経済・政治・国際

2019年7月17日 (水)

『気候変動の原因は、人間活動ではなく、雲の量』という主旨の刺激的な論文

地球温暖化などの地球規模の気候変動を左右しているのは「人間活動」ではなく「雲量」である、という主旨の刺激的な論文に出合いました。

この連休中にひょんなきっかけから「NO EXPERIMENTAL EVIDENCE FOR THE SIGNIFICANT ANTHROPOGENIC CLIMATE CHANGE」(June 29, 2019)という二人のフィンランド人学者(J. KAUPPINEN と P. MALMI)が書いた論文に目を通してみました。共著者のひとりであるJ. KAUPPINENはIPCC AR5 (Fifth Assessment Report) のエキスパート・レビューアとしても働いたそうです。

この論文には、上述の通り、人為的な活動(産業活動や経済活動などの人間活動)から生み出された二酸化炭素のような温室効果ガス(と呼ばれているもの)が、地球温暖化(あるいは地球の気温変動)の主な原因というのは誤りで、それを実証する証拠は存在しない、という趣旨のタイトルが付けられています。

その論文の結論は一行だと次の通り。

「Low cloud cover controls practically the global temperature」(地球の気温を実質的に制御しているのは低い位置の雲量である。)

Low-cloud-cover
     以前に機中から撮影したlow cloud cover

その結論の簡潔な補足説明は以下のようになっています。

「A too small natural component results in a too large portion for the contribution of the greenhouse gases like carbon dioxide. That is why IPCC represents the climate sensitivity more than one order of magnitude larger than our sensitivity 0.24°C. Because the anthropogenic portion in the increased CO2 is less than 10 %, we have practically no anthropogenic climate change. The low clouds control mainly the global temperature.」

(IPCCは自然の要素の影響をごくわずかしか考慮しなかったので、二酸化炭素のような温室効果ガスの影響があまりに過大なものになってしまった。だから、IPCCの提示する気候感度は、我々の考える気候感度(0.24℃)よりも、一桁大きいのである。CO2の増加量全体に対する人為的な活動による影響度(増分割合)は10%以下であり、つまり、気候変動への人為的な影響は実質的には存在しない。地球の温度を制御しているのは、低い位置にある雲の量である。)

(過去40年くらいの)雲の量と地球の気温の関係は、当該論文から引用すると以下のようになっています。雲量が増えると地球の気温は下がり、雲量が減少すると気温は上がる。気温グラフに見られるスパイク(一時的な、両者の関係の大きなゆがみ)の発生は、たとえば1991年のフィリピンのピナトゥボ山の大噴火や、エルニーニョの影響です。

No-experimental-evidence-figure-2

では雲の量を何が決めているかというと、この論文では言及はありませんが、宇宙線の量だと考えられています。

たとえば、神戸大学 Research Center for Inland Seasの「Winter monsoons became stronger during geomagnetic reversal」(July 03, 2019)という論文は、「high-energy particles from space known as galactic cosmic rays affect the Earth’s climate by increasing cloud cover, causing an “umbrella effect”」(宇宙からやってくる高エネルギー粒子 (銀河宇宙線) が、雲量を増やし、日傘効果を起こして、地球の気候に影響を及ぼす)と考えています。

気候変動に及ぼす銀河宇宙線と雲(雲量)の影響は、それがどちらの方向でも(温暖化の方向でも寒冷化の方向でも)IPCCの仮説よりもはるかに大きいということのようで、そのことに関しては最初の論文と主旨が一致します。

参考のために宇宙線や日傘効果を描いた絵をその論文から下に引用してみました。

Winter-monsoons-cosmic-rays-and-umbrella

 

ぼくにはとても納得できる内容の論文でした。なお、最近の関連記事は「寒い6月、温度の上がらない7月上旬」。

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2019年7月10日 (水)

寒い6月、温度の上がらない7月上旬

先月23日に「花フェスタ」の会場で、黒の栽培ポット入りのラベンダーをひとつ購入しました。ポット売りだったので家で素焼きの鉢に移し替えると数日後に開花しました。開花すると通常の夏の暑さだと1週間くらいで花が散り始めるのですが、今年はけっこうひんやりしているので花も長持ちして、2週間近く咲き続けています(写真)。珍しい。

人にとっては早朝は半袖だと風が冷たいくらいで、だから早い時刻に通勤に向かう人たちは、しっかりとジャケットや上着を身につけています。

最近話題の異常気象の周辺の小さな波がここまでやってきているのかもしれません。

人間にとっては心地いい天候ですが、露地栽培の野菜にとっては(ということはそういう農家にとっても)困った気温かもしれません。もうそろそろだと思うのですが、まだ好物のセロリが野菜売り場に出てきません。我が家のルッコラやバジル、青紫蘇(大葉)といった夏野菜の生育速度も期待するほど高くない。例年よりもけっこう遅い。

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ぼくは、温暖化ガス(二酸化炭素)の排出を人為的に規制できたら地球の温度変化問題はすべて収まるといった極端な議論には眉唾ですが、そうなのは、ぼくは、人類の産業活動や経済活動が地球の温度変化に与える影響は、自然がもたらす温度変化の数%から最大で十数%程度までだと考えているからです。大した割合ではない。

それほど大した影響を自然に与えられる程度まで人類が「賢い」ものであるのなら、すでに台風や地震を回避・抑制する方法を思いついているはずです。しかし残念ながらそれらに対しては打つ手がありません。

地球の温度変化の処方箋について極端な主張を耳にするときは、バランスを取るために、以下のような、「地球の過去40万年の相対気温推移グラフ」を改めて参照するようにしています。このグラフの説明を「丸山茂徳氏」(地質学者、元東京工業大学教授)の講演記録からお借りすると、次のようになります。

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このグラフが客観的な正しさをもった資料かどうかは、僕自身では検証できません。僕が納得しているだけであり、過去にはIPCC第3次報告の「ホッケースティック・カーブ」という「スーパーコンピュータ」を駆使した地球温暖化の捏造例があり、そのグラフを納得した人たちも多数いらっしゃいました。

『人間が文明を創って、化石燃料をたきCO2を出すようになった時代は、過去300 年前ぐらいからです。このわずかな変化に今ナーバスになっている訳ですが、人間の文明とは無関係に、地球というのはこれぐらい(±4℃)を平気でやっています。』

たしかに、10万年の単位で8℃の上昇と下降を繰り返しています。

『今から100万年前、あるいは200万年前くらいから地球の両極に巨大な氷河が発達し始め、ギュンツ、ミンデル、リス、ヴェルムという4回の大きな氷期があり、最後、1万年前にポコンと温かくなって人間はこの間に文明を創った。そういう歴史です。』

『そこまでのことを簡単に要約すると、地球の気候は変化することこそが本質であると言うことが一つです。その温度幅を考えた時、・・・人類の文明以前に非常に大きな温度変化があった。だから現在我々がナーバスになっている1、2℃の変化は驚くべきものでも何でもない。』

□□□

下のグラフが「ホッケースティック・カーブ」。

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2019年6月18日 (火)

サウジアラビアのスンニー派とイランのシーア派に関して

以前に書いたものの再掲です(ただし一部を変更、一部を追加)。

サウジアラビアとイランの関係がよくありませんが、サウジアラビアとイランの不仲は1000年以上前からです。1000年以上前から多くの血が流され続けました。そして、現在はそこに、例によって、ある非イスラム国家による政治と経済の無茶な介入が絡んで、不仲の状況はさらにややこしいものになっています。

配偶者からサウジアラビア(スンニー派)とイラン(シーア派)の違いについて聞かれたので、以下のように答えました。「ともにイスラム教だけれど、サウジは商売・ビジネスの国、イランは哲学と文学の国」。その回答の後ろにはある参考書の存在があって、その参考書とは井筒俊彦著『イスラーム文化』です。

この記事は、配偶者とぼく自身のための簡単な備忘録として書いています。『イスラーム文化』の読書記憶をもとに自由にまとめているので記憶違いや勝手なはみだしがあるかもしれませんが、個人的な備忘録なのでよしとします。

イスラム教は、アラビア半島のメッカで、商人であるムハンマド(マホメット)を預言者として生まれました。預言者とは神の言葉を預かり民に伝達する者という意味です。その意味では神託を伺い口寄(くちよせ)をする者であるところの巫女(みこ)やシャーマンも預言者です。

ムハンマドによれば、イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教と対立するものではなく、その二つを包み込むという意味で、ユダヤ教とキリスト教のスーパーセットと云うことになっています(逆に云えば、ユダヤ教とキリスト教はイスラム教のサブセットということになる)。だから、イスラム側からすれば、対立などあり得ない。サブセットと位置付けられた方は、その位置づけに憤慨しているかもしれませんが。

イスラム教の聖典はコーランです。コーランは宗教の聖典であると同時に法の聖典でもあるという二重性(二重の性格)を持っています。法教一致、政教一致の聖典です。

宗教も法も、もともとは一体化していたので、同じ重みをもっていましたが、時代の流れとともに、そして人々の思惟の方向の変化や価値観の変化とともに、どちらかに比重が偏ってきます。つまり、コーランに書かれた文字の意味するところを(法の条文を解釈するように)そのままに受け取る人たちと、書かれた文字の向こう側の見えない奥に深い意味を読み取ろうとする人たちが現れます。前者は法の人であり、後者は霊の人です。イスラム教は宗教なので、かりに顕教と密教という用語を使えば、前者は顕教の世界、後者は密教の世界です。

サウジアラビアのイスラム教宗派はスンニー派(一部はシーア派)で、イラン(ペルシャ)のそれはシーア派ですが、両者を先ほどの価値の重みのかけ方という座標軸に沿って配置してみると、スンニー派は「法の宗派・政治的な宗派・現実主義的な宗派・顕教の宗派」、一方、シーア派は「霊の宗派・哲学的な宗派・神秘的な宗派・密教の宗派」ということになります。

イランといえばペルシャであり、ペルシャといえば、ペルシャ絨緞、千夜一夜物語、光と闇のゾロアスター教を思い浮かべます。神秘的で幻想的です。形而上学者・神秘哲学者であるところの井筒俊彦は、1975年(61歳)から1979年(65歳)までイラン王立研究所の教授でした。イランとはそういう国です。一方、サウジアラビアという土地は、形而上学や神秘哲学はあまり似合わない。

ただしそういう区分となじまない個人がいるのは当然のことで、以前、短期間ですがいっしょに仕事をしたことのあるイラン出身のITエンジニアは、アラブ以上にアラブ的な現実主義者でした。もっとも、それは昼間の仕事場だけで、夜は哲学的瞑想にふけっていたのかもしれません。

そういう世界観の対立がメッカ期とメディナ期以来、ずっと続いています。世界観の違う二つがぶつかった時には、現実主義的な政治権力に価値を置く宗派が、そうでない宗派を、たいていは政治的に圧迫します。そういう場面では、聖職者の犠牲も多い。現在の対立の底にも、そういう歴史的な思惟の違いと価値の体系の違いが潜んでいます。

世界のイスラム人口のうち圧倒的に多いのはスンニー派です。シーア派は少ない(統計資料によれば、イスラム人口の10%から13%)。北海道でも、イスラム教徒向けの食材の調達や礼拝設備を充実してインドネシアからの観光客誘致に努めていますが、インドネシアのイスラムはスンニー派です。

 

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2019年6月14日 (金)

北海道の日帰りバスツアー

ある旅行会社から観光旅行のパンフレットが送られてきました。以前、その会社の「日帰りバスツアー」に配偶者といっしょに参加したことがあるからです。

日帰りバスツアーのページを開けるといちばん目立つあたりに「夏の積丹(しゃこたん)へ」とあり、そのなかに、ぼくたちもお世話になったコースが全く同じ構成で掲載されていました。こういう構成は変えようがない。「積丹で食す!豪快!ごはんが見えないウニ丼。」

お酒の好きなひとは、団体ツアーであっても一杯やりながらゆっくり「ウニ丼」を賞味するのがいい。軽く酔ったあとで、積丹海岸の積丹ブルーを満喫できます。途中で北海道の地酒のひとつであるところの余市のウイスキーも味わえるので、こういうのはバスツアーに限ります。

配偶者は、以前はウニにはまったく興味がありませんでした。美味しくなかったからだそうです。理由はウニの保存(型崩れ防止)のために添加してあるミョウバンです。北海道で「塩水ウニ」を口にしてその評価が劇的に変わりました。殻から取り出したウニを海水と同じ濃度の塩水につけてあるのを「塩水ウニ」と云います。不味いわけがない。

ページを繰っていると、北海道(あるいは札幌)らしいユニークな日帰りツアーもありました。「日本の空を護り続ける戦闘機航空団最北の基地 千歳基地航空祭」。最近の事故ニュースや映画で話題のF-35ステルス戦闘機は無理だと思いますが、現地に行けば、政府専用機や編隊飛行をするブルーインパルス、離着陸し基地上空や周辺を低空飛行するF-15の爆音と空気振動を味わえると思います。

最新鋭戦闘機は最新鋭の武器なので、つまり最新ハードウェアと最新ソフトウェアのある種の極致の組み合わせなので、それだけで拒否反応を起こすかたもいらっしゃるかもしれませんが、洗練されたロボットメカニズムやエンジニアリングに憧れる男の子や女の子、AIに憧れる少年や少女にはけっこう刺激的なイベントかもしれません。それに映画の「空母いぶき」効果で、今年は女性の参加者が増えるかもしれない。

まだ当時と似たような素朴なモデルが市販されているみたいですが、子どもの頃に木と竹・竹ひごと紙とアルミニウム管のゴム動力模型飛行機を組み立てて遊び(竹のプロペラの機体がまっすぐ飛んでいってどこかで行方不明にならないように左に大きく回転する風に作り、けっこう長く飛行しました)、それから、第二次世界大戦のイギリスやドイツや日本や米国などのレシプロ戦闘機の形と性能をほとんどすべて記憶していた身としてはけっこう戦闘機に対する思い入れがあります。

「千歳基地航空祭」のすぐ隣に「ススキノ・ホストクラブでお姫様体験」という案内があり、「戦闘機」と「ススキノ」は面白い組み合わせですが、「ススキノ」のほうが「千歳」よりも倍くらい値段が高い。それでも1万円未満に抑えてあります。博多でも東京でも同じことは簡単にできるので、札幌独特のツアーというのではないと思いますが、去年もパンフレットで見た記憶のあるツアーなので、最近はそういうニッチ市場が常に存在するということなのでしょう。今年から始まったツアーは「新コース」と書いてあり「お姫様体験」にはその注釈がないので、やはり定番コースのひとつのようです。

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2019年6月10日 (月)

札幌の6月の踊り

6月は北半球では夏至の月です。北欧など年間を通して太陽の光の量が少なく昼間の長さが短い地域では、太陽がいっぱいということ自体が至福なので、夏至を祝う祭りが存在します。南欧や瀬戸内など、冬でも太陽がいっぱいの地域ではそういうお祝いはおそらく発生しない。似合いません。

「よさこいソーラン祭り」という不思議な踊りを大きなグループ単位で踊るお祭りがあります(比較的大きなグループ単位で踊るのは「阿波踊り」と同じ)。今年は28回目で、開催期間は6月5日(水)~9日(日)でした。

最初に始めた人たちがどう考えていたかはわかりませんし、その後、それを運営しそれに参加している人たちがどう感じているかわかりませんが、ぼくの勝手な位置づけでは「よさこいソーラン祭り」は札幌で30年近く前に発生した夏至のお祭りです。

個人的には奇妙な(と感じられる)種類の、好きになれない、見ていて飽きてしまう種類の踊りのお祭りですが(最近はバカ騒ぎはなくなった)、秋をわずかに感じさせる8月には似合わない。太陽神を愛でるところの夏至をこれから迎えるにふさわしい踊りです。

踊りや音楽の素材が、高知県生まれの「よさこい」と北海道のニシン漁の漁港生まれの「ソーラン節」のコラボなので、「よさこいソーラン」と命名されていますが、外国人観光客にはこの踊りのお祭りを「midsummer feast」や「summer solstice celebration」と説明するほうがわかりやすいかもしれません。しかし、夏至というものの存在価値が少ない中国南部や東南アジアからのお客は、そういう説明を聞いても、「あ、そう」で済ましてしまいそうです。

8月は札幌でも盆踊りです。盆踊りは月(ムーン)と適合的です。

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2019年6月 3日 (月)

「前項の航空機については、航空法第六章の規定は、適用しない。」

次のような報道がありました。

「5月30日夕方、長野県佐久地方で、低空飛行する航空機2機の目撃情報が相次いだ。極めて低い高さを飛行し、自衛隊機ではないこともわかっていて、住民からは、不安の声が上がっている。

30日午後5時半頃の佐久市役所に設置された情報カメラの映像。画面を右から左に横切るように、住宅地の上を2機の航空機が飛行している。高度は200メートルほどだっとみられる。

長野地方協力本部によると、映像を解析した結果、機体は「C-130」と呼ばれる輸送機で、プロペラの形状から、米軍機とみられるという。」

飛行機に、それも米軍軍用機に日本の市街地上空を(米国国内では厳格に禁止されている高度で)低空飛行されるとその傍若無人ぶりと危険性に腹が立ちますが、これが日本において法的に問題かどうか、「事実の確認」風に確認してみると、次のようになります。

これは航空法に関する問題なので、「航空法」「第六章 航空機の運航」「第八十一条 最低安全高度」を見ると

(最低安全高度)

『第八十一条 航空機は、離陸又は着陸を行う場合を除いて、地上又は水上の人又は物件の安全及び航空機の安全を考慮して国土交通省令で定める高度以下の高度で飛行してはならない。但し、国土交通大臣の許可を受けた場合は、この限りでない。』

では、「国土交通省令」で定める「航空法施行規則」はどういう内容かを見ると、

(最低安全高度)

『第百七十四条 法第八十一条の規定による航空機の最低安全高度は、次のとおりとする。

一 有視界飛行方式により飛行する航空機にあつては、飛行中動力装置のみが停止した場合に地上又は水上の人又は物件に危険を及ぼすことなく着陸できる高度及び次の高度のうちいずれか高いもの

イ 人又は家屋の密集している地域の上空にあつては、当該航空機を中心として水平距離六百メートルの範囲内の最も高い障害物の上端から三百メートルの高度

ロ 人又は家屋のない地域及び広い水面の上空にあつては、地上又は水上の人又は物件から百五十メートル以上の距離を保つて飛行することのできる高度

ハ イ及びロに規定する地域以外の地域の上空にあつては、地表面又は水面から百五十メートル以上の高度』

従って、「人又は家屋の密集している地域の上空にあつては」「高度は200メートルほど」での飛行は明らかに航空法違反です。

ところで、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定及び日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律」(1952年7月15日施行)という特例法があり、その内容は、

『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定及び日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律

3項

前項の航空機(【註】米軍機と国連軍機のこと)およびその航空機に乗り組んでその運航に従事する者については、航空法第六章の規定は、政令で定めるものを除き、適用しない。』

つまり、米軍機のC-130は佐久市の上空を好きな高さで飛ぶことができるというわけです。沖縄上空を各種の米軍軍用機(戦闘機や輸送機やオスプレイや軍用ヘリなど)が航空法の制約なしに自由に飛行しているのと同じことです。「前項の航空機については、航空法第六章の規定は、適用しない。」国内法の存在価値がないので、治外法権状態とも言えます。

なお「日本本土における米軍機の低空飛行訓練ルートとエリア」は以下の通りです(この資料は、衆議院議員 塩川鉄也氏のウェブサイトから引用)。

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関連記事は「日本国憲法九条と日米安保条約がいっしょになった場合のわかりやすさとわかりにくさと、『空母いぶき』という映画」。

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2019年5月30日 (木)

日本国憲法九条と日米安保条約がいっしょになった場合のわかりやすさとわかりにくさと、「空母いぶき」という映画

かわぐちかいじ作の劇画「空母いぶき」を映画化した作品を観てきました。「空母いぶき」とは、日本国憲法九条を今後どう運用していくかに関する近未来の事例研究的なシミュレーション映画です。女性の観客が意外に多かったので少し驚きました。ぼくは映画の評価は払った金額に見合う価値があったかどうかで決めますが、支払金額に見合う価値は十分にありました。ここでは原作ではなく映画作品を対象に話を進めます。

映画なので、原作にはない娯楽性(女性に人気の男性俳優の配置や艦内からのネット配信描写やその他の日常生活関連描写)があり、それで僕が勝手に予想していた以上に観客の広がりが(少なくともぼくのいた映画館では)あったのでしょう。

いつかはわからない近未来が舞台なのですが、その時の日米安保や日米地位協定がどうなっているのかも、よくわかりません。現在よりもその役割が後退しているようにも思われますが、詳細は不明です。一方、国連の役割(安保理や国連軍)が現在よりも(もともとの意図通りに)強化されているように描かれていますが、これも詳細は不明です。そういうなかで、そして憲法九条の下で戦争には至らない自衛のための戦闘(自然権としての防衛権)がどういう形で可能かを描いた12月下旬のある24時間の物語です。

最新鋭の武器を使った現在の海戦がどういう風なのかを、現在のハイテク戦闘がどう瞬間的に決着がつくのかを最新のコンピューターグラフィクス映像で知るというのもぼくの関心事のひとつでした。

日本国憲法のユニークさは、象徴天皇制(第一条)と(侵略目的の)戦争放棄・軍備放棄(第九条)の存在にあります。これらは他にもわかりやすいユニークさです。しかし、日本国憲法は、同時に、他にはわかりにくいユニークさというものも包含してします。

この前の太平洋戦争で大日本帝国軍隊に対して嫌な体験記憶を持った連合国側の国々は、敗戦後の日本における国家神道的な天皇制の復活と再軍備を非常に恐れていました。彼らは天皇の戦争責任の追及を強く主張していたし、戦後の日本には軍事力を持たせないと論じていました。

彼らは、再軍備につながる可能性のある天皇制の存続には反対でした(なぜなら天皇には軍隊の最高指揮権であるところの統帥権を有していた)。しかし、敗戦処理をスムーズに混乱なく進めるためには、つまり、日本占領政策の遂行にともなう戦勝国側の犠牲者を発生させないようにするためには、何らかの形での天皇制の存続が必要だったので(とくに米国が必要と判断したので)、米国の主張によって、天皇制は存続することになりました。天皇制を廃絶すると旧軍人をコアとする暴動がおこるかもしれない。それを米国は恐れました。これが日本国憲法における象徴天皇制誕生の背景の景色です。

しかし九条ができたからといって日本における防衛体制を空白のままにはしておくということはできません。当時の世界情勢・アジア情勢は、日本を丸腰のままにしておくほど安穏ではありませんでした。だから戦勝国軍の軍隊(国連軍を想定)が防衛力として日本に駐留することになったのですが、実際には、朝鮮戦争を契機として、駐留部隊は国連軍ではなく米軍だけになり、米軍駐留と米軍による政治支配の中身は、日米安保条約&日米地位協定によってきわめて治外法権的な内容のものとなります。

日本国憲法「第九条」は、「戦勝国・占領軍と日本との安全保障システム(その後の日米安全保障条約および日米地位協定)」との抱き合わせをひそかな前提として(ごく一部の当事者以外にはその背景と関連が隠されていたという意味でひそかな前提として)成立しました。つまり、発足当初から「侵略戦争は日本としては放棄したけれど、第三者の遂行する侵略戦争の片棒を担ぐことができるという意味」での「矛盾」がビルトインされていましたが、当初はその矛盾がよく見えませんでした。しかし時間の経過とともに矛盾が明らかになってきました。

「日米安保条約と日米地位協定の組み合わせ」とは片棒担ぎの仕組みの取り決めです。きわめて治外法権的な内容のもので、これらに係る合意事項や決定がすべて公開されているわけではありません。これが他にはわかりにくい九条がらみのユニークさです。

言葉を換えれば、現在、沖縄や横田や横須賀や厚木などに駐留している米軍は、いわば侵略戦争の得意な「傭兵」です。ただし、この傭兵は日本という雇い主よりも権力がある。雇い主を実質的に支配しています。先日は、「専守防衛の自衛隊」が政府の解釈改憲によって「集団的自衛権」の行使に組み込まれました。

眼を「九条」だけに向けて、つまり「平和憲法」だけに向けて、そのビルトインされた矛盾を見ないようにしている人たちが多いことも事実です。この発想だと、たとえば場面を国内に限定した場合、警察の存在は不要になります。

警察は間違いなく国家権力の手足ですが、その手足は、泥棒や強盗や殺人事件やひどい交通事故が発生した場合には、市民の安全の確保に動きます。そういう事件は、ヒトの多層的な脳の構造に起因するせいか一定の頻度で必ず発生するので、警察のような機能の存在を不要だと考える人は決して多くはない。しかし、皆無というわけではありません。

自分の身は銃を使ってでも自分の手で守るのが基本、だから国家は警察も含め余分なことはしないほうがいい考えるひとたちの主張にも説得力があります。そういう人たちは米国に多い。だから、「government of the people, by the people, for the people」(人民の、人民による、人民のための政治、国民ではなく人民・人びと、政府ではなく政治)をそういう文脈で解釈し直すと、米国におけるdemocracyと銃の関連の背景が根深い状況も見えてきます。

警察というものを、特定の暴力から、(警察の持つ)暴力を使って市民を保護する機能だと考えると、警察も暴力装置になります。暴力装置という意味では軍隊と同じです。

現在の国際政治においては、その警察にあたるのが「国連軍」ということになっていますが、実際には(映画の「空母いぶき」とは違って)重要な局面では機能しないので、「自分の身は銃を使っても自分の手で守る」ために暴力装置であるところの軍隊(ないしはそれに相当する機能組織)を、装置の優劣と大小の差はおおいにありますが、国境線を持つ各国がそれなりに所有しています。

日本における先ほどの「矛盾」するもの、つまり、「平和を希求する、他国を攻める戦争はしないしそのための軍隊も持たない」、しかし、同時に「他国を攻撃する第三国の軍隊はその国の意のままに自由に駐留させるしそのための支援もする、要請があれば、実質的にはその第三国といっしょに自衛力を使って他国に侵攻する」という矛盾する意思を巧妙に組み合わせたものを、今後、平和やデモクラシーという観点からどのように納得できる形に解きほぐすか、それが現在と今後の課題です。

そういう課題を解決しようと思ったら、九条2項や日米安保条約・地位協定との関連事項を見直すというのは、集団的自衛権の行使が好きな好戦的なタイプの人たちの発想(「押しつけ憲法なので見直したい」という発想)とはまったく違った意味で、まっとうな憲法再検討の理由付けになるかもしれません。

「傭兵」との実質的な関係や「国連」の実質的な能力が不透明な近未来の環境で、自衛隊という既存の暴力装置を使った「戦争に至らない、防衛のための戦闘」というものの事例研究・事例シミュレーションのひとつが「空母いぶき」という映画のようです。

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2019年5月 2日 (木)

憲法週間の意味?

たまたま札幌高等検察庁の入っている建物の前を通りかかったら、以下のような看板風のものが立っていました。少し違和感がありました。なぜ検察庁が札幌市民などをターゲットにした憲法プロモーションの主体者なのか、そういうことにともなう違和感です。(写真は、札幌高等検察庁のウェブサイトからお借りしました。)

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「札幌高等検察庁」のウェブサイトを拝見すると以下のように説明されています。

『憲法週間
 5月1日から5月7日までは憲法週間です。

~憲法週間とは~
 5月3日は憲法が施行された憲法記念日で,この日を中心として毎年5月1日から5月7日までを憲法週間としています。憲法の意義である国民主権,平和主義と基本的人権の尊重を再確認する絶好の機会です。』

念のために「法務省」のホームページに飛ぶと

『憲法週間を迎えて
 憲法記念日 5月3日
 憲法週間  5月1日~5月7日

・憲法週間とは
 毎年5月3日の憲法記念日を含む5月1日から7日までの1週間を「憲法週間」とし,法務省の機関では,裁判所や弁護士とも協力の上,憲法の精神や司法の機能を国民に理解してもらうための取り組みを行っています。

・憲法週間の意義
 憲法週間は,国民主権,平和主義と基本的人権の尊重を定めた日本国憲法の意義を再確認する絶好の機会です。』

司法とは直接のかかわりあいを持たない人が書いたであろうと思われる他のソース(Wikipedia)を当ってみると、

『憲法週間(けんぽうしゅうかん)とは、日本において、憲法の精神や司法の機能に対する理解を啓発をするための週間。・・・1953年からは法務省、検察庁、弁護士会の協力で実施され、昭和31年から現在の「憲法週間」に改称している。・・・この期間には官民問わず、各種団体が憲法に関する講演会等を開催している。』

違和感は消えません。なぜなら、『憲法の意義である国民主権,平和主義と基本的人権の尊重を再確認する絶好の機会です』というところはいいとしても、『憲法の精神や司法の機能を国民に理解してもらうための取り組みを行っています』というところは、「われわれ司法が(不勉強な)国民に憲法について丁寧に教えてあげるので、国民はこの憲法をきちんと守ること」と読めなくもないからです。少なくともそういう気分が行間に濃く漂っているようにぼくには思われます。

以下は「日本国憲法九十九条」です。

『第十章 最高法規』『第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。』

九十九条には特定の強い機能と役割を担った人たちが列挙されています。条文作成者がよく考えてそういう人たちを列挙したのでしょう。過去(近い過去から遠い過去まで)を振り返ると、列挙された人たちとは、国家権力を握りその逸脱的な権力の行使に強くかかわりのあった人たちのことです。換言すれば、日本国憲法をいちばん「守らない」可能性のある人たちのことです。だから、わざわざ彼らは『この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』となっている。

つまり、体験上、憲法を守らない可能性の強い機能集団が、国民を憲法に従わせるための啓蒙活動を集中的に国民に対して行っているように見受けられるのが「憲法週間」です。啓蒙活動の対象者が、憲法立案者のもともとの意思とは、ずれている。それが違和感の理由です。

関連記事は『「令和」は「和せ令(し)む」?』。

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2019年4月25日 (木)

高血圧に関する、愉快な業界・愉快なコメント・愉快なデータ

高血圧 75歳未満は「最高130」目標に 降圧剤処方が増える可能性〉というタイトルの記事が眼に入りました。記事の一部と説明図を引用します。

「日本高血圧学会は19日、医療者向け「高血圧治療ガイドライン(指針)」の2019年版を発表した。75歳未満の成人の降圧目標について最高血圧(収縮期血圧)を「130ミリHg(水銀)未満」とし、前回の指針から10ミリHg引き下げた。血圧はより低い方が総死亡や脳卒中、心筋梗塞(こうそく)の発症率などが低く抑えられるという米国などの臨床試験の結果を反映した。治療をする1000万人以上もの高血圧患者への降圧剤処方が増える可能性がある。」

13080-2019

世の中にはスマートなかたがいらっしゃるみたいで、この日本高血圧学会の発表に対して愉快なコメントとデータがネット上で提供されていました。原文のママ、引用します。

『医者、薬屋は嘘は言わないが全部も言わない
血圧下げると脳梗塞は減ると言うが認知症、骨粗鬆のリスクは言わない
塩分控えろと言うが、糖分控えろとは言わない
脳梗塞、ガンで死んでる人は大体75歳以上だから自然死と同じですよ、とは言わない』

『降圧剤市場の遷移
160のとき 3000億
140のとき 6000億
130の今 1兆2000億
分かりやすいよねー』

『降圧剤市場の遷移』というのをもっとわかりやすく(あるいは冗長に)書き直すと次のようになります。

降圧剤市場の推移
・最高血圧が「160未満」というガイドラインのときの市場規模は3000億
・最高血圧が「140未満」というガイドラインのときの市場規模は6000億
そして
・最高血圧が「130未満」というガイドラインになった今、今後の市場規模は1兆2000億

記事にも「治療をする1000万人以上もの高血圧患者への降圧剤処方が増える可能性がある」とあったので、降圧剤市場の市場規模について別のソースを当ってみました。

【降圧薬】市場は5500億円』という記事があり、その内容は

『処方量と単価が分かっているので、各降圧剤の年間売上高を簡単に計算することができます。全部足し合わせれば、降圧剤の市場規模も分かります。結果は<表>のようになりました。
 NDBオープンデータには処方量の上位100品目までが掲載されています。それらの合計金額は、なんと5492億円。・・・101位以下がどのくらいになるかは分かりませんが、市場規模は大ざっぱに5500億円と言っていいでしょう。』

その<表>とは以下のようなものです。引用します。

2015

「140のとき 6000億」と「この表の金額」は同じものを指しているので「最高血圧ガイドラインが140のときは、降圧剤の市場規模は5500億円、ざっくりと6000億円」ということになります。だから「130の今 1兆2000億」という数字にとくに反対する理由はありません。

140から130になったときの、市場拡大効果(売り上げ金額の増加)が例えば5000億円だとして、その1%の50億円がロビーイング経費としてすでに関係各所に流れ出ていても不思議ではありません。ROIは良好。けっこう愉快な業界です。

関連記事は「血圧が「130/85」から「148/95」へ」、それから「現在の血圧基準値は?」。

特定の専門分野の尖った意見だけでなくいろいろな状況を勘案した場合、「正常」な収縮期血圧(最高血圧)は「年齢+90」以下という古い簡易指標がいちばんすっきりとしているようです。

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2019年4月24日 (水)

仏教の二重性、あるいは、生まれながらに「仏教徒」

ものごとにはたいていは二重性があります。仏教にも二重性があります。それをどういう位置から見るか、それをどういう立場で捉えるかによって、その二重性の意味と役割が変化します。

ここでいう仏教の二重性とは聖と俗の二重性のことで、俗とはここでは政治性のことです。だから、仏教の持つその二重性は「空と鎮護国家」や「空と治国平天下」という言い方をするとわかりやすい。(【註】「空と治国平天下」という表現は「西村玲」氏の著作から拝借しました。)

「空」とは「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」(般若心経)における「空」のことで、さまざまなものごと(物理的存在および観念や概念など)には固定的な実体がないという仏教の基本的な洞察(世界認識)です。この洞察(世界認識)は、坐ること(瞑想体験)によってもたらされましたが、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という言葉でなぞられた空の体験が解脱と呼ばれています。

「鎮護国家」とは、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想です。また「治国平天下」とは「修身斉家治国平天下」(大学)ということで、その意味は、天下を平らかに治めるには、まず自分のおこないを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国を治めて、次に天下を平らかにするとする儒教の基本的政治観です。

仏教は、それに複数の人間がかかわりあう存在となった時点で、聖的なものと世俗的なもの(政治的なもの)が同時に存在するという意味での二重性をもたざるを得ません。だから、僧侶のような仏教者も「空」を指向する存在であると同時に「鎮護国家」「治国平天下」を支援する存在であるという意味と役割の二重性を持つことになります。ただしその二重性は時代によってその濃淡が変化します。

この二重性を自覚せずに、あるいはそういう二重性を意識して捨て去って「空」探求ひとつに打ち込む一群の僧は常に存在しますが、たいていの仏教者は政治的機能、社会的機能としての仏教とかかわりを持って生きるので、この二重性からは逃れられません。

二重性は時代によってその濃淡が変化します。そのとてもわかりやすい例が江戸時代の寺檀制度(じだんせいど)です。寺請(てらうけ)制度ともいいます。これは、現在では形式的になっているとはいえ、菩提寺(ぼだいじ)や檀那寺(だんなでら)や檀家という考え方や仕組みによって(まもなく令和となるところの)今でもぼくたちに受け継がれています。

寺壇制度とは江戸幕府が寺檀関係、つまり檀那寺(だんなでら)と檀家(だんか)の関係を利用して制定した戸籍管理の制度です。初めはキリスト教禁圧を目的としてつくられましたが(つまり、寺僧がその檀家がキリシタンでないことを証明するという意味での「寺請」の制度)、檀那寺が国家の行政支配網の末端として機能し始めてからは政治権力(「治国平天下」)の一部となりました。

檀那寺は檀家の祖先供養のための菩提寺(ぼだいじ)であり、菩提寺の僧侶(住職)は、葬式と法事だけでなく、出生,結婚,旅行,転住,奉公といった日常生活の節目相談までを寺請(てらうけ)証文の発行を通して引き受けたので、檀那寺には檀家(住民)に関するほとんどすべての情報が流入しました。寺はアナログ情報を使った当時のマイナンバー制度の地域ノードです。この制度により、すでに平安仏教や鎌倉仏教の信徒であった人たち以外のほとんどすべての日本人も、生まれながらに(檀那寺の宗派の)「仏教徒」になりました。

しかしそういう行政支配網の末端の「寺請」寺僧にとっても、朝夕の勤行はものごとの二重性のもうひとつの側面であるところの「空性」をあらためて自覚する時間帯でした。

この二重性をもっと濃密に保持し、この二重性を個人の内部で自覚的に激しく操作した人物も存在します。たとえば、平安初期の空海です。彼と真言密教における二重性とは「空と鎮護国家」の二重性です。「空の象徴である高野の山奥」に引きこもった時の瑜伽(瞑想)と、「国家権力と権威の代表である京都の嵯峨天皇」との親密な交友。高野の金剛峯寺と京都の教王護国寺(東寺)。書と言葉が媒介する、聖なるものと政治的なものの空間的・時間的クロスオーバー。

さきほど、江戸時代(徳川幕藩体制)になって、ほとんどすべての日本人が、生まれながらに(檀那寺の宗派の)「仏教徒」になったと書きましたが、寺壇制度の導入から400年後の現在の状況はどのようなのか。

寺は国家の行政支配網の末端としてはもはや機能していませんが、集合体としての一部の寺は、政治的な指向性を持った私的組織体としては、機能しているようです。菩提寺(ぼだいじ)や檀那寺(だんなでら)や檀家という考え方は、形式的ではあっても、今も葬儀や法事を介して持続しています。二重性のもう一つの側面である「空」に関しては、「無常観」「無常感」の浸透という意味では、状況は400年前とそれほど変わっていないと思われます。法事では般若心経を声に出すし、桜の花は毎年落ちる。

以下は「平成30年版『宗教年鑑』(文化庁)」の数字です。平成29年12月31日現在の奈良仏教と平安仏教と鎌倉仏教の信者を主な宗派別にまとめたものです。そういう仏教信者の数は4800万人。宗教年鑑のデータは、寺院(および神社や教会など)を対象にした調査で、信者数というのも寺院(神社や教会など)に提供してもらった数字なので、寺の場合は檀家数だと考えると、奈良仏教系と平安仏教系と鎌倉仏教系のそれぞれが占める割合も含めて、そういうものかと理解できます。ちなみに、2015年(平成27年)の国勢調査では、日本の人口は1億2710万人、世帯数は5333万世帯です。

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