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2019年1月

2019年1月31日 (木)

「鳴くまで待とう」でいくつもりだったのに、「鳴かぬなら燃やせ」と怒鳴られた

下は、日本経済新聞の社会面(2019年1月30日)にあった記事をそのまま引用したものです。この記事に書かれている「暴言事件」が発生したのは1年半前ですが、その事件がなぜ今ニュースになったのかということにはぼくはとりあえず関心がない。

この事件の(というのか事態というのか、その)内容に関して世間に蔓延しているのは市長の発言の乱暴さを非難する種類のものか、(その裏返しであるのところの)進捗度合いが遅すぎるらしい市の職員の仕事ぶりを笑うもの(したがって、市長の暴言も全体を通しては納得できるし、問題はない)かのどちらかのようです。

20190130_2

日経だけではよくわからないので、神戸新聞のネット版から市長と市職員との会話の一部を引用すると

<引用開始>

 職員「(立ち退き対象だった建物の)オーナーの所に行ってきた。概算で提示したが、金額が不満」
 市長「そんなもん6年前から分かっていること。時間は戻らんけど、この間何をしとったん。遊んでたん。意味分からんけど」
 職員「金額の提示はしていない」
 市長「7年間、何しとってん。ふざけんな。何もしてへんやないか7年間。平成22(2010)年から何しとってん7年間。金の提示もせんと。楽な商売じゃお前ら。あほちゃうか」
 職員「すいません」
 市長「すまんですむか。立ち退きさせてこい、お前らで。きょう火付けてこい。燃やしてしまえ。ふざけんな。今から建物壊してこい。損害賠償を個人で負え。安全対策でしょうが。はよせーよ。誰や、現場の責任者は」

・・・略・・・

 市長「見通しわかっとったやろ。ややこしいの後回しにして、楽な商売しやがって」

<引用終了>

株式会社(民間の大手不動産業など)の論理で市の職員の仕事ぶりを見るとゆったりとしていて効率の悪いこと極まりない。つまり、「7年間、何しとってん。ふざけんな。何もしてへんやないか7年間。・・・金の提示もせんと。楽な商売じゃお前ら。あほちゃうか」「見通しわかっとったやろ。ややこしいの後回しにして、楽な商売しやがって」という市長の発言はその論理の当然の帰結です。

駅近辺の交差点における交通事故の減少という正当な公共目的のためとはいえ、要は「立ち退いてください」というのが職員の業務です。権力と札束をちらつかせるわけにはいかない。こういうのには何かノウハウでもあるのかと思って調べていたら、「役所のやる地上げのテクニック」と題するあるブログ記事が見つかりました。著者は、以前、役所に立ち退きを要請されて実際に立ち退きをした経験があるらしいのですが、以下はその記事から引用したものです。

『コレね、役人の手口なんです。少しでもヤヤコシイ相手は後回しにして、とっとと道を作ってしまう。一軒だけ残されて、その家のせいで道路が開通しないと世間から見られるようになると、地主が音をあげて売ってくれるだろう、という策略。わざとやってるんですw 最終的には強制収容だって可能だしw 役所のやる地上げのテクニックなんだが、この市長はそれを知らなかったんだろうねw』

もしそうなら、担当者やその上司はこういうことには素人の市長をケイモウすることもできたとも思うのですが(こういう場合は「鳴くまで待とう」です、「鳴かぬなら燃やせ」よりも結局は早く片付きますよ、過去の例ですと、たとえば、・・・)、しかしその場でそうしなかった(らしい)ところをみると、やる気のなさがなんとなく結果に結びついただけだったのかもしれません。このあたりは藪の中です。

「その事件がなぜ今ニュースになったのかということにはぼくはとりあえず関心がない」と最初に書きましたが、1年半前の出来事を上手に広報活動できるのですから、市長のケイモウには熱意はなかったにしても、自分たちにとって好ましいヒエラルキー維持のために「邪魔者を燃やす」という方向の才覚は担当者は十分に持ち合わせていたようです。このあたりも藪の中です。

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2019年1月30日 (水)

咽喉(のど)に風邪を感じたら天然のハチミツ

季節は冬だけでなく、人ごみの中や複数の人といっしょの場所では差し支えない範囲でマスクをするようにしていますが、それでも外から戻ったときに咽喉(のど)に若干の違和感を覚えることがあります。そういう場合は、うがいの後で天然のハチミツです。

口に含んで喉のあたりでころがすようにゆっくりと味わいます。一般的に風邪といわれるのはウイルス感染によって引き起こされる鼻や咽喉の炎症のことですが、風邪予防というか初期段階の治癒効果という意味での天然のハチミツのコストパフォーマンスはとても高い。風邪薬コマーシャルには申し訳ないのですが、風邪薬の類は意味がない。

天然のハチミツとは、蜜蜂の巣箱から採蜜したものを、漉し網や漉し布で濾過しただけのものです。精製や加熱などの加工処理はされていない。だからもともとは蜜蜂の巣の一部であったところが微小な黒い粒や微細な白い欠片として混じっている。つまり、天然の抗生物質であるところのプロポリスが勝手に入り込んでいる。そしてそれだけでなく、ビタミン、ミネラル、アミノ酸や酵素、ポリフェノール、乳酸菌などもいろいろと含まれています。

タンポポに西洋タンポポ(多数派)と日本タンポポ(少数派)があるように、蜜蜂にも大多数派の西洋蜜蜂と少数派の日本蜜蜂がいます。西洋蜜蜂は花ごとに蜜を集める習性があり、だから、「シナノキ(菩提樹)」や「アカシア」、「クローバー」や「蕎麦」などの花の種類の応じたハチミツが瓶詰めされて販売されています。一方、日本蜜蜂は基本的に「百花蜜」、つまり特定の花ではなく居住地の半径2キロの範囲にあるいろいろな樹木や花の蜜をお好みで集めてくるそうです。従って、日本蜜蜂のハチミツには花の種類の表示がない。

欲を言えば、日本蜜蜂の集めてきた国産ハチミツを嘗めたい。生産量がわずかで、したがって値が張るとしても。私的な経験値だと、日本蜜蜂の天然ハチミツの方が西洋蜜蜂の天然ハチミツよりも、ポジティブな意味合いでの「不純物の力」が強い。だから、風邪薬なんぞはなくても「和蜂」の天然ハチミツは常備していたほうがいいようです。

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2019年1月29日 (火)

2019年版タクアンの二度目の取り出し

一回目の取り出し分の在庫がなくなってきたので、戸外の一斗樽から二層目のタクアンを1月27日に取り出しました。本数でいうと6本です。

いちばん上の層を形成していたいちばん小ぶりなタクアンは1月7日(二回目の20日前)に取り出したので、2019年度版の取り出しはこれで二回目です。樽には下の層ほど相対的に大きくて太いのを敷き詰めてある。一回目よりは二回目のほうがタクアンの切断面も当然大きくなります。

樽には全部で六層だったはずなので、一層で20日日間持つとすると、六層で120日(4カ月)。タクアンは朝ごはんに食べるだけなので、ゴールデンウィーク明けくらいまでは大丈夫でしょう。例年通りです。

2019_2

大きなステンレスボールに二層目を全部取り出し、発酵した糠がついたままの状態のものを台所に持ってくると、よく出来たタクアン特有の香りがそのあたりに広がります。こういう時に急にお客を迎えるとなると「すごい匂い」と顔をしかめるか「素敵な香りですね」とおっしゃるか。ウナギのかば焼きの匂いだけをおかずにして炊き立て白米を食べられる人は、樽から取り出したばかりのタクアンでも同じことができるかもしれません。

すぐに食べないものは、酸化防止のため、糠をつけたまま真空パックです。これもいつもの通り。

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2019年1月28日 (月)

削除することによる付加価値

スポーツ中継におけるアナウンサーの声や解説者の解説なるものは、ぼくにとってはノイズなので、できたらそういうものはないほうがいい。スポーツ中継でNHKが民放より少しいいところは、中継対象は非常に限定されているのだけれど、アナウンサーや解説者の声がカットされた音声チャネルが用意されているところです。

プロ野球中継ではときどきそういうことがありますが、直近ではテニスの豪州オープンやサッカーのアジアカップ2019がそういう扱いだったので、現場の映像と現場の音だけの臨場感が楽しめました。

付加価値とは価値を追加することですが、素なものにべたべたと何かを貼り付けても価値が増すわけではありません。アナウンサーの声や解説者の解説の声が入らないのは、余分なものを付け加えないという意味で、デフォな中継よりも「付加価値」があります。

それを仕事にしている人たちにはもうしわけないけれども、昔のベテランスポーツ担当アナウンサーのように最小限のことしか口にしないという美学や職人技はなくて、アナウンサーはしゃべり続けないと不安でしかたないみたいだし、解説者は高みからエラそうなコメントを出し続けないといけないという強迫に駆られているみたいです。それが放送電波で流れてきます。そういうのをウザイとかannoyingとか云うのでしょう。

飾り立てた小説の文体のような4Kや8Kも付加価値かもしれませんが、アナウンサーと解説者のいない削除の付加価値も捨てがたい。

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2019年1月25日 (金)

「スペンサーの料理」

「スペンサーの料理」という本が本棚にあります(昭和60年10月31日 再版)。ちなみに昭和60年は1985年。ロバート・パーカーのハードボイルド小説の主人公が「スペンサー」、スペンサーが活動する舞台は米国東海岸のボストン。スペンサーシリーズに出てくる料理と酒とレストランを、その時点までのもので整理したのがこの本です。

いろいろな料理やレストランが登場しますが、凝った料理はぼくにとってはそれほど印象的ではありません。ちょっとした食べもののほうが記憶に残ります。以下はそのちょっとした食べものや簡単だけれど気の利いた料理の例です。なおスペンサーシリーズ物の翻訳はほとんどが菊地 光氏。

・トマト・スープ

「今スープを食べているところなの」かのじょがいった、「少しどう?」
「昼食をすませた。しかし、コーヒーをいただきながらつき合うよ。また一夜をいっしょに過ごすようだ」
「そして?」
「そして、なんとかけりがつくと思う。きみは家に帰れる」
二人でカウンターに坐って、彼女はトマト・スープを食べ、私はインスタント・コーヒーを飲んだ。(『約束の地』)

・フライド・エッグズ

私はトーストにバターを塗った。パティがベイコン四切れと、裏返して軽く焼いた卵二つを皿にのせ、その皿をわたしの前においた。自分の皿には卵一つとベイコンを二切れのせた。椅子に坐ってオレンジ・ジュースを飲んだ。
「これはたいへん結構な朝食だ」わたしが言った。(『初秋』)

・ポテト・アンド・オニオン・オムレット

彼女が寝室から出てきた時は十五分くらいたっていたろうか。その間に私は台所にあるものをかきまわして探し、ポテト・アンド・オニオン・オムレットを作った。(『初秋』)

・フライド・グリーン・アップル

ソーセージは冷えたフライパンに入れて低温から焼き始めなければいけない。ジュージューと音がし始めると、大きな緑色のリンゴの芯を抜いて皮をむいた。厚めにスライスしたのをメリケン粉にまぶして、ソーセージから出た脂でいためた。(『ゴッドウルフの行方』)

・ピスタチオとバジリコ・ソースあえのスパゲティ

冷蔵庫にブロコリの二十オンス袋がある。青い大きなポットを取り出し、四リットルほど水を入れて火にかけると、それより小さめの蒸し底のあるソースパンに水を一カップ入れて火をつけた。水が沸くまでの間、ニンニク二かけを、クイジナートに入れてさらにパセリ一つかみ、メボウキ一つかみ、塩少々、油少々、殻をむいたピスタチオ一つかみ、を加えてブレンドした。(『レイチェル・ウォレスを捜せ』)

こういうところを原文で楽しもうとすると手作り風の「英語の基本料理用語集」が役に立つ(場合もあります)。

蛇足ですが、「フライド・グリーン・アップル」の項に出てくる「メリケン粉」とはけっこう時代がかった言葉ですが「小麦粉」のことです。国産のものを「うどん粉」と言ったのに対し、アメリカ産の精製された白い小麦粉を「アメリカン粉 → メリケン粉」と呼ぶようになったらしい。

それから「スパゲティ」の項の「メボウキ」は「バジル」の和名です。

Basil_20120812a_s_2

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2019年1月24日 (木)

英語の基本料理用語集

手元にあると便利なので「英語の料理用語集」というのをスマホとPCに置いてあります。そういう趣旨の簡易版が文字情報としてネットで公開されており、「計量用語」が6個、「調理器具用語」が25個、「調理用語」が40個、「火力用語」が5個含まれていました。それぞれのグループから2個ないし3個用語を取り出すと、たとえば以下のような具合です。

「計量用語」(6個)
tsp=teaspoon 小さじ (5cc)
tbsp=table spoon 大さじ (15cc)

「調理器具用語」(25個)
grater おろし器
strainer ざる

「調理用語」(40個)
core 芯を取る
grill 焼く
steam 蒸す

「火力」(5個)
low heat, low flame 弱火
high heat, strong fire 強火

しかし、それだけではもの足りないし、文字だけだと印象が薄い。また、調理器具用語にはgraterがあっても調理用語にgrateがないといった不平等さもあるので、項目の不足分を補いながら、画像情報はネットから適当な写真をお借りして(あるいは自分で撮影したものを加えて)、私家版の写真付きいいかげん用語集をつくりました。その結果、たとえば、grateとgraterの項は以下のようになっています。

grate (チーズや大根などを)すりおろす


grated raddish 大根おろし Photo

 
grated turmeric おろしたウコン Photo_2


grater おろし器(金) Photo_3 S


grater 山葵(わさび)用おろし板 shark skin 鮫皮 S_2

それから、Simmerはboilと違って100℃未満で沸騰させずに煮ることですが〈Simmering is a food preparation technique in which foods are cooked in hot liquids kept just below the boiling point of water (which is 100 °C or 212 °F), but higher than poaching temperature.〉、写真があった方が(その差が)わかり易いので次のようなものを探してきてくっつけてあります(写真はネットからの借り物です、この場を借りてお礼申し上げます)

Simmer_not_boil Simmer_not_boil_s

ときどきは役に立つ。手元にあるとそれなりに便利です。

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2019年1月23日 (水)

作品のなかで妙に気になる煙草や水切り台

ある短編作家の作品を読んでいるときに、その中でどうでもいいと云ったほうがいいかもしれないいくつかのことが妙に気になります。すでに鬼籍に入った作家ですが、1939年生まれの米国人で、ワシントン州やオレゴン州やカリフォルニア州といった米国北西部が生活基盤だったかたです。

ひとつは煙草。ぼくも20代、30代は煙草を喫っていたので偉そうなことを云える筋合いではないのですが、ほとんどの作品で、男も女も独身者も既婚者も若いのも若くないのもしきりと煙草を喫います。読んでいる方がうんざりするくらい喫う。そして吸い殻がまともな灰皿の中で消されることが少ない。道路にも頻繁に捨てられる。当時は、といっても50年代と60年代と70年代米国北西部が舞台です。登場人物の主体がブルーカラー層ということも関係しているのでしょうが、煙草に関しては時代の感性はずいぶんと変化しました。

もうひとつは、「水切り台(drainboard)」。下の” farmhouse sink with drainboard”というタイトルの写真はネットからの拝借物ですが(この場を借りてお礼申し上げます)、典型的な(あるいは現在の標準製品と比べると高級でレトロな)「シンク」と「水切り台」の組み合わせです。

Drainboard_farmhouse_sink_with_drai

「水切り台」の何が気になるかというと、たとえば、以下のような光景。

<14歳くらいの少年が「水切り台」に坐って足をぶらぶらさせながら、別の少年が電話しているのを見つめている。>

これは対象が少年(悪ガキと言い換えますか)なのでそういうのもまあ似合うのですが、もうひとつの光景は、ベイビーシッター兼家政婦として、奥さん不在のある家庭に短期で雇われる初老の穏やかで経験豊富な(子供の扱いも掃除も料理も得意な)女性が、その家に初めて訪れたときの次のような行為。

<彼女は台所を見回して、それからハンドバッグを「水切り台」の上に置いた。>

確かに水切り台というのは、座り場所やバッグの置き場所としては便利そうですが、そういう使われ方にはけっこうな違和感があります。

そんなことを考えながら彼の短編集を読み進むのも悪くありません。

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2019年1月22日 (火)

眼鏡屋さんの看板

札幌市内にある個人経営の(と思う)眼鏡屋さんの小さな看板です。ヨーロッパの街ではこの手の控えめでしゃれた看板をときどき見かけますが、そんな雰囲気です。ぼくはまだ客ではないのですが、以前から気になっていました。

眼鏡の絵のすぐ下に「持ち込み修理 承ります」と書いてある四角い板が控えめに並んでいます。個人経営の靴屋でも、作るだけでなく持ち込み修理を気軽にやってくれるところがありますが、そういう店が手近にあると便利です。

Opticians_shop

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2019年1月21日 (月)

白いタオルと手作り雑巾

雑巾(ぞうきん)は最近ではすっかり市販の商品になったみたいです。スーパーでも100円ショップでもインターネット通販でも綿100%タオル地が素材のまっさらな雑巾を売っています。手軽で人気があるのでしょう。しかし、我が家ではそんなもったいないことはしない。雑巾は手作りです

我が家の手作り雑巾の素材には二種類あって、ひとつは企業のロゴマーク入りの宣伝用タオルといった貰いものタオル、もうひとつは自宅の洗面所や浴室で使い古したタオルです。前者はたいていは繊維の品質やロゴの存在が洗面・浴用向きではないので余分なところをカットしてすぐに雑巾にします。使い古したタオルは、質のいいのを使っているうちにくたびれてきたものなのなので、最後のお役目として雑巾になってもらいます。裁ち鋏とミシンがあれば簡単です。

「昔ながらの白いタオル」というタオルがあったので3枚セットを試しに買ってみました。商品の説明コピーに『最後に雑巾になれれば、本望です』というのがあったからです。品質は配偶者の選択基準をなんとか通過しました。あとはしっかりと使い込んで雑巾にするだけです。

下の写真は企業の地味な宣伝タオルからロゴの入ったあたりを切り取り、雑巾向きのサイズにカットしたあと、ミシンをかけ、水通ししたもの。畳んであったので折り皺がありますが、まだ雑巾としてはデビューしていません。こういうストックを常に3~4枚くらい持っていると便利です。

B2

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2019年1月18日 (金)

午後5時のマイナス10.6℃はさすがに寒い

昨日の午後5時前の札幌中心部の気温はマイナス10.6℃で、それ以降、マイナスのあとにくる数字はもっと大きくなりました。前日の天気予報では「最高気温がマイナス5℃、最低気温がマイナス6℃」となっていましたが、けっこうなハズレで、ご愛敬です。雪はしっかり降りました。これは予報通り。

雪はさらさらしたのがゆっくりと積み重なる感じの降り方で(ときおり強い風が横殴りに乾いた雪を走らせましたが)、テレビニュースがよく使う石狩市(札幌のすぐ北隣)の日本海沿岸のような暴風雪(や、ホワイトアウト)には見舞われませんでした。

5_106_a

5_106_b

雪靴だとこういう日のほうが実は歩きやすい。

外気温はマイナス10.6℃なので歩道はアイスバーン状態で、つまり、そのままだと雪仕様の短靴やスノーブーツを履いていてもぼんやり歩いているとつるっと滑る(そういう日はそういうひとを男女を問わず数人は見かける)。しかし氷の上にサラサラ雪がきれいにかぶさった状態なので雪が滑り止めになり、靴底が地面にそれなりにがっしりと食い込みます。その気になれば走ることもできる。だから、ハイヒール風の冬靴で駆けるように歩く雪道のベテラン女性もいらっしゃいます。

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2019年1月17日 (木)

冬なのに冷蔵便ですか?

どうしても飲んでみたい日本酒があり、その酒を扱っている酒屋に一升瓶で同じものを複数本注文した時の話です(複数本の注文でないと送料が高くつきすぎるので)。

時期は冬のさなか。その店は、札幌ではないところの酒屋ですが立ち寄ったことがある店で、各地の酒蔵から取り寄せた一升瓶や四合瓶をガラス扉のついた大きな冷蔵庫(要はコンビニの壁際の冷蔵ケースと同じようなもの)で保管している実にまっとうなタイプですが、こういう場合には地域差をお互いに感じてしまいます。

「冷蔵便でお願いします」
「冬なので冷蔵便にしなくても大丈夫だと思うのですが。そのほうがお得ですよ」

予想通りの反応です。

「うーん、わかりにくいかも知れませんが、ま冬だから冷蔵便にしていただきたいのです。運送の途中で北海道のどこかの貨物倉庫やあるいは車両の荷台に、深夜から朝の配達時間まで数時間以上そのまま置いておかれることがあると思うのですが、そういうことになるとお酒がマイナス二桁の寒さで凍ってしまう恐れがあります。日本酒を凍らせるのはよくありません」
「いやー、冬の北海道ではそういうことがあるのですか、やっぱり北海道は寒いのですね。今回はいい勉強になりました」

冷蔵便は暑さ対策だけではありません。冷凍防止にも便利です。

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2019年1月16日 (水)

眼鏡と音声翻訳アプリ

眼鏡レンズを新しくしようと思いはじめての眼鏡店に立ち寄りました。眼鏡のフレームにはけっこうこだわりがあって、けっこう以前、とても気に入ったのに出合った時に全く同じフレームを片手の指の本数を少し超えるくらい購入し、それ以来、フレーム(品番)は同じものでレンズだけを取り換えていきました。その中にはサングラスもあります。当然のことながら現在では製造が終了している廃版商品です。というか、その企業がメガネフレームを作らなくなった

さすがに手持ち在庫もなくなってきたので、今まで使ってきたフレームと違和感のないのがあり、また、こちらの方が重要ですが、その店の雰囲気、担当者の経験と技量が気に入れば、レンズの更新も含めて新しくするつもりです。現在のフレームはまだ新しいので(購入したのは、前述のように、ずいぶん前ですが丁寧に買ったままの状態で保管してあったので新しい)、予備用としてレンズだけを交換します。

ぼくの現在の眼鏡フレームを目にした50年配の男性担当者が「懐かしいモデルですね」

新しいレンズが届いたという電話があったので、新しい眼鏡の確認と微調整と、その時掛けていた眼鏡のレンズ交換のためにそのお店にまた行ったときにそのベテランと雑談をする機会がありました。

「中国からのお客さんはいらっしゃるのですか」
「けっこう多いです」

ついに眼鏡ですか。眼鏡は風邪薬や炊飯器とは違います、炊飯器の中にはとても高価なものがあるとしても。眼鏡は気に入ったもの、眼に合ったものを購入するので買い手と売り手の繊細なコミュニケーションが必要です。気になって尋ねました。

「会話は何語ですが」
「少し英語も使いますが、たいていはスマホの音声翻訳アプリですね。お客様のスマホに翻訳アプリが入っているのでそれを使って会話します。お客様が中国語でしゃべると、日本語が画面に表示されます。私が日本語で話すと中国語になります。出来のいいアプリだと思います。だいたいどんな内容でも大丈夫です。でも『お渡しは三日後になります』というようなのは無理みたいです。『お渡し』が『私』になってしまいます」
「なるほど・・・」
「印刷物をスキャンして翻訳するのもありました。中には、通訳が同行しているお金持ちもいらっしゃいます。白タクの中国人運転手が通訳アルバイトもやっている感じではないです。このお店は、そばに□□ホテルがあって、そこは個人や家族旅行が多いので、だからでしょうか。でもたいていは翻訳アプリです」

簡単な近視はいいとしても遠近両用レンズが必要なかたはどうするのでしょう。そういうレンズはメーカーの注文生産なので北海道に数日間滞在するのなら問題はありませんが、ニ~三日の観光なら入手が難しい。滞在日数に余裕のある観光客がお客なのでしょう。

いずれにせよ、高級化粧品に限らず、眼鏡のようなコンサルティングがあったほうが安心な商品は日本で買うのが安心なのでしょう。だから、ローカウンターでの会話や相談が向いている商品にスマホの音声翻訳アプリが活躍するというのはわかりやすい話です。決済もそれなりに簡単ですし。

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2019年1月15日 (火)

2018年度分の最初のタクアン

外は氷点下です。先週末に寒い中を最初の数本を取り出しました。じつにいい香りです。写真はその中ですぐに食べる予定の一本。すぐに食べないその他は酸化防止のため真空パックし冷蔵庫へ。

端のあたりを切って二切れほどをパリパリとゆっくり噛んで今年の味の評価をします。やや甘めの美味しいタクアンに仕上がりました。

去年もそうでしたが、2018年度分(2018年の10月半ばに作業を開始して最初の出来上がりが2019年の1月なので2018年度分)も、有機栽培で小ぶりのダイコンを漬け込むことができました。この深い香りと味わいは自宅の手作りでないとおそらく出ません。

全体的に小ぶりですが、それでも相対的に大きいサイズを漬け込み容器の底側に、相対的に小さいのを上のほうに寝かせてあります。上のほうといってもけっこうな重量の重石がすぐその上に載っているので、取り出すときはそれなりに力が必要です。

2019_ii

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2019年1月11日 (金)

お節とは別に、ピリ辛の田作り(ごまめ)

「田作り(ごまめ)」はおせち料理の祝い肴のひとつですが、我が家の「田作り」は甘いねっとりとした味付けではなく、さらっとした仕上がりのピリ辛味です。芥子(けし)の実もいっぱいまぶしてあります。

甘いのが嫌いなのでこの味付けになったのですが、この方がお酒との相性がいい。だから、日本酒の気の利いた肴として重宝しています。

田作りを多めに買っておいて、三が日用とは別にこのピリ辛を作ります。きれいな姿の山口産が実に穏当な値段で昨年末に手に入りました。酸化させないように注意して保管すれば、年明け後一ヶ月くらいは田作りで日本酒が楽しめます。

Photo

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2019年1月10日 (木)

ポピュリズム雑感

「Vox Popli, Vox Dei」(民の声は神の声)という言葉はもともとはラテン語の成句で、つまり、誰がいつそう言い始めたのかはよくわからない。8世紀のイギリス出身の神学者で、フランク王国のカール大帝の宮廷でラテン語教育などを担当していた「アルクィン」が大帝に宛てた手紙の中にその成句が、以下のような文脈で、使われています。その当時、すでに習慣的に使われていた決まり文句だったらしい。

「そして、群衆の騒動はいつも狂気に近いので、民の声は神の声と言い続ける人々の言うことに耳を傾けるべきではない」

その言葉の和訳熟語とされている「天声人語」とは、そのニュアンスがけっこう違います。だから、グローバリゼーションが好きな日本の全国紙の一面コラムに8世紀のニュアンスと同じような主張があっても不思議ではありません。つまり、このことに関しては、8世紀のフランク王国と現在のマスメディアとの間に「時差」がない。

「Populus」はラテン語で民衆や人民を指しますが、ギリシャ語のほぼ同じ意味の先輩である「Demos」(民衆、人びと)と比べると、その扱いが、いい悪いは別にして、そして、「government of the people, by the people, for the people(人民の、人民による、人民のための、政治)」におけるpeopleという考え方(ないしは概念)の真っ当さにも関わらず、軽いようです。デモクラシー(民衆支配)におけるDemosに対して、「民の声は神の声」や「ポピュラーソングやポップス」におけるPopulusです。なぜ扱いに差が出たのか。

一般的には、ポピュリズムとは、一般の多くの人たちの願望や不安や恐れを利用して(あるいは、それらを真摯に汲み上げて)、そういう人たちの支持のもとに、既存のエスタブリッシュメント体制と対決しそれを凌駕しようとする政治思想や政治姿勢のことです。

ポピュリズムという言葉に付きまとう軽さはどこから来るのか。ポピュリズムは、どんな政治体制とでも共存できます。体制が右寄りでも左寄りでもそんなことはおかまいなしです。社会主義者であるところの、ベネズエラの故チャベス大統領は、かつて「私は個人ではない、私は人民だ」と言いました。トランプ大統領を持ち出すともっとわかりやすい。ポピュリズムは、権威主義的な(あるいは独裁者的な雰囲気のある)政治リーダーと仲がいい、互いに適合的です。そのあたりに軽さがある。

ポピュリズムが対峙するエスタブリッシュメント体制とは、たいていは財力と知力のあるエリート層のことで、そのエリート層は、たとえば「トリクルダウン仮説」のようなエリート層の余剰利益がおのずと溢れて大衆の手に零れ落ちることになるといった経済仮説が大好きです。しかし実際にはほとんどそういうことにはならない。ここ数年の日本のGDPや実質賃金や消費支出の推移はその一例だし、フランスの黄色いベスト運動は別の例です。だから信頼できないエスタブリッシュメントと対峙・対立しようと思ったら、自分たちだけで事を起こすのは大変なので、大衆の気持ちを代弁してくれそうな「強い人、強そうな奴」を支持することになります。

人間は寄り集まって生活していく際にピラミッド型のヒエラルキー構造を作るのが習いです。集団生活なのでそういう階層構造を持つと効率がいいというのがその理由ですが、それが維持できるのは、その構造の持つ性格がそれなりに多くの人の個人的な資質に適合しているからでもあると思われます。大昔もやや昔も今もそのことに変わりはありません。1万2000年前に起きた農業革命(食料生産革命)以降は食料に余裕ができたので、食べものの生産や確保に体力や時間を費やす必要がない、統治することが役割の人たちも登場し、その結果、狩猟採集時代のヒエラルキーとはくらべものにならない大きな階層三角形ができあがりました。現代の国家や巨大企業組織におけるヒエラルキーの雛形です。両者の違いは、マックス・ウェーバーが云うところの効率的な官僚制がそこにあるかないか、その差です。

国家というものが世界の政治経済の構成単位であるときは、国家の単位でピラミッド型のヒエラルキーが存在します。19世紀に国民国家が成立しそれ以来国民国家が世界の構成単位なので、国の単位で政治経済のヒエラルキーがあります。

しかし現在では、国家とは別のヒエラルキーピラミッドが国家と同時に存在するようになりました。国境のない(あるいは国境を意図的に無視しながら乗り越える)バーチャルな巨大ピラミッドがあります。グローバリズムです。その状況を内側から眺めると、今まで不信感を抱きながらも慣れ親しんできたナショナル・ピラミッドを、それよりも遥かに大きいグローバル・ピラミッドが包み込んでいるという二重の階層構造が見えてきます。

人間のもうひとつの特質が、古い脳と新しい脳、情緒と知性、信念(感情に縛られ、往々にして不合理な方向に進む)と理性(合理的な思考)というもともとの成り立ちが異なるものを無理やりに共存させる能力です。当人の中ではお互いが共生的な関係にあると感じていますが(たしかにそういう場合もある)、両者のコミュニケーション回路はとても細いようです。だから、理性の産物であるところの合理的な健康法の実施のためには死んでもいいというような健康オタクが登場したりします。それは他者の微笑を誘うような小さな例ですが、両者の分裂が観察できるもっと大きな例は宗教戦争やイデオロギー闘争です(宗教やイデオロギーに関する武力闘争は、昔の話ではなく、今でも世界のどこかで簡単にライブ中継できる)。世界の救済のために、世界を殺す。

イデオロギーはその内容に極端なものが含まれていても一般的に知的な思考プロセスで組み立てられますが、ヒトラーのナチズムやスターリン主義や毛沢東思想による侵略や虐殺や粛清を眺めると、彼らを頂点にして彼らのまわりに、多くの献身的な、あるいは滅私奉公的なイデオロギー「信者」が活躍していたことがわかります。トランプの「America First」も「イデオロギー」です。我が国を振り返れば「神国日本」「八紘一宇」というのが80年前にはありました。そういう考え方をよしとした(あるいはそういうふりをした)献身的な人たちがいたわけです。エーリッヒ・フロムはそういう社会状況と民衆の心理状況を「自由からの逃走」と呼びました。

チリなどの南米諸国をターゲットに実施され始め、日本にも10年以上前に到達して金融業界や雇用市場にダメージを与えた「市場原理主義」「新自由主義」も新興イデオロギーのひとつです。市場原理主義は「惨事便乗型資本主義 (Disaster Capitalism)」とも呼ばれていますが、他国や対象地域の経済不況や政治不安、自然災害などにつけこむことを気にしないタイプの資本主義なので云い得て妙です。世界のために世界を殺す。

レイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」と、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を合わせ読むと興味深い景色(あるいはとても鬱陶しい光景)が見えてきます。レイ・カーツワイルは米国生まれの発明家、未来学者であり人工知能の権威。ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエルの歴史学者で「サピエンス」とその続編である「ホモ・デウス」の著者です。

「シンギュラリティは近い」という不思議な題名(宗教関係の著作物のような題名)の本は2005年に出版されましたが、シンギュラリティ(singularity)とは「技術的特異点」という意味です。遺伝子工学とナノテクノロジーとロボット工学というのお互いに重なり合う3つの技術を軸にテクノロジー全般が加速度的に進展する(収穫が指数関数的に増加する)、その結果、2045年あたりに「技術的特異点」に達し、そのとき、世界の主人公というか世界の支配者層は「人工知能」になっている。そういう趣旨の本です。

その時点の「人工知能」(Artificial Intelligence)を、一部の人類の発展形とみなすのか、人類とは別種の知的な存在と考えるのか、そのあたりは定かではありません。しかしその状況は、「パラダイム・シフト」という術語でわれわれが想定できるものを相当にはみ出しています。それだけに「特異」です。

現在の碁や将棋におけるヒトと人工知能の勝負や、現在の先端IT企業の持つデータ処理システムの射程距離からもわかるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのもの(つまりアルゴリズム)が次世代の人口知能とそれを使った製品や労働サービスなどの各種サービスをとても安いコストで再生産(開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事の大部分は、人工知能によって非常に高い経済効率で代替されてしまいます。

ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」は「シンギュラリティは近い」の技術的で煩瑣な描写を、歴史家のマクロな視座で記述し直そうとしているようです(結果としてそうなっている)。

近代資本主義成立期に発生した農業革命(食料生産革命とは別の近代の農業革命、たとえばイギリスの囲い込み運動など)によって大量の人たちが生きる場所を失いました。その結果、彼らは都市に流れ込み、産業革命を支える大量の「プロレタリアート」となり、資本の搾取対象としての、工場労働というものに従事しました。しかし今度は人工知能の進出で行き場を失った大量の人たちは工場労働(それが辛くて単純なものであったとしても)のような労働対象を持てません。人工知能が代替するからです。そういう意味で「役に立たない人たち」が世界にあふれることになります。

株式トレーディングの世界からヒトがいなくなりました。活躍するのは、躊躇なく超高速で売買するソフトウェア・アルゴリズムです。そのうちコールセンターやその他のサービス部門にもヒトは要らなくなる。弁護士や弁護士事務所の職員も例外ではない。ヒトの兵士も要らない。人口知能制御のロボット戦士が活躍する(たとえば、ボストン・ダイナミクスの試作品)。戦闘機や爆撃機のパイロットも要らない。

ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」は、カール・マルクスの「唯物史観」を想起させます。マルクスは、彼の弁証法的唯物史観にしたがって、社会の発展段階を次のように大別しました。壮大な抽象化です。

・ 原始共産制
・ 古代奴隷制
・ 封建社会
・ 資本主義社会
・ 共産主義社会

しかし彼の死後の未来は彼の思ったようにはならなかった。資本主義も共産主義も同じ産業主義です。平等よりも自由に高い優先順位をつけた産業主義が資本主義になり、自由よりも平等に優先権を与えた産業主義が共産主義になりました。両者に実質的な差はありません(マクロな経済運営の上手下手の違いはありましたが)。また、平等に優先権をつけたからといって、経済力格差や権力格差がなくなるわけでもありません。人間のつくる社会なのでピラミッド型のヒエラルキーは消滅しません。

ハラリの史観をマルクスの唯物史観風にまとめると以下のようになります。ここではその史観をとりあえず「データ史観」と呼んでみます。ユダヤ人らしく世界は直線的に進行します。虚構史観というほうがハラリらしいと思うのですが、そういう言い方だと、マルクスの唯物史観も虚構史観そのものです。両者の違いは、それぞれが鳥瞰した「共同幻想」の移り変わりをどう抽象化するか、その切り口の違いです。(余計なことですが、二人の共通点は砂漠の高みから地上を見下ろす「砂漠の思想」とも云うべき眼です。湿度の高いアジアの森の中で樹の下に静かに坐る「森の思想」ではありません。)

・ アニミズム(Animism): ヒトも動物も植物も岩も同じ。それぞれが霊的なものの顕れで、お互いに差はない。

・ 神イズム(Theism): 絶対者としての神が宇宙や世界を統御している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など。どちらかというと一神教の世界。

・ ヒューマニズム(Humanism): 「知能(インテリジェンス)」と「意識」を持つ人類(ホモ・サピエンス)が、動物よりもなによりもいちばん偉い。人類がかつての神の位置に立った(この状況をニーチェは「神は死んだ」と表現)。ヒューマニズムとは、人類が自分自身を崇めるイデオロギーないしは宗教。

・ データイズム(Dataism): ポスト・ヒューマニズム。人類(ホモ・サピエンス)はもはや主役ではない。人間とはすなわち生体アルゴリズムのことだと考えると、コンピュータやAIは人工アルゴリズムということになる。ナノテクノロジーやバイオテクノロジーやネットワークテクノロジーの進化により、アルゴリズム存在としては、人工アルゴリズムそのものであるところのAIが、生体アルゴリズムであるところの人類よりもはるかに優れている。だから、AIが世界の脚本家になり、世界の主人公になる。ほとんどの人類は「役に立たない存在、役目を持たない生体アルゴリズム」となる。

そういう流れを思い描くと、「ポピュリズム」は、「ヒューマニズム」という共同幻想ステージの最後の「喘ぎ」のようにも思えます。

ヒューマニズム段階という現段階において、富の分配・再分配に関して自覚的に不安と不満を持った人たちが多数います。制度的、構造的に生み出された人たちと言ってもいい。そういう人たちにとって、ヒューマニズムがその地位をデータイズムという別の共同幻想に譲ると、そこは人工アルゴリズムが情念を暴発させずに静かに統御する世界なので、自分の居場所がさらに(二重の意味で)希薄なものになります。そういう場合に、とりあえず依拠できそうなのは、人間味溢れる、つまり合理的な思考と不合理な信念の分裂や矛盾を(無理に隠そうとしないという意味で)明示的に抱えたリーダーであり、彼(あるいは彼女の)持つ正義感とインテグリティです。それが現在のポピュリズムの背景かもしれません。

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2019年1月 9日 (水)

古い観光地のタクシー運転手

古い観光地とは、ここでは、奈良や伊勢や京都などのことです。そういう地域のタクシー運転手の中には独特なものの見方や語り口を持ったかたがときどきいらっしゃる。個人旅行の場合タクシーに乗らないと行けないような不便な場所を訪れたときや、比較的長い距離を利用したときなどは運転手との会話の量が比較的多くなりますが、そういうときにそういう個性と出会えます。

「京都の仏教は死んだ人の仏教ですが、奈良の仏教は生きている人の仏教です」とおっしゃったのが奈良のタクシー運転手です。鎌倉仏教の前の日本仏教はしょせん借り物、輸入仏教だと断定した禅者もいらっしゃる。その禅者にとっては南都六宗も最澄や空海の密教も同じ穴の狢の借り物ということのようです。

タクシー運転手が云うところの「京都の仏教」は、おそらく鎌倉仏教を含んだものとしての京都の仏教ですが、その意見を聞いたのはたしか當麻寺(たいまでら、当麻寺)への途中だったと記憶しています。「當麻曼荼羅」で有名な當麻寺は7世紀の創建で、宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている不思議な寺院です。運転手の意見陳述にはふさわしい背景だったように思われます。

話題がふと名古屋になったときに「名古屋にはパチンコ以外に何がありますか」と疑問文風に断定した奈良の運転手にも出会ったことがあります。最初の運転手とは別のかたです。たしかに名古屋はパチンコ発祥の地だとされていますが、名古屋になにか恨みでもあったのでしょうか。でもそう言われたらそうかもしれない。

伊勢の個人タクシーの運転手の話も興味深いものでした。乗ったのは、以前はよく見かけた古いタイプのマニュアルシフトの古い車で、それが現役で走っている。走行距離は優に20万キロを超えて30万キロ近くに達しているかもしれません。床に小さな穴が開いていないかと心配になります。運転手は白髪の混じった頭を短く刈り込んでいる。

「今日は一緒に猟のはずだったのに連れが急に都合が悪くなって、それで仕事さ。あんまり仕事の気分ではなかったのだけれど、朝熊岳(あさまだけ)まで行ってくれるので助かったよ。山で何を獲るのかって?猪(いのしし)だよ」

「伊勢志摩サミットの時はまったく仕事にならなかったな。一ヶ月以上交通規制で検問ばかり。そのあたり全部が交通渋滞で動けないし、ホテルにいるのは警察関係ばかり。一般の宿泊客なんてほとんどいない。二週間くらいなら何とか我慢するけれど、ひと月だと干上がっちゃうよ。最初にやってきた警官は北海道警察だよ。洞爺湖サミットの警備経験があったからだな。警察官は余分な金は落とさないし、タクシーなんかは乗らないよな。自分の車を使うからな」

「伊勢神宮は内宮や外宮だけでなくこのこの辺り一帯の山まで全部含んで神宮だな。」

「金剛證寺の卒塔婆は大きいんだ。そばまで案内するから見てくるかい?中くらいの大きさのが十万円、いちばん大きいのは百万円、十年ごとに新しくすることになっているんだ」

「朝熊岳も金剛證寺も子供のころは遠足コースよ。一日がかりで、弁当は金剛證寺で食べる、家に帰ったら暗い夕方だ。猪狩りは面白いよ。犬を連れて山の中だ。俺もそろそろ70だから、足腰がいつまで猪猟に耐えられるか心配になり始めているよ」

レイモンド・カーヴァーの短編の妙に気になる場面に登場してくる妙に気になる人物(必ずしも主役的な人物とは限らない)を思い浮かべてしまうような、そういう滲み出てくる雰囲気を持ったタクシー運転手との会話は記憶に残ります。

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2019年1月 8日 (火)

大人向きの甘酒ゼリー、あるいはお米のスイーツ

米粒をハンドミキサーで細かく砕いた甘酒と、溶いた寒天を混ぜ合わせ、それからゆっくりと冷やすとお米のスイーツであるところの「白い甘酒ゼリー」になります。色合いが欲しいなら、抹茶もいっしょにブレンドすればいい。「淡い緑の甘酒ゼリー」ができあがります(下の写真)。

主役は甘酒。甘酒はお粥(かゆ)と米麹(こめこうじ)で作ります。

甘酒を作る工程は、

・うるち米をお粥にする
・お粥を60℃に冷ます
・そこに米麹を入れて混ぜる(それ以上温度が高いと麹菌が死んでしまう)
・そのあと60℃で10時間くらい発酵させる
・甘酒ができ上がる。

こうして作った甘酒は上品な甘さですが、甘みそのものはけっこう強い。米(コメ)というものが持っている甘さの精妙、甘さのスピリッツを実感できます。甘酒にはアルコールはありませんが、日本酒の持つ米の甘さと根は同じです。

寒天を溶かせたのをその甘酒(ただし、冒頭に書いたように米粒はハンドミキサーかなんかで細かく潰しておきます、甘酒として味わうには柔らかい米粒は風味ですが、ゼリーの場合には食感の邪魔になる)とミックスすると白い甘酒ゼリーになり、そこに抹茶を加えると緑の甘酒ゼリーができあがります。

ゼリーなので一人分サイズのガラス容器で冷まして固まったところを食べますが、甘酒の甘味が寒天の分だけ穏やかになっています。大人の舌も満足させるデザート(お米のスイーツ)だと思います。

Photo

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2019年1月 7日 (月)

「投刺」と「年賀状」

自分の名刺を他の人に届けることをかつては「投刺」と言いました。「刺」とは名刺のことです。森鴎外の「小倉日記」(明治32年)に次のような一節があります。

「歸途新二丁目なる書肆の主人長崎次郎を訪ふ。叉刺を茨木中將の家に投ず。大江村大字九品寺の邊に在り。旅舎に反りて午餐す。」(下線は「高いお米、安いご飯」による)

名刺を意味する「刺」という用語が定着したのが東漢時代(後漢時代)の中国で、その当時の「刺」は自分の名前を刻んだ竹の板でした。長幼の序を守るべきお相手やお世話になったかたがたに正月に年賀の挨拶に回るのが正式ですが、自分で多くの年賀の挨拶に回るのは時間的にも大変なので、その略式代替として「投刺」の風習ができました馬 興国 「正月の風俗-中国と日本」。「投刺」とは、もともとは年賀の名刺を届けさせることだったようです。

その「投刺」の日本版が年賀状です。年末には年賀の挨拶はできません。したがって年賀状も、本人は忙しいので家のものやお手伝いに届けさせることになりますが、年明けの行為です。

明治になって郵便制度が出来てからは年賀はがき(文字の多い手紙ではなく、はがきという簡単な媒体を使った年賀状)が人びとの人気を博します。年賀はがきを届ける郵便局員は、家のものやお手伝いの替わりです。

「これを届けておくれ」「はい」で、すべてがたとえば正月二日に片付けばいいのですが、そういうわけにはいかない。で、郵便局がきちんと元日に家のものやお手伝いの役割をするためには、前もって投函してもらった年賀状を集めてまとめて配達するという今の手順がいつの頃からか出来あがったであろうとは、容易に想像がつきます。

年賀はがきの印刷部分の余白に手書きされた一行から数行が歓迎されるのも、竹の板に自分の名前を刻み込むというそれなりに時間のかかる「投刺」行為の現在版だからかもしれません。明治生まれの人たちの中には、名刺は細筆で自筆というかたも少なくなかった。そばに正座してそういう名刺づくりを眺めていたことがあります。

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2019年1月 4日 (金)

二日と三日は九部屋の小分け皿

お節を重箱に盛り付けるのは元日だけで、二日と三日は写真のような九部屋の小分け皿を使い、四日からは普段のメニューに戻ります。

雑煮は、すまし汁と味噌仕立てを日替わりで楽しみます。すましには野菜にローストした鶏肉を食べやすい大きさにカットしたものを加えますが、味噌は野菜だけです。

味噌仕立てには今年は札幌の隣町で生産されている淡い色のこし辛口味噌(辛口といってもやや甘い)を使ってみました。餅は小ぶりな杵つきの丸餅(玄米餅)です。杵つきなのでとてもおいしい。あとを引きます。

Photo  2019

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