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2019年5月30日 (木)

日本国憲法九条と日米安保条約がいっしょになった場合のわかりやすさとわかりにくさと、「空母いぶき」という映画

かわぐちかいじ作の劇画「空母いぶき」を映画化した作品を観てきました。「空母いぶき」とは、日本国憲法九条を今後どう運用していくかに関する近未来の事例研究的なシミュレーション映画です。女性の観客が意外に多かったので少し驚きました。ぼくは映画の評価は払った金額に見合う価値があったかどうかで決めますが、支払金額に見合う価値は十分にありました。ここでは原作ではなく映画作品を対象に話を進めます。

映画なので、原作にはない娯楽性(女性に人気の男性俳優の配置や艦内からのネット配信描写やその他の日常生活関連描写)があり、それで僕が勝手に予想していた以上に観客の広がりが(少なくともぼくのいた映画館では)あったのでしょう。

いつかはわからない近未来が舞台なのですが、その時の日米安保や日米地位協定がどうなっているのかも、よくわかりません。現在よりもその役割が後退しているようにも思われますが、詳細は不明です。一方、国連の役割(安保理や国連軍)が現在よりも(もともとの意図通りに)強化されているように描かれていますが、これも詳細は不明です。そういうなかで、そして憲法九条の下で戦争には至らない自衛のための戦闘(自然権としての防衛権)がどういう形で可能かを描いた12月下旬のある24時間の物語です。

最新鋭の武器を使った現在の海戦がどういう風なのかを、現在のハイテク戦闘がどう瞬間的に決着がつくのかを最新のコンピューターグラフィクス映像で知るというのもぼくの関心事のひとつでした。

日本国憲法のユニークさは、象徴天皇制(第一条)と(侵略目的の)戦争放棄・軍備放棄(第九条)の存在にあります。これらは他にもわかりやすいユニークさです。しかし、日本国憲法は、同時に、他にはわかりにくいユニークさというものも包含してします。

この前の太平洋戦争で大日本帝国軍隊に対して嫌な体験記憶を持った連合国側の国々は、敗戦後の日本における国家神道的な天皇制の復活と再軍備を非常に恐れていました。彼らは天皇の戦争責任の追及を強く主張していたし、戦後の日本には軍事力を持たせないと論じていました。

彼らは、再軍備につながる可能性のある天皇制の存続には反対でした(なぜなら天皇には軍隊の最高指揮権であるところの統帥権を有していた)。しかし、敗戦処理をスムーズに混乱なく進めるためには、つまり、日本占領政策の遂行にともなう戦勝国側の犠牲者を発生させないようにするためには、何らかの形での天皇制の存続が必要だったので(とくに米国が必要と判断したので)、米国の主張によって、天皇制は存続することになりました。天皇制を廃絶すると旧軍人をコアとする暴動がおこるかもしれない。それを米国は恐れました。これが日本国憲法における象徴天皇制誕生の背景の景色です。

しかし九条ができたからといって日本における防衛体制を空白のままにはしておくということはできません。当時の世界情勢・アジア情勢は、日本を丸腰のままにしておくほど安穏ではありませんでした。だから戦勝国軍の軍隊(国連軍を想定)が防衛力として日本に駐留することになったのですが、実際には、朝鮮戦争を契機として、駐留部隊は国連軍ではなく米軍だけになり、米軍駐留と米軍による政治支配の中身は、日米安保条約&日米地位協定によってきわめて治外法権的な内容のものとなります。

日本国憲法「第九条」は、「戦勝国・占領軍と日本との安全保障システム(その後の日米安全保障条約および日米地位協定)」との抱き合わせをひそかな前提として(ごく一部の当事者以外にはその背景と関連が隠されていたという意味でひそかな前提として)成立しました。つまり、発足当初から「侵略戦争は日本としては放棄したけれど、第三者の遂行する侵略戦争の片棒を担ぐことができるという意味」での「矛盾」がビルトインされていましたが、当初はその矛盾がよく見えませんでした。しかし時間の経過とともに矛盾が明らかになってきました。

「日米安保条約と日米地位協定の組み合わせ」とは片棒担ぎの仕組みの取り決めです。きわめて治外法権的な内容のもので、これらに係る合意事項や決定がすべて公開されているわけではありません。これが他にはわかりにくい九条がらみのユニークさです。

言葉を換えれば、現在、沖縄や横田や横須賀や厚木などに駐留している米軍は、いわば侵略戦争の得意な「傭兵」です。ただし、この傭兵は日本という雇い主よりも権力がある。雇い主を実質的に支配しています。先日は、「専守防衛の自衛隊」が政府の解釈改憲によって「集団的自衛権」の行使に組み込まれました。

眼を「九条」だけに向けて、つまり「平和憲法」だけに向けて、そのビルトインされた矛盾を見ないようにしている人たちが多いことも事実です。この発想だと、たとえば場面を国内に限定した場合、警察の存在は不要になります。

警察は間違いなく国家権力の手足ですが、その手足は、泥棒や強盗や殺人事件やひどい交通事故が発生した場合には、市民の安全の確保に動きます。そういう事件は、ヒトの多層的な脳の構造に起因するせいか一定の頻度で必ず発生するので、警察のような機能の存在を不要だと考える人は決して多くはない。しかし、皆無というわけではありません。

自分の身は銃を使ってでも自分の手で守るのが基本、だから国家は警察も含め余分なことはしないほうがいい考えるひとたちの主張にも説得力があります。そういう人たちは米国に多い。だから、「government of the people, by the people, for the people」(人民の、人民による、人民のための政治、国民ではなく人民・人びと、政府ではなく政治)をそういう文脈で解釈し直すと、米国におけるdemocracyと銃の関連の背景が根深い状況も見えてきます。

警察というものを、特定の暴力から、(警察の持つ)暴力を使って市民を保護する機能だと考えると、警察も暴力装置になります。暴力装置という意味では軍隊と同じです。

現在の国際政治においては、その警察にあたるのが「国連軍」ということになっていますが、実際には(映画の「空母いぶき」とは違って)重要な局面では機能しないので、「自分の身は銃を使っても自分の手で守る」ために暴力装置であるところの軍隊(ないしはそれに相当する機能組織)を、装置の優劣と大小の差はおおいにありますが、国境線を持つ各国がそれなりに所有しています。

日本における先ほどの「矛盾」するもの、つまり、「平和を希求する、他国を攻める戦争はしないしそのための軍隊も持たない」、しかし、同時に「他国を攻撃する第三国の軍隊はその国の意のままに自由に駐留させるしそのための支援もする、要請があれば、実質的にはその第三国といっしょに自衛力を使って他国に侵攻する」という矛盾する意思を巧妙に組み合わせたものを、今後、平和やデモクラシーという観点からどのように納得できる形に解きほぐすか、それが現在と今後の課題です。

そういう課題を解決しようと思ったら、九条2項や日米安保条約・地位協定との関連事項を見直すというのは、集団的自衛権の行使が好きな好戦的なタイプの人たちの発想(「押しつけ憲法なので見直したい」という発想)とはまったく違った意味で、まっとうな憲法再検討の理由付けになるかもしれません。

「傭兵」との実質的な関係や「国連」の実質的な能力が不透明な近未来の環境で、自衛隊という既存の暴力装置を使った「戦争に至らない、防衛のための戦闘」というものの事例研究・事例シミュレーションのひとつが「空母いぶき」という映画のようです。

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