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2018年4月13日 (金)

回り道が必要な「大乗起信論」

サンスクリット語でかかれた原典を漢文に訳したものが「大乗起信論」ということになっているのに、つまり、「馬鳴菩薩 造。真諦三蔵 訳」〈述作者は馬鳴(めみょう)菩薩。漢訳者は西インド出身の訳経僧、真諦(しんだい)。〉と最初に書いてあるのに、サンスクリット原典が見つからないのが「大乗起信論」です。
 
だから、もともとサンスクリット原典などなく、だれか優れた僧侶が最初から漢文で書いたに違いないという専門家の意見もありますが、ぼくはそういうことには関心がありません。
 
「大乗起信論」とは、大乗への信心を起こさせる書(論文)というくらいの意味です。だから、英訳本だと英文タイトルは “The Awakening of Faith“ です。しかし、「大乗」といっても小乗仏教に対する「大乗」というのではなく、「仏教的な観点から見た真理」、「仏教的な観点から見た形而上的な真理」といった意味で「大乗」という言葉を使っているようです。
 
最初に読んだときには、「原文」と「読み下し文」と「現代語訳」を交互に読んでも、何を書いてあるのかよくわからない。用語の使い方が独特だし(たとえば、「アーラヤ識」、唯識での「アーラヤ識」は、ユングの集合的無意識をもっと深めたようなもの、「起信論」では「悟り」と「迷妄」が重なり合う集合体)、ある用語が事前説明や補足説明なしに急に飛び出してくるので困ってしまう(この論文が書かれた頃の読者はそういう事態にはまったく困らなかったにせよ)。
 
それから、この論文は、どういう読者を想定しているかを最初にあたりにわざわざ書いてあり、そのなかには、プロもアマチュアも含まれており、今風に言えばA4二枚以上の長い文章は読みたくないというような読者も想定されています。だから論理展開はわかりやすいに違いないと思ってしまうのですが、表現をできるだけ簡潔にコンパクトにと努めたせいも影響してか、実際の論理展開はとても込み入ったものになっています。形而上学的な議論が展開する中核部分の論述は、複雑な構成の変奏曲といった趣の書物です。
 
日本の仏教学者による複数の「原文」「読み下し文」「現代語訳」のセットに取り組んでみても、途中ですぐに暗澹となり、我慢して読み進んでもうんざりするばかりでした。
 
しばらく放っておいたのですが、そのしばらくの間に、藁にも縋りつく思いの藁に出会うことができました。その藁になってくれたのが二冊の書物で、ひとつは井筒俊彦の「意識の形而上学 ―『大乗起信論』の哲学」(1993)、もうひとつが ”The Awakening of Faith” (Translated, with Commentary by Yoshito S. Hakeda, 1967) における羽毛田義人のわかりやすい英語訳と丁寧な解説です。
 
そういういわば遠回りをしないと、もともとの「原文(漢文)」「読み下し文」「現代語訳」のセットに戻ってこれませんでした。「原文」「読み下し文」「現代語訳」セットで、回り道の結果、結局のところ落ち着いたのが「大乗起信論 宇井白寿・高崎直道訳注」(岩波文庫)。正確には、高崎直道の訳注という形式の解説です。
 
「大乗起信論」の骨子は、お気に入りの箇所を勝手に持ち出してそれを骨子ということにすると、以下のようになります。
 
《まず、心の真実の不生不滅なあり方(生ぜず滅せずという普遍的なあり方)を、衆生心のうちに如来(という名の真実)が蔵されているという意味で「如来蔵」と呼ぶことにする。しかし、心は現実には絶え間なく変化し生滅する。その普遍的でない(不生不滅でない)生滅のすがたを「心生滅」と呼ぶとすると、全体的な心の構造は、「如来蔵」という普遍的なあり方(の上)に、現実に個別に生滅を繰り返す「心生滅」が重なっているということになる。
 
言葉を換えれば、心の構造とは、不生不滅であるところの真実のあり方という面と、生滅する現実の個別的なすがたという面とが「和合」(結合)した状態である。この両面は、あるべきあり方と現実のあり方という点で同じではないが、ともに同じひとりの衆生の心であるという点では、異なったものでもない。この両面を含んだ衆生ひとりひとりの心のあり方を、ここでは「アーラヤ識」と呼ぶ。
 
この「アーラヤ識」は世俗と超世俗の一切のものを包摂し、一切の現象を顕し出すのでその名(アーラヤ、貯える)があるが、二種の内容を含むと考えると、そのひとつは「覚」(さとり)という内容、もうひとつは「不覚」(まよい、悟っていない状態)という内容である。つまり、「アーラヤ識」は「覚」と「不覚」の和合態である。》
 
「アーラヤ識」は音を漢字に置き換えた訳が「阿頼耶識」、意味的には「蔵識」、したがって英訳本だと The Storehouse Consciousness。《「アーラヤ識」は「覚」と「不覚」の和合態である》は、”the Storehouse Consciousness be defined as the place of intersection of the Absolute order and of the phenomenal order, or enlightenment and non-enlightenment, in man” となっていて言葉の緊張感は希薄になりますが、とてもわかりやすい。
 
この論文に限りませんが、古典というものは、けっこう遠回りの散歩がないと近づけないようです。
 

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