、長持ちします)。
 
札幌は暖かい日があるといってもやはり寒いのでゴールデンウィークあたりまでは、タクアンを戸外で発酵させ続けても大丈夫ですが、さすがにそのあたりがギリギリです。漬かり過ぎの一歩手前といったところでしょうか。配偶者もぼくも、この程度の漬かり具合を堪能できますが、ひとによっては、漬かり過ぎというかもしれません。微妙なところです。
 
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戸外でアイスボックスに収められてこの半年を過ごしてきた一斗(いっと)入りの容器(正確には19リットル入りのホウロウ容器)を、丁寧に洗い、次の出番まで休ませます。
 

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2017年5月 9日 (火)

宴から宴へ

「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず・・」と書いた平安時代の才女もいますが、冬の美が認識されたのは中世からです。札幌でも冬の美を身近に楽しめます。しかしそれを哲学的な美、昇華された美として堪能するには、札幌はどうも寒すぎる、雪が多すぎる。だから、昼が夜に追いつく春分の日が待ち遠しい。その日が過ぎると次は桜です。梅でも桃でもいいのですが、華やかさということで桜にしておきます。
 
桜が咲けば、お酒を飲んでも飲まなくても雰囲気は宴です。宴の直後は、たいていは空疎な空気が漂いますが、しばらくすればその空疎もなんらかの充溢に置き替わります。七分咲きが九日で柔らかい新緑に変わりました。こちらの方はお酒は飲まないけれども、新緑の好きな人たちにとってはこの柔らかい緑の拡がりは春のもう一つの宴です。
 
Dsc_4369_rev 4月27日
 
Dsc_4411_rev2_2 5月6日
 
次の宴は、ぼくにとっては、「夏至」です。陽が一年中でいちばん長い日。春分の日から夏至に向かって陽が目に見えて長くなる三か月は「冬の美」のあとではやはり気分が高揚します。
 
六月の上旬に「よさこいソーラン祭り」という(ぼくにとっては)騒々しいだけのイベントが札幌で開催されます。このイベントを始めた人たちのもともとの意図がどのようであったかは知りませんが、「夏至」をお祝いするための五日間の長い前夜祭だと考えると、あの猥雑さも気軽にやり過ごせるかもしれません。

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2017年5月 8日 (月)

春の中にいることを実感させてくれるもの

桜や梅や桃の花や樹木の新芽以外に春のなかにいることを実感させてくれるものは、陽の光が室内に射し込む具合と、朝の野菜の水遣り時の外気温です。陽の光に関しては、陽の光が差し込む具合というよりも、射し込まなくなった具合で春を実感すると言った方が適切かもしれません。
 
冬は、南向きの窓からは、陽の光が室内に斜めに射し込んできて、晴れの日の日中は陽の光が暖房替わりになります。しかし、春分の日あたりを境に、陽は室内に入り込むのを遠慮し始め、5月の声を聞くと、ガラス窓の向こう側に白い大きな帯を作ります。ヒトにとってはいくぶん残念ですが、その光の帯の下には、野菜の種をまかれた鉢植えが並び始めます。
 
ゴールデンウィークの明け方はまだ寒いので、葉物野菜でもルッコラのようなものは屋外の鉢植えに直接に種を播いても大丈夫ですが、バジルや紫蘇は室内の土ポットで発芽させてから鉢植えに移します。しかし、寒いといっても心地いい春の寒さです。
 
さて水遣りです。写真は、前日の夕方にルッコラの種を円形に播いた大きな鉢植えに水遣りをしたばかりのところですが、この時期なら発芽に3日~4日はかかります。水道水の塩素を濾過器で相当程度に取り除いた水をスプレーで上からかけてやります。農家が出荷前の野菜を傷まないように塩素を含んだ水道水ではなく、地下水で水洗いするのと同じことです。本葉が出るあたりまでは水遣りは丁寧に行います。朝の水遣りも、陽の光の差し込み具合と同様、春の遍在を実感させてくれます。
 
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2017年5月 2日 (火)

花と街のメッセージ

いつも楽しみにしている、黒板に書かれた「街のメッセージ」も「桜が咲いた」から「緑の新芽」に変わりました。桜はこれからが満開で散ってしまったわけではありませんが、メッセージ作成者の視点は桜の花から新芽に移ったようです。先日の「「セロニアス・ヒムセルフ」と「正法眼蔵」」という記事の関連で、「正法眼蔵」のなかで花や華が登場する印象的なところを二つ引用してみます。
 
「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、生あり死あり、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。・・・略・・・しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」(あらゆるものが、ともに区分的・文節的な自己でない時節には、二元対立的なものであるところの、惑いもないし悟りもない、仏もないし衆生もない、生もないし滅もない。・・・略・・・しかし、たとえそうではあっても、やはり、きれいな花は惜しまれつつ散り、そうでない雑草は嫌われつつ生い茂るものである。)
 
「本無華なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。」(花は本来的には空であるとはいっても、その空の花は、今、確かに存在している花でもある。この事情は、目の前の桃の花や李(すもも)の花についても同じであり、目の前の梅の花や柳の花についても同様である。)
 
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