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2018年3月27日 (火)

「シンギュラリティは近い」の口直しには「ハーモニー」と「ホモ・デウス」:補遺

『シンギュラリティは近い』の口直しには『ハーモニー』と『ホモ・デウス』」、という先日の記事に関する補足です。補足内容は、「ハーモニー」と「ホモ・デウス」のそれぞれの著者がそれぞれにその本を書いたときの視点・視座に関することです。
 
ユダヤ教・キリスト教においては、万物が「全能なる神」により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない(そういう意味ではイスラム教も同じです)、世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行(進歩)していると考えられています。そういう「直線的な世界観」が特徴です。
 
つまり、世界には初めと終わりがあり、時間は直線的に進み、その直線的な思考を彩るのは進歩概念と黙示録的な終末思想です。この考え方を、それが出てきた風土を考慮して「砂漠の思想」と呼ぶ場合もあります。
 
マルクスの唯物史観 「原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会→共産主義社会」 などは、その典型例です。
 
また、マルクスから時代を少し遡ると、18世紀初頭の著作物に現れる「天地創造」の例として次のようなものもあります。「神による創造はおそらくこうではなかったろうか。初めに神は物質を創造の目的にそって、充実した、質量のある、堅固で貫くことができない可動粒子として創造し、その大きさと形などの性質や空間的な比率を定めた。」(ニュートン「光学」)
 
延長が性質であるところの外的世界は決定論的に動きますが、わたしという考える自我を含めた世界は直線的に進歩するということになります。
 
それに対し、仏教の場合、まず、万物が空なので、絶対的な存在(たとえば如来)もまた空ということになります。天地の万物は、空ではあるのですが、絶対的な存在の顕れとして絶対的な存在とともにあります。絶対者がなくなるということはないので、その顕れである天地万物もなくなることはない。死んだ動物と植物は土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生する。そこに、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立します。
 
つまり、世界には初めも終わりもないし、時間は輪廻的に循環し円環する。この考え方を、「砂漠の思想」が誕生した場所との風土的な対比で、「森の思想」と呼ぶ場合もあります。
 
超越的な視点を持つには(あるいは超越的な視座に結果として至るには)、ユダヤ教・キリスト教の神のように天の高みから下界を見下ろすという砂漠の方法と、葉が鬱蒼と生い茂る森の樹の下に静かに坐って瞑想をするという森の方法があります。
 
後者に関しては松岡正剛「空海の夢」の次の一節、「まったく『座る』とは東洋のおそろしい発見だったとおもう。・・・その契機は雨期によってとじこめられた森林生活によって余儀なくされたのかもしれないが、そこに『意識と言語の中断』を加えたのは、やはり恐るべき発見だった。」も参考になる。
 
そういうことを考えると、ユダヤ人の歴史学者で「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari)は、彼の中ではやはり「砂漠の方法」がデフォで、その顕れのひとつが「アニミズム→神イズム→ヒューマニズム→データイズム」という世界の発展の推移(どんな虚構、換言すればどんな共同幻想が世界を実質的に支配しているのか、その発展の推移)についての考え方です。
 
それに対して、日本人作家で「ハーモニー」の著者である伊藤計劃(いとうけいかく)の発想のデフォは「森の方法」です。政治と経済やわれわれをとりまく事態が「直線的世界観」を軸に強く進行していくなかで、それに組み込まれない方法しての「森の方法」を、その小説を書くときに強く意識したようにぼくには思えます。
 

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