姥捨て(うばすて)
以前にも書いたことですが、世の中には大きな網に放り込んで姥(うば)捨て山に持っていって棄ておきたい、そういう婆さん連中がいらっしゃる。そういう爺さん連中もいるかもしれませんが、ぼくの偏見では婆さんのほうが多い気がします。大した理由があって姥捨て山などという大袈裟な言葉を持ち出しているわけではありません。しかし、つまらない理由も徐々に積み重なるとこういう文章を書かせるほどの内圧になります。
男の子や女の子が、といっても中学生や高校生ですが、コンビニの前や駅の構内で座り込んでおしゃべりしているのに出くわすことがあります。以前はそういう子たちをジベタリアンといった。動線上にべたっとされると邪魔といえば邪魔なので、たとえば「そういうところに坐り込まれるとちょっと迷惑なんだけれど」「うっせー、俺たちの勝手だろ」という会話が発生することになります。
商品棚の特定の商品の前をふさいでしまって他の人にはその場所を決して譲ってくれない。ほかに待っている人がいますよという気配を控えめに送っても気づかないのか無視しているのかその場をどいてくれない、あるいは、こちらが商品を手に取ろうとしている最中に平気でどんと割り込んでくる勇猛な「姥(うば)」さまがいらっしゃる。老齢で感覚や視野が狭くなって他者の存在や気配が感じられないのかとも推察しますが、一瞬見せる他を見下すような眼付きは年齢でぼけているとは思えない。歳のころは70から80歳くらい。
昔々姥捨て(うばすて)という風習があったらしい。そういう民話や伝説が日本の各地に伝わっています。これを棄老(きろう)伝説といいます。柳田國男の「遠野物語」はその一例です。姥(うば)とは老女や老婆を指します。爺ではない。しかし姥捨てとなると棄(す)てられるのはお年寄りで、そこにはおばあさんもおじいさんも入っています。しかし、古人が選んだ名称は「姥」。
傍若無人な「姥」に遭遇した時は、姥捨て伝説を思い出し、いったん別の場所に行って戻ってくる。しかし、その場所をまだ占拠されている場合は、心の中で投網(とあみ)を持ち出すことになります。
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