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2021年2月12日 (金)

般若心経はとても哲学的なお経

奈良の南都六宗の学問指向の強い寺に限らず、週末に写経体験教室などを開いている各地の寺で使う写経テキストには、宗派を横切って密教系でも禅宗系でも、「般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)」が使われることが多いようです。内容と文字数(二百六十二文字、あるいは二百七十八文字)が写経教室に向いているからです。この「般若心経」は仏式の葬儀や法事などでよく読経されるお経のひとつでもあります。

佛說摩訶般若波羅蜜多心經
觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舍利子色不異空空不異色色卽是空空卽是色受想行識亦復如是舍利子是諸法空相不生不滅不垢不淨不增不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色聲香味觸法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想究竟涅槃三世諸佛依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦眞實不虚故說般若波羅蜜多呪卽說呪曰
揭諦揭諦波羅揭諦波羅僧揭諦菩提薩婆訶
般若心經

ちなみに、空海には「般若心経秘鍵」という著作があり、道元の著書である「正法眼蔵」の第二巻は「摩訶般若波羅蜜」です。

中江藤樹という江戸時代初期(十七世紀前半)の陽明学者は、道を求める人たちを「聖人」を最高位として「俗学・角者・狂者・大賢・聖人」という具合に下から順にレベル分けし、「釈迦や達磨や荘子」などは「聖人」の下の下であるところの「狂者」に配置しました。仏教や老荘思想はその本質は哲学、形而上学なので、釈迦や達磨や荘子は哲学的な思弁を専らにするだけの軽い存在と考えればそういう位置づけになります。かれらは「だからどうした」という問いかけには答えない。

あるいは、荘子がなぜ「狂者」かというと、「昔者(むかし)、荘周は夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。・・・俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為(た)るか、胡蝶の夢に周為るか」(「荘子」斉物論篇)のような、 蝶々と荘子が互いに入り混じり、状況が「くくぜん」「がぜん」「きょきょぜん」と流れていくような世界は、藤樹好みではなかったのでしょう。

「般若波羅蜜多心経(Prajna Paramita Hrdaya Sutra)」の哲学的な「空(くう)」の香りを改めて味わうために梵語(サンスクリット)から現代日本語に訳したもの(「世界古典文学全集 7 筑摩書房」平川彰訳)を下に引用してみます(引用すると長く感じますが)。「シャーリプトラ」は漢字だと「舎利子」です。

一切智者に帰依します。

聖者観自在菩薩が深遠なる般若はらみつにおいて、修業をおこなっていたとき、人間は五種の構成要素から成立していると照見した。しかもそれらの五種の構成要素は、その本性は空であると洞察した。

シャーリプトラよ、この世において、物質現象(色)は実体のないもの(空)である。実体のないもの(空)こそが、物質現象(色)として成立するのである。実体のないこと(空)は、物質現象(色)を離れてあるのではない。物質現象(色)も実体のないこと(空)と別にあるのではない。およそ物質現象であるもの(色)が、そのまま実体のないもの(空)なのである。実体のないこと(空)が、そのまま物質現象(色)なのである。感覚・表象・意志作用・判断についても、これと全く同じである。

シャーリプトラよ、この世において、存在物はすべて、実体のないことを特質としているのである。生じたと言えないものであり、滅したとも言えないものであり、汚れたとも言えず、汚れを離れたものでもない。減ることもなく、増すこともない。それ故にシャーリプトラよ、実体がないという見方に立てば、物質現象は成立せず、感覚も成立せず、表象も成立せず、意志作用も成立せず、判断も成立しない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識も存在しない。色、声、香り、味、触られるもの、観念も存在しない。視覚の領域も存在せず、ないし、意識的判断の領域も存在しない。

智慧もなく、無知もなく、智慧の滅尽もなく、無知の滅尽もない。ないし、老いること、死ぬこともなく、老いること、死ぬことの滅尽もない。苦・集・滅・道(の四つの真理)もなく、智もなく、悟りに達することもない。それ故に、達することがないから、人は菩薩の般若はらみつを依り所として、心の覆障なしに住している。心に覆障がないから、恐怖がなく、顚倒を超越しており、究極のニルヴァーナに入っている。三世における諸仏たちはすべて、般若はらみつを依り所として、無上の正しい悟りを現実に悟ったのである。

それ故に知るべきである。般若はらみつの大なる真言、大なる智慧の真言、無上の真言、比較を絶した真言は、すべての苦悩を鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は般若はらみつにおいて次の如く説かれている。

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スワーハー
(行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、彼岸に共に行ける者よ、悟りよ、栄えあれ!)

『般若はらみつの心髄』おわる。

とても哲学的、形而上学的な内容のお経です。こういう哲学的な内容を持つ「般若心経」の読経や写経は何のためにするのか、誰のためにするのか。死んだ人の為か、残されている人の為か、自分自身の為か。

なかでも「智慧もなく、無知もなく、智慧の滅尽もなく、無知の滅尽もない。ないし、老いること、死ぬこともなく、老いること、死ぬことの滅尽もない。苦・集・滅・道(の四つの真理)もなく、智もなく、悟りに達することもない」というところは、「空」ということを言葉で語ろうとした場合の根源的な一節で、そういうことならこちら側もあちら側も「空」なのでそういう意味では両者に違いはありません。

とくに、「智もなく、悟りに達することもない」というところはドラスティックで、つまり悟りなどというものはそもそもないのだから、そういうものがどこかにあって修行の結果悟りに達することができるといった風に悟りを実体化してはいけない、そんなことをすると余計に迷うだけだと断言している。そういうことを含めて「般若心経」を読誦したり写したりすることは日常の隙間で深く哲学することだと言えそうです。

 


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