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2017年6月 2日 (金)

「・・・の如し(ごとし)」

仏教という絶対者を想定しない形而上学的な宗教は、「空(くう)」を軸に、世界を次のような構造でとらえようとします。
 
(一) 「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界、対象が言葉によって切り刻まれた文節的な世界」
(二) 「(途中の悟りの段階で見えてくる)そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な世界、あるいは区分や区画が発生する前の未文節的な世界、空の世界」
(三) 「(悟りがさらに進んだ人たちが住む)非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる、区分と文節の世界、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」
 
(三)は見かけは(一)とまったく同じです。(一)から(二)を経由して(三)へと往還した人たちだけが同じ見かけの奥にある違いを知っている。
 
以下に十二世紀に生きた中国の禅僧と十三世紀の日本の禅僧の言葉を並べてみます(後者は前者の本歌取り的な立場に位置している)。
 
『水清(きよく)して底(てい)に徹す、魚(うお)の行くこと遅遅(ちち)たり
 空闊(ひろく)して涯(はて)しなし、鳥飛んで杳杳(ようよう)たり。』
 
『水清(きよ)くして地に徹す、魚行(い)いて魚に似たり。
 空闊(ひろ)くして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し。』
 
どちらの表現にも引きつけられます。
 
後者に引かれるのは、悟り(空)の世界と日常の世界、無分節な世界と分節された世界が二重写し的にクロスオーバーされており(魚行いて魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し)、クロスオーバーされた世界が持つ透明感に凄みがあるからです。前者に引かれるのは、「似たり」や「如し」のような修辞を使わなくても、無文節な世界と文節化された世界のクロスオーバー状態は厳としてそこにあり、その状況の被写界深度がとても深いからです。
 
でも、どちらが好きかと云われたら、ぼくは後者の凄みのほうに傾きます。

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