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2018年8月13日 (月)

「どっちだって、いいじゃん」と「どっちだって、いいじゃん。」

「そんなこと、どっちでもいいじゃん」なのか、それとも「そんなこと、どっちでもいいじゃん。」なのか。句点(マル、。)が閉じ括弧の前にあるかどうか、の違いです。

「どっちかなあ」と彼が言った。
「そんなこと、どっちだっていいじゃん」

「どっちかなあ?」と彼が言った。
「そんなこと、どっちだっていいじゃん。」

昭和21年3月に文部省教科書局国語調査室が発行した『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』という文書があります。句読点などの使い方に関して、公用文や学校教育は、現在でも、ここで示された考え方(準則)に従っています(従っているらしい)。

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つまり、文部省は「どっちだって、いいじゃん。」という表記法を勧めています。

一方、ジャーナリズムや商業出版界では、閉じ括弧と句点(。)の関係は以下のようになっているようです。

閉じ括弧の前には、句点(。)を打たない。

つまり、文章がビジネスの中心素材であるような分野の実業界では「どっちだって、いいじゃん」をデフォールト・バリューと考えています。その正確な理由はわかりませんが、活字印刷時代からの経済的な理由(少しでも無駄な文字埋め込み作業を減らす)と、会話文のスピード感を確保するという文芸上の理由が背景にあったのだろうと勝手に想像しています。

その実業界の実際はどうなのかを私的に検証してみたいと思ったので、手元にある文芸作品(明治末期から大正・昭和・平成まで)やノンフィクション(昭和と平成)、そして新聞記事(平成)からこの主題に関連する部分を、できる範囲でなるだけ偏りのないように引用してみます。

■谷崎潤一郎(『幇間』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「ここはお前さんと私と二人限りだから、遠慮しないでもいいわ。さあ、羽織をお脱ぎなさい。」

■芥川龍之介(『雛』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「明るいな。昼のようだな。」
父も母をかえりみながら、満足そうに申しました。
「眩し過ぎる位ですね。」

■川端康成(『禽獣』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「僕は年のせいか、男と会うのがだんだんいやになってきてね。男っていやなもんだね。直ぐこっちが疲れる。飯を食うのも、旅行をするのも、相手はやっぱり女に限るね。」
「結婚したらいいじゃないか。」

■三島由紀夫(『橋づくし』) 「どっちだって、いいじゃん」

「来年はきっといい役がつくわよ」
「そのうち年をとって小弓さんみたいになるのが落ちだわ」
「ばかね。まだ二十年も先の話じゃないの」

■吉田健一(『金沢』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「ただ無限に人間である他ないんですか、」と内山は言った。
「未来永劫に人間なんですよ、」と相手は答えた。「それだから人間が死んだって構わないじゃないですか。」

■吉行淳之介(『驟雨』) 「どっちだって、いいじゃん」

「あなたとお会いしていると、恥ずかしいという気持を思い出したの」
「なるほど、それはいい文句だ。商売柄いろんな言葉を知っているね」

■開高健(『輝ける闇』) 「どっちだって、いいじゃん」

男は茶をすすりつつたずねた。
「グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』を読みましたか?」
「読みましたよ」
「どう思います?」
「いい。シニカルだがいい作品ですよ」

■澁澤龍彦(『高丘親王航海記』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「日本の海の向うにある国はどこの国でしょう、みこ、お答えになれますか。」
「高麗。」
「そう、それでは高麗の向うにある国は。」
「唐土。」

■北方謙三(『雨は心だけを濡らす』) 「どっちだって、いいじゃん」

「現場、見とこうかね」
「それは構いませんけど」
「かたちは、もう覚えた」
「どこのトンネルですか?」
「坂になったところ。その坂を、ずっと真直ぐのばしゃ、野木という人の言った通りの絵になるんじゃないかね」

■倉橋由美子(『よもつひらさか往還』) 「どっちだって、いいじゃん」

「そろそろあちらに帰らなくては」
 と低い声で慧君だけに聞こえるように言った。
「まるでかぐや姫だ」
「私が?でもかぐや姫って、どう見ても十代の少女の感じでしょう」
「そんなことはないでしょう。最後に天に昇っていった時にはあなた位の堂々たる女神のような女性でしたよ」
「私の年もご存じないくせに」

■川上弘美(『センセイの鞄』) 「どっちだって、いいじゃん」

「なんでしょう、それは」わたしが訊ねると、センセイは首を横に振り、
「芭蕉も知らないんですか、キミは」と嘆いた。
「芭蕉ですか」聞き返すと、
「芭蕉ですよ。教えたでしょう、昔」と言う。

■松浦理英子(『ナチュラル・ウーマン』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「何時?」
「五時。」
「朝の?夕方の?」
「わからない。」

■レイモンド・チャンドラー(清水俊二 訳)(『さらば愛しき女よ』) 「どっちだって、いいじゃん」

「これさえあれば、何も要らないんだよ」と、彼女は坐りながらいった。「ところで、何を話していたんだっけ」
「セントラル街の店で働いていた、ヴェルマという赤い髪の女のことだ」

■ロバート・B・パーカー(菊地光 訳)(『失投』) 「どっちだって、いいじゃん」

「そのように眉をひそめない方がいい。目の端に年不相応の小じわが出来るよ」
「ミスター・スペンサー、この話し合いに個人的な事柄を持ち込まないでもらいたいわ。私の目の状況はこの話とは無関係だわ」
「なれど、怒った時のその目の輝きよ」

■沢木耕太郎(『流星ひとつ』) 「どっちだって、いいじゃん」

「河、それとも海?」
「河」
「どこの河?」
「旭川の近くを流れている河」
「海はないの?」
「そう…‥なくはないな。少ないけどあるな。裸で泳いでいて、とても気持ちよくて、向こうに島か陸があって、辿り着くと別の国なのね」

■山際淳司(『江夏の21球」) 「どっちだって、いいじゃん」

江夏が佐々木を2-1と追い込んだとき、衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこういったのだ。
《オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな》

■井田真木子(『ルポ 十四歳 消える少女たち』) 「どっちだって、いいじゃん」

「さっき会った金髪の女性、アンヌマリーという。彼女は何歳だと思う」
「十七歳、あるいは十八歳になりかけ」
「よし、彼女は十八歳だ。彼女は今、何をしていると思う?」

■関川夏生(『東京からきたナグネ』) 「どっちだって、いいじゃん」

 写真をとりあげて彼女は、うん、とうなづいた。
「これが日本人よ。日本人のイメージ。眼鏡をかけてる。痩せてる。頭がよくて冷情で事務がじょうずで」

■日本経済新聞(最近のスポーツ記事) 「どっちだって、いいじゃん」

「ポジティブにレースができた。自分にとってとても大事な、刺激的な一日となった」・・・・・・「レースにいろんなものを持ち込んでいた」(平井伯昌監督)。

こうやって趣味的に書き並べてみると「どっちだって、いいじゃん」という気持ちになってきます。

公用文や一般企業で使われるそれに類する文書で使用される鍵括弧は、たいていは、他の文章や用語の引用のため、ないしは注目語句の表示のためだと思われるので、会話文を囲む鍵括弧(「どっちだって、いいじゃん。」や「どっちだって、いいじゃん」)というのは使用頻度が非常に低い。従って、『閉じ括弧の前には句点(。)を打たない』をデフォにしておいた方が、学校勤めを除く一般社会生活では汎用性が高いという意味で、便利なようです。

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