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2019年6月20日 (木)

悪文雑感

「悪文」(あくぶん)の意味を、一般的な国語辞典で調べてみると、「へたな文章。文脈が混乱して、わかりにくく誤解されるような文章」(広辞苑)をはじめ、他の辞書でも「へたでわかりにくい文章。文脈が混乱して、まとまりのない文章。」「難解な言葉を使ったり、文脈が乱れていたりして、理解しにくい文。へたな文章。」「へたで、読みにくい文章。文脈が混乱したりして、わかりにくく、意味のとりにくい文章。」と説明されています。

「あの内野手は守備がへた」という場合は、その内野手は捕球がぎこちない、守備範囲が狭い、ボールへの一歩が遅い、打球の方向の予測能力が低い、ときどきトンネルするし、スローイングがピリッとしない、アウトにできるゴロを内野安打にしてしまうなど、そのへたさ加減は観ているだけでよくわかります(たとえば、広島カープで二塁を護る菊池涼介選手と比べると一目瞭然です)。

しかし「あの内野手は守備がへた」というのとは違って、「悪文とはへたな文章のことである」というのは何をもってその文章を「へた」とするのかわかったようでわからない。だからここでは「悪文」とは「わかりにくい文章、意味のとりにくい文章」とします。このほうがわかりやすい。

わかりにくい文章というのは確かにあります。その文章を書いた当人は、その文章を、たとえば、自分の意識の流れや思考の流れや感性の移ろいをそのまま言葉に素直に移し替えたと思っているのかもしれませんが、読む側にとっては難解で、何度読み返しても意味不明で、そんな文章はじつにわかりにくい。魑魅魍魎(ちみもうりょう)に悪戯されている気分になります。

しっかりとした文章を書ける人が悪文を書く簡単な方法のひとつは、相当に酔っぱらった状態でやや抽象的な内容を含む文章を書いてみることです。酔いの勢いに乗って、自分の意識の流れや思考の流れや感性の移ろいをそのまま言葉に移し替えるつもりで書いてみると、書いているときは思考と言葉が一致していると感じていい気分でも、起きて素面になって読み返してみると、文章の流れや完成度をある程度想定していた場合は、気分はけっこう落ち込みます。

酩酊状態の利用が役に立たないというのではありません。ともかく思ったことや頭の中を流れていることをフワッとした気分で乱雑なメモとして書きつけておくという方法ではあるので、そこにはいくぶんかのキーワードやキーコンセプトが整理されないままその他の言葉といっしょに放置されています。これは、あとで手掛かりになります。

以下に、ある作家の作品(小説ということになっていますが、小説ともいえるし、幻想的な雰囲気の随想ともいえる作品)から二つの短い文章を「そのまま」引用してみます。それらが上述の意味で「悪文」かどうか?

『金沢には東京にも戦前にはあったような誰が客になって来るのでやって行けるのか解らない感じがする地下室の人気がなくて明るい西洋料理屋もあった。』

『その骨董屋がその次に内山が金沢に来た時に顔を出して内山はこの男に不義理をしたような気がしたが、それが何故か自分にも解らなくてそれが根拠があることであることも確かでなかったから内山もただそういう気がするだけということで片付ける他なかった。』

サッと読んで内容がサッと頭に入ってくる感じの文章ではありません。酔っ払いが、思いつくままの言葉で状況を説明してくれているようでもあるし、素面(しらふ)の語り手がゆっくりと言葉を選びつつ聞き手に語りかけてくれている風情でもあります。

試みに、オリジナルにはない「読点(、)」をいくつか追加してみると、わかりやすさの様子が少し変わってきます。

『金沢には、東京にも戦前にはあったような、誰が客になって来るのでやって行けるのか解らない感じがする地下室の、人気がなくて明るい西洋料理屋もあった。』(オリジナルに読点を三つ追加)

『その骨董屋がその次に内山が金沢に来た時に顔を出して、内山はこの男に不義理をしたような気がしたが、それが何故か自分にも解らなくて、それが根拠があることであることも確かでなかったから、内山もただそういう気がするだけということで片付ける他なかった。』(オリジナルに読点を三つ追加)

ところで、この作家が、酒や酒宴や酔っ払いや酔っ払い状態について書いたものは、酩酊とは遠く離れた状態で書いたのか、たいていは「わかりやすく意味のとりやすい文章」になっています。変な話ですが、たとえば、

『本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるのかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まっていればいいのである。』

という具合です。

文章がわかりやすいとか理解しやすいという美徳(それを美徳と考えて)が、あまり意味を持たない知や感性の世界もあります。わかりにくかろうが意味がとりにくかろうがそういう風に書くしかない、だからそう言葉を連ねた。そういう文章はここでの対象外です。

 

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