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2019年8月 6日 (火)

悪文と句読点

悪文雑感」の続きです。

今は文章は、文学も実用文も、古典も現代文も、紙に印刷された活字やそれの電子版であるところのIT端末の画面上の活字を通して読みますが、文章中の句点(。)や読点(、)が必須です。

しかし、奈良、平安の昔から江戸を経て明治中期くらいの日本の文学や記録文には読点や句点が原則としてありませんでした。句点(。)と読点(、)の総称である句読点は、明治以降に西洋の文章のピリオド(,)やカンマ(.)の代用として使い始めたもので、それ以前の日本にはそういうものは存在していませんでした。この伝統は今でも手書きの手紙や葉書に活きていて、そういう媒体では句読点はかえって煩わしい。

教科書に出てくるおなじみの文章例で、たとえば「枕草子/第一段」だと、今は(横書きに直すと)次のように表記されています(小学館 日本古典文学全集)。

 『春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。以下略。
 秋は夕暮。以下略。
 冬はつとめて。雪の降ふりたるは言ふべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などをいそぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。』

しかし、以前は、句読点のない状態なので、以下のようでした。

『春はあけぼのやうやうしろくなりゆく山ぎは少しあかりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる夏は夜月のころはさらなりやみもなほ螢飛びちがひたる雨などの降るさへをかし秋は夕暮夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに烏のねどころへ行くとて三つ四つ二つなど飛び行くさへあはれなりまして雁などのつらねたるがいと小さく見ゆるいとをかし日入り果てて風の音虫の音など冬はつとめて雪の降ふりたるは言ふべきにもあらず霜などのいと白くまたさらでもいと寒きに火などをいそぎおこして炭持てわたるもいとつきづきし昼になりてぬるくゆるびもて行けば炭櫃火桶の火も白き灰がちになりぬるはわろし』

わかりやすい景色や情景の描写ですが、初めての文章だと、やはり読みにくい。

しかし、これが、手書き文字で書かれたものだと、文字の大きさや文字の勢い、文字の切れ目や墨の濃淡、そして改行などが句読点の役割を果たしていたので、句読点というものがなかったとしても(明治半ばくらいまでの人たちは)読みづらいということはなかったと思います。句読点を使わなかったということはその必要がなかったということです。

吉田健一という1977年に鬼籍に入った評論家・作家がいます。小説も評論もジャンルにかかわらずすべてがエッセイ風の趣きと言ってもいいのですが、彼の文体は句読点の使い方に独特のものがあります。

松岡正剛は吉田健一の文体を「いつも句読点が動く文体」と評しました。文体に応じて「その文体がほしがる句読点を打った」ということですが、吉田のたいていの作品は、文体と句読点に個性があり過ぎるので、普通は、それほど読みやすくはありません。

しかし、彼の文章を読みやすいと感じる読者にとっては、彼の文章は「作者の頭に生まれた言葉の流れをただ文章にしたもの」(倉橋由美子)なので、読みやすいとなります。

しかし、「作者の頭に生まれた言葉の流れをただ文章にしたもの」とは、いったんその時の意識の流れを文字に定着したあとでその文字列が必ずしも再構成されずに文章化されてしまうということも含まれるので、読者の頭の中の句読点が作者の頭の中の句読点と同調しない場合には、作者の文章はだらだらと落ち着きの悪い悪文、同じところを読み直さないと意味のとれない晦渋な文体、そして意味不明なところが残る悪文、ということになりそうです。

ある言葉で世界をなぞるということは、その言葉以外の言葉を使わないということによってある枠や方向に世界を切り取るということですが、句読点もそういう意味では同じ働きを持っています。吉田健一の文体と句読点は独特なので、彼が世界を区分する仕方に違和感や鬱陶しさを覚えると、彼の文章はだらだらと読みにくい悪文と化します。

そういう例(ただし控えめな例)を下に二つ引いてみます。

 『・・・別にそれを見てこれから一日が始まろうとしている気配を感じるのでもなければ前の日にあったことの結果で今日することになることを思い浮かべるのでもなくてただ眠気が去って朝になり、ものが自然の光で見えて来て体も一日の間覚めているのに堪える状態に戻っている朝というものがもの心が付いたその日からのことであっても、或はそのこともあって懐かしかった。』(「本当のような話」)

 『併しその碑がロッピアが作ったものであるということがあり得なければその作の精巧な模写で、それを見ていて思いがその紺と白が新鮮なものに感じられながら普通でもある場所に向かわざるを得ず、それは金沢に、又金沢のその店に自分がいなくなるのではなくて他所である筈のことが自分がいる場所を豊かにした。』(「金沢」)

一方、作者の息遣いや思考プロセスと読者のそれが重なっている場合は、つまりその文章における作者の句読点感覚と読者の句読点感性が重なっている場合は、急に立ち止まり、先ほどの近所を今度は歩幅を変えて歩き、あるいは意想外の場所に飛んで行って気が付けば元の場所に戻っていたというふうな癖のある文体が作る世界を賞味できます。

「時間」というエッセイの書き出し部分を引用します。「枕草子/第一段」のように冬と春が出てきます。行替えはありません。

『冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。それをのどかと見るならばのどかなのは春に限らなくて春は寧ろ樹液の匂いのように騒々しい。そして騒々しいというのはその印象があるうちは時間がたつのに気付かずにいることで逆に時間の観念が失われているから騒々しい感じがするのだとも考えられる。・・・・』(「時間」)

 

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