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2019年4月16日 (火)

「結局、思想の理解は感性だからね」

先日、ある新聞記事が眼に入りました。

『文系の博士課程「進むと破滅」 ある女性研究者の自死』『大きな研究成果を上げ、将来を期待されていたにもかかわらず、多くの大学に就職を断られて追い詰められた女性が、43歳で自ら命を絶った。日本仏教を研究してきた西村玲(りょう)さんは、2016年2月に亡くなった。・・・後略・・・』(朝日DIGITAL 2019年4月10日

気になる記事だったので、彼女の著作「近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践」の目次や内容の一部をネット通販サイトで拝見したのですが、その時に、「〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺―1972~2016」という自費出版本があることを知りました。タイトルからしてご両親が編集された私的な彼女の遺稿集ということになりますが、その一部が、当該遺稿集を送られたかたがた(彼女の関係者であるところの編集者や研究者)によってネット上で紹介されていました。紹介された部分はそれぞれのかたが第三者に紹介しても差支えないと判断された箇所だと思われます。ぼくにはネット上の供養と映りました。

ちなみに、彼女の専攻は「日本思想史、日本仏教思想」、細かくは「日本の近世(江戸時代)における仏教・仏教思想研究」、ニッチな分野です。その中の18世紀の「僧侶・普寂(ふじゃく)」に焦点を合わせた研究が軸なのでさらにニッチです。たとえば、彼女の著作の主人公である「普寂」は、「日本仏教史入門」(田村芳朗著)では、「浄土宗では西山派に普寂徳文(ふじゃくとくもん、1707-81)が出て、宗風を高揚した。普寂は各宗に通じ、近代仏教学の先駆ともみられる」と言及されていますが、別のタイプの入門書であるところの「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」(末木文美士著)では、彼の名前は登場しません。

ネット上の「〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺―1972~2016」のなかから、ぼくにとってとても印象的だった部分を以下にいくつか引用させていただきます。「私家版」となっていますが、ご両親が本の形に整えて関係者に配ったものだし、お嬢さんの研究や自死に関して新聞社のインタビューにも対応しておられるので、その一部をこういう形で引用しても失礼にはあたらない、そう勝手に判断しました。

以下の『・・・』が引用部分です。なお、各文章の前のタイトル風の語句は「高いお米、安いご飯」が本文から抜き出したものです。

■「冗談ぬきでゼッサンの嵐だったのよ」

『さて、発表が終わった。本当に、冗談ぬきでゼッサンの嵐だったのよ。発表が終って皆が出たいった後、ある教授に開口一番「あなたは将来どうなさるつもりですか」てきかれた。「一応、院に」といったら「それは非常にケッコウなことです。いい研究者になれるでしょう。高校球児で150キロの豪速球を投げる人がいますが、あなたのキレにはそういうものが感じられる。投げようと思っても投げられない人は投げられないし、あなたみたいに最初から投げられる人もいる。」一介の三年生にそこまで言っていいのかよ、と思っちゃった。特に私の主張は「非常にわかりやすく聞かせるもの」であったそうだ。』

■「私は全体を見てるつもりなんだもの」

『本質しか見てないなんて思わないもの。私は全体を見てるつもりなんだもの。これは頭いいというよりは、こういう傾きとしか言いようがないな。
 しかしこういう自己認識は、随分楽になるね。私は特殊だから皆に分かってもらうためには、相当の作業が必要なんだ。分かってもらえないのは、当然なんだな。ああ、そっかあ。平凡じゃないってこういうことかあ。ということは、私の直感は正しいんだな。唯識の選択ににせよ、先生たちの選択にせよ、なんかの本質なんだな。ああ、ほんとに目から鱗が落ちた気がするよ。私は特殊なんだね。知らなかったわ。本質を突くという性格は現実から乖離する陥穽であるけれど、自分にとってどうか、というただその一点から出てくるものだ。』

■「結局、思想の理解は感性だからね」

『「過酷な現実と高潔な跳躍を接近させること」こそ、宗教の役目、思想の役目。そのままでは蹂躙されてしまう切ない心情を、かなしい願いと祈りを、言語と論理によって普遍化すること。それこそが知識人の役目。つまり「先駆者がそれを救うために全力を尽くしたであろうものを救う」ことであるのだな。しかもこの寥寥たる荒廃を見るに付け、私がやるしかないではないか。・・なんたることか。
 しかしほんっとに日本の教理ないし思想を女がやってない(会った試しがないぞ)。いまだに私が初めてってのは、どういうことだ。まだキリスト教には、いるようだけれど。これは一体何なんだ。修道院の思想はおしゃれできれいだから?日本の僧房だって、おしゃれできれいだもんっ・・というのは、やっぱり特殊な感覚なのだろうな。内容において本当に同じことやってるのに。西洋の思想は、西洋庭園と同じく、言うほどわかりやすくはないよ、根幹において。結局思想の理解は感性だからね。』

■「だから、日本思想史には私が必要なんだ」

『学問に半分しか向いていないのは、けっして悪いことではない。それはそれ以上の器であるということ、より広い可能性を持っているということだ。半分だから、あとの半分に伝えられる。学会が嫌いで仕方がない坂口先生は、だから素人に伝えられた。唯識が大嫌いで仕方がない太田先生は、だから素人のために唯識を伝えられた。私は学会が大嫌いで日本思想史を心から軽蔑しているから、きっと思想史を伝えられるだろう。因縁というものだ。
 実際、思想史は駄目だ。思想がない上に史もない。名著を読んでも、思想史のものは歴史や哲学のものより二段ほど劣ってる。あれは思想がないからだ。イデオロギーしかない人間が思想を語れるはずがない。京大に日本哲学の講座ができたそうだが、とにかく日本の学界では、思想とか倫理とか哲学とか言うと、主体性のない人間、くずしか集まらない仕組みになっているらしいからな。だから日本思想史には私が必要なんだ。』

■「大丈夫。私は源水から海にたどりつける」

『分かった者は、伝えなくては。安易に流されず、丁寧に追っていくしかないと思う。飛ばすとイカン。その瞬間に退廃する。どこがどうなって、どこに行くのかは知らない。でもこれは、やる意味があることだ。この大衆化の、なし崩しの退廃の時代にあって、精神性、霊性、あの光が、どのように和光同塵していったか、霊性の通俗化、いやそれよりも倫理化の道筋を示すこと。そこを動かすな。そこがブレることはないはずだ。そこがブレなければ、見失わなければ大丈夫。私は源水から海にたどりつける。』

関連記事は『「井筒」と「死者への七つの語らい」』。

合掌。

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