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2018年3月 1日 (木)

グローバル・ガバナンスというもうひとつの共同幻想

ある程度の社会的安寧がもたらされる限りにおいては、その社会経済的虚構、あるいは政治的共同幻想は持続します(どういう状態を指して社会的安寧があると呼ぶのかは難しい議論ですが、ここでは深入りしません)。
 
グローバリズムやそれの支持観念であるところのリベラリズム(自由主義)は、この数十年で世界にひとつの大きな三角形(ないしはピラミッド)を作り出しました。三角形(ピラミッド)とは、富や権力のヒエラルキーのことです。人間の特性のひとつとして、富や権力に対する基本欲求がなくなることはありません。グローバリズムでは、とりあえずWin-Winの関係を享受することのできた参加者(参加国)が多かったので、各人(各国)の基本欲求は、全体としては満たされ続けました(ということになっています、南北格差は大きかったのですがそれは気にしないことにして)。
 
歴史上、世界にはいろいろな種類のヒエラルキーがありましたし、現在も多い。前の世紀とその前には、サイズが大きくて乱暴なものは帝国主義国家と呼ばれました。自分のサイズをもっと大きくして、他の乱暴な三角形を飲み込もうとする。すると、衝突が起こり、戦争ということになります。実際にそうなったのですが、第二次世界大戦後は、そのままではリスクが高すぎて先進国の生存が脅かされるというので、共同で知恵を出し始めました。その結果が経済優先のグローバリズムとリベラリズムです。ヨーロッパではECが誕生しました。
 
つまり、この数十年は、グローバリズムとリベラリズム(自由主義)が世界の主要国における共同幻想でした。それなりにきれいな夢だったのですが、夢の成果が一部の人や一部の国の専有物になり始め幻想効果が薄れてきたので、その共同幻想を捨てたいという人たちが各地で現れました。日本も例外ではなく、たとえば、共同幻想の枠外に置かれたような位置づけの非正規雇用者が増加している。
 
共同幻想の剥落とは、グローバルな現象面では、たとえば、Brexit(欧州連合からのイギリスの脱退)だし、米国におけるトランプ政権の誕生です。つまりは、ナショナリズムへの回帰です。ロシアのプーチンもそういう方向で動いています。ナショナリズムが正しい(というか、今後長期間、有効な)回帰先かどうかはわかりませんが、それ以外に実行可能な代替案は思いつかない。だからとりあえずナショナリズム回帰です。
 
安倍政権(というか、安倍総理というか)は、そういう意味では不思議な動き方をしています。アベノミクスはグローバリズムとリベラリズムそのものの純粋培養政策みたいなもので、最近議論になっている働き方改革もそのサブセットです。しかし同時に、安倍政権は1945年以前の、つまり戦前の日本に回帰したくてしかたないらしい。二つの逆方向のベクトルが彼の頭の中では矛盾なく共存しています。
 
1945年以前への回帰という思いはナショナリズムという虚構のひとつのあり方で、そのあり方は、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)の信じる虚構のあり方と通じるところがあります。そういう意味ではふたりは同じ種類の「幻想」を共有している。二人は深層心理面でお互いに気が合うに違いない。
 
そういうナショナリズム回帰という状況のもとで、現れてきたのが「グローバル・ガバナンス」という考え方です。以前、世界政府という言葉が根のない人気を博した時期もありましたが、舞台と衣装を変えたその再来と呼べるかもしれません。
 
国家単位、あるいはECのような地域集合体単位では解決できない問題(そういう場合にすぐに安易に引き合いに出されるのが地球温暖化対策、それから南北経済格差、そして、AIなどの進展の結果、先進国にも途上国にもあふれだす大量の「仕事のない人たち、役に立たない人たち」に各国でまたグローバルレベルでどう対処するかなどの今後の大問題)は、ナショナリズムでは対応のしようがない。だから、国を超えたもっと大きな、もっと上位の「共同幻想」を創らないかという提言が「グローバル・ガバナンス」です。
 
国家を超えた共同幻想の実効力のある例は過去に実際にありました。既存の宗教です。キリスト教やイスラム教や仏教には国家の壁はありません。しかし、これから、グローバル・ガバナンスのために、たとえば、キリスト教の幻想をいっしょに見ようと言われても、ぼくは、願い下げです。
 
グローバル・ガバナンスとは、ひとつの巨大なヒエラルキーに、世界全体を、明示的に、意識的に当てはめることです(参加者の同意を強引に、そして、無理やりにでも取りながら)。出来上がるのは、現代版のグローバルな士農工商制度かもしれません。そこには「家族(の幸せ)よりも国(の存続と繁栄)が大切だろう、国よりも、国を超えたなにものかが重要だろう」というロジックが持ち込まれます。そうでないと「共同幻想」にならない。しかし、実際には、どういう訴求力のある「共同幻想ロジック」になるのかは誰もよくわからない。
 
現在のグローバリズムを眉に唾をつけて眺めている人たちが、その内容はわからないにしても、そんな「共同幻想ロジック」に賛同するはずもない。なぜなら、グローバル・ガバナンスとは、すでに彼らが組み込まれている複数のヒエラルキーの外側に、さらに、スーパーセット的なヒエラルキーをもうひとつ覆いかぶせることだからです。窒息してしまう。
 
ところで、「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、あるインタビューで、「グローバル・ガバナンス」について歴史学者らしい興味深い意見を述べていました。
 
グローバル・ガバナンスなるものを考えると、グローバル・ガバナンスとはそもそも何か、どこの誰が実質的なガバナー(統治者)になるのかということが問題になりますが、ハラリにおけるグローバル・ガバナーのイメージとは、昔の中国の皇帝だそうです。秦の始皇帝、あるいは漢の高祖や武帝を思い浮かべているのでしょうか。そのあたりはよくわからない。しかし、つまり、中華(中華思想)のイメージです。中華の四方に居住していた異民族は東夷・北狄・西戎・南蛮(とうい・ほくてき・せいじゅう・なんばん)と蔑称されました。「日、出(い)ずる国」であるところの日本は中華から見れば、東夷のひとつということになります。
 
米国のトランプや北朝鮮の金正恩、ロシアのプーチン、EC、それから中国の習近平をも含めて、彼らを東夷・北狄・西戎・南蛮とみなして、彼らにあたらしい共同幻想を納得させる「強い力」がこのガバナーには必要なので古代中国の皇帝のイメージということになるのでしょうか。なかなかに面白い。
 
 
さきほど、グローバル・ガバナンスのためにキリスト教の幻想をいっしょに見ようと言われても、ぼくは、願い下げだと言いましたが、それが以下に引用するような種類の共同幻想なら喜んで引き受けると思います。
 
ただし、普通の意味でのガバナンスには役に立ちそうもない。しかし、AI(アーティフィシャル・インテリジェンス:人工知能)では対応できないような、形而上学的な次元で考えるガバナンスには向いています。
 
「道(みち)の道(い)う可きは、常の道(みち)に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは、天地の始めにしてして、名有るは、万物の母なり」(老子)
 
 

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