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2019年1月10日 (木)

ポピュリズム雑感

「Vox Popli, Vox Dei」(民の声は神の声)という言葉はもともとはラテン語の成句で、つまり、誰がいつそう言い始めたのかはよくわからない。8世紀のイギリス出身の神学者で、フランク王国のカール大帝の宮廷でラテン語教育などを担当していた「アルクィン」が大帝に宛てた手紙の中にその成句が、以下のような文脈で、使われています。その当時、すでに習慣的に使われていた決まり文句だったらしい。

「そして、群衆の騒動はいつも狂気に近いので、民の声は神の声と言い続ける人々の言うことに耳を傾けるべきではない」

その言葉の和訳熟語とされている「天声人語」とは、そのニュアンスがけっこう違います。だから、グローバリゼーションが好きな日本の全国紙の一面コラムに8世紀のニュアンスと同じような主張があっても不思議ではありません。つまり、このことに関しては、8世紀のフランク王国と現在のマスメディアとの間に「時差」がない。

「Populus」はラテン語で民衆や人民を指しますが、ギリシャ語のほぼ同じ意味の先輩である「Demos」(民衆、人びと)と比べると、その扱いが、いい悪いは別にして、そして、「government of the people, by the people, for the people(人民の、人民による、人民のための、政治)」におけるpeopleという考え方(ないしは概念)の真っ当さにも関わらず、軽いようです。デモクラシー(民衆支配)におけるDemosに対して、「民の声は神の声」や「ポピュラーソングやポップス」におけるPopulusです。なぜ扱いに差が出たのか。

一般的には、ポピュリズムとは、一般の多くの人たちの願望や不安や恐れを利用して(あるいは、それらを真摯に汲み上げて)、そういう人たちの支持のもとに、既存のエスタブリッシュメント体制と対決しそれを凌駕しようとする政治思想や政治姿勢のことです。

ポピュリズムという言葉に付きまとう軽さはどこから来るのか。ポピュリズムは、どんな政治体制とでも共存できます。体制が右寄りでも左寄りでもそんなことはおかまいなしです。社会主義者であるところの、ベネズエラの故チャベス大統領は、かつて「私は個人ではない、私は人民だ」と言いました。トランプ大統領を持ち出すともっとわかりやすい。ポピュリズムは、権威主義的な(あるいは独裁者的な雰囲気のある)政治リーダーと仲がいい、互いに適合的です。そのあたりに軽さがある。

ポピュリズムが対峙するエスタブリッシュメント体制とは、たいていは財力と知力のあるエリート層のことで、そのエリート層は、たとえば「トリクルダウン仮説」のようなエリート層の余剰利益がおのずと溢れて大衆の手に零れ落ちることになるといった経済仮説が大好きです。しかし実際にはほとんどそういうことにはならない。ここ数年の日本のGDPや実質賃金や消費支出の推移はその一例だし、フランスの黄色いベスト運動は別の例です。だから信頼できないエスタブリッシュメントと対峙・対立しようと思ったら、自分たちだけで事を起こすのは大変なので、大衆の気持ちを代弁してくれそうな「強い人、強そうな奴」を支持することになります。

人間は寄り集まって生活していく際にピラミッド型のヒエラルキー構造を作るのが習いです。集団生活なのでそういう階層構造を持つと効率がいいというのがその理由ですが、それが維持できるのは、その構造の持つ性格がそれなりに多くの人の個人的な資質に適合しているからでもあると思われます。大昔もやや昔も今もそのことに変わりはありません。1万2000年前に起きた農業革命(食料生産革命)以降は食料に余裕ができたので、食べものの生産や確保に体力や時間を費やす必要がない、統治することが役割の人たちも登場し、その結果、狩猟採集時代のヒエラルキーとはくらべものにならない大きな階層三角形ができあがりました。現代の国家や巨大企業組織におけるヒエラルキーの雛形です。両者の違いは、マックス・ウェーバーが云うところの効率的な官僚制がそこにあるかないか、その差です。

国家というものが世界の政治経済の構成単位であるときは、国家の単位でピラミッド型のヒエラルキーが存在します。19世紀に国民国家が成立しそれ以来国民国家が世界の構成単位なので、国の単位で政治経済のヒエラルキーがあります。

しかし現在では、国家とは別のヒエラルキーピラミッドが国家と同時に存在するようになりました。国境のない(あるいは国境を意図的に無視しながら乗り越える)バーチャルな巨大ピラミッドがあります。グローバリズムです。その状況を内側から眺めると、今まで不信感を抱きながらも慣れ親しんできたナショナル・ピラミッドを、それよりも遥かに大きいグローバル・ピラミッドが包み込んでいるという二重の階層構造が見えてきます。

人間のもうひとつの特質が、古い脳と新しい脳、情緒と知性、信念(感情に縛られ、往々にして不合理な方向に進む)と理性(合理的な思考)というもともとの成り立ちが異なるものを無理やりに共存させる能力です。当人の中ではお互いが共生的な関係にあると感じていますが(たしかにそういう場合もある)、両者のコミュニケーション回路はとても細いようです。だから、理性の産物であるところの合理的な健康法の実施のためには死んでもいいというような健康オタクが登場したりします。それは他者の微笑を誘うような小さな例ですが、両者の分裂が観察できるもっと大きな例は宗教戦争やイデオロギー闘争です(宗教やイデオロギーに関する武力闘争は、昔の話ではなく、今でも世界のどこかで簡単にライブ中継できる)。世界の救済のために、世界を殺す。

イデオロギーはその内容に極端なものが含まれていても一般的に知的な思考プロセスで組み立てられますが、ヒトラーのナチズムやスターリン主義や毛沢東思想による侵略や虐殺や粛清を眺めると、彼らを頂点にして彼らのまわりに、多くの献身的な、あるいは滅私奉公的なイデオロギー「信者」が活躍していたことがわかります。トランプの「America First」も「イデオロギー」です。我が国を振り返れば「神国日本」「八紘一宇」というのが80年前にはありました。そういう考え方をよしとした(あるいはそういうふりをした)献身的な人たちがいたわけです。エーリッヒ・フロムはそういう社会状況と民衆の心理状況を「自由からの逃走」と呼びました。

チリなどの南米諸国をターゲットに実施され始め、日本にも10年以上前に到達して金融業界や雇用市場にダメージを与えた「市場原理主義」「新自由主義」も新興イデオロギーのひとつです。市場原理主義は「惨事便乗型資本主義 (Disaster Capitalism)」とも呼ばれていますが、他国や対象地域の経済不況や政治不安、自然災害などにつけこむことを気にしないタイプの資本主義なので云い得て妙です。世界のために世界を殺す。

レイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」と、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を合わせ読むと興味深い景色(あるいはとても鬱陶しい光景)が見えてきます。レイ・カーツワイルは米国生まれの発明家、未来学者であり人工知能の権威。ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエルの歴史学者で「サピエンス」とその続編である「ホモ・デウス」の著者です。

「シンギュラリティは近い」という不思議な題名(宗教関係の著作物のような題名)の本は2005年に出版されましたが、シンギュラリティ(singularity)とは「技術的特異点」という意味です。遺伝子工学とナノテクノロジーとロボット工学というのお互いに重なり合う3つの技術を軸にテクノロジー全般が加速度的に進展する(収穫が指数関数的に増加する)、その結果、2045年あたりに「技術的特異点」に達し、そのとき、世界の主人公というか世界の支配者層は「人工知能」になっている。そういう趣旨の本です。

その時点の「人工知能」(Artificial Intelligence)を、一部の人類の発展形とみなすのか、人類とは別種の知的な存在と考えるのか、そのあたりは定かではありません。しかしその状況は、「パラダイム・シフト」という術語でわれわれが想定できるものを相当にはみ出しています。それだけに「特異」です。

現在の碁や将棋におけるヒトと人工知能の勝負や、現在の先端IT企業の持つデータ処理システムの射程距離からもわかるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのもの(つまりアルゴリズム)が次世代の人口知能とそれを使った製品や労働サービスなどの各種サービスをとても安いコストで再生産(開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事の大部分は、人工知能によって非常に高い経済効率で代替されてしまいます。

ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」は「シンギュラリティは近い」の技術的で煩瑣な描写を、歴史家のマクロな視座で記述し直そうとしているようです(結果としてそうなっている)。

近代資本主義成立期に発生した農業革命(食料生産革命とは別の近代の農業革命、たとえばイギリスの囲い込み運動など)によって大量の人たちが生きる場所を失いました。その結果、彼らは都市に流れ込み、産業革命を支える大量の「プロレタリアート」となり、資本の搾取対象としての、工場労働というものに従事しました。しかし今度は人工知能の進出で行き場を失った大量の人たちは工場労働(それが辛くて単純なものであったとしても)のような労働対象を持てません。人工知能が代替するからです。そういう意味で「役に立たない人たち」が世界にあふれることになります。

株式トレーディングの世界からヒトがいなくなりました。活躍するのは、躊躇なく超高速で売買するソフトウェア・アルゴリズムです。そのうちコールセンターやその他のサービス部門にもヒトは要らなくなる。弁護士や弁護士事務所の職員も例外ではない。ヒトの兵士も要らない。人口知能制御のロボット戦士が活躍する(たとえば、ボストン・ダイナミクスの試作品)。戦闘機や爆撃機のパイロットも要らない。

ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」は、カール・マルクスの「唯物史観」を想起させます。マルクスは、彼の弁証法的唯物史観にしたがって、社会の発展段階を次のように大別しました。壮大な抽象化です。

・ 原始共産制
・ 古代奴隷制
・ 封建社会
・ 資本主義社会
・ 共産主義社会

しかし彼の死後の未来は彼の思ったようにはならなかった。資本主義も共産主義も同じ産業主義です。平等よりも自由に高い優先順位をつけた産業主義が資本主義になり、自由よりも平等に優先権を与えた産業主義が共産主義になりました。両者に実質的な差はありません(マクロな経済運営の上手下手の違いはありましたが)。また、平等に優先権をつけたからといって、経済力格差や権力格差がなくなるわけでもありません。人間のつくる社会なのでピラミッド型のヒエラルキーは消滅しません。

ハラリの史観をマルクスの唯物史観風にまとめると以下のようになります。ここではその史観をとりあえず「データ史観」と呼んでみます。ユダヤ人らしく世界は直線的に進行します。虚構史観というほうがハラリらしいと思うのですが、そういう言い方だと、マルクスの唯物史観も虚構史観そのものです。両者の違いは、それぞれが鳥瞰した「共同幻想」の移り変わりをどう抽象化するか、その切り口の違いです。(余計なことですが、二人の共通点は砂漠の高みから地上を見下ろす「砂漠の思想」とも云うべき眼です。湿度の高いアジアの森の中で樹の下に静かに坐る「森の思想」ではありません。)

・ アニミズム(Animism): ヒトも動物も植物も岩も同じ。それぞれが霊的なものの顕れで、お互いに差はない。

・ 神イズム(Theism): 絶対者としての神が宇宙や世界を統御している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など。どちらかというと一神教の世界。

・ ヒューマニズム(Humanism): 「知能(インテリジェンス)」と「意識」を持つ人類(ホモ・サピエンス)が、動物よりもなによりもいちばん偉い。人類がかつての神の位置に立った(この状況をニーチェは「神は死んだ」と表現)。ヒューマニズムとは、人類が自分自身を崇めるイデオロギーないしは宗教。

・ データイズム(Dataism): ポスト・ヒューマニズム。人類(ホモ・サピエンス)はもはや主役ではない。人間とはすなわち生体アルゴリズムのことだと考えると、コンピュータやAIは人工アルゴリズムということになる。ナノテクノロジーやバイオテクノロジーやネットワークテクノロジーの進化により、アルゴリズム存在としては、人工アルゴリズムそのものであるところのAIが、生体アルゴリズムであるところの人類よりもはるかに優れている。だから、AIが世界の脚本家になり、世界の主人公になる。ほとんどの人類は「役に立たない存在、役目を持たない生体アルゴリズム」となる。

そういう流れを思い描くと、「ポピュリズム」は、「ヒューマニズム」という共同幻想ステージの最後の「喘ぎ」のようにも思えます。

ヒューマニズム段階という現段階において、富の分配・再分配に関して自覚的に不安と不満を持った人たちが多数います。制度的、構造的に生み出された人たちと言ってもいい。そういう人たちにとって、ヒューマニズムがその地位をデータイズムという別の共同幻想に譲ると、そこは人工アルゴリズムが情念を暴発させずに静かに統御する世界なので、自分の居場所がさらに(二重の意味で)希薄なものになります。そういう場合に、とりあえず依拠できそうなのは、人間味溢れる、つまり合理的な思考と不合理な信念の分裂や矛盾を(無理に隠そうとしないという意味で)明示的に抱えたリーダーであり、彼(あるいは彼女の)持つ正義感とインテグリティです。それが現在のポピュリズムの背景かもしれません。

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