経済・政治・国際

2024年5月10日 (金)

JRの駅は無人だと不便?

KYODO NEWS(2023/08/17)によれば、「JR各社の無人駅が増えている。全6社の計4368駅のうち58%を占める」そうです。現在はもっと多いかもしれない。四国や北海道に無人駅が多いのは利用者数を考慮すればしかたがない。

先月、金刀比羅宮と道後温泉に旅行した折に利用した交通手段はJRや市電、タクシーといった公共交通機関でした。近所のJRの駅は出発と帰着が、タクシーの利便性を考えて違う駅だったのですが、両方とも無人駅でした。タクシーの利便性とは、列車が駅に到着した時に一台くらいはタクシーが乗り場にいる、あるいは電話をすれば駅まですぐに来てくれる地元のタクシー会社があるといった類の利便性のことです。

北海道はJRの無人駅が多い地域で、たとえば近くにウイスキー工場のある「余市駅」は比較的大きい有人駅でしたが、果樹栽培農家の多い隣の「仁木駅」は無人で、当然、自動券売機などはなくて、札幌までの切符を駅前の雑貨店で買った記憶があります。「切符あります」という小さな掲示が店先のガラス窓に貼ってありました。

札幌市内でもJRの無人駅はあります。ただし市内なので無人駅であっても自動改札や自動券売機は完備している。学園都市線の「篠路(しのろ)」というタマネギ出荷の集積地でもあった古い駅は有人で、その隣で札幌駅寄りの「百合が原」という駅は無人です。「百合が原」駅構内のスピーカーからは篠路駅駅員の列車案内の声がプラットフォームに流れてきます。

下は、篠路(しのろ)駅の夜の駅舎と駅のそばのかつてのタマネギ倉庫。

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バス停というバスの駅や市電の駅(札幌の市電、松山の市電など)は基本が無人です。そういう駅が無人であるというのは公共交通機関の利用者にとってある意味ではよく慣れ親しんだ風景です。だから駅員のいないJRの駅の増加に今さら驚く必要はないのかもしれません。ただJRの場合は、簡単なプラットフォーム移動だけで、四国から岡山やそのまま大阪や東京に行けるわけで、しかし、そうであっても有人駅でないと遠距離切符が買えないし座席予約もできません。だからそういう場合はオンライン予約か大手旅行代理店に頼ることになります。

そういう不便もあるとしても、本数は少ないけれど運行時間のとても正確な大型高速バスと考えると、途中駅が無人であることはたいした欠点ではありません――ターミナル駅だとそうはいかない。しかし欠点はそれ以外のところにあり、スーツケースのような大型旅行荷物の扱い――車(両)内の安全な収納場所やそこへの出し入れサービスなど――がJR(に限らず、電車や列車一般)は便利とは言えない。列車の旅行は「機内持ち込み」可能な大きさの旅行カバンかそれより小さいカバンでするのがいいようです。


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2024年3月19日 (火)

カーツワイル著「シンギュラリティは近い」とハラリ著「サピエンス」と「生老病死」

特異点(Singularity)という言葉はいくつかの意味合いで使われますが、AI(人工知能)との関係において使われる特異点は、AIがヒトの知能を完璧に凌駕する歴史上のある時期といった文脈で登場します――2006年出版(日本語版は2010年)のレイ・カーツワイル著「シンギュラリティは近い」に詳しい。「2040年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう」。

そうなった場合のAIはヒトよりもはるかに高度な知能を駆使して勝手に自己更新や自己革新をともなった自己製造を自ら計画的に推し進めるので、将来のAI(人工知能)とヒトとの関係は、現在のヒトと家畜との関係に似たようなものになるだろうということをも意味します。

現在のチェスや将棋におけるヒトと人工知能の勝負、現在の検索エンジンのビッグデータ処理、あるいは現在のChatGPTの持つ能力から類推できるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量の総体をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのものがとても安いコストで人工知能そのものとそれを使った製品や労働サービスなどのサービスを、アルゴリズムに沿って再生産(企画・開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事の大部分を、人工知能が、とても高い経済効率で、代替するというわけです。

だから遺伝子工学やナノテクノロジーやロボット工学を駆使して生成される非生物的なAIは、生物としてのヒトの体内(脳や血液やその他の身体部分)に組み込まれると、とりあえずそういうことのできる富裕層はという限定があるにせよ、アナログなヒトはデジタルなAI(人工知能)とハイブリッドな共生関係を築くことができるようになります。

そういう意思を強く持つ人たちは確かに存在します。カーツワイルの文章の一節を「シンギュラリティは近い」から引用すると、「老化を人生のひとつの過程として潔く受け入れようとする人もいるが、私の考え方は違う。・・・わたしから見れば、何歳になっても病気と死は不幸な出来事であり、克服すべきものなのだ。・・(中略)・・デ・グレイは、みずからが目指すのは『遺伝子工学で老化に打ち勝つこと』つまり年をとっても身体や脳がもろくなったり病気にかかりやすくなったりしないようにすることだと説明している」。

仏教で四諦(したい)という考え方があります。「四諦」とは釈迦の説いた四つの真理「苦諦」「集諦(じったい)」「滅諦」「道諦」のことですが、このうち現世は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるということを説いたものが「苦諦」で、現世の「苦」の原因はひとが無常を認識できないからだと述べているのが「集諦」です。

つまり、ひとは生・老・病・死などの苦しみに悩まされる苦的存在であり、なぜ苦しみが生ずるかというとその原因は渇愛に代表されるところの煩悩があるからです。その煩悩(とくに渇愛)が滅した状態が涅槃(ねはん)で、涅槃に至るには八正道(はっしょうどう)などの実践行が必要というのが釈迦の基本的な教えです。

しかし「シンギュラリティ(特異点)は近い」の著者であるカーツワイルにとって、「老」や「病」や「死」は苦しいこと・不幸なこと、したがって回避したいことではあっても「生」(あるいは生き続けること)は「苦」ではないようです。

仏教の面白い――あるいは奥深い――のは、「病」や「老」や「死」だけでなく「生」も等しく「苦」の原因だと説いているところです。「生」というのは仕事でも私生活でも何でも渇愛という心的動因の連続で成り立っています――だから何とか生き続けられるとも言えるわけですが。

上述の意味での特異点やAIに、それは避けられない事態だと共鳴している「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、しかし、彼の前作である「サピエンス」のなかで以下のように述べています。ハラリは仏教についてとても造詣が深いようです。

「現代の最も支配的な宗教は自由主義だ。自由主義が神聖視するのは、個人の主観的感情だ。自由主義は、こうした感情を権力の市場の源泉と見なす。物事の善悪、美醜、是非はみな、私たち一人ひとりが何を感じるかによって決定される。」

「宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とはまったく異なる探求方法をとってきた。なかでも特に興味深いのが仏教の立場だ。・・・仏教によれば、たいていの人はこころよい感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。その結果、自分の感情に非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。・・・だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。・・・苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ。」

生の苦といっしょに死を視野に入れた場合の高齢化(あるいは生の意味合い)と、遺伝子工学やナノテクノロジーやロボット工学の成果を活用して病気や死を回避し続ける状況における高齢化(あるいは生の持つ意味)とは、同じ高齢化ではあってもその色合いはずいぶんと違います。


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2024年3月 7日 (木)

北海道フードマイスター雑感

このブログ「高いお米、安いご飯」の現在の一行紹介は「瀬戸内に転居した北海道フードマイスターです。食べものと食べることと経済・マーケティングの交差するあたりを食から見た健康という視点も交えて考えます」となっています。二年前に瀬戸内に引っ越したときに少し書き替えました。

「高いお米、安いご飯」はその一行紹介からはみ出す内容のブログ記事も少なくありませんが、今日は「北海道フードマイスター」の資格更新についてです。

手元のカード形式の認定証には「資格取得日」が2009年3月1日、「有効期限」が2024年3月31日と記載されており、確か2008年の秋に配偶者といっしょに受験したと記憶しています。三年に一度、更新手続きが必要です。昨年の12月に更新案内資料が送られてきました。配偶者もぼくも五回目の更新になります。

札幌で複数回開催される資格更新セミナーに参加すれば資格は更新されるのですが――札幌で暮らしている頃はそうしました――現在のぼくのように北海道外に住んでいる者や、北海道内でも根室や羅臼や網走といった札幌まで簡単に日帰りできない地域で生活をしている人たちのためには通信講座が用意されています。通信講座には課題があって、それに70点以上で合格しないと更新が認定されません。

参考資料として「北海道食材ハンドブック」というのがあって――ハンドブックというよりは食材写真付きの読み応えのある本です――現在は第八版ですが、これが穀物・野菜・果実・キノコ・畜産物・魚介類など北海道食材全般にわたって細かく網羅してあるので、最新版以外にも古いのといっしょに本棚に立ててあります。

よくできたハンドブックで、そういうことなら「四国食材ハンドブック」といったものがそばにあると便利だと思っても、それに匹敵するものを作るのは長年の積み重ねがないと簡単ではないようです。たとえば北海道大学・農学部(国立)や帯広畜産大学(国立)、あるいは酪農学園大学(私立)といった学術インフラもその積み重ねの一部です。北海道大学(JR札幌駅のすぐ北側)と酪農学園大学(札幌市の隣の江別市)は農業・畜産業・水産業や食材に関する各種のセミナーや催し物等で教室や会議室に、結構な回数、お邪魔したことがあります。

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酪農学園大学の白樺並木(2016年春、TPPに関するシンポジウムが開催された)


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2024年2月26日 (月)

日経平均株価が史上最高値を更新したとしても

『2024年2月22日午後、日経平均株価が取引時間中の史上最高値を超え、初めて3万9000円を上回った。これまでの取引時間中の最高値は、1989年12月29日の3万8957円44銭だった。これまでの株価ニュースでの常套句だった「バブル後最高値」ではなく、文字通りの「最高値」となった』 『2024年2月22日、日経平均株価の終値が1989年12月の終値である3万8915円を超えて史上最高値を更新しました。』

上は、あるネット媒体の経済記事や証券会社のサイトから一部を引用したものです。

史上最高値は史上最高値なのですが、同じことを別の媒体(たとえば産経新聞)では『株価一時最高値も「好景気」実感できず バブル期の34年前から変わった経済と社会構造』という見出しに続いて以下のように書いています。

『22日午前の東京株式市場で日経平均株価が平成元(1989)年12月の史上最高値(終値ベース)を一時、更新した。だが、バブル景気に沸いた34年前のような好景気の実感はない。人口増と内需拡大への期待から国内で幅広く循環したマネーは、少子高齢化と企業のグローバル化に伴い成長余地の大きい海外へ流れた。企業は金融危機や災害、地政学などのリスクに備えて利益をため込み、リストラで収益を上げる傾向を強め、従業員の賃上げに回りにくくなった。一方で社会保障費を賄うための負担は増え続け、旺盛だった個人消費は減退。株高が景気に直結しない経済構造が定着した。』

世の中にはそういう状況が直感的に理解できるようにデータをまとめてくれるかたがたもいて以下にそれらを二つ引用させていただきます。

最初は「社会実情データ図録」からお借りしたもので、日経平均株価の過去44年間の推移がまとめられています。確かに2024年2月22日の終値はそれまでの終値の史上最高値を超えました。

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ただ、生活実感としてはぜんぜん史上最高値でないのは明らかで――日経平均は半導体関連やその他の少数特定の株価に振り回されるという事情もありますが――、生活実感と日経平均株価との乖離を「逢坂誠二事務所」(立憲民主党)が「日本の30年」というタイトルでわかりやすく比較してくれているのでお借りしました。

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所得の中央値は――富裕層による歪みの大きい平均値ではありません――30年前より33%少なくなりましたが、社会保険料負担は逆に大幅に増えています。定期預金金利がそれなりに利子を生むところの金利だった30年前から、金利とは決して言えないレベルまで低下しました――低金利の有利さは住宅ローンなどで大いに活用できるとしても。

2024年から始まった新NISA(投資枠と無税枠が拡大された)に投資に関心のある若い人たちからけっこうなお金が流れ込んできているそうです。証券会社の誘導もあるのか、資金は日本株を対象とした投資信託よりは、米国株(S&P 500など)に焦点を当てた投資信託に向かっている。その背景が以下のようなグラフ――1990年1月ないし1991年1月の株価を100としたときの現在の日米の株価――で、勝ち馬市場に乗ったほうが安全と判断しているように見えます。自分の勤めるそれなりに業績のいい会社とは別業種の、もっと利益率の高い上場企業の株式を購入するようなものかもしれません。皆さん、冷静です。今後はどちらが勝ち馬になるかは実際にはわからないにしても。なお、グラフはネット証券のウェブサイトからの引用です。

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2024年2月19日 (月)

確定申告は早めに片付けるに限る

確定申告は申告書の受付開始日のすぐあとに提出してしまうと気分がすっきりします。きちんと計算したのをちゃんと提出しておかないと、あとあともろもろの税金にじわじわと影響してくるので手を抜くわけにはいきません。

中には確定申告作業が大好きなかたもいらっしゃるとしても、申告書類の作成にとりかかるのはどうも億劫だというのが毎年の実感です。好きなゴルフに出かけるように――今はゴルフはしないとしても――確定申告作業に取りかかり、いいショットの後ゆっくりと芝の上を歩くように確定申告作業が完了すればいいのですが、そういう心持ちにはなかなかなれない。

個人事業主で青色申告をされているかたは決算書類を前もって準備することになりそれはそれで厄介な作業だし、災害等に遭われたかたも別途の対応が必要ですが、そうでない人は、不動産売買や株式の売買など分離課税にかかわる事項がない場合は――あったとしても取引に関連する数値が整理されている場合は――関連データを国税庁の申告フォーマットに移し替えるだけなので、それもそれなりに面倒だとしても、必要な書類や通知が一カ所にまとめてあってその気になれば短時間で完了します。

ところで、確定申告書の作成を支援する国税庁のソフトウェアは、最近の版は細かいところに手が届くというかユーザーフレンドリーで、ユーザーインタフェース系が静かにじわじわと改良されてきた印象です。利用者のどなたかが使いやすさについての感想を継続的にフィードバックされたのでしょうか。


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2024年1月25日 (木)

ちょっとした暇つぶし

みなさまも毎日のようにご経験のことだと思いますが、有名通販サイトやクレジットカード会社を装うところの詐欺メールというか詐欺目的の情報収集メールが届きます。

まったく縁のないクレジットカード会社などを語ったメールだと、怖いもの見たさでメールのどこかを意識的にクリックして様子を見る可能性は皆無とは言い切れませんが、普通は受け取った側は即座に削除するか、迷惑メールとして処理をします。

普段お付き合いのある通販サイトやクレジット会社からたとえば次のようなタイトルのメールが届いた場合は、ちょっとした暇つぶしになる場合があります。

《例1》 通販サイトを装ったメール

メールタイトルは、 【緊急】<通販サイト名>注文を出荷できません

メール本文は 《お客様の注文の支払い方法に問題が発生しており、現在注文を出荷できない状況になっています。》 といった感じで始まり、少し行くと

《支払方法を更新する》

という目立つ箇所がありそこをクリックすることになっています。

差出人のメールアドレスを拝見すると
通販サイト名 namename1@pnzhqftsre.cn
で cn は china の短縮形です。(@の前のnamename1は、実際のものを「高いお米、安いご飯」がnamename1に置き換えた)


《例2》 クレジット会社を装ったメール

メールタイトルは、<クレジットカード会社名>カード202x年xx月xx日分お振替内容確定のご案内

メール本文は 《次回のお振替内容が確定しました。<クレジットカード会社名>にログインのうえご確認ください。》で始まります。本文中に

▼<クレジット会社名>ログインはこちら

というのがあり、そこをクリックすることになっているようです。

差出人のメールアドレスを見ると
クレジット会社名 namename2@jgrjh8.cn
で、こちらも cn つまり、中華人民共和国に割り当てられた国別コード・トップレベルドメイン (Country Code Top Level Domain) が使われています。(@の前のnamename2も、実際のものとは変えてあります)

こちらのメールはよくできていて、メールアドレスの cn と、誘導先urlの文字列に含まれている cn に気が付かなければ本ものそっくりです。

これらのメールが実際はどの国から発信されたのかはわからないにしても、 jp であるべきところが cn というのは違いがわかりやすくて助かります。だから実際にはそれほどの暇つぶしにはならないかもしれません。


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2024年1月 9日 (火)

ユヴァル・ノア・ハラリの「共同主観的な虚構」と吉本隆明の「共同幻想」

ユヴァル・ノア・ハリルが著した「ホモ・デウス」(2016年英語版)におけるキーワードは「共同主観的な虚構 (intersubjective fictions)」です。人間はイヌやネズミのような他の生き物にはないところの特徴的な能力を持っており、その能力とは共同主観的な夢や虚構を織り上げることができる才能のことだというのがハリルの主張です。

共同主観的な夢や虚構とは、人間の共通の想像の中にしか存在しないもののことで、たとえば共同体、宗教、国家、法律、自由、平等、資本主義、社会主義などが該当します。そういうものは虚構なので触ろうとしても触れないし、またそういうものは当然のことながら自分では比喩以外の痛みを感じることもない。

共同主観的な虚構は、しかしながら、時間の経過とともに、虚構ではなく共同主観的な現実 (intersubjective reality) となります。たとえば、日本や米国やEUにおいては資本主義が共同主観的な現実ですし、同じ朝鮮民族で構成される北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、北朝鮮と韓国が非常に異なる共同主観的な虚構に支配されそれが共同主観的な現実になったからです。

人間の集合的な想像力が、共同体や国家といった諸制度を生み出したというのが吉本隆明の「共同幻想論」(1968年)の骨子ですが、人間の集合的な想像力を吉本は「共同幻想」と名づけました。「共同幻想」は、ハラリの「共同主観的な虚構」とほぼ重なります。吉本は共同幻想としての国家というものをマルクスから学んだと述べているのでその重複は腑に落ちます。

もっとも「共同幻想論」の対象は国家が成立する以前の日本における共同幻想で、一方、ハラリの「ホモ・デウス」は、《ヒトも動物も植物も岩も同じという意味でのアニミズム(Animism)》→ 《絶対者としての神が世界を統御しているという意味での神イズム(Theism)》→ 《人間がいちばん偉いという意味でのヒューマニズム(Humanism)》→ そして、《人工知能とアルゴリズムが人間の大部分を主役の座から引きずり下ろすかもしれないというポストヒューマニズム文脈でのデータイズム(Dataism)》という流れを射程範囲にしているので、「共同幻想」と「共同主観的な虚構」とでは、途中から見える景色が大きく変わってきます。

「ホモ・デウス」も、マルクスの著書に似て、直線的に進展する史観――あるいは旧約聖書的な史観――が色濃い書作ですが、マルクスが資本主義社会の次により高次な、あるいは理想的な状態としての共産主義社会を想定したのに対して、ハリルはヒューマニズムのあとにデータイズムという黙示論的な状態になるかもしれない世界を提示しているようです。

関連記事は「抽象化ということ」。


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2024年1月 5日 (金)

ほとんど何でもあるけれど、クロマグロのトロは手に入らない地産地消

地産地消は地元で収穫されたものを――穀物でも野菜でも魚介類でも肉でも――地元で消費するということなので、その地域の消費能力の大きさによって地産地消の規模は決まってきますが、そのまえに地元で生産していないものや地元で獲れないものは消費しようにもできません。それを理由に不満を抱くというのは筋違いだとしても、いくぶんの不満は残ります。

四国東北部の瀬戸内に暮しているので、地産の範囲を四国四県として海鮮食材の地産地消の様子を眺めてみます。

タイ(鯛)は天然ものと養殖ものが競い合っています。タイの天然ものは徳島の鳴門、養殖ものは愛媛。ブリ(鰤)ないしハマチも天然ものと養殖ものが覇権を争っていて、産地は徳島と愛媛。タイもブリも、丸ものでも柵でも刺身仕立てでも何でも手に入る。

カツオ(鰹)は高知。高知の人はカツオを他所の数倍は食べるようです。関連記事は「カツオを普通の人の5.4倍食べると・・・」。

鰆(サワラ)も簡単に手に入ります。サワラは刺身がいちばん美味いし、他の魚の刺身よりも旨い。しかしすぐに手に入るのはサゴシ(成長途上のサワラ)で九州北部で水揚げされるような大型のサワラにはなかなか出会えません。札幌ではサワラの刺身は無理だったので――刺身で食べられるほど新鮮なのが流通してこない――自宅でニンニク醤油に漬け込んだ大振りの切り身をよく調理しました。

ピンク地に黄色の縞が鮮やかなイトヨリダイやクロダイ(黒鯛)、アジ、ホウボウ、カワハギも地の魚で、ハモ(鱧)やタチウオ(太刀魚)やマナガツオも旬の季節にはよく見かけます。

当然ながら北の魚は獲れませんが、鮭などはなくても構わない。構わないのだけれど、あるスーパーの魚売り場には塩鮭のコーナーが常設されています。お弁当用とは限らないとしても家庭需要が継続してあるのでしょう。しかし「時不知」(トキシラズ)は売っていない。

イカもタコも地のものが揃っています。チリメンジャコは細かいのがきれいにパッケージされて並んでいる。

ワカメも、それから驚くことに昆布も生産しており、ワカメはおいしいとしても、昆布は薄くて煮物にはいいかもしれないけれど、いい出汁は引けそうにありません。

困っているのがマグロです。マグロも、クロマグロ以外は少しは獲れますが、クロマグロ(本マグロ)にお目にかかる機会は非常に少ない。ヨコと呼ばれている成長途上の小型のクロマグロはときどき売り場に並ぶとしても、若いクロマグロなので、脂ののった成熟した味わいとはいきません。だからDHA/EPAがいっぱいのとろけるようなトロは残念ながら地産地消の流れでは味わえない。

地域の消費需要が十分大きければ、クロマグロの赤身もトロも魚売り場に並ぶのだけれど、そうではないのでそうならない。最高級品は築地へ高値で運ばれるとはいえ、北海道には戸井、松前など青森の大間と競うクロマグロの水揚げ地があり、それが札幌という200万都市で消費されていました。


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2023年12月20日 (水)

平和な日常ということ

《平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである。》
 
 上の文章は吉田健一のエッセイの一節です(随筆集「文句の言いどおし」)。

 「平和とは何か」と書き出していますが、「日常とは何か」と始めてもいいし「心の平安とは何か」というのでも文意は成り立ちます。

四国東北部の瀬戸内で暮らしていると、隣の村に行く道に大木が生えていてというのはあまりないにしても、八十八カ所の札所には遠くから大木が眺められるし、近所のお宅の庭先には渋柿や甘柿の実がいっぱいなっているのが通りすがりに何本も目に入ります。どの家も採って食べるつもりはまったくない様子で、それは橙についてももそうで、花の代わりに朱色やダイダイ色の実を咲かせているといった風情です。

こういう平穏な日常を、つまり道の脇の大木や柿の実を守るために外敵と戦うというのも戦争の姿のひとつではありますが、それが操作されて行き過ぎると特攻隊の手記になってしまいます。パレスチナ人やイスラエル人にとって道端の大きな樹や柿の実とはいったい何なのか。


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2023年12月18日 (月)

抽象化ということ

ものごとを抽象化しながら区分するというのは簡単ではないけれども楽しい作業です。それが完成すると、何か新しいものを摑んだ気分になります――実際はそうではなかったにしても。

物理的な世界の動きはたいてい美しい数式で表現されることになっていて、それ以外の、それをはみ出した世界も同様に美しく表現されるかどうかは別として、そういう無駄のない数式表現という抽象化はきれいです。もっとも世界は見たいようにしか見えないというのも間違えてはいないので、きれいな数式で要約された世界はその限られた範囲で存在するだけかもしれません。

より効果的にあるいは効率的にモノを売るために市場や消費者をいくつかに区分して操作するのも身近な抽象化ですし、人類の政治・社会・経済の遷り変りを発展段階という巨大な連続する石段を設置して記述するのもまた抽象化です。社会科学のそういう抽象化に関して突出していると思われるのがカール・マルクスとユヴァル・ノア・ハラリです。

カール・マルクスは、19世紀半ばに、彼の弁証法的唯物史観にしたがって、社会の発展段階を次のように大胆に抽象化しました。

■原始共産制
■古代奴隷制
■封建社会
■資本主義社会
■共産主義社会

実際は、そういう発展段階とはならずに、資本主義社会も共産主義社会も同じ産業主義社会で、平等よりも自由を優先させた産業主義社会が資本主義社会になり、逆に自由よりも平等を重視した産業主義社会が共産主義社会となったわけです。両者に実質的な差はありません――マクロな意味での経済運営の上手下手の違いは相当にありましたが。

イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは「ホモ・デウス」という著書(英語版の出版は2016年)で彼の史観とそれに基づく未来像を提示しました。

■アニミズム(Animism): ヒトも動物も植物も岩も同じ、それぞれが霊的なものの顕れで、それぞれに差はない。
■神イズム(Theism): 絶対者としての神が宇宙や世界を統御している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など。どちらかというと一神教の神。
■ヒューマニズム(Humanism): 知能(インテリジェンス)と意識を持つ人類(ホモ・サピエンス)が、動物よりもなによりも、いちばん偉い。人類が神になった。つまり、ニーチェの「神は死んだ」。ヒューマニズムとは、人類が自身を崇める宗教。
■データイズム(Dataism): ポスト・ヒューマニズム。人類(ホモサピエンス)はもはや主役ではない。人間とは生体アルゴリズムのことだとすると、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーやネットワークテクノロジーの進化で、人工アルゴリズムそのものであるところのコンピュータが、アルゴリズムとしては人類よりもはるかに優れているので、世界のシナリオライターになり、主人公になる。ほとんどの人類は「役に立たない存在」となる。

二人に共通するのは、樹の下に坐って世界の循環や輪廻を瞑想する仏教的な「森の思想」(註2)に対して、「砂漠の思想」(註1)とでも名付けられるところの、旧約聖書風に世界を高みから超越的な視点で俯瞰する方法です。この思想では世界は直線的に進展します。世界の変遷を眺めるマルクスの方法が唯物史観(史的唯物論)なら、ハラリの方法はデータ史観(史的データ論)です。二人ともユダヤ人です。

(註1) 世界には初めと終りがあり、時間は直線的に進み、その直線的な思考を彩るのは進歩概念と黙示録的な終末思想です。この考え方を、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が出てきた風土を考慮して「砂漠の思想」と呼ぶ場合がある。
(註2) 仏教の場合、万物が空なので、絶対的な存在もまた空ということになります。動物と植物は生まれ、土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生するという「円環的世界観」が成立します。つまり、世界には初めも終わりもないし、時間は輪廻的に循環し円環する。この考え方を、「砂漠の思想」が誕生した場所との風土的な対比で「森の思想」と呼ぶことがある。

人類の流れを抽象化するということは、人類の流れを何らかの視点で虚構化するということですが、その視点は共同幻想です。いっしょに暮している人たちが共有する集団的な思いが共同幻想です。マルクスとハラリの違いは、二人がそれぞれの切り口で鳥瞰した「共同幻想」の移り変わりにそれぞれどういう名前を付けるか、その違いです。

「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」。これは小林秀雄の「当麻」というエッセイの一節ですが、「・・・イズム」的な、固着する傾向のある流行的なものの見方(「様々なる意匠」)とその専横をもともと嫌いな小林ならではの主張です。これはことあるごとに本質なるものをすぐに求めたがる抽象化指向と意識的に距離を置くもので、直線的な抽象化作業の真逆にあるものの捉え方です。細部の記述が具体的で色鮮やかな「ホモ・デウス」はそうではないのですが、重機で巨石を積み重ねたり切り倒した巨木を大ナタで削り取るようなタイプの抽象化までは達していないにもかかわらず思い込みの強い抽象的な論述を読んだ後では「当麻」はいいバランス調整になります。


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