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2020年3月

2020年3月31日 (火)

「食べる量が増えるわけではない」のではなく、「食べる量は確実に増えた」

最近は下に引用したような主旨の記事、つまり「食べものの買いだめは控えてください」という論調の記事が多い。しかし少し考えたらその観察や発言が上滑りであることがわかります。

「新型コロナウイルスの感染拡大で、首都圏では週末の外出自粛要請を受け、食料品を求める客が小売店などに殺到した。
 政府の緊急事態宣言が出された場合も同様の事態が起きる恐れがあるが、専門家は、買い物は「不要不急」に当たらず自粛対象ではないと指摘。『マスクと違い食料は十分にある』と、冷静な行動を呼び掛けている。
 農林水産省によると、米は半年分、小麦は2カ月分以上の国内備蓄がある。生産や流通、輸入も止まっておらず、店頭の欠品は一時的という。担当者は『食べる量が増えるわけではない』と必要量の購買を求めた。」(時事通信 2020年3月30日)

首都圏に住むある知り合いの女性(主婦)と話す機会があってそういう発言の上滑りの具合を確認したのですが、農水省の担当者がいうところの 「『食べる量が増えるわけではない』と必要量の購買を求めた」というのは正しくない。なぜなら「食べる量は確実に増えた」からです。マクロで静的にしかものが見えないのが役人だとしても、マクロとミクロの複合視点で物事を見たあとで慎重に発言したほうがよかったかもしれません。

日本国民全体という点では確かに「食べる量が増えるわけではない」。日本人全体のマクロな食料消費量は短期でも長期でもとくには変化しない(巣ごもりでイライラした分、やけ食い消費が増えたかもしれませんが)。しかし、ある消費セグメントの新しい需要量や新しい需要パターンとそれに応ずる流通チャネルの供給量や供給タイミングが折り合うまでにはそれなりに時間がかかる。それまでは、穏やかな消費者の冷静な消費行動が、結果的には「買いだめ」行為として現象する。役所の教育的指導の対象となるような行為ではありません。

その女性の家庭構成は、IT関連の会社で働くご主人、大学生の息子さんと大学生の娘さん、それに主婦の彼女。月曜から金曜は、お昼ご飯は家庭では用意しない。ご主人は普段は会社の近所の食べもの屋か昼食を出す居酒屋などでお昼ご飯を食べる。二人の子供も週末以外は学食かどこかで友達とお昼ごはんです。週末は、主婦の時短のためにそろってファミレスでランチということも多い。食材や加工食品の貯め置きはしない。食べものは必要なものを都度購入している。

移動の自粛でご主人がテレワークになった。ご主人は普段は夕食も仕事柄外で済ませることが多いのだが、在宅勤務で事情が変わった。大学生の子供二人も学校は休校状態だしバイトも停止状態で友達と外で昼ごはんというわけにはいかなくなった。外出自粛なので、お昼ご飯は自宅で食べる。。今までひとり分だった昼食食材や昼食用の食料品が一挙に4人分になった。単純計算で普段の量の4倍です。インスタント食品で済ますのか、レトルト食品で済ますのか、ラーメンやパスタを茹でるのか、炊飯器でご飯を炊いておかずと味噌汁を作るのか、詳しくは聞かなかったけれど、家庭内で食べる量が確実に、大幅に、増えた。普段の外食分の食料消費が、全部、家庭に持ち込まれたということです。

さて、それをどこで買うか。例えば近所のスーパーで買う。普段の4倍は買わないと勘定が合わない。しかし不要不急の外出をしないように要請されているので、買い物に出かける頻度は普段よりも少なくなり、その結果一度に買う量は当然増える。つまり主婦は「冷静な購買判断と冷静な購買行動の結果」、昼食用だけでも普段の4倍以上を(晩ごはん分を合わせても普段の一回分の2倍から3倍を)一度に買い求める。常時在宅人数が増えた分だけ、日持ちのするお菓子も追加的に必要になり、そういう家庭が多くなれば、お店の棚から、コメやパン、パスタやパスタソース、インスタントラーメンやレトルト食品、カップ麺やカップ焼きそばや日持ちお菓子などが急速に消えていく。

そういう状況を観察・体験せずに、そして相変わらずマスク不足に悩まされている状態で、「農林水産省によると、米は半年分、小麦は2カ月分以上の国内備蓄がある。生産や流通、輸入も止まっておらず、店頭の欠品は一時的という。担当者は『食べる量が増えるわけではない』と必要量の購買を求めた」と言っても本人が思っているほどの説得力はありません。


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2020年3月30日 (月)

コロナの巣ごもり読書には「聊斎志異(りょうさいしい)」

新型コロナウィルス騒動で巣ごもり状態が要請され退屈するかと思ったら、世間は、というか政治と行政の世界はほとんど毎日がコメディなので思ったほど退屈しません。コメディは役者が真面目に演じれば演じるほど滑稽になるとしても、最近の政治行政コメディは登場人物がおのおのの利害と利権の追及にバラバラな方向で熱心なので、その結果、普通のシナリオライターが描く筋書きをはるかに超えたおかしさに満ちています。

「外出は自粛してください。」「不要不急の用事で外に出かけないでください。」「ただし、旅行券と外食券を提供しますので、(外出自粛要請などは気にせずに)旅行し、レストランで思うまま食事を楽しんでください。」「肉や高級魚の購入を支援するクーポンも用意します。」「日常生活で必要なものは政府が責任をもって製造と流通を保証するので心配無用です。」「マスクがいまだに買えないのですがどうなっているのでしょうか?」「申告所得税、贈与税及び個人事業者の消費税の申告期限・納付期限について、令和2年4月16日(木)まで延長することといたしました。」「経済的支援は、前例のない規模で速やかに行います。」「(現金による給付は)当面のキャッシュがない人など(だけ)を対象に(します)。」「(実際の現金給付は)早くても5月末になります。」「首都封鎖も検討しています。」「これでわたしの支持率上がったわね。」「花見や宴会での外出は控えてください。」「都が自粛を求めている公園で花見のような宴会を行っていた事実はない。・・・レストランに行ってはいけないのか。」

「レストランに行ってはいけないのか」を「おいしいケーキを食べてはいけないのか」に翻訳するとフランスやルーマニアではほとんど革命前夜ですが、先日の記事「Financial Times のコロナ(COVID-19)関連の無料記事」で参照した “Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads | Free to read” でも戯画化されているように、日本は「従順で社会規範が強くてマスク着用」の国なので、まだ革命には至っていないようです。

最近になって、東京都でも「密閉」「密集」「密接」の「三密」を回避しようという主旨のメッセージが飛び交うようになってきました。三密の意味は違いますが、三密と言えば密教で、空海です。ただし密教の場合は「三密の回避」ではなく、「肉体と言語と意識のひそかな相互作用であるところの三密、の勧め」になります。

空海の「即身成仏義」という著書に七言八句の頌(じゅ、韻文)があり、下にその上四句を引用します。世界はそのままで(即身)、つまり、ヒトを便利な乗り物として生存しようとしている出自がはっきりとしないがとても頭のよさそうなコロナウィルスを含めてそのままで、悟っている(成仏)という意味の韻文です。

《六大無碍にして 常に瑜伽なり》(宇宙の六つの構成要素はお互いに融けあっていて常に瞑想している)

《四種曼荼 各(おのおの) 離れず》(そういう宇宙を四種類の曼荼羅(まんだら)で象徴的に表現した場合でも、おのおのが離れることはない)

《三密加持すれば 速疾(そくしつ)に顕わる》(私たちの肉体・言語・意識の三種類の働きが仏のそれぞれの働きと応じ合えば、速やかにさとりの世界が顕われる)

《重々(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即身と名づく》(六大と四種曼荼と三密は宇宙の網の中で重なり合っていて互いに映り合うような状態であり、だからそのままで私たちは仏の状態にあると言える)

今回のコメディで登場した演者の(まだまだ進行中なので新しい役者も裏に控えていると思いますが)いろいろな言葉や表現はぼくたちの笑いを誘ってくれるし、またいろいろなことを考えさせてもくれるようです。

さて「聊斎志異」です。

巣ごもり読書には推理小説でもいいのですが、あまりに犯罪者の心理分析が重いものは鬱陶しいので、こういう場合は、神仙・幽霊・妖しい狐や妖しい美女・魑魅魍魎(ちみもうりょう)にまつわる中国の怪異譚「聊斎志異」にしくはない。

日本語訳にいくつかの種類があります。ここでは岩波文庫版の「聊斎志異」(上下二巻)が対象です。完訳本だと短篇掌篇合わせて491篇を訳すので膨大な量になるので、たいていは翻訳者と出版社が読者に面白そうなものを選んで一冊か二冊に収まるようにしてあります。岩波文庫版だと上下二巻で92篇。それぞれ450ページ余り。文字数はとても多く、各ページは(ジジイ、ババア向きでない)非常に小さいポイントの活字で埋まっています。ただし篇ごとに挿絵もついている。

この世のものではない美しさの女性や傾国の美女、えも言われぬ香りの女性が数多くの篇に現れます。路上でそういう女性に出会うこともあるし、そういう女性が深夜に戸を静かに叩く場合もあります。だから題名を手掛かりにそういう女性が登場するに違いない、その可能性の高そうな篇を選んで読み進めるのは一つの方法です。たとえば女性や女性の名前が題名になっているところの「青鳳(せいほう)」「侠女(きょうじょ)」「蓮香」「巧娘(こうじょう)」「紅玉」「連城」「花姑子(かこし)」「緑衣女」「青蛾(せいが)」「嫦蛾(こうが)」など。

「ある日も読書をしているとき、不意に室内にえも言われぬ香りが満ちてきて、しばらくすると佩玉(はいぎょく)の音がしきりに聞こえてきた。驚いて振り返ると、きらびやかな簪(かんざし)や耳輪を飾った美人が入ってきた。」(「甄后(しんこう)」

あるいは「労山道士(ろうざんどうし)」のようないわゆる道教や神仙を匂わせる篇を開くのももう一つのやり方です。「労山道士」では次のようなわくわくする描写に出会えます。

「日もとっぷりと暮れてきたのに灯もない。すると、師匠が紙をまんまるく切り抜いて壁に貼りつけた。と、その紙がたちまち月にかわって、室内をこうこうと照らし出した。・・・・『せっかくこんな月明かりをいただいたのに、黙りこくって飲んでいるのも曲もない。ひとつ嫦蛾(月宮の仙女)でも呼びましょうか』と言って箸を月の中に投げ入れたかと思うと、ひとりの美女が月光の中から姿をあらわした。」

短篇集なので頭から読んでもいいし、書き出しが気に入った篇をつまみ読みしてもいい。一度読んで好きになったのを読み返しても楽しい。


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2020年3月27日 (金)

精米歩合が70%~75%くらいの純米酒が好み

冷や酒がおいしいのも十分に解るとしても、晩酌の日本酒はぬる燗です。燗酒なので吟醸や大吟醸ではなく、精米歩合が70%から75%くらいの純米酒を選びます。燗酒というと酒屋でも飲み屋でもアル添を勧められますが、アル添は好みではありません。

精米歩合とは、当該白米(玄米からぬか、胚芽等の表層部を取り去った状態の米)の、玄米に対する重量割合を指すもので、ご飯に炊いて食べる白米の場合だと精米歩合は下の絵のように約90%です。だから精米歩合が50%以下の大吟醸酒だと、外側部分を半分以上磨き取ったコメ粒の中心部だけを使うわけです。

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以前、精米歩合が80%の(つまり、ご飯用の白米よりわずかに多く表層部を削り取っただけの)「雄町(おまち)」(という酒米)を使った辛口純米酒に出会いその芳醇な味わいに驚いた経験があります。全国の地酒の中からからそういうものをゆっくりと探すのも楽しいものです。

地元では昔から贔屓にされてはいても地元以外には知られていない純米酒とか、全国向けブランドと地元向けブランドをビジネスの主と副といった感じで両建てしている比較的大きな酒蔵の副ブランドのひとつであるところの純米酒とか、そういう日本酒です。そういう昔ながらの、磨きの度合いが低い(紛らわしいけれど、つまり精米歩合が大きい)日本酒だとそこにコメが存在しているのがより強く感じられます。

磨きの少ない米で雑味(ざつみ)のない旨い日本酒を作るのは難しい。ちょうどアナログ回路を上手に設計するのは実務経験豊富なベテラン・エンジニアで、そういう技術者が数少ないように、そういう技能を身に着けた杜氏が多くいらっしゃるわけではない。一方、磨きに磨いた米で大吟醸を醸すのは、パソコンやスマートフォンやIT家電のデジタル回路の設計みたいなもので、雑味なしにきれいに仕上げることができる。理工学部や農学部で醸造学や発酵学を学んで卒業したばかりの杜氏チームでも頑張ればなんとかなります。ということもあって、好みは精米歩合が70%~75%くらいの純米酒です。


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2020年3月26日 (木)

筍(たけのこ)の季節

「筍(たけのこ)」の季節です。北海道でもタケノコは採れて野菜売り場に並びますがそれはチシマザサ(千島笹)の若竹(写真参照)で、「ふっくらとした筍(孟宗竹の筍)」は採れません。西日本で幅広く収穫される孟宗竹はもともとは外来種、チシマザサは在来種。

だから、いわゆる筍を料理しようと思ったら、静岡、京都、福岡、鹿児島、熊本といったところから運ばれてきた採れたてを近所の野菜売り場で買い求めることになります。

外来種の孟宗竹が気持ちよく生育できる地域以外では、北海道に限らずスリムな在来種が駆逐されずに残っているので、スリムなタケノコを炊き込みご飯や味噌汁、あるいは素焼きで楽しんでいると思います。

孟宗竹の筍は柔らかいところは、おすましや筍ご飯、薄味のシンプルな煮物、木の芽和え、それから硬いところは味噌汁の具にすると、定番料理は定番としてのそれぞれの「春」を堪能できます。暮らしの彩りです。

20200319
       鹿児島産の筍

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チシマザサのタケノコ (Wikipediaから引用 Photographer Aomroikuma (Wikipedia Wikimedia Commons))

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2020年3月25日 (水)

Financial Times のコロナ(COVID-19)関連の無料記事

Financial Timesのコロナ(COVID-19)関連の無料記事「Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads | Free to read」(Mar 24)における分析グラフがとても興味深い。その記事は

“The countries affected, the number of deaths and the economic impact”
“The epicentre of the coronavirus is now Europe, with the largest number of confirmed cases in Italy, and death tolls growing more quickly in Italy and Spain than they did in China at the same stage of the outbreak.”

といった内容で、主要各国の死者数や感染者数の推移(軌道)を国別に比較し、国ごとの特徴(おかれた状況や対応の特徴)や経済的な影響をまとめたものです。元データは Coronavirus COVID-19 Global Cases by the Center for Systems Science and Engineering (CSSE) at Johns Hopkins University (JHU)で、それをFinancial Timesが加工分析。

複数のグラフが用意されていますが、とくに興味深いのは、横軸に日数を取り(ただし、死者に関しては10人目の死者が出てからの2020年3月24日現在までの日数、また、感染者に関しては100人目の感染者が出てから3月24日現在までの日数)、縦軸にはそれぞれの人数を国別(や主要都市・主要地域別)に指数表示した軌道グラフで、複数の補助線が読者の理解をわかりやすくしています。

補助線は、死者数や感染者数が、日ごとに(毎日)2倍になる場合の補助線、2日ごとに2倍になる場合の補助線、3日ごとに2倍になる場合の補助線、1週間ごとに2倍になる場合の補助線で、各国の状況がその複数の補助線とどういう位置関係にあるかをチェックすると世界の状況が鳥瞰できます。

「日本や韓国」と「欧米」は、死者数に関しても感染者数に関しても、明らかにパターンが違います。2日ないし3日ごとに倍々ゲームを繰り返しているところは(ドイツのような死者数や致死率がとても低く抑えられている国も含めて)、医療崩壊を回避するために、国単位や都市単位での「封鎖(lockdown)」を実施せざるを得ないようです。

一方、日本や韓国の死者数や感染者数は、「今までは、あるいは最近は」「週ごとに2倍」の補助線に沿って移行していて「今のところは」明らかに状況が異なっています。当該記事の分析によれば、その理由は、日本は「社会規範がしっかりとしている(あるいは、国民がお上の要請に従順である)、それからマスクをつける習慣がある」、韓国は「当初はヤバかったけれど、やたらに検査と追跡を実施して事態を制御しつつある」ということのようです。Financial Timesの記者や分析者にはそう見える。

無料記事ということに甘えて、下に国ごとの各国の死者数推移に関するグラフをコピーして貼り付けておきます。詳しくは当該記事をご覧ください。

Coronavirus-curve-of-deaths-by-country-m


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2020年3月24日 (火)

「アクティブ・ババア」「アクティブ・ジジイ」と姥(うば)捨て山

今回の新型コロナウィルス騒動でも、初期段階でぼくたちの眼に見えた現象は、アクティブシニア層やその層より少し若いアクティブ熟年層がウィルスの攻撃対象やウィルスの顕著な運搬媒体になっていたということです(現在がどういう形の感染カーブのどのあたりにあたるのかよくわからないにしても、初期段階の現象でした)。複数の外洋クルーズ船の主要乗客はアクティブシニア層でしたし(そういう層しか参加しないということであるにせよ)、ライブハウスやスポーツクラブの主要顧客層のひとつは確かにアクティブシニア層です。彼らは体調がいいので、あるいは、体調に如何にかかわらず、昼も夕方もともかくよく動く。

以前はシニア層が屯(たむろ)する場所は午前中の整形外科の待合室や図書館や近所の公園などが多かったようです。今も公立図書館の新聞などは開館時からシニア層に占有されているらしい。早い時間帯のスーパー銭湯もシニア層のサロンだと聞きます。動いていないと気が済まないアクティブシニア層は、静的な空間だけでなく浴室設備のあるスポーツジムやスポーツクラブにも浸透し始めました。

外へ出て積極的に何かをするという意味では図書館通いからスポーツクラブ通いまで一貫していますが、外出先での彼らの自由な振る舞いが若い人の眼にはオーボーな行為と映っているのかもしれません。そういうシニア層には傍若無人な態度を見せる人たちが確かに混じっていて、そういうことも合わさって彼らが「アクティブ・ジジイ」や「アクティブ・ババア」と呼ばれている模様です。

昔々「姥捨て(うばすて)」という風習があったようです。そういう民話や伝説が日本の各地に伝わっていて、これを棄老(きろう)伝説といいます。伝説や民話が残っているということは、そういうこと(あるいは、それに近いこと)が実際に行われたということなのでしょう。柳田國男の「遠野物語」はその一例です。

「姥(うば)」とは老女や老婆を指します。爺ではない。しかし「姥捨て」となると棄(す)てられるのはお年寄りで、そこにはおばあさんもおじいさんも入ってきます。しかし古人が選んだ名称は「姥」。共同体や家族の負担でしかなくなった「ジジイ」や「ババア」を山に棄てた。

世の中には、元気であっても、大きな網に放り込んで姥(うば)捨て山に持っていって棄ておきたい、そういう婆さん連中や爺さん連中が確かにいらっしゃる。そういうシニア層が若い人たちから「アクティブ・ジジイ」や「アクティブ・ババア」と呼ばれているのでしょう。

COVID-19が猛威を振るっているイタリアでは医療スタッフや設備不足で全員を同時に同様な設備で治療できないときに、誰を治療し誰を治療しないのか、その優先順位の決定で苦しんでいる医者もいらっしゃるようです。かりにある70歳の重篤な感染者と、ある20歳の重篤な感染者と、ある1歳の重篤な感染者がいるときに、医療スタッフと医療設備が不足した環境で3人の治療優先順位をつけるとすると、

第1案は、①20歳 ② 1歳 ③70歳
第2案は、① 1歳 ②20歳 ③70歳

となります。20歳と1歳の優先順位をどうするかは「すでに才能や実績として顕在化したもの」と「今後開花する潜在能力や可能性の大きさ」をどう組み合わせてどういう視点で評価するかという哲学的な議論が絡んできますが、70歳の順番を一番後回しにすることについてはその合意形成にとくに悩まなくてもよさそうです。しかしその場合は、捨て置かれる70歳については安楽死という選択肢も必要になります。

しかし実際には当該70歳の持つ政治力や取り巻きが、「70歳の置かれた土俵」と「1歳と20歳の置かれた土俵」を切り離し、70歳の土俵を高みに持ち上げて70歳の優先治療を医者に迫るといった事態も発生します。「アクティブ・ジジイ」や「ババア」の属性のひとつです。


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2020年3月23日 (月)

濃厚接触とソーシャル・ディスタンシング

今回の、世界的にはまだまだ落ち着かない新型コロナウィルス騒動が始まった時に驚いた用語のひとつが「濃厚接触」でした。

「濃厚接触」という言葉できれいな女性のいるところに行ってお酒を飲みながら親しく歓談する場面を連想したら、それもそのひとつには違いないにしても、主にはウィルスの感染者や保有者と親しくおしゃべりしたり、食事をしたり、同じスポーツクラブで運動したり、カラオケボックスで過ごすことなどを意味すると聞いてその不思議な日本語にいささか驚いたものです。その原語というか英語を調べてみると、CLOSE CONTACT でした。もともとは一般語です。それを、どなたが最初に訳したのか、術語(テクニカルターム)の翻訳とはいえなかなかに強烈な訳語です。

ちょっと前まで対岸の火事とみなしてボーとしていたヨーロッパや米国でこのウィルスが急速に蔓延し始めてからのことですが、英語のニュースで SOCIAL DISTANCING という耳慣れない用語が目につくようになってきました(感染症や疫学の専門家にとっては日常語かもしれませんが)。

「濃厚接触」のような刺激的な日本語に訳せないので、ソーシャル・ディスタンシングというカタカナ言葉をそのまま使うとしてもその意味は、「濃厚接触をしない、あるいは濃厚接触の逆をするということ」です。

仕事の場面だと、職場に来て一緒に働くのではなくてテレワークやリモートワーク、あるいは会議室で議論ではなくビデオ会議。学校だと休校やリモート授業。イベントは中止。私的な場面だと、外出は控える、外食はしない、ススキノも行かない。スポーツクラブも行かない。ドラッグストアでマスクの行列に並ぶときに限らず複数で集まる時も前後の人やまわりとは6フィート(1.8メートル)以上離れる、つまりは引きこもり的な生活の勧めということです。

理由は、COVID-19のような接触感染で拡がるタイプのウィルスには SOCIAL DISTANCING することが有効で、そうすることで、感染カーブをフラットにして(つまり低く長く引き伸ばして)感染の拡大を抑える、あるいは感染速度をゆるやかにして医療崩壊を避けることができる。そういう考え方です。

つまり日本では、地域によっては一ヶ月前から実行していることですが、そういう方法を「濃厚接触 CLOSE CONTACT」のように印象的なひと言で要約した表現がないものか。SOCIAL DISTANCINGを「社会(的)距離戦略」としたのでは専門用語辞典風で人口に膾炙しません。「そばに寄るな」「べたべた触るな」「でもバーチャルに濃厚接触したいね」というようなニュアンスを含んで発音しやすく記憶に残る漢字の4文字用語はないものか。

密閉・密集・密接・密着・密議などを避けることなので、とりあえず、「避密のすすめ」あるいは「疎のすすめ」とでもしておきますか。

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2020年3月19日 (木)

オリンピックには新興宗教の香り?

運動やスポーツは走るだけのタイプであってもボールを扱うタイプであっても、好きなら下手なりに楽しいものです。下手なりに楽しいというのは、それを職業や職業に類するものと考える必要がないからです。オリンピックを仕事にしている人たちはそうはいかない。

東京オリンピックをどうするかに関する議論を拝聴していると、なかにはほとんど近代オリンピック教という新興宗教の信者のような考え方のかたがいらっしゃるのでいささか驚かされます。オリンピックの理念や原則といった言葉といっしょに教義らしきものが生な形で姿を見せるのでびっくりするわけです。オリンピックを材料に金儲けを企んでいる人たちではなく、オリンピックを仕事にしている人たちにそういう考えの方が多い。そうでないと仕事にならないのでしょう。

「新興宗教」と言ったのは、IOCができたのが1894年、第一回目のアテネ大会が1896年、つまり近代オリンピックなるものは、わずか125年くらい前(日本だと明治時代半ば、日清戦争の頃)に生まれたました。「新興」です。

新興宗教はその基本的な教義や考え方を、ユダヤ教・キリスト教のような絶対者を想定する宗教的な宗教や、仏教のような絶対者を想定しない哲学的な宗教など三千年から二千年くらい前の世界に生まれた宗教に依拠していることが多い。あるいはそうでなければ、その後世界(に拡がることになった)宗教が出現する以前に各地域に生まれていたその地域固有の神々(たとえばギリシャ神話に登場する神々や日本の神道の神々など)に根差してしていることも多いようです。

近代オリンピックもその基本的な考え方は古代ギリシャ人がオリンピア祭に催した古代オリンピック競技のそれから来ています。古代オリンピック競技は運動だけでなく詩の競演も含んでいたようですが、紀元前776年から紀元393年まで4年ごとに開催されました。

紀元393年の古代オリンピック競技が最後になったのは、その翌年,オリンピック競技会の開催を禁じるテオドシウス帝の勅令が出されたからです。キリスト教徒であったテオドシウス帝は「ギリシャの神」に捧げられるオリンピックを「異教的なもの」(キリスト教の勝手な言い草ですが)として排除しました。ギリシャ人も他民族・異民族をバルバロイ(よくわからない言葉を話す人たち)と呼んでいたので似たようなものです。中華思想では東夷・北狄・西戎・南蛮がバルバロイです。

「宗教」といったのは、オリンピックを仕事にしている人たちにとっては、オリンピックは他のスポーツ競技会(たとえば世界選手権)やスポーツイベントとは違ってたかがスポーツではないらしいからです。そういうところに原理主義的・教条主義的な匂いが漂います。オリンピック以外の競技会は「バルバロイ的」なのでしょう。

古代ギリシアにおいて開かれていた大規模なスポーツの祭典としては、古代のオリンピックにあたる「オリンピュア大祭」のほかに、「ネメア大祭」と「イストモス大祭」と「ピューティア大祭」の三つの競技大会があったそうです。

「オリュンピア大祭」は4年に1度、「ネメアー大祭」は2年に1度、「イストモス大祭」も2年に1度、「ピューティア大祭」は4年に1度開催されましたが、4つの競技大祭のうちゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われたそうです。だから、これが近代オリンピックにつながった。

ちなみに、古代ギリシャの哲学者プラトンは青年期はアテナイを代表するレスリング競技者として活躍し「イストモス大祭」(4年に1度のオリュンピア大祭の開催年の前後の年に、つまり古代オリンピックを挟んで2年ごとに開催された)に出場したらしい(そういう弟子の記録が残っている)。当時のギリシャ世界の世界選手権大会です。オリュンピア大祭(古代オリンピック)と比べると格が落ちる。プラトンがオリュンピア大祭(古代オリンピック)に参加したかどうかはわからない。多分参加していない。プラトンが「バルバロイ的」な「イストモス大祭」だけに参加していたかもしれないというのは何となく興味深い。本当は何十キロも歩くのが面倒なのでアテナイと地理的に近い大会に参加しただけかもしれないのですが。

オリンピックの聖火採火式が行われるのはヘラ神殿跡です(ヘラはゼウスの奥さん)。ゼウスも天の高みから採火式を見下ろしているのでしょう。ギリシャ神話的な意味で宗教的な儀式です。古代ギリシャの神々の息吹が、どうして現在のオリンピック関係者の教条主義的な(ギリシャの神々からすれば異教的な)姿勢に繋がるのかぼくにはよくわからない。


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2020年3月18日 (水)

新型コロナウィルスの感染防止には日本式のお風呂、という暢気な仮説

あるアクティブシニア女性の憂鬱」の関連記事です。

日本における、新型コロナウィルス(COVID-19ないしは武漢ウィルス)の感染者数の絶対者数やその伸び率、あるいは人口1万人当たりの感染者数はに外国と比べて、つまり少し前までの中国や、現在、感染が急速に拡がっているヨーロッパや米国と比べて相当に低いようです。これらの数字は、国ごとに、検査の取り組みや感染者の特定の仕方、公表の仕方が違うので単純比較をすると「相当に低い」とは言えないかもしれないのですが、ここでは Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE の数字を前提にします。

念のためにCOVID-19の直近の致死率を比べると、世界平均が4.0%、日本の致死率は3.3%、ドイツの致死率は驚くほど低くて0.3%。感染する人が少なければ死ぬ人も少ないというアプローチをとるか、それとも、感染しても8割の人はどうということもないのでしっかりした医療インフラがあれば致死率はとても低く抑えられるというアプローチをとるか。

丁寧な手洗いでウィルスがほぼ確実に除去されることはわかっています。たとえば、メディアやネットよく目にするのが下に引用したまとめ表ですが、両者の相関は理解しやすい。(そういうまとめ表の元データは2006年に発表された「Norovirus の代替指標として Feline Calicivirus を用いた手洗いによるウイルス除去効果の検討」みたいです)。

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水と石鹸で手をよく洗えばウィルスは確実に除去される。ならば、こういうことは誰でも思いつくことですが、シャワー(とボディーソープとシャンプー)でも結構な効果はあるにしても、日本のようなタイプの風呂(全身を流した後、湯船に入る)に毎日入って浴用石鹸とシャンプーで全身をきれいに洗えば、頭から手足の爪先まで新型ウィルスがほぼ確実に除去されることになります。感染防止を確実にするためには、帰宅時の手洗い等の毎回の実行が前提となるにしても。

日本のようなお風呂文化を持っている国と、そうでない国との違いがCOVID-19の感染者数や感染率に密接に関係しているように思えます。日本のような風呂好きな生活文化を持っている国は、そうでない国よりも、全般的には間違いなく清潔です(なかには風呂嫌いもいますが)。新型コロナウィルス予防や拡散防止には(「マスク」と「手洗い」と)「日本式のお風呂」です。中国からの観光客の流入がなくなってしばらくたつので、日本では「お風呂効果」の結果が素直に出ていると勝手に考えています。

感染症対策に関してドイツの医療インフラと致死率の低さに追いつけないのなら、また陰性・陽性検査も気軽にできないようなら、日本では手洗いとお風呂で防衛しますか。しかしお風呂は家庭ではいいとしても、では銭湯やスーパー銭湯でお風呂に入るのはどうかと問われるとよくわからない。

それから、これもまったくぼくの憶測ですが、かりに日本でCOVID-19の検査件数が急に増えて、その結果感染者数が増加しても、死亡者数が今までのような推移を辿るとすれば、致死率はそれにつれてドイツの数値に向けて逓減していきます。暢気な話ですが、そうであればありがたい。


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2020年3月17日 (火)

安倍首相のスピーチや質疑応答における冗漫と曖昧

新型コロナウイルス対応に関する安倍首相の2度目の記者会見が3月14日(土曜)の午後6時からあり、その模様がNHK(テレビとインターネット)で中継されたのでテレビやタブレット端末の画面を通して拝見・拝聴しました。

安倍首相のスピーチや質疑応答はたいていは応援演説風で、応援演説とは「○○君をよろしく」「●●さんをご声援ください」以外にはとくに意味を持たないので適当に聞き流すにはいいとしても、しかしそうではなくて話の内容を真面目に理解しようとするとなかなか大変です。なぜなら彼のスピーチや彼の応答は以下のような特徴を持っているからです。

・何が主語で何が述語なのかかが、どうもはっきりしない。
・つまり、行為の主体が曖昧だし、その曖昧な行為主体が何を目的に何をするのかということも曖昧であり、そういう曖昧な叙述が区切りなく流れて行く。
・なくても構わない、似たような形容詞と副詞がむやみに(うんざりするくらいに)多い。「意気込み」を感じさせる似たような動詞の繰り返しも多い。
・「意気込み」の具体的な内容や対象や時期について質問された場合は、その質問と無関係な意見陳述を繰り返してその質問を「しかと」する。まれに彼が何かを説明し始める雰囲気になることがあり、珍しいので聞く側が聞く姿勢になると、後に続くはずの説明が行方不明になる。

ぼくの記憶にある彼のスピーチや質疑応答における発言の基本の流れを再構成してみると次のような具合になります。

「こういうわけでありますから」「まさに」「と考えるわけであります」「迅速に」「一気呵成に」「総力を挙げて」「一丸となって」「しっかりと」「前例に捉われることなく」「全力で」「いわば」「というわけでありますから」「最優先に」「あらゆる手段を使って」「総理大臣としての私の責任において」「真摯に」「これから」「取り組んでまいります」。

その流れの中に主語や目的語に相当する言葉をなんとなくもやもやと混ぜ込んでいくと安倍スピーチや安倍発言ができ上がる。ぼくはこれを『安倍テンプレート』」と呼んでいます。

今回の会見も冒頭に安倍首相から20分を少し超えるくらいの長さのスピーチ(「緊急事態宣言」を可能にする改正特別措置法や世界的に落ち込みを見せる経済への対策についての説明など)があり、その後質疑応答に移りました。

申し合わせ通りにいくつかの幹事会社から提出されていたいくつかの質問が処理された時に、前回と同じく司会(広報官)が大胆にも早々に会見を切り上げようとしたのですが、2週間前の初回と違って、他の記者から「質問に答えてください」「おかしいですよ」「時間取ってもいいんじゃないですか」「総理、これ記者会見と呼べますか」などとといった非難の声や不満の大声が上がり、その結果、質疑は継続されることになりました。これは前回の会見からの改善点です。改善ではあるのですが、首相記者会見が初めて普通の状態の記者会見になっただけとも言えます。

相変わらずだなと思ったのは苛々するくらいに形容詞や副詞の繰り返しの多いことと、主体と主語・述語の関連が曖昧なことです。しかしそういうことでイライラするだけではぼくも時間がもったいない。

「安倍テンプレート」(「こういうわけでありますから」「まさに」「と考えるわけであります」「迅速に」「一気呵成に」「総力を挙げて」「一丸となって」「しっかりと」「前例に捉われることなく」「全力で」「いわば」「というわけでありますから」「最優先に」「あらゆる手段を使って」「総理大臣としての私の責任において」「真摯に」「取り組んでまいります」)と、その夕方の実際の発言を比べながら次はどういう副詞が登場するかを予想したりして楽しんでおりました。


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2020年3月16日 (月)

国連の専門機関の議長や事務局長の発言を聴くときは、眉に少し唾をつけて・・

科学者・研究者というのも自身とチームの存続のためには研究費を継続して確保する必要があります。そのためには国からお金の貰えそうな「旬」な研究テーマを継続して選択するほうが有利です。そういう意味では科学者・研究者は政治指向です。

国連というのはそれなりに魑魅魍魎とした政治機関です。国連の専門機関で働く人たちが科学者の集まりだからといっても彼らが政治に無関心というわけではなくて、おそらくはその真逆で、そうでないとそもそも政治色の強い国連関連の仕事に応募したりはしない。

今回の新型コロナウィルス(COVID-19、「武漢ウィルス」というほうがあとあと鮮明に記憶に残る)騒動では、国連の専門機関であるところの世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長の発言と行動の右往左往(入国制限・渡航制限の放置から国別の封じ込めへ、楽観論から悲観論へ、など)が興味深かったし興味深いのですが、エチオピア出身の政治好きな事務局長が、個人的な目論見と利害をその一部とするところの「グローバル経済」的な政治経済決着を求めて走りまわっていると考えるとその紆余曲折も解りやすい。

国連の専門機関の政治好きはWHOに限らず以前から顕著で、そういう意味での事例研究対象として直ぐに思いつくのは、IPCC(気候変動に関する政府間パネル Intergovernmental Panel on Climate Change)です。IPCCは国連環境計画と国連の専門機関の世界気象機関によって1988年に共同で設立されました。

IPCCの初代議長(1988年~1997年)はスウェーデンの気象学者のベルト・ボリン氏で、彼は「2020年にはロンドンもニューヨークも水没」すると予言していました。しかしロンドンもニューヨークも街角が海水に洗われることは当分なさそうです。IPCCは、たとえば2001年の「ホッケースティック曲線」のような世論誘導方のフェイク研究もお好きです。

インド出身のパチャウリ氏がIPCCの3代目の議長になったのが2002年(13年後の2015年に退任)。政治指向の強い研究者でした。IPCCは名前からして政治団体そのものなので、そういう指向と才能がないと議長は務まらない。

IPCC関係者は地球を水没させる予測が伝統的にお好きなようで、その変遷をまとめてみると以下のようになります。

・IPCC初代議長は「2020年にはロンドンもニューヨークも水没」
・IPCC 第4次評価報告書(2007年)では「100年後に18~59センチメートルの海面上昇」
・IPCC 第5次評価報告書(2013年)では「今世紀末までに海面は26~82センチメートル上昇」

100年後のことを思惑で予測するのは、その時には当事者も周りも生きていないので、死後の名を惜しむという思いがなければわりに気楽かもしれません。初代議長のベルト・ボリン氏も2008年にお亡くなりになったので、残念ながら英米の大都市の2020年の水没状況を確認する機会には恵まれませんでした。

パチャウリ氏が議長を務めていたIPCCは、2007年に、国際社会に地球温暖化の問題を知らしめた活動が高く評価され、アメリカの「不都合な真実」のアル・ゴア元副大統領とともに、ノーベル平和賞を受賞しました。

WHOのテドロス事務局長は(2020年)3月11日のジュネーブ本部の定例記者会見の冒頭メッセージで「新型コロナウイルスはパンデミックと言える(パンデミックとしての特徴を持っている)」と述べ、各国に対して対策の強化を訴えました。訴求内容は、感染者や感染国の数を追うだけでなく、ウイルスの封じ込めができると実証した国(つまりは中国のことですが)に学ぶべきだ、影響を最小限に抑えるためには包括的な戦略にもとづいて政府と社会が連携する必要性があるといったものです。原稿を読む感じの冒頭メッセージで、内容はわかりやすい。

これはある立場のある考えの人たち(為政者)にとってはその通りで、しかしそうでない人たちにとっては「治安維持法」の変奏曲のようなのが侵入してくるのに近い。政府と社会の連携のしかたには国によって質やレベルの差があり、そういう連携は文化構造的な違いが反映されないと動かない。テドロス氏には中国のやり方が、明示的には決してそう言及しないものの、理想に近いと映っているのでしょう。彼は習近平スタイルの実践者になりたいらしい。実寸大の習近平になるのは無理なので、外務大臣経験者でもあり政治指向の強い彼としては、できたらミニ習近平的な圧力を各国にかけたいのでしょう。しかし立場上、定例記者会見では穏やかに語ります。そういう配慮がやがて、アル・ゴア氏も手にしたところのノーベル平和賞を、彼の手元に引き寄せてくるかもしれません。

というようなわけで、「国連の専門機関の議長や事務局長の発言はそれなりに真摯に拝聴する、ただし眉に少し唾を付けて・・」が、ぼくのここ20年くらいの思考習慣のひとつになりました。


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2020年3月13日 (金)

冬の間は頻繁に玄関の土間掃除

雪と株価と木製の砂箱」や「続続・札幌の雪の準備」で書いたように、札幌では冬は主要道路の交差点付近に滑り止め材(砂、より正確には細かく砕いた砕石です)を各種の砂箱に入れて用意してあります。横断歩道で歩行者が滑らないようにするためです。その必要を感じた人が道路にその細かい砕石を撒くので雪が降り始めるころから砂箱が設置され砂は雪が消えるまで配置されています。

外から戻ると、あるいは宅急便・宅配便が届くと、自分や家族や宅配業者の冬靴や雪靴や作業靴の底に付着したその微細な砕石が、深い雪の中を歩いた靴底の雪や水といっしょに玄関の土間に残されます。だから、頻繁に掃除しないと土間がざらざらになってしまう。濡らした雑巾で丁寧に拭き掃除をします。そうしないとその尖った感じの砂は拭き取れません。

そろそろ雪融けの時期です。雪が融けた後の交差点や横断歩道には、滑り止め材であるところの真っ黒な砂が一面に広がっています。靴底に付着したそれがまた玄関土間にやってくるので、雪が融けたからといって作業量が減るわけではありません。

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2020年3月12日 (木)

カフェと喫茶店とコーヒーショップ

比較的近所にカフェがあります。ぼくは、このお店の前を通り過ぎるだけで、中に入ったことはありません。ぼくの中では、喫茶店と違って、カフェという日本語は自分の語彙としてはいまだに定着していなくて、だから心理的な敷居があるのかもしれません。

食品衛生法施行令」によると、法令上の営業形態としての「飲食店営業」と「喫茶店営業」は違っていて、「飲食店営業」ではお酒と調理、つまりお客にワインと食事とお茶・コーヒーやケーキを提供することが可能ですが、「喫茶店営業」ではお酒と調理が不可、つまりお客にはもっぱらお茶やコーヒーやお菓子を楽しんでもらうお店ということになります。カフェというのはどちらなのか。

国語辞典(広辞苑)というのはこういう場合に役に立つこともあるので調べてみると、実際、役に立ちました。

《カフェ》 【café(フランス)】(コーヒーの意)
① 主としてコーヒーその他の飲料を供する店。日本では幕末の横浜に始まり、東京では1888年(明治21)上野で開店した可否(カツヒー)茶館が最初。珈琲店。喫茶店。
② 明治末~昭和初期頃、女給が接待して洋酒類を供した飲食店。カッフェ。カフェー。

カフェ好きに「カフェとは何ぞや」と聞くと、コーヒーやワインやビールやコーヒーなどの飲み物と軽めの食事とおしゃべり空間(ないしは読書空間)を提供するしゃれた雰囲気のお店を指してカフェと呼んでいるとのこと。では街角に必ず存在しているところのコーヒーショップというのはなんだということになると、そこではおそらくメニューに酒がいないし軽食も出来合いのサンドイッチを食べさせるだけみたいなので、そういう意味では喫茶店の親戚みたいな位置づけなのでしょう。

と考えてくると、「女給が接待して洋酒類を供した飲食店」に関して言えば、「飲食店営業」申請をしてある「喫茶店」でウイスキーを飲んでも問題はないけれどそういうものを注文してもおそらくお店にはおいていない。他方、「飲食店営業」申請をしてある「カフェ」ならウイスキーは常備してないとしてもワインやビールならまず問題なく楽しめる。しかし、どちらでもおそらく「女給さん」の接待はない。

ちなみに下にあるのは、(ぼくは前を通り過ぎるだけの)そのカフェの看板風(の一部分)と、通りに向けて通行人や中に入ろうとするお客に見えるような按配で立てかけてある手書き昼食メニー(朝、開店前に勝手に撮影)。写真には写っていませんがビールやワインも揃っているみたいなので、つまり云うところの「カフェ」です。そのうちそこでコーヒーでも飲んでみますか。

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2020年3月11日 (水)

モノは壊れる

安物のラジオ付きCD再生装置にラジオ体操のCDを入れっぱなしにしてあります。室内運動でラジオ体操をするときの専用機です。その専用再生装置が、針を使うタイプのレコードでよくあったように、ある部分をスキップするというのか、プレイ中に途中で急に一時休止状態になるといったほうがいいのか、そういう不都合を起こすようになってきました。

調べたところ音源であるそのCDには異常はないので、再生装置本体の問題です。結構使ったので処分することにしました。こういう簡単な電気器具は捨てやすい。代替はタブレット型端末です。こちらに同じ曲を保存してあります。スピーカーが小さいので音が悪い。しかたがない。

たとえば香りの拡がる紅茶専用の紅茶カップやどっしりとしたコーヒー用マグカップにはおよばないところがあっても、紅茶でもハーブティーでも緑茶でもコーヒーでも甘酒でもなんとでも違和感のない、上が少し開いていて口当たりがいいボーンチャイナのマグカップが壊れてしまいました。配偶者もぼくもお気に入りのユーティリティ・プレーヤのような役割のマグカップです。壊れたと書きましたが、硬い調理台(ワークトップ)の上で不注意で倒してしまったときに持ち手部分が割れてもげてしまい、使い物にならなくなったということです。

ぼくはこれで取っ手を壊してしまったのは二回目で、配偶者も一度同じことをしているので、我が家ではこれで三回目の「転倒による処分」です。このマグカップは腰高で倒れやすいので、もっと安定感があって倒れにくいのを選べばいいのですが、色と形と模様と口当たりの良さが他の選択を阻みます。修理は無理なのでまた代りを注文しました。

家電製品なんかは数年間で壊れることが設計思想の一部だとしても、磁器や陶磁器は普段使いでも大事に扱えば100年くらいは大丈夫なはずです。しかし、モノは壊れてしまう。

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2020年3月10日 (火)

あるアクティブシニア女性の憂鬱

ある知り合いのアクティブシニア層の女性は、自宅の風呂場が以前から物置きと化しているそうです。だからお風呂は軽い運動のあとで毎日スポーツクラブだそうです。理由は、彼女によれば、ひとり暮らしなので自宅でお風呂に入ると毎日の浴室掃除が面倒であるから。そういうことであれば自宅の風呂場が物置きと化すのもなんとなく理解できます。

しかし、浴室掃除が面倒であるので自宅では風呂に入らないとはなっても、調理場やお皿の後片付けが面倒なので自宅で料理を作らないとはならないそうです。きっと料理が得意に違いない。

ところが3月に入ってすぐに、つまり10日ほど前からそのスポーツクラブが、新型コロナウィルス騒動にまつわる「行政指導」で営業休止になり、その女性は短く見積もっても19日まではお風呂に入れなくなった。高級銭湯風の温泉施設を利用するのもなんなので、風呂場の再オープン作業に着手しなくてはならなかったらしい。

「年末大掃除みたいなものだったわ。」
「以前バスタブが本の置き場になっているフランス人の話を聞いたことがありますが、それに近い話ですね。」


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2020年3月 9日 (月)

焼いた慈姑(くわい)が食べたい

突然、慈姑(くわい)が食べたくなりました。

慈姑は水生植物で、水田や浅い池で作る冬の野菜です。そういう意味では、そして収穫作業が骨折りだという意味でも、収穫の季節はレンコンよりはずいぶん短いにしても、レンコンと似ています。慈姑は塊茎(かいけい)を食べます。塊茎とは地下茎の一部が澱粉などを貯蔵してかたまりのようになったもので、たとえばジャガイモも塊茎です。

慈姑(くわい)は、いつの頃からか、正月料理限定の食材になってしまいました。その場合の調理法は、たいていは、芽を大切にした八方剥きの煮物です。それはそれで微妙な味わいで美味しいのですが、それだけではもったいない。

僕のいちばん好きな慈姑(くわい)の食べ方は、丸ごと焼いて、それに塩をつけて食べることです。その味わいは、柔らかい焼き栗(くり)で、しかし栗とは截然と一線を画して、微妙な甘さと苦さが実に程よく混淆しています。

クッキングシートに慈姑をのせて、オーブンで180℃、30分。熱が通り香ばしい感じになったら、オーブンから取り出し、熱いので芽の部分を指でつまむようにして持ち、塩をつけてそのまま食べます。皮も何もそのまま全部です。渋い味わいを堪能できます。焼いた丸ごとを最大に楽しもうとすれば、一緒にぬる燗の日本酒です。

慈姑を焼いて食べる食べ方は水上勉の本で知りました。水上勉が書いた「土を喰う日々」という本があります(発行は昭和53年)。副題は「―わが精進十二か月―」。最初(つまり一月)の章に「くわい」を焼いて食べる話が出てくるので、その一部を引用します。

『くわいを焼くのは、この頃(引用者註:この頃とは著者がある禅宗寺院の管長付きの食事の準備も含む雑用係の頃でおそらく1935年から1937年くらい)からのぼくのレパートリーだった。・・・一般には煮ころがしか、あるいは炊き合わせにしかされないこれを、ぼくは、よく洗って、七輪にもち焼き網をおいて焼いたのだった。まるごと焼くのだ。・・・ぷーんとくわい独特のにがみのある匂いが、ぷしゅっと筋が入った亀裂から、湯気とともにただようまで、気ながに焼くのだ。・・・』

一月の章に登場する慈姑ですが寒い時に食べる食材ではあってもお正月料理との関連に関する記述はありません。

吉田健一が昭和46年(1971年)くらいに書いた「私の食物誌」という食べものエッセイを読んでいたら「東京の慈姑」というのがあり、そこに出てくるのはただ煮てあるだけの煮物と茹でてすり潰したのを揚げたもので、そこでは季節感は希薄です。『兎に角一度食べれば忘れられないもので一時はこれさえあれば御馳走と思ったものだった。しかし今日は慈姑があると言われたりもしなかったからこれが時々食事に出ていた頃はそう珍しいものでもなかったに違いない。』

つまり、慈姑は1960年代くらいまでは、冬の食材として、正月以外にもそれなりに賞味されていたようです。

慈姑(くわい)の生産は、現在は、その90%が広島県福山市と埼玉県南東部に集中しています。京都では生産量はわずかですが京野菜のひとつです。

「慈姑」の東京都中央卸売市場における、令和元年までの過去5年間の取引量の月別割合は

1月(3%)
2月(1%)
3月から9月まで(取引なし)
10月(3%)
11月(17%)
12月(77%)

なので、正月料理が中心ではあるものの、今でも限定的に冬の食材として利用されているようです。ただしデパ地下やスーパーの野菜売り場では年末以外は見かけないので、市場から卸し業者経由で料亭や料理屋に直接向かうのでしょう。

慈姑は、塊茎は皮をむいて水にさらし、アクを抜いてから調理する、シュウ酸を含むので、茹でこぼすのがよい、とされています。シュウ酸はいわゆるアクの成分で、シュウ酸を多く含む他の食材にはホウレンソウやタケノコがあります。そうではあるのですが、しかし、アクもその程度ということです。それを含めた丸ごとが美味しい。

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     以前に焼いて食べた慈姑(サイズは小ぶり)


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2020年3月 6日 (金)

チャットサポート雑感

年に一回くらいはチャットサポートを利用します。たいていはIT関連の利用で、電話でもいいのですが、文字情報で会話できると便利なことも多いからです。今回も拡大解釈すればIT関連の利用でした(実際は携帯・スマートフォンのキャリアが提供している通信サービスの料金に関するチャット相談です)。

難しい話ではありません。しかし、どこにあるのかわからない情報を探し回るのが面倒なのでチャットにしました。

ある日ある時さるDMがそのキャリアから届き、「今の使い方ならこういう風な新しい契約に移行すると毎月これだけお得」というのがその内容でした。最近は、キャリア3社の競合が激しくていろいろと新しいサービスを提供し料金改定も行っているので、そのキャリアも継続的に自社サービスの便利さや安さを訴求しないと、お客は競合キャリアや格安SIMベンダーに乗り変えてしまうかもしれません。

紙だけではよくわからないのでそのキャリアのユーザーサイトに入り、お勧めコースの詳細と現在の契約内容との比較シミュレーションを拝見したところ、プラス面は納得できたのですが、お勧めコースの機能やサービスに関するマイナス面・制約面の詳細がよくわからない。

そういうマイナス面はサイトのどこかに書いてあることは確かだとは思うのですが、それを見付けだすのがひと手間です(実際にはそういうのはひと手間で収まらないことが多い)。だから、チャットサポートをお願いしました。特殊な主題ではないので、チャットなら制約事項やその関連事項をまとめて案内してもらえるはずです。

サポート担当者は、新しいサービスメニューの制約事項と移行に伴う留意事項を列挙してくれました。それらは画面に残っているし、コピーもできる。こういうのは電話では無理です。夕方にチャットをし、その夜にお勧めコースに変更しました。

コールセンターやサポートセンターも電話だと顧客や顧客になるかもしれない人の「怒り発言」や「侮辱発言」に応ずるのが大変だと思いますが―――ぼく自身、0120-で始まる番号から商品やサービスの売り込みに関する要領を得ない電話がかかってくると途中で鬱陶しくて我慢しきれなることがあるので―――しかし、チャットサポートだと文字情報が流れてくるだけなのでそこに相手の感情の爆発が観察されても、サポート側はそれほどイライラしなくてもすみそうです。まあ、それで収まらない種類のお客はいるとしても。


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2020年3月 5日 (木)

とても賢いかもしれない新型コロナウィルス

新型コロナウィルスが蔓延しているらしい「北海道クラスター」で暮らしているという事情もあるので、本棚から「免疫の意味論」(多田富雄著)を二十数年ぶりに引っ張り出して気になる箇所を読み返してみました。基礎知識をリフレッシュしこの名著から刺激をもらうためです。

生物の最もわかりやすい存在目的は、ウィルスや細菌から野原の草やミミズ、そしてヒトまで、その種が再生産を繰り返しながら生存しつづけることです。

ウィルスの「生き甲斐」はたとえばヒトという宿主の免疫系を破壊することではあっても、ウィルスは宿主がいないと存続できないという事情もあるので、極右(ないしは極左)武闘派のようにむやみと宿主を殺傷してしまうのは得策ではありません。宿主に棲むためにその免疫系と戦いながら、宿主という集団を「殺さず生かさず」風に維持するのが賢いやり方です。

つまり、

① 感染者の致死率が高くなく(Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSEによれば、Total DeathsをTotal Confirmedで割った2020年3月4日現在の世界の平均値は3.4%)、
② 感染者数や感染者の致死率は、子どもや若い年代はとても低くて、熟年から高齢者になるほど急激に高くなる
③ 8割の感染者が軽症で自覚症状がほとんどない
④ それから症状が治まって陰性になった感染者も再感染する、つまり免疫系が必ずしもうまく働かない(というのが事実だとすると)、

といったことを総合すると、新型コロナウィルスの「ヒトという宿主集団を殺さず生かさず」という主旨の生存戦略は、再生産(予備・可能)年齢層には親切に宿り再生産年齢を過ぎた人たちにはやや冷酷に取りついているところを見ると、実に賢く考えられているということになります。長くなり過ぎたかもしれないヒトの平均寿命を中・高齢者層を中心に調整しているとも言えます。

地球は、40万年前から10万年の単位で8℃の気温の上昇(温暖化)と下降(寒冷化)を繰り返していて、これは人為では実質的には如何ともしがたい。新型コロナウィルスが人為によるものでなければ、ヒトは防御的に折り合いをつけるしかないという意味では両者は似ています。

エイズウィルスとそのうち折り合いがついたように、今度のコロナウィルスと折り合える方法が見つかる(作られる)までは、家庭や個人のできる範囲で折り合いをつけていくしかなさそうです。


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2020年3月 4日 (水)

梅干しのお土産用パック

2016年8月上旬に完成した自家製の梅干しを6個ずつ赤紫蘇といっしょにガス袋にパックしたもので、お世話になった方へのお土産です。こうしておくと袋詰めしたのを紙か何かに包んで風呂敷で持ち運んでも、プワプワで包んで宅急便で一緒に送る品物の隙間に入れても大丈夫です。梅は龍神梅。

甕に保存し始めて3年半です。伝統的な作り方だと、長期間、常温保存できます。現在朝ごはんで毎日食べているのが、この梅干しです。

2016年8月当時の天日干し3日目の様子もいっしょに。

20168-a2

2016


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2020年3月 3日 (火)

札幌はゴム長の季節

雪の積もる地域の雪解け水は春を待っている樹々や植物や農作物には不可欠なものですが、地面が舗装された環境で暮らす人間には鬱陶しい現象です。雨水という節気名以外に雪水というのを作って、状況に応じて二つを使い分けたくなります。

日中最高気温がプラスになる日が継続すると、夜中や明け方の最低気温は氷点下のままであっても、車道や歩道に水が溢れはじめます。そうなると、防水機能が確実なゴム長がこの時期の必需品になる。防水機能がしっかりとしていたら他のタイプの靴でもいいのですが、ゴム長以外の選択肢は見当たらない。女性用はそれなりにおしゃれなのもそろっていても、軽快な歩行をもたらすタイプの靴ではありません。あくまで防水(それから北の地域では防寒も)という実用性重視の履物です。だから、道路の雪の水たまりにも平気で入っていける。

配偶者は近所への外出は内側が防寒用になった膝下まであるブーツ型のゴム長です。ぼくの普段使いは、厚手の靴下でいいようにサイズがやや大きめで、丈は短ブーツよりやや長め。ゴム長というのは、靴底の形状のおかげかアイスバーン風の雪道でも滑らないし、ひと晩強く降り続いて50センチほどに深い雪の中に分け入るのは無理でもそれなりの厚さの雪なら靴跡をスタンプしながら進んでいけます(ただし、極寒の時期の深い雪用には膝下までをしっかりと覆うヘビーデューティ・ブーツでないと無理)。

そういう靴なので大量の雪が融けかかったこの時期の歩道を歩けるしミニ大井川のような横断歩道も渡れます。

そういうところを歩くゴム長は目立たないけれどもそれなりに汚れているので、だから毎回ゴム長掃除ということになります。我が家では靴磨きはどういうわけかぼくの役割で(まあ、それが好きなのでそのことに問題はないのですが)、つまり、その中には、夏冬問わず革靴に靴クリームを塗り込むといった定期メンテナンスから、外から帰ってきた時の手入れ(汚れ取りと磨き)、そしてゴム長の掃除までが含まれます。

革靴磨きには専用クロスや薄手の綿の靴下ですが、ゴム長の拭き掃除には穴の開きかかったような古い厚手の綿の靴下が便利です。ゴム長は洗濯済みの厚手の綿の古靴下を水に濡らしてよく絞ったので丁寧に拭くととてもきれいになります。ゴム長掃除に使った靴下はもったいない気もしますが使い捨てです。

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2020年3月 2日 (月)

新型コロナウィルスとクラスターという用語のことなど

厚労省主導の新型コロナウィルスの蔓延予防対策で北海層がクラスター分析の対象になっているみたいです。北海道の当該クラスター属性の詳細については公表されていないにしても、久しぶりにマーケティングやITの用語でもあるところのクラスターという語に出会いました。

クラスター(cluster)とは「房」「集団」「群れ」などを意味する英語ですが、マーケティング分野では、異なるタイプや異なる特徴のものが混ざり合ったグループから互いに似た性質を持つものを集めて新しいグループ(クラスター)を作る分析手法をクラスター分析と呼んでいます。

ITでは、たとえば、クラスタリング。同じ構成の複数のコンピュータを相互接続し外部に対して全体で一台のコンピュータであるかのように振る舞わせることで、システムを常に使い続けられるようにする(高可用性のための)仕組みとしてのクラスタリングや、システム内での負荷分散をめざしたクラスタリングなどがクラスター関連の考え方として普及していました。

今度のコロナウィルス感染の分析では、クラスターという語は、一定の感染経路でつながりを持つ患者集団を指して使われているみたいです。あるクラスターの感染者(たとえば例年中国人観光客の多い札幌雪まつり会場の混雑したプレファブ休憩所などで新型コロナに感染した人たち)が、別の場所(たとえば札幌から遠く離れた北海道の別の地域に戻ってそこでいつものように参加した趣味のサークル)で感染を広げて新たなクラスターを作り、感染が当初とは別のタイプの径路で拡大するといった具合です。

感染が徐々に拡大するにつれ、マスクだけでなくトイレットペーパやティシューペーパーの品切れや不当値上げも目立っています。こういう場合には超短期の利に聡い人たちが流通チャネルである種のクラスターを形成することになります。医療医薬分野でも似たような利権クラスターが発生しているかもしれない。

また政府が(半ば思い付きで、周りにはそう見える)学校や国民に対して強い「要請」を急に連続して出し続けるようなときには、ひそかに気にしていることが二つあります。

そのひとつはその意思決定の論理がどう当事者から説明されるかということ。表面的な理由付け表現があったとしても、実際は「空気」といったもので理由が説明され、その「空気」が場の方向を左右し始めているかどうかということ。もう一つはそういう「空気」に異を唱える人たちを「非国民」やそれに類する言葉で形容する人たち(これもクラスター)が現れるかどうかということです。そうなら、「攻撃面はより華美に、損害面は実際よりも相当に矮小化して発表」という1930年代後半から1940年代前半にかけての日本がまた顔を覗かせていることになります。

「八紘一宇」といった言葉が当時の政府や当時の新聞で蔓延していたとしても、普段の(当初はまだゆったりしていたはずの)市民生活でそういう言葉の受け取り方はどうだったのか、どう変化したのか、どう変化させられたのか、その実感というのが書き物やその他の記録媒体からだけでは十分にはつかめない。だからそれに似た雰囲気のものが当時をそれなりにシミュレーションする感じで現在進行中だと考えると、国全体を巻き込む事態に巻き込まれながらその事態の在りようを当時の人たちの実感に似た気持ちで実際に観察・体験できるというのは、とても貴重なことかもしれません。

そういうかつての「空気」の実態に関して参考になるのは「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」という共同研究の成果や、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」や「軍国支配者の精神形態」といった論文です。


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