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2020年9月

2020年9月30日 (水)

複数の語り手の合作としての叙事詩や叙事物語

ある年齢に達すると抒情詩よりも叙事詩のほうを心地よいと感じるようになります。抒情性がそのまま現れる事態というのはけっこう鬱陶しい。叙事詩の行間や語り言葉の間からも抒情性は立ち上がってきます。そういう抒情性は心地いい。

「トロイア戦争」を舞台にした古代ギリシャの叙事詩に「イーリアス」や「オデュッセイア」があります。それらを吟じた多数の吟遊詩人がいたはずですが、「ホメロス」という名前は残っているものの同じ叙事詩をそれぞれに吟じた他の多数の吟遊詩人の名前(たとえばテストリデスなど)は残っていません。

ホメロスの本名はメレシゲネスで、ホメロスとは当時のある地方の方言で「盲目の人」という意味だったそうです。成人後に眼病で眼を悪くしたらしい。失明してからのほうが詩作が活発になったようです。「イーリアス」や「オデュッセイア」を吟じた他の吟遊詩人がホメロスのように目が不自由であったかどうかはわからない。しかし、目が不自由な方のほうが、音の連なりとしての長い叙事的な物語をはるかに記憶しやすいということはあるかもしれません。

竪琴のような弦楽器を持った多くの吟遊詩人が「イーリアス」や「オデュッセイア」をそれぞれの語り口で筋書きや語りの変奏を付け加えながら詠じたものを「ホメロス」がいわばコンパイラー、編集者としてまとめ上げたので、作者が「ホメロス」ということになったようです。

平安時代における平家の盛衰(ないしは平家と源氏の戦い)が題材であるところの「平家物語」は、「イーリアス」や「オデュッセイア」と幾分かは同じように、盲目の僧である琵琶法師(日本版の吟遊詩人)が日本各地を巡って口承で、つまり琵琶を弾きながらその物語を「語る」ことによって伝えられきました――「語る」とは節を付けて歌うことですが、叙事物語なので「歌う」ではなく「語る」です。平家物語にもホメロスのようなコンパイラー、編集者がいたと想像できますが、平家物語は一般的には琵琶法師の個人名が表に出てこないことになっています。

しかし「徒然草」(二百二十六段)には、兼好がどこかの確かな筋からそう伝え聞いたのか、「平家物語」の成立に関して次のように記述されています。兼好が徒然草を書いたのは、平家物語の初版(というのも変な言い方ですが)が出来てから百数十年くらい後なので、その記述は正しいのかもしれません。

『後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古(けいこ:学問の意)の誉ありけるが・・・(中略)・・・この行長入道、平家物語(へいけのものがたり)を作りて、生仏(しやうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのくわんじや)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業わざは、生仏(しやうぶつ)、東国の者ものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。』

長い期間をかけて伝承されてきた叙事詩や叙事物語には多数の吟遊詩人や語り手の創造的な変奏(ジャズの即興演奏的な変奏)が積み重なっていると思われます。『かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり』も、基本形はあったにせよ、僕はそういう文脈で理解しています。

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2020年9月29日 (火)

スマートスピーカーをペアでステレオスピーカーに

誰が言い始めたのかは寡聞にして存じませんが、OS(オペレーティング・システム)搭載の機器や器具をスマート云々と呼んでいます。携帯電話がOSを持つとスマートフォン、スピーカーにOSが組み込まれるとスマートスピーカーという具合です。その状況をAI機能搭載などと過剰広告に近いようなメッセージで形容するところもありますが、それはご愛嬌として受け取ります。

OSやその周りの関連ソフトウェアがもっと大きな対象にビルトインされて更新されていく状況を拡張・拡大していくとスマートカーやらスマートハウス、スマートシティーということになりますが、ぼくは不便な環境(つまり、スマートでない環境)というのもけっこう好きです。

音のいいステレオ再生装置として機能するネットワークスピーカーというのを探していました。スマートスピーカーはカテゴリー的にはそのうちのひとつです。小型で配置が自由で価格も穏当なものが対象です。

CDをセットしてこれからいい音楽(たとえば、アンナー・ビルスマの「バッハの無伴奏チェロ組曲」、あるいは菊地雅章の「黒いオルフェ~東京ソロ2012」など)を堪能するという感じで音に向き合う場合は、従来通りの再生装置の前に坐るに如(し)くは無い。

しかし、そういうのが面倒な場合や何かを作業しているときのBGMとして特定の曲やアルバムを聴きたい場合に、購入した多数のCDの中の曲をすでにPCやタブレット端末の音楽管理ソフトに取り込んであるときは、その音源を利用したほうが簡単だし便利です。従来の再生装置はそういう具合にはいかない。だからステレオ仕立てのネットワークスピーカーが追加的に必要ということになるとしても、音のひどいもの――このなかには設計者の作為が過ぎているような音も含まれます――には興味がありません。

このブログでは工業製品やソフトウェア製品に関してはあまり特定の商品名を出さないようにしているのですが――例外は農産物や食材で、北海道産の「ゆめぴりか」や「大豆」、奈良県産の「南高梅」、福井県で作られた「干し昆布」、大阪の「塩昆布」といった書き方はよくします――、ここではその私的規則から外れます。

ぼくにとっていい音を出すスピーカーの個人的な基準は、B&O (Bang & Olufsen) 製の(今は中古でしか手に入らない)BeoLab8000のような官能的な臨場感に溢れ、澄んだ歯切れのいい音を出すもので、ネットワークスピーカーも何となくそれに雰囲気が近いものが望ましい。

で、時間をかけて複数候補の現物の音を聴いて、落ち着いた先はAppleのHomePodのペアでした。白いのを選んだので淡いベージュの壁に溶け込みハードウェアとしての存在感が希薄なところも――つまり、音楽だけがどこかわからないところから湧いて出る感じ、スピーカーが論理的な存在になったような感じも――悪くありません。

 


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2020年9月28日 (月)

札幌風の衣替え

「衣替え」とは、暑さ・寒さの変わり目に季節にあった衣服に着替える慣習のことです。日本では多くの学校や企業の制服(夏服、冬服)などにこの慣習が残っています。暑さ寒さも彼岸までなので4月1日と10月1日のほうが自然ですが、多くの地域では毎年6月1日と10月1日に一斉に衣替えが行われます。

日本には着物の衣替えがあり、着物と帯は、とても寒い時期は地域によっては「綿入れ」、寒い時期は裏地のある「袷(あわせ)」、少し暑い時期や少し寒い時期は裏地のない「単衣(ひとえ)」、暑い夏は「薄もの」(絽や紗)という具合です。真夏の花火の時期には若い女性が今でも楽しむ簡易着物であるところの「ゆかた」もあります。

札幌では、どうしてそうなのかはわからないにしても、衣類に関しては「暑さ寒さも彼岸まで」を守っている人たちが他の地域よりは目立つようです。

たとえば、先週は朝早くはやや冷えるとはいえそれは心地よい涼しさで日中は暑くなります。夕方にまた気温がやや下がるとはいっても、街中では半袖でちょうどいい。ぼくは日常着、普段着に関しては原則よりも実際を重んじるほうなので、9月下旬でも暑いと半袖だし、4月上旬の雪跡が道路際や広場に残る時期は冬服とコートです。

先週末の夕方に半袖で気持ちよく歩いていたら、向こうからやって来る若い男性や中年の男性、それから若い女性も秋の上着を着こんで、中にはヨットパーカー風で頭を蔽っている人もいる。汗をかかないのかと気になります。そういうなかに半袖がひとりまじっていると「内地」からの旅行者にしか見えません。

ぼくには冬用ジャケットと薄手のコートの組み合わせが心地いい3月末に、札幌ではコートを羽織らず春の上着や春用スーツで歩く人たちとすれ違うことが少なくありません。寒くないのかと驚いてしまう。

3月末と9月末の両方の事実から帰納すると、札幌市民は決してとくに暑さに強いわけでもとくに寒さに強いわけでもなくて、しかし衣類(衣替え)に関しては、「暑さ寒さも彼岸まで」に従う人たちが他の地域よりは多いということになります。なぜそうなのか。おしゃれの構成要素の一つがやせ我慢だとすると、札幌市民がとくにおしゃれとは思われないけれど、やせ我慢に強いのかもしれません。


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2020年9月25日 (金)

大豆雑感

地元産の良質な大豆が簡単に手に入るので、味噌作りは我が家では特別なものではありません。寒い時期の年に一度の作業である赤味噌作りも、必要に応じて料理用に少量をときどき作る白味噌作りも日常の光景のひとつです。

大豆が中国で栽培され始めたのは紀元前30世紀だそうです。そんな記録があるらしい。しかし、固有の毒性から大豆は、2000年間は、食用の対象ではありませんでした。大豆が食材になるのは、誰かが大豆を発酵させて食べることを考えついた紀元前11世紀からです。紀元前11世紀は華北を統一した周王朝の時代ですが、紀元前30世紀は殷王朝が成立するはるか以前なので、だれがそんな食べにくいものをわざわざ栽培し始めたのかよくわからない。儀式にでも使っていたのでしょうか。

例えばゴボウのように強いアクをもった根菜類のアク抜き方法と調理方法を開発してなんとかそれをおいしく食べ始めるというのもそうですが、食べることに関しては、たとえば発酵といった高度なアク抜き・毒素抜き調理方法の「ブレイクスルー」が世界の複数地域で誕生しました。そのおかげで、21世紀の我が家でも北海道産の大豆を使った自家製味噌を作り続けることができるし、おいしい地元産の納豆を手軽に口にすることができるわけです。

大豆はそのままでは毒なので、東アジア(たとえば日本)の人たちは、未成熟の種子を枝豆として食べたり、成熟した種子を煮物にしたり、あるいはもっと時間をかけて加工したり発酵させたりして食べものとして長い間つき合ってきました。大豆を加工し発酵させると、豆腐、湯葉、厚揚げ、豆乳、味噌、醤油、納豆などが出来上がります。インドネシア発祥のテンペという固めた乾燥納豆みたいな発酵食品も人気があります。

大豆の「近代的な」使われ方が始まったのは1908年の英国で、大豆油は石鹸に、油粕は家畜の餌に利用され始めました。そういう大豆利用の西洋風パラダイムが世界に拡大したのは1942年以降で、それが主産地とビジネスの中心地を米国に替え、生産性の高い遺伝子組み換え品種が開発・投入されて、現在に至ります。

 


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2020年9月24日 (木)

朝早くに出かけるときは、おにぎり

けっこう朝早くに出かけるときで、朝ごはんの準備の時間もなく昼過ぎまでは「まともなもの」を――ぼくの個人的な定義による「まともなもの」の意――口にできそうもない時は、前の晩からおにぎりを三個ほど用意しておきます。おにぎりの具は自家製のおいしい梅干し、ないしは自家製のおいしい味噌で、握り終わったら塩をパラパラと振りかけ、ラップに包んで冷蔵庫に保管。

その朝はお茶の用意ができたら、そのおにぎりを取り出して、ラップのまま電子レンジで60秒くらい暖めると、程よく温かくなったおにぎりが味わえます。冷たすぎるおにぎりは食べにくいし、熱々おにぎりも食べるのがむつかしい。50~60秒くらいがちょうどいい按配です。

具は梅干しや自家製の昆布の佃煮が多かったのですが、味噌を試すと味噌も悪くない。板海苔(焼き海苔)を料理に便利なように適度な大きさにカットして湿気に注意して短期保管してあるのでさらに包むと、これも悪くない。

使ったお皿や湯呑などをサッと洗えば、そして歯をサッとしかし丁寧に磨いたら、すぐに出かけられます。


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2020年9月23日 (水)

ネットワークスピーカー候補を引き続き調査中

久しぶりにオーディオコーナーでスピーカーの視聴」の続きです。

オーディオメーカーの中にはソフトウェアに弱いところもあるので、そういうところの製品(ここではネットワークスピーカー)でハードウェア機能的にはすぐれものがあってもそれが売れ筋でないとソフトウェア更新も遅れ遅れになり、そのうち捨て置かれてしまい、やがて製品カタログから消えてしまう(つまりサポートの提供も消滅する)というのは十分に予測される事態です。そういう事態が予測されるものは選択肢から外します。

スマートフォンやタブレット端末に組み込まれている機能のひとつに音声インターフェースというかおしゃべりインターフェースというか、そういうものがあります。そういうものについてのぼくや配偶者の評価は低くて、何かの具合で間違えてそれが機能し始めるとぼくから出る声は「うるさい」「しゃべるな」「黙ってろ」「お前は本当に頭が悪いね」くらいです。ぼくはまだそこまでの時間を取ってあげる親切心がありますが、配偶者はまったくのシカトです。

そのおしゃべりインターフェースを活用するために開発されたのが、宣伝等によればスマートスピーカーと呼ばれるものらしいのですが、我が家にそういう騒音インターフェースを利用するというニーズはありません。

しかし、です。そのスマートスピーカーを2台、ペアで組み合わせて左右に割り振ればけっこう音の良いステレオスピーカーとして使えるものがあるらしいことに気がつきました――実際は配偶者がそれに気がついてぼくに教えてくれたのですが。スマートスピーカーのおしゃべりインターフェースにはまったく興味はありませんが、そちらの、いわは設計製造販売会社にとっての副次機能にはとても関心があります。売り場で、ステレオ仕立てで音が聴けるかどうかはわからないにしても、一本なら、音の具合をゆったりとした空間で確かめられそうです。

連休中は「人混みを離れて」を実行していたので出かけたのはご近所野菜の購入と速足散歩くらいでした。売り場が暇そうな曜日を選んで好みの音楽を試聴してみるつもりです。


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2020年9月18日 (金)

「脱力系ジャケット」

かっちりとしたのでなくニット風味のジャケットの人気が高まっているというのは知っていました。デパートの洋服売り場でもそういう傾向のジャケットが並んでいます。それが、新型コロナ以降のテレワーク、リモートワークの普及で加速されたようです。画面上はそれなりにきちんとした格好に見えること、ただしゆったりとした着心地であること。

ぼく自身も、数年以上前に、ぼく自身の勝手な呼び名だと「カーディガン・ジャケット」を購入し、それ以来、重宝しています。カーディガン感覚で羽織れるのですが、襟つきの三つボタンだし色は紺色なので、春と秋は、近所を歩く時にちょっと引っ掛ける上着以上の活躍もします。

自宅に定期的に送られてくる通販カタログには、非かっちり系ジャケットもここまで来たかというような商品とそれにふさわしい宣伝コピーが躍っています。見ているだけで楽しい。

ご存知の方は既にご存知かもしれませんが、ぼくがいささか驚いたのはある良質なタオルを使った「タオルジャケット」。「タオル素材を使用した、軽快なジャケットが登場。・・・カーディガン感覚で羽織れるのでリモートワークでも活躍します。・・自宅で洗えるのも便利です。」

その他いくつかあって、極めつけはそのコピーが「脱力系ジャケット」というもの。素材はウール100%。説明コピーは「カーディガンのように気楽に、ワッフルニットジャケット」。「脱力系」というコピーが光っています。

新型コロナが発生しなかったら、この流れはここまでは加速しなかった。新型コロナは少しはいいこともしたようです。


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2020年9月17日 (木)

「面倒くさい人ね」

どちらかというと少々手垢のついたような表現でも、久しぶりに耳にすると新鮮に響く場合があります。

ある知的で穏やかな中年女性が、行動に鬱陶しいところがあり発言にまとまりを欠くところの別の中年女性のことを評して先日つぶやくように使ったのが「面倒くさい人ね」でした。洞察力に満ちたひとことです。それ以外の表現だと別の中年女性の鬱陶しさをきちんと蔽えない。

この表現はぼくが最近は耳にしていなかったというだけで以前からよく使われています。彼女のつぶやきを通してその表現を聴いたのが久しぶりだったせいか、あるいは、こちらの方がよりそうかもしれませんが、中年女性ともうひとりの中年女性という大人の女性の関係性において、相手の深層を描写するその言葉が正鵠(せいこく)を射ていたためか、とても説得力のあるひとことでした。


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2020年9月16日 (水)

散髪中のウトウト、散髪中の会話

睡眠不足のときや疲れている時に、それが土曜日の夕方に近い午後なんかだと、散髪中についウトウトというのが発生します。そのウトウトはけっこう気持ちがいいとしても、ウトウトしていて頭が動くと美容師や理容師は作業がやりにくいだろうし、失礼に当たるかもしれないのでできるだけ我慢します。が、睡魔には勝てません。頭の表面に軽い刺激が連続して加わると眠くみたいです。

ウトウトと縁がない日は、美容師や理容師と散髪中に会話することになりますが、数年以上同じ人に担当してもらっていても、散髪中という時間帯に適合的な、あるいは散髪を邪魔しない種類の会話の材料に困らないというわけでもありません。客に応じて話題を提供する美容師や理容師は大変だと同情するにしても、客としても、沈黙の持続はそれなりに負担なので、会話の切れ端をなんとか繋げようとしますが、それで会話がスムーズに進行するかどうかわからない場合はそれも負担になります。

おつきあいが始まってまだ日が浅い場合、先方が気を遣ってくれて「趣味は何かお持ちですか?」などと訊いてくれることもありますが、そういう種類の質問に即答するのはやっかいなので「うーん」と反応するしかありません。そういう場合は「カメラ」や「写真撮影」と答えることにしていたのだったと急に思い出しても――それだとスマホの普及以降は特殊な話題ではないし、手持ちの材料もそれなりにあるので会話はできる――、タイミングを逸しているので、その場ではその話題に戻れません。

食べものの話をすると話の方向がグルメやおいしい料理屋の方に行きそうで、しかしそれは望まないので、散髪中の会話はなかなかにむつかしい。

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2020年9月15日 (火)

久しぶりにオーディオコーナーでスピーカーの視聴

先週末に、あるお店のオーディオコーナーでスピーカーの視聴をしてきました。視聴したのはネットワークスピーカーと呼ばれているタイプです。実際に音を感じてその音の流れを浴びてみないとそのスピーカーの音の塩梅が実感できません。で、好きな音楽を選択的に保存してあるところのスマートフォンを持参していくつかの製品を視聴です。

先日「従来タイプのステレオスピーカーは若い人には絶滅危惧種?」で次のように書きました。

「最近人気のワイアレススピーカーというのかネットワークスピーカーというのかについてざっと調べてみました。音に対するニーズの変化がなんとなくわかりましたが、提供される音そのものの質が変わったとも思われません。凄く割り切った書き方をすると、ワイアレススピーカーを利用して家庭内のいろいろな場所でスマートフォンやテレビを媒体に室内に心地よく拡がる音を楽しみたいので、別にステレオである必要はない、モノラルでも構わない、ということみたいです。もちろん、ステレオ仕立てのワイアレススピーカーもありますが。」

それはネットや雑誌などで調べた情報で、自分の耳で感じたものではないので、実際のネットワークスピーカーなるものが出す音に、つまりそのライブ感(たとえば、すぐ目の前で人が歌い、すぐその隣でピアノの音がその声に絡む)に自分の耳がどう反応するか、それを確かめたい。勝手に視聴できるのはBluetooth経由という環境に限定されますが仕方ありません。

モノラル仕立てのものは、どうハードウェアとソフトウェアの音響技術を駆使してサラウンドスピーカー風に仕立てようと、やっぱりそういう種類の音でしかないようです。ぼく向きではない。あるいはその場で一緒に音を聴いた配偶者向きでもない。ステレオ仕立てのものにはそれなりに心を動かされるの音を出す(出しているらしい)ものが二つほどありましたが・・・。

そういうネットワークスピーカー環境が今までの音と比べてアップサイジングになる人にとってはモノラルであっても低音の豊かなスピーカーになり、その環境が相当なダウンサイジングになる人にとっては、その製品の物理的な大きさなども考慮してどこでその音と妥協するかが問題になる、ということのようです。

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2020年9月14日 (月)

「神社に狛犬、寺院に狛犬」、「阿形(あぎょう)の狛犬、吽形(うんぎょう)の狛犬」

狛犬に関して、神社本庁ウェブサイトは次のように説明しています。

『神社にお参りすると参道の両脇に一対で置かれた石製の狛犬を見かけます。神社境内のことを語るとき、鳥居と並んでまず思い浮かぶほど、狛犬は神社にとって一般的なものとなっています。普段、私たちは石製のものを多く目にしますが、このほかに、社殿内に置かれる木製や陶製のもの、また金属製のものなどがあります。』

「一対の狛犬(こまいぬ)」といっても、神社や寺院で狛犬をよく見るとほとんどの狛犬は左右で形が違います。わずかに違うというよりも、顔かたちや表情がけっこう違います。それから「狛犬」といってもとても普通の「犬」には見えない。鬣(たてがみ)を持った猛獣の雰囲気がある。

仏教はインドで始まりましたが、そのインドでは仏像の前に2頭のライオン(「獅子」)を置きました。「狛犬」の形はそこから来ています。仏像といっしょに、当然のことながら2頭のライオン(「獅子」)も日本に入って来て、仏像の前に2頭の「獅子」を置く習慣が始まりました。奈良時代までは「獅子」と「獅子」の組み合わせだったのが、平安時代から「獅子」と「狛犬」の組み合わせになったそうです。

「一対の狛犬」を観察すると、一方は口を開け、もう一方は口を閉じています。そして口を閉じた方には、たいていは頭に角(つの)がある。口を開けているの(阿形 あぎょう)が「獅子」で、口を閉じて(吽形 うんぎょう)角があるのが「狛犬」です。

神仏習合が盛んになったのは平安時代からで、だから狛犬もその所属先・勤務先に柔軟性を発揮できるようになったのでしょう。寺に坐っていてもおかしくないし、神社にいても違和感はない。

下の写真は、高野山・金剛峯寺のなかにある赤い鳥居の神社とその前の一対の狛犬です。全体配置とそれぞれの狛犬(左側が口を閉じて角のある「狛犬」、右側が口を開けた「獅子」)の拡大写真を並べてみます。筋肉や顔つきは猛獣です。

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Photo_20200911082201 Photo_20200911082301      狛犬(吽形と角)           獅子(阿形)

 


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2020年9月11日 (金)

徒然草の中の神仏習合

サラッと書いてあるのでサラッと読んでしまうのですが、不思議と言えば不思議な記述です。徒然草の第百九十六段は次のような書き出しで始まります。

「東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時・・・」(東大寺の御輿が、東寺に新設した八幡宮から奈良に戻されることになったときに・・・)。寺に神輿(みこし)があり、寺に宮(みや)がある。

書いているのは吉田兼好。出家したので「兼好法師」と呼ばれていますが、彼の本名は卜部兼好(うらべかねよし)。「卜部」は卜占(ぼくせん)を司り神祇官を出す神職の家系なので、彼の中では何の不思議もなく「神仏習合」あるいは「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」が生きていたようです。

「本地垂迹説」とは、日本の八百万(やおよろず)の神々は、仏教の様々な仏(菩薩なども含む)が化身として日本の地にかりに現れた権現(ごんげん)であるとする考えで――「権」は一時的な、かりそめの手立て、という意味、従って「権現」はかりそめに現れた、という意味――だから、各地に「熊野権現」のような「・・権現」があり、また神社内には神宮寺が作られ、「八幡神」は「八幡大菩薩」という名前でも祀られています。

確かに京都の東寺には小さな神社があります。空海は東大寺に関係していたとしてもその誕生の経緯については不案内でしたが、こういう一節を読むと、兼好が生きていた時代との距離が急に妙に縮まった気分にはなります。

神仏習合が今でもしっかりと存続しているのは、ぼくたちはそれをほとんど意識しませんが、身近な例で言えば、初詣です。ぼくたちはその場所が神社か寺か、とくには気にしません。たいていは近所の、いつもの神社やお寺に参拝・参詣します。そこに仏と神が本地や権現としてあるならそこが神社でもお寺でもどちらでも構わないわけです。

関連記事は、「神仏習合について雑感」と「神と仏の二重構造や神と神の二層構造と、グローバリゼーション」。


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2020年9月10日 (木)

車のテレビコマーシャルは、はや、冬用・雪用

先日の台風の影響の名残りか、北陸に多いフェーン現象が札幌でも発生し(札幌は比較的に日本海側なので)、その後も日中は30℃越えで夏がぶり返しています。湿度が高くて鬱陶しい。夕方であってもすぐに汗だらけになることを想像すると運動(速歩き)をする気も萎んでしまいます。

例年なら(と、気象予報士の好きそうな表現を使うと)気温や湿度や空気の透明感がちょうどそれの登場に合うのでしょうが、今年はまだそんな雰囲気ではありません。でも、朝夕がいつ急に冷え込むかもしれないし、ビジネスのサイクルとしては時期的にはもう始めないと間に合わないのでしょう。冬用・雪用タイヤのテレビコマーシャルの頻度が増してきました。

コマーシャルの中では北海道の雪原や札幌の街中に降り積もった雪の道を車が走っています。この前の冬の映像だと思いますが、雪の感じが新しくてきれいなので昨年の冬の始まりの大雪のときに翌年用に撮影したものかもしれません。タイヤ会社や広告代理店はそういう映像をそれなりにストックしてあるに違いない。

札幌で9月になってもエアコンというのはほとんど経験がありませんが、今年はエアコンの冷気といっしょに雪用タイヤのコマーシャルが流れています。

それから、2年前に北海道は地震が原因でブラックアウトを経験しましたが、冬の災害に備えて、大きなバッテリーを積んだ発電装置としての車というメッセージの広告も目立ちます。

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2020年9月 9日 (水)

徒然草の中の枕草子、源氏物語や紫式部日記

「方丈記」はさてこれかどうなるのだろうというところでお終いなので、いささか肩透かしを食った気分になるエッセイです。もう一度読もうという気分になりにくい。それに対して、「徒然草」はまた気が向いたら気に入ったところをパラパラと(あるいは丁寧に)読み返してみるかという心持ちになります。有職故実(ゆうそくこじつ)に言及したような段や教科書に載るような内容の段と再び喜んでお付き合いするかどうかはわからないにしても。

「徒然草」を頭から順に読んでみると教科書向きの、つまり、教育官僚好みだと思われるような段は少なからずあって、これは教科書には採用されるかどうかはわからないけれど、第百六段<高野(かうや)の証空上人(しようくうしやうにん)、京へ上りけるに、細道(ほそみち)にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曳きける男、あしく曳きて、聖ひじりの馬を堀へ落してげり>なんかもそのひとつです。

それから教科書向きであるかどうかは関係なく、ページを繰っていくと、世に言われる兼好法師らしさの溢れた第七十五段<つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ方(かた)なく、たゞひとりあるのみこそよけれ>や第七十六段<世の覚(おぼ)え花やかなるあたりに、嘆(なげき)も喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師(ひじりほふし)の交(まじ)じりて・・・>に出会うことになりますし、さらに進むと、第百四十三段<人の終焉(しゆうえん)の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚(おろ)かなる人は・・・>や第二百二十九段<よき細工(さいく)は、少し鈍(にぶ)き刀を使ふと言ふ。妙観(めいくわん)が刀はいたく立たず>が待っています。

しかしそういうのとは違った匂いを持つ文章も少なくなくて、たとえば第百三十七段<花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは>は、<(月影の)椎柴(しひしば)・白樫(しらかし)などの、濡ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて・・>といった感じで枕草子風の香りを漂わせた段だし――「らしい」辛口や無常観が満載だとしても――、第百三十九段の<花は、一重(ひとえ)なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍はべるなる。吉野の花、左近(さこん)の桜、皆、一重(ひとえ)にてこそあれ。八重桜は異様(ことやう)のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜(おそざくら)またすさまじ。虫の附きたるもむつかし>は枕のパロディーを意図したのでしょうか。

また、第百四段<荒れたる宿(やど)の、人目(め)なきに、女の憚る事ある比(ころ)にて、つれづれと籠(こも)り居たるを、或人、とぶらひ給(たま)はむとて・・・>や第百五段<北の屋蔭に消え残りたる雪の、いたう凍(こほ)りたるに、さし寄(よ)せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて・・・>には源氏物語風の創作の趣きがあります。

それから、第百段<久我相国(こがのしやうこく)は、殿上(てんじやう)にて水を召しけるに・・・>や第百一段<或人(あるひと)、任大臣の節会(せちゑ)の内辨(ないべん)を勤(つと)められけるに・・・>や第百二段<尹大納言(ゐんのだいなごん)光忠卿(みつただきやう)、追儺(ついな)の上卿(しやうけい)を勤められけるに・・・>は情景と対象人物を眺める眼が、紫式部日記の著者の視線を連想させます。

第百七段<女の物言ひかけたる返事(かへりごと)、とりあへず、よきほどにする男はありがたきものぞ」とて、亀山院の御時、しれたる女房ども・・・>は、文体をそれらしいものに変えて、紫式式部日記の後半のどこかにそれとなく紛れ込ませてもそのまま通りそうです(と、勝手に妄想しています)。

以下は、その第百七段の原文と現代語訳ですが、この(谷崎潤一郎ではなく与謝野晶子を思わせる)現代語訳は「徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)」というウェブサイトから引用させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

◇第百七段(原文)

 「女の物言ひかけたる返事(かへりごと)、とりあへず、よきほどにする男はありがたきものぞ」とて、亀山院の御時、しれたる女房ども若(わか)き男達の参(まゐ)らるる毎(ごと)に、「郭公(ほととぎす)や聞き給へる」と問ひて心見られけるに、某(なにがし)の大納言(だいなごん)とかやは、「数ならぬ身は、え聞(き)き候(さうら)はず」と答へられけり。堀川内大臣殿は、「岩倉(いはくら)にて聞きて候ひしやらん」と仰(おほ)せられたりけるを、「これは難なし。数ならぬ身、むつかし」など定め合(あ)はれけり。

 すべて、男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。「浄土寺(じやうどじの)前関白殿(さきのくわんぱくどの)は、幼くて、安喜門院(あんきもんゐん)のよく教(をし)へ参(まゐ)らせさせ給ひける故に、御詞(おんことば)などのよきぞ」と、人の仰せられけるとかや。山階(やましなの)左大臣殿は、「あやしの下女(げぢよ)の身奉るも、いと恥(は)づかしく、心づかひせらるゝ」とこそ仰(おほ)せられけれ。女のなき世なりせば、衣文(えもん)も冠(かうぶり)も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍(はべ)らじ。

 かく人に恥(は)ぢらるゝ女、如何(いか)ばかりいみじきものぞと思ふに、女の性(しやう)は皆ひがめり。人我(にんが)の相(さう)深く、貧欲(とんよく)甚(はなは)だしく、物の理(ことわり)を知らず。たゞ、迷(まよひ)の方(かた)に心も速く移り、詞(ことば)も巧(たく)みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで問(と)はず語(がた)りに言ひ出(い)だす。深くたばかり飾れる事は、男(をとこ)の智恵(ちゑ)にもまさりたるかと思えば、その事、跡(あと)より顕(あら)はるゝを知らず。すなほならずして拙きものは、女なり。その心に随(したが)ひてよく思はれん事は、心憂うかるべし。されば、何かは女の恥(は)づかしからん。もし賢女(けんぢよ)あらば、それもものうとく、すさまじかりなん。たゞ、迷(まよひ)を主(あるじ)としてかれに随(したが)ふ時、やさしくも、面白くも覚ゆべき事なり。

◇第百七段(現代語訳、吾妻利秋訳)

 「突然の女の質問を、優雅に答える男は滅多にいない」らしいので、亀山天皇の時代に、女達は男をからかっていた。いたい気な若い男が来るたびに、「ホトトギスの声は、もうお聴きになって?」と質問し、相手の格付けをした。のちに大納言になった何とかという男は、「虫けらのような私の身分では、ホトトギスの美声を聞く境遇にありません」と答えた。堀川の内大臣は、「山城国の岩倉あたりでケキョケキョ鳴いているのを聞いた気がします」と答えた。女達は「内大臣は当たり障りのない答え方で、虫けらのような身分とは、透かした答え方だわ」などと、格付けるのであった。

 いつでも男は、女に馬鹿にされないよう教育を受けなければならない。「関白の九条師教は、ご幼少の頃から皇后陛下に教育されていたので、話す言葉もたいしたものだ」と、人々は褒め称えた。西園寺実雄左大臣は、「平民の女の子に見られるだけで心拍数が上昇するので、お洒落は欠かせない」と言ったそうである。もしもこの世に女がいなかったら、男の衣装や小道具などは、誰も気にしなくなるだろう。

 「これほど男を狂わせる女とは、なんと素敵な存在だろう」と思いがちだが、女の正体は歪んでいる。自分勝手で欲深く、世の中の仕組みを理解していない。メルヘンの世界の住人で、きれい事ばかり言う。そして都合が悪くなると黙る。謙虚なのかと思えば、そうでもなく、聞いてもいないのに下らないことを話し始める。綺麗に化粧をして化けるから、男の洞察力を超越しているのかと思えば、そんなこともなく、化けの皮が剥がれても気がつかない。素直でなく、実は何も考えていないのが女なのだ。そんな女心に惑わされ、「女に良く見られたい」と考えるのは、涙ぐましくもある。だから女に引け目を感じる必要はない。仮に、賢い女がいたとしよう。近付き難さに恋心も芽生えないだろう。恋とは女心に振り回されて、ときめくことを楽しむものなのである。


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2020年9月 8日 (火)

イナダの刺身と漬け丼と照り焼き

久しぶりに対面販売の魚売り場に行ったら、まだまだ混雑度合いは低くて、その中で、戸井の本マグロと、イナダ(40㎝くらいの大きさのブリ、関西方面ではハマチ)が安い値段で売られていました。

戸井は大間と津軽海峡を挟んだ向かいの漁港で、高級本マグロの水揚げ地として有名です。しかし、最近はコロナの影響で高級魚が料理屋などに出回る量が減少しているので、おいしい本マグロも一部はこういう形で捌くしかないのかもしれません。「戸井のマグロがタダみたいな値段ですよ。」オニーサンの掛け声もやけ気味です。

イナダは切り身だけでなく丸ものも、とてもお買い得な値札で氷水の中に横たわっています。売り場のベテラン女性の話では、「秋鮭を獲りに出漁したら網にいっぱい掛かったのは鮭ではなくイナダで、だからこんな状態です」。

丸ものを三枚に下ろしてもらいました。若いブリなので脂の乗りは悪いにしても、半分は刺身や酢飯の漬け丼で、半分は煮付けか照り焼き風で食べるつもりです。戸井のマグロは中トロを酢飯の漬け丼で賞味しました。酢飯の漬け丼は、伊勢志摩の「手こね寿司」の応用です。

値崩れのマグロとイナダだけでは魚にもお店にも申し訳ないので、塩麹に漬け込めるような他の魚も買って魚とぼくたちの関係、そしてお店とぼくたちの関係を繋ぎます。


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2020年9月 7日 (月)

天気予報用語に関する違和感のことなど

自然災害は人為的には抑制できないので災害をもたらす大きな台風などはないに越したことはないのだけれど、気象庁担当者や気象予報士が近頃頻繁に使う「『観測史上最大の』風速」という類の表現の意味というか、そういう曖昧な表現を使う意図がよくわからない。

災害回避について国民の注意を喚起するために大げさな言葉を使いたいというのならわからなくもないのですが、なら、もう少し具体的な年数で表現して欲しい気がします。もっともそういう予報の中では、過去のいくつかの「最大風速」事例も紹介してくれるので、観測史上というのはここ数十年のことらしいというのはその結果としてわかります。

気象庁担当者や気象予報士の口調からは、「観測史上最大の」が「過去1000年間で最大の」ということはあり得そうもないので、そうなら気象台(ないしその前身機関)が明治5年(1872年)に函館で発足して以来なら例えば150年、地域によって気象台(や、その前身機能)の設置時期は違うのでその地域で観測が始まって50年なら50年間で最大のと言えば、ひとは比較対象をそれなりに想定できるのでよりわかりやすいのに、と思ってしまいます。それが年寄りの「生まれてからそんなことは経験したことはない、従って今回もあり得ない」という思い込みに陥る欠点はあるにしても。

日本で文字が使われた歴史を背景尺度にするのなら50年や100年は一瞬ではないししても、地球や日本のマクロな気象変化を言うなら50年や100年は一瞬です。その一瞬がどの程度の範囲や長さの一瞬なのか、「観測史上最大」ではよくわからない。

こういう物わかりの悪い国民の気持ちが届いたのか、直近(9月5日)の気象庁と国土交通省の台風10号に関する記者会見では「(南九州の)これらの河川では、おおむね100年に1度の雨量を想定した河川整備計画を進めていますが、7日正午までの24時間雨量の見通しでは、多いところでこの計画を上回る雨量が予想されています」とメッセージに「年数」が入ってきました。しかし「100年に1度の雨量を上回る雨量」という表現も街頭政治演説みたいでよくわからない。

「国交省や気象庁が各地域や河川流域で想定している24時間最大雨量を超える雨量が今回の台風では予想される」ということなら、それぞれの危険地域の想定雨量と予想雨量を明示しながらそう説明してもらうと少なくとも僕は理解しやすい。それから「(令和2年の時点で現在生きている日本人が)経験したことのないような大雨が予想され、河川の越水が十分考えられる」というような説明も「観測史上最大の」よりは理解しやすい。

40万年前に遡れば、地球の気温は10万年ごとの周期で同じような形の波――気温はある値(あとでこれを平均値と名付けるとして)から4度程度上昇して偏差がプラス4度になり、またそこから8度くらいぐんと下降して平均値からの偏差がマイナス4度になるという形の波――を形成していますが、それも地球物理学者の観測値ではあるのでそこまで遡る観測値というのもあり得ます。風速や雨量にもあるいは同じような代替観測値が存在しているかもしれません。

現在の地球は温暖の頂点(ないしそれに近いところ)にいるようです。風速や雨量をはじめ「異常気象」なるものの原因説明に困るといささか便利なので「地球温暖化現象」に逃げ込む気象予報士のかたもいらっしゃいますが、気温が頂点にいるということはこれから下がり始める可能性がとても高いということなので、寒冷化や氷河期への突入が嫌いなぼくとしては、カーブの反転は望みません。

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2020年9月 4日 (金)

マスクの抽選に当たった

2020年4月30日 (木)のブログ記事「クリーンルームで生産された日本製マスクの抽選に応募してみたら・・」の続きです。

《【・・・ご当選のお知らせ】・・・ご購入手続きのご案内》というタイトルのメールが昨日の午後に届いていました。ほとんど諦めていたマスクの抽選に当選した模様です。珍しいこともあるものです。

その「クリーンルームで生産された日本製マスク」のいちばん最初の抽選が《応募総数:4,706,385人 当選者数:40,000人 (40,000箱)》だったので、その結果は、世の中は必ずしも期待したようには行かないことを確認しただけだったのですが、《第1回抽選販売にご応募いただけなかった方は、第2回以降の抽選販売でご応募ください。 なお、既にご応募いただいた方につきましては、自動的に第2回以降の抽選販売の対象とさせていただきますので、改めてご応募いただく必要はございません》という文面に淡く期待して――実際はほとんど期待せずに――待っていました。

なぜなら、相対的に廉価で一定以上の品質をそなえた中国製マスクが溢れ始めたにもかかわらず、この日本製で当該企業のロゴが入ったその白いマスクは週当たりの当選者数よりも週当たりの追加応募者数のほうが多いという状況にあり、つまりくじ引きなどに強くないぼくにとってはますます当選機会が遠のいた状況にあったからです。

しかし突然の僥倖で、僥倖ではあるのですが、値段は今となっては決して安くないし、別途それほど安くない送料もかかるとしても、乗り掛かった船で、購入手続きに進んでしまいました。マスクの到着までには一週間くらいかかるみたいです。到着後は、当分の間は例の「アベノマスク」の隣に置いて記念品扱いとする予定です。


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2020年9月 3日 (木)

枝を手折(たお)る

先日のブログ記事「桜狩り、サクランボ狩り、紅葉狩り」で、次のように書きました。

《「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」は、折り取られた桜の花枝がそのあたりを歩く(あるいはそのあたりで舞う)人たちの頭髪や帽子(冠)にさされたのがたくさん見られたほうが背景としてはいちばん感じが出ます。もっとも最近は、自宅の庭の桜以外でそんなことをすると少々ややこしいことになってしまう恐れもありますが。》

「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」は古今集と伊勢物語の中の歌なので、十世紀初めの日本では春のお祝いや喜びに花の咲いた桜の枝が人々の手で折り取られていたらしい。

以下は「方丈記」からの引用です。蛇足ですが、鴨長明はその歌が新古今に十首も入集(にっしゅう)された歌人でもあり十二世紀後半から十三世紀初めにかけての方です。

「かへるさには、折につけつつ桜を狩り、紅葉(もみじ)をもとめ、わらびを折り、木の実を拾いて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす」(帰り道は、季節に応じて、春なら桜の枝、秋なら紅葉(もみじ)の枝を手折り、ワラビを折ったり、木の実を拾ったりして、それらを仏前にも供え、土産にもする)

草庵に一人で住んでいた彼も、季節の折々には、出先からの帰り道に、ワラビを摘み木の実を拾い、そして桜や紅葉の枝を手折っていました。時間の範囲を控えめに言って九世紀の後半から十三世紀の前半くらいまでは、季節の手折りは、自然の草木と人との当時の関係が滲み出たとても自然な行為だったようです。

今年はなかったにしても、たいていは桜の樹の下の宴会で酔っ払って枝を折り取るオジサンやオニーサンという存在が登場しますが、自然保護にうるさいおばさんもそういうオジサンの行為に対して目くじらを立てることもないのかもしれません。

 


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2020年9月 2日 (水)

札幌のホップの実

札幌(およびその近郊)らしいお酒と言えばビールとウイスキーです――最近はワインも加わりましたが。

以前、「ミュンヘン、札幌、ミルウォーキー、うまいビールの合言葉」という記憶に残るテレビコマーシャルがありました。ドイツのミュンヘンは北緯48度にあり、札幌は北緯43度、米国のミルウォーキーも北緯43度に位置しているので、北緯45度前後で造られたビールは美味いということらしいです。それを否定する証拠もないので、とりあえずそうしておきます。しかし北緯45度あたりで醸造されたビールだけがうまいというわけではありません。サンフランシスコは北緯37度ですが、サンフランシスコのAnchor Steam Beer (アンカー・スチーム・ビア)はとても美味い。その濃い味が後を引きます。

さて北緯43度の札幌ですが、その中心部にある大通り公園では、夏から秋にかけて、いろいろな草花に混じって、ビールの味わいには不可欠なホップもいっしょにアーチに這わせて育てられています。下の写真は昨日のそのホップですが、すでに淡い緑の実がたくさんついているのがわかります。こういう風景を見ると、北緯45度前後の都市とビールの美味さを関連付けるというのはけっこう上手いやり方だったように思われます。

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札幌だと、ホップは自宅でも大丈夫です。ぼくもかつて夏の観葉植物として育てたことがあります。長く伸びていく蔓をどう這わせるかがやっかいですが、それとなんとか折り合いをつけると次の写真のような実がなってくれます。

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2020年9月 1日 (火)

「徒然草」は、今風に言えば、「出家おじさんブログ」

「徒然草」は全部で二百四十三段なので、一日一段で二百四十三日で終了というのでなくても、長いのは三日ほどかけて書くかもしれないし、休みの日もおそらくあるので、今様に云えば、十四世紀の前半の半ばくらいに(詳細ははっきりしないにしても)、一年くらいかけて書き続けられた人気の高い「出家おじさんブログ」ということになるかもしれません。

「徒然草」は、現在も国語教科書の定番だそうです。下の写真はあるウェブサイトでお借りした「中2国語」教科書の中の関連ページです(写真の引用についてはこの場を借りてお礼申し上げます)。

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おじさんも年齢を重ねるといろいろと理由はあるにせよ、出家していてもいなくても、今よりも昔のほうにより大きな価値と深い美しさを見るようになるようです。徒然草にもそういう例は少なくありません。たとえば

* 「この比(ごろ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外(ほか)に、あはれに、けしきおぼゆるはなし」(この頃の歌には面白く言い得ていると見えるものはあるが、昔の歌などのように、言外に情趣深く余情を感じるものはない。)(第十四段)

* 「なに事(ごと)も、古き世のみぞしたはしき。今様(いまやう)は無下(むげ)にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道のたくみの造れる、うつくしき器物(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ」(何事でもすべて古い時代ばかりが懐かしく思われる。今の世は何とも言いようのないほど下品になっていくようだ。あの木工の造った美しい器物も、古風な姿のものがすばらしいと思われる。)(第二十二段)

* 「そのうつはもの、昔の人に及ばず」(今の人は、その器量が昔の人にかなわない)(第五十八段)

とかです。

中学や高校の教科書に載るというのは世間や教育界で高い評価が定着しているということになりますが、小林秀雄は教科書や参考書の解説とはずいぶんと違う意味合いで「徒然草」を褒め、本居宣長は、兼好法師のもののあわれの理解はいかがなものかと批判的です。

小林秀雄の著作からその部分を引用すると

「兼好は誰にも似てゐない。・・(中略)・・文章も比類のない名文であって、よく言われる枕草子との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見さうは見えないのは、彼が名工だからである。『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず』、彼は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感してゐる自分の事を言ってゐるのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。」(「徒然草」)

と静かに歯切れよく称賛しているのに対し、本居宣長は

「けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや。・・(中略)・・さるを、かのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(ミヤビ)にして、まことのみやびごゝろにはあらず、かのほうしがいへる言ども、此のたぐひ多し、皆同じ事也」(「玉勝間」)

と相当に辛口です

日本文化の中で自分の気に入ったところをとくに取り上げて誉め、自分の気に入らないところを集中してけなす、ということかもしれないにしても、小林秀雄と本居宣長の二人の美意識の違いには興味深いものがあります。

そのことに関連して、山崎正之の《「古事記伝」私考》に次のような一節があります。二人の好みの差(というか、共感や理解のしかたの差)が徒然草の評価にも反映されているようです。

《かつて小林秀雄氏が折口信夫博士を訪ねての帰り、大森駅まで送られて来たときにいきなり博士に「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われたという。

このことについて山本健吉氏は、

宣長の美意識の中心には、王朝文学、ことに源氏物語がどっかと腰をおろしていた。それは古事記的なるものよりも、宣長の心の奥深く根づいている。彼の古事記伝には、ややともすると源氏によって養われた美意識、言語感覚が顔を出す。いや、あまりにしばしば顔を出す。そのことを言おうとされたのであろう。そして、彼の古道意識よりも、「もののあはれ観」の方が、宣長を知る人に大事な命題であることを言おうとされたのであろう。

と記している。》

 


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