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2020年4月24日 (金)

読者に読む努力を強く求める文章

プロの物書きでも読者にわかりやすい文章を書くタイプとそうでないタイプがいます。文章は内容を伴っての文章だとしても、読者に読む努力を強く求める種類の文章と読者に極力そういう努力を求めない種類の文章があります。ベストセラー作家は読者が読む努力を特別には必要としない、わかりやすい文章を書くようです。そうでないと多くは売れない。

吉田健一は、読むときに精神の緊張の持続が必要という意味で読者に読む努力を強く求める書き手です。そんなに簡単に私の文章を読んでもらっては困る、と考えていたのかもしれません。そのことに関して本人の言を引用してみます。

「・・・我々には何か書く時に我々に既に持ち合わせがある言葉と文体で表せる範囲内に書くことを限る傾向があり、勢ひそれは他のものも書き、又読者の方でも大方の見当を付けて期待してゐることでもあるから書くのに苦労することがないのみならず出来上つた文章が解り易いといふ印象を与へる。・・・
 併し我々が実際に或る考へを進めるといふのは話を先に運ぶ言葉を探すことに他ならなくてその上で言葉を得ることは考への進展であるとともにそれを表す文章の開拓でもあり、かうして考へが言葉の形で進んで終りに達した時にその考へも完了する。・・・それで書く方は言葉とともに考へを進めるのであるよりも自分が得た言葉に導かれて一歩づつ自分が求めてゐることに近づき、これを読む方でも同じことをして書く方に付いて行くことになる。それは書くものにも読むものにも或る程度の努力を強ひずには置かないがそれを読み難い、書き難いとするのでは言葉を使ふといふことの意味がなくなり、ヴァレリイを読んでゐて気が付いたもう一つのことといふのはヴァレリイにあってはこの努力が当然であるのを通り越して極めて自然な形で行はれてゐることだった。」(「書架記」)

あるいは

「・・・文章で読めるものと読めないものを区別することが出来る。それでどれだけ簡単に解り易く言葉が進められてゐても駄文は駄文であり、その反対に言葉遣いが慎重であって時には微妙を極めてゐてもこの真実がそこで語られているといふことがあればそれが読むものの力になって言葉について行けないといふことは起こらない。」(「変化」)

という具合です。つまり読める文章は「書く方は・・・自分が得た言葉に導かれて一歩づつ自分が求めてゐることに近づき、これを読む方でも同じことをして書く方に付いて行くことになる。それは書くものにも読むものにも或る程度の努力を強ひずには置かない・・・」

彼のそういう考え方と特徴がよく表われているのが次の二つの一節です。

「冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。それをのどかと見るならばのどかなのは春に限らなくて春は寧ろ樹液の匂いのように騒々しい。そして騒々しいというのはその印象があるうちは時間がたつのに気付かずにいることで逆に時間の観念が失われているから騒々しい感じがするのだとも考えられる。・・・」(「時間」)

「・・・世界を時間に浸透された空間と見ることも考えられないことではない。併しこれは観念が実在するのと物質が実在することの間に多少の違いがあるにも拘らずその両面に亘って認められる時間というものから我々が直接に親密に受ける印象が我々に許さないことである。我々の眼に映る形象は凡て空間に属するものと言えば言える。併し我々が見る雲ならば雲は水蒸気の塊、物質であるよりも雲という言葉が指すもの、従ってその言葉であってそれは我々が曾て見た雲、又他の言葉に繋がり、その時に既に我々は時間の支配を感じて雲が崩れるのも移動するのも我々の現在のうちに入っている。」「(時間)」

しかし、彼の書いたすべてが上に引用した一節の風ではありません。彼のエッセイ集や評論集を手に取ってどこでも適当な箇所から読み始めたら「難解で時に意味が取りがたくなるような入り組んだ文体」(ドナルド・キーン)に出会えます。

吉田健一の文章は、指示代名詞が多用され、長くてまわりくどい。彼はそういう粘り気のある質の書き手です。そういう文体の特徴のひとつとして、あるところまではわかりやすかったものが途中で急に文意が掴みにくくなるということが挙げられます。あるところまで書き綴ってきてそこまでは文章がリズミカルに展開してきたものが、そこで急に作者の頭の中に浮んだ言葉を後回しにできずにその言葉の誘惑に引きずられてその場に急に割り込む感じでそれをそのまま書き写すので、そういう場合、彼の中ではきちんと持続しているはずの書き手としての思考リズムと読者のそれとが同期しなくなる事態が発生することがあります。つまり吉田の余計な親切(つまり新しい叙述の急な割込み)あるいは粘り強い繰り返し思考によって、読者はかえって彼が何を語ろうとしているのかわからない宙ぶらりんな状態に置かれてしまう、そういうことが少なくありません。

以下はそういう例です。

「併しアァノルドはこの詩という明確な形でこの問題を提出し、そうすることでそれが彼にとって切実にというような当世風のことでなしに、紛れもない現実として存在していたことを示し、この詩の美しさを考える時、その美しさは彼のこの嘘がない態度の属性であって、その為に彼の詩が美しいのであるよりも寧ろ、この態度がこの詩で過不足ない表現を得ていることが必然的に美しさを伴うのである。」(「文学の楽しみ」)

彼の文章にそういう特色があっても彼の世界観、あるいは彼の生きることについての基本的な考え方(ないし姿勢)が好きな読者ならそういう場合も不協和や不同期を味わうことはないのかもしれません。吉田健一の生きることについての基本的な姿勢がヒューム(18世紀イギリス経験哲学の哲学者)を軸に凝縮されているのが以下の一節です。

 「・・・もし哲学に一般の人間にとって取り上げるに足るものがあるならばそれはそこに一人の人間がゐてものを考へ、その結果が他の人間に言葉で伝へられる時で、当然のことながらその考へが明確であるということはそれが名文の形を取るといふことと同一であり、かうして哲学は文学の列に加る。ヒュウムはさういふ哲学者の一人である。それがここでは重要であって、哲学史の上でどういふ位置を彼が占めてゐるといふのが定説であるかといふ種類のことを述べることはない。・・・名文といふのはそこに人間の声が聞えるといふことであって、ヒュウムがその悟性論、宗教論などで哲学といふものの限界を示し、そのことに即して哲学にどういふ方向を取ることが許されてゐるかを明らかにしたことはその文章と一体をなしてゐる。或は彼が説いたことの別な立証が欲しいならば彼に反発したのがカントであり、カントがヘエゲルを生み、そのへエゲルがマルクスを生んだのであるが、それが十九世紀のヨオロッパの哲学といふもので、・・・」(「ヨオロッパの世紀末」)

作品の種類にもよりますが、吉田健一は精神の緊張の持続が必要という意味で読者に読む努力を強く求める書き手です。吉田の文章は長くてまわりくどくて口当たりがいいとは言えない場合も多い。そういうときにその口当たりの悪さを別の明晰な文体で口直ししようとするなら、井筒俊彦の「意識と本質」や「意識の形而上学」に優るものはありません。


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