情報処理

2018年5月23日 (水)

折り畳み式のスマートフォン用キーボード

どちらかというと、ノート型パソコンとポータブルルーターを持ち歩くのが習いだったのですが、重さが我慢できなくなってしばらく前からスマートフォンということになりました。
 
しかし、一行メールは別として、スマートフォン(だけ)で文章を書く作業ほどイライラすることもないので、外出先では何かを文字でまとめたいときはスリムB5サイズの無地のノートに手書き、というのがストレスのない選択肢でした(余計なことですが、ノートは無地、線引きは好みではない)。スマートフォンくらい軽くて、A4くらいの大きさで下敷きみたいに薄いPCがあればそれをカバンに入れて持ち歩くと便利ですが、残念ながらそういう市販の軽量機種はありません。
 
で、結局の落ち着き所は、スマホに移植された文書作成ソフトウェアと小型軽量キーボードという、すでに少なからぬ利用者がいるに違いない組み合わせです。
 
「折りたたみ式Bluetoothワイヤレスキーボード、超軽量薄型レザーカバー、IOS/ Android/ Windows に対応」という製品が頃合いの値段で販売されていたので、それをユーザー評価も丁寧に確認の上で購入しました。ぼくのスマホは225g、その折り畳みキーボードは160g、これなら合わせて400g以下です。
 
Photo
                           (充電中に開いたところ)
 
以前、まだケータイが全盛だった時代に「俺はケータイより重いIT機器はは持ち歩かない」というIT関係の知り合いもいましたが,、時代が彼の流儀に追いついてきたようです。出先でも込み入った仕事にはある程度大きな画面のPCがないと不便ですが、文章用にはスマホと折り畳みキーボードがあればこと足ります。
 
作った文書の書式も作成後にいつも使っているものに変換してメールできるので、ぼくのようなタイプの利用者にはそれなりに落ち着きのあるソリューションです。
 
 

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2018年5月 2日 (水)

流通チャネルのハードウエアとソフトウェア

定点観測と勝手に呼んでいるのですが、週末などにときどき配偶者と連れだって、そして長距離散歩も兼ねて、ナショナルブランドの大規模スーパーと、地場の食品スーパーチェーンのなかの中規模店と小規模店を訪れます。ひょっとしたら何か気に入った野菜なんかを少量買うかもしれないので、折り畳みバッグも持参します。
 
スーパーマーケットの機能を大胆にハードウェアとソフトウェアに二分してみます。ハードウェアとはここでは建物やそのなかのショッピング空間を指し、ソフトウェアとはここでは商品の品揃えを指します。だから、売り場(たとえば、生鮮食品売り場と加工食品売り場)を歩いてみて欲しいものが見当たらない場合、その店のソフトウェアの出来が悪いということになります。
 
経済性というものにはいくつかの種類がありますが、代表的なのは「規模の経済性」と「範囲の経済性」です。流通における規模の経済性とは、文字通り、大量仕入れ、大量流通によって低価格販売を実現することです。一方、範囲の経済性とは、専門性の集積、ソフトウェア的なノウハウの集積によって発揮される経済性のことです。つまり、商品の品揃えが顧客にとって魅力的である場合、その理由は、その流通チェーン店の範囲の経済性が優れているからです。
 
大量流通は標準タイプの商品を前提とします。大量流通という形態になじまない商品(たとえば、一定量を供給できない商品、標準的な流通作業工程に向かない形態の商品など)はそこからはじき出されてしまいます。
 
我が家は、生鮮食材と基礎調味料(味噌・醤油・塩・味醂・酢・昆布・鰹節など)が好きな、つまり自分たちで好みの出汁を引き、食材に好みの味付けをしていくというのが好きな家庭です。現在は簡易味付け用加工食品が人気なので、そういうトレンドから見ると我が家は少数派に属する消費者です。そういう消費者にとって、ナショナルブランドの大規模店は魅力に乏しい。同じような思いの他の消費者も少なくないに違いない。
 
だから、というわけではないにしても、地場の人気のお菓子屋や食べ物屋のテナント数がある時点から急に増えたのは、全般的な集客につながる魅力度を補完するためだったのかもしれません。
 
大規模店では大きなカートを引いた家族連れが目立ちますが、高齢者の姿が多いのは、小規模店です。大規模店舗は広すぎる。目的の商品にたどり着くだけで疲れてしまう。それからたいていはそのあとレジ行列が待っています。街中の小規模店は、建物(ハードウェア)は古いけれどもそのあたりの利便性が高いし、レジ担当者とも顔見知りになる確率が高い。「範囲の経済性」というソフトウェア的な専門性が小規模店ならではの品揃えにつながっている雰囲気も感じられます。
 
大規模インターネット通販の貢献のひとつは、実店舗ベースの大規模スーパーならビジネス対象外になるところの「ロングテール商品」からも利益を生み出したことですが、そのうちそういう企業が運営する小規模実店舗でも、蓄積した「範囲の経済性」が形を変えて品揃えに発揮されるかもしれません。結局はソフトウェアが鍵のようです。

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2018年4月 5日 (木)

オンライン・アルバム代わりとしてのSNSツール

ぼくが書いている「高いお米、安いご飯」というタイトルのブログは、あるITベンダーの提供する古いタイプのプログサービスを使っています。しかし、古いタイプのブログサービスといってもSNSツールであることには違いないので、つまりは、ソーシャルネットワークなるものに参加していることになります。
 
しかし、ぼくはそういうタイプのコミュニティというものにはほとんどまったく関心がありません。だから、コミュニティというものに妙に強いこだわりを持ったSNSベンダーのツールは使う気にはなりません。今のサービスプロバイダーはそうではないので助かっています。
 
「高いお米、安いご飯」がお世話になっているブログサービスは作りがやや古いので、言葉の表現や言葉を軸にした記事作成には便利ですが、写真などの画像情報の投稿にはそれほど向いていません(できるけれども、やや面倒)。つまり、言葉を主に、画像(記録目的の写真や表や絵など)をその補足とした記事を書く場合には相性がいい。
 
「高いお米、安いご飯」の目的は、季節の出来事やイベント(たとえば、その年はタクアン用の大根を何本いつ干し始めいつ漬け込んだか、その年の出来具合はどうだったか)を記録したり、時節の政治経済社会やマーケティング、農業や食材・食品などに関するエッセイを書くことなので、そのサービスの機能セットと使い勝手で十分です。
 
自分で撮影した写真の中から気に入ったのを選んで「なんとなく私的な」オンライン・アルバム風のものを作りたい、そのためにパソコンとスマートフォンとSNSツールを利用したいと思っていました。
 
「なんとなく私的な」というのは、読者に自分自身以外のひとを想定していないので「私的」です。しかしSNSツールを使うということは内容がインターネットを通して他者に公開されるということなので、その写真を眼にする人がぼく以外に実際にいるかどうかは別にしてそういう意味では私的ではありません。だから「なんとなく私的な」オンライン・アルバムです。そうしておけばいつでもどこでも自分の撮影を楽しめる。ちょうど、自分のブログ記事を客観的に読み直したり評価することができるように(その中には手抜きの埋草記事にうんざりという場合もありますが)、いわば第三者の作品群として楽しめる。
 
スマートフォンで撮影した画像情報(写真)の投稿や共有に便利だと評判のSNSサービスがとても人気なので、それがどういうものなのか、ぼくも一応はそれを試してみましたが、パソコン環境との相性が良くないし、そこまでしてもう一人のミーちゃんハーちゃんになる必要もないので利用をやめてしまいました。
 
しかし、ぼく向きのツールというのは世の中にはあるもので、2カ月前からそれを利用して、アルバムの基本テーマに対する思いと、実際の撮影時期や撮影順序にはこだわらない気持ちとがそれなりに入り混じったような種類のアルバムをそろそろと作り始めました。

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2018年3月29日 (木)

IT関連の親切なかたに感謝

ここではITといっても大げさなものではなく、英語だとtipsという言葉が相当するようなもののことです(tipsは、たとえば「tips for cooking 料理の秘訣・コツ」という風に使われます)。
 
そういうtipsを惜しげもなく公開してくれる親切なかたがIT分野にはおおぜいいて(正確には、IT分野には限りませんが)、いろいろと助かっています。
 
たとえば、iPhoneに自分の好きな音楽(の一部)を着メロとして設定する方法や、古い型式のiPhoneから新しい型式に移行する時に、古いiPhoneのアプリや各種のデータを、ベンダーのクラウドサービスを使わずにこれを実行する方法などです。
 
これは、ぼく自身だけでなく、そういう場合に僕の支援を受けることをデフォと考えている知り合いを助ける場合に役に立ちます。そういう、複数の親切なtips提供者にこの場を借りてお礼申し上げます。
 
おかげで、ぼくのiPhoneは電話がかかってくると、お気に入りの50年代のジャズピアノトリオの静かな演奏が流れ始めます。
 
最近は何でもクラウドサービスみたいです。確かに便利ではあるのですが、あんまりすべてをゆだねるのはぼくの趣味ではないので、外に出すものとそうでないものは切り分けています。切り分けがややこしい場合には、クラウドサービスは利用しない。OFFにする。
 
このブログなども自分でサーバを管理運営しているのではないので第三者のクラウドサービスのお世話になっているわけですが、そういう場合は、自覚的にそうしているわけです。知らぬ間にその第三者に自分の個別情報が利用されていたという事態を確実に避けることは難しいのですが、まあ、できる範囲で。

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2018年3月27日 (火)

「シンギュラリティは近い」の口直しには「ハーモニー」と「ホモ・デウス」:補遺

『シンギュラリティは近い』の口直しには『ハーモニー』と『ホモ・デウス』」、という先日の記事に関する補足です。補足内容は、「ハーモニー」と「ホモ・デウス」のそれぞれの著者がそれぞれにその本を書いたときの視点・視座に関することです。
 
ユダヤ教・キリスト教においては、万物が「全能なる神」により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない(そういう意味ではイスラム教も同じです)、世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行(進歩)していると考えられています。そういう「直線的な世界観」が特徴です。
 
つまり、世界には初めと終わりがあり、時間は直線的に進み、その直線的な思考を彩るのは進歩概念と黙示録的な終末思想です。この考え方を、それが出てきた風土を考慮して「砂漠の思想」と呼ぶ場合もあります。
 
マルクスの唯物史観 「原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会→共産主義社会」 などは、その典型例です。
 
また、マルクスから時代を少し遡ると、18世紀初頭の著作物に現れる「天地創造」の例として次のようなものもあります。「神による創造はおそらくこうではなかったろうか。初めに神は物質を創造の目的にそって、充実した、質量のある、堅固で貫くことができない可動粒子として創造し、その大きさと形などの性質や空間的な比率を定めた。」(ニュートン「光学」)
 
延長が性質であるところの外的世界は決定論的に動きますが、わたしという考える自我を含めた世界は直線的に進歩するということになります。
 
それに対し、仏教の場合、まず、万物が空なので、絶対的な存在(たとえば如来)もまた空ということになります。天地の万物は、空ではあるのですが、絶対的な存在の顕れとして絶対的な存在とともにあります。絶対者がなくなるということはないので、その顕れである天地万物もなくなることはない。死んだ動物と植物は土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生する。そこに、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立します。
 
つまり、世界には初めも終わりもないし、時間は輪廻的に循環し円環する。この考え方を、「砂漠の思想」が誕生した場所との風土的な対比で、「森の思想」と呼ぶ場合もあります。
 
超越的な視点を持つには(あるいは超越的な視座に結果として至るには)、ユダヤ教・キリスト教の神のように天の高みから下界を見下ろすという砂漠の方法と、葉が鬱蒼と生い茂る森の樹の下に静かに坐って瞑想をするという森の方法があります。
 
後者に関しては松岡正剛「空海の夢」の次の一節、「まったく『座る』とは東洋のおそろしい発見だったとおもう。・・・その契機は雨期によってとじこめられた森林生活によって余儀なくされたのかもしれないが、そこに『意識と言語の中断』を加えたのは、やはり恐るべき発見だった。」も参考になる。
 
そういうことを考えると、ユダヤ人の歴史学者で「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari)は、彼の中ではやはり「砂漠の方法」がデフォで、その顕れのひとつが「アニミズム→神イズム→ヒューマニズム→データイズム」という世界の発展の推移(どんな虚構、換言すればどんな共同幻想が世界を実質的に支配しているのか、その発展の推移)についての考え方です。
 
それに対して、日本人作家で「ハーモニー」の著者である伊藤計劃(いとうけいかく)の発想のデフォは「森の方法」です。政治と経済やわれわれをとりまく事態が「直線的世界観」を軸に強く進行していくなかで、それに組み込まれない方法しての「森の方法」を、その小説を書くときに強く意識したようにぼくには思えます。
 

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2018年2月23日 (金)

「シンギュラリティは近い」の口直しには「ハーモニー」と「ホモ・デウス」

レイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」と、伊藤計劃(いとうけいかく)の「ハーモニー」とユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」というタイトルの本を、ここに書いた順番に続けて読んでみました。最初からそういう予定だったのではなく、「シンギュラリティは近い」を読んだ後で、口直しが欲しくなったからです。
 
レイ・カーツワイルは米国生まれの発明家、未来学者であり人工知能の権威。伊藤計劃は、2009年に34歳で鬼籍に入られたSF分野の日本人作家。そして、ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエルの歴史学者で「サピエンス」とその続編である「ホモ・デウス」の著者です。
 
「シンギュラリティは近い」という不思議な題名(宗教関係の本かもしれないというような雰囲気が漂う題名)の本は2005年に出版されましたが、シンギュラリティ(singularity)とは「技術的特異点」という意味(だそう)です。
 
遺伝子工学とナノテクノロジーとロボット工学というのお互いに重なり合う3つの技術を軸にテクノロジー全般が加速度的に進展する(収穫が指数関数的に増加する)、その結果、2045年あたりに「技術的特異点」に達し、そのとき、世界の主人公というか世界の支配者層は「人工知能」になっている。そういう趣旨の本です。
 
その時点の「人工知能」(Artificial Intelligence)を、一部の人類の発展形とみなすのか、人類とは別種の知的な存在と考えるのか、そのあたりは定かではありません。その状況は、「科学革命の構造」における「パラダイム・シフト」のあとの状況よりも、人類を相当にはみ出る部分があるだけに、「特異」です。
 
現在の碁や将棋におけるヒトと人工知能の勝負や、現在のGoogleやAmazonのビッグデータ処理から想像できるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量の総体をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのものがとても安いコストで人口知能そのものとそれを使った製品や労働サービスなどのサービスを、アルゴリズムに沿って再生産(開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事のほとんどを、人工知能が、とても高い経済効率で、代替します。
 
Artificial Intelligence(アーティフィシャル・インテリジェンス)をいちばん最初に「人工知能」とどなたが訳したのか知りませんが、人工「知能」と訳して人口「知性」と訳さなかったのはとてもよかったと思います。「知性」となると「情報処理系・アルゴリズム系の知能」だけでなく「意識」までが含まれるからです。
 
知性を、かりに、科学技術と適合的な「測る知性」、芸術と適合的な「共感する知性」、形而上学的な思索と適合的な「黙想する知性」の三つに層別してみると、インテリジェンスは「測る知性」です。つまり「インテリジェンス」に意識は入り込まない。しかし、「シンギュラリティは近い」の著者は人工知能に意識や感情まで含めたいらしい。しかし、そこまで跳ぶのはいささか「教義的」過ぎる。
 
「シンギュラリティは近い」は刺激的な本ですが、同時に、(ぼくにとっては)読後に口直しが必要な種類の著作でした。おそらく口直しに最適なのは、まず、伊藤計劃(いとうけいかく)の「ハーモニー」です。
 
「ハーモニー」は2008年に上梓されましたが、主人公は三人の女子高校生、女子高時代とその13年後がこの小説の舞台です。21世紀の後半に「大災禍」と呼ばれる(第三次世界大戦のサブセットのような、核兵器も使用された)世界的な混乱を経験した後、人類は大規模で高度な福祉構成社会を構築します。
 
すべてのヒトには「WatchMe」と呼ばれるナノ・デバイスが埋め込まれ、「アルゴリズム」はそのナノ・デバイスを通してヒトの健康状態を監視・維持し続ける。人類のほとんどは、とくにする仕事も役割もないが、日々を健康に生かされている「役に立たない人たち」。「ハーモニー」は、ざっくりと言えば、そういう予定調和的な状況への三人の元少女の、それぞれの、政治的な反乱の物語です。
 
ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」も「シンギュラリティは近い」の口直しに向いています。バイオテクノロジーやナノテクノロジー、人工知能などの進展やその将来の「地位」に関しては「シンギュラリティは近い」やその他の関連論文を参照しているようですが、「シンギュラリティは近い」の技術的で細かい記述を、歴史家のマクロな視点で描写し直してくれます。
 
近代資本主義成立期に発生した農業革命によって大量の人たちが生き場所を失いました。彼らは都市に流れ込み、産業革命を支える大量の「プロレタリアート」となったように(しかし、彼らには単調な、資本家から見れば搾取対象としての工場労働というものがあった)、今度は人工知能の進出で行き場を失った大量の「役に立たない人たち」が世界にあふれることになります。
 
株式トレーディングの世界からヒトがいなくなりました。活躍するのは、迷いなく超高速で売買するコンピュータアルゴリズムです。そのうちコールセンターやその他のサービス部門にもヒトは要らなくなる。弁護士や弁護士事務所の職員も例外ではない。ヒトの兵士も要らない。戦闘機や爆撃機のパイロットも要らない。
 
ハラリの「ホモ・デウス」(出版は2017年)を読んでいると、カール・マルクスの「唯物史観」を思い出します。マルクスは、彼の弁証法的唯物史観にしたがって、社会の発展段階を次のように大別しました。
 
■ 原始共産制
■ 古代奴隷制
■ 封建社会
■ 資本主義社会
■ 共産主義社会
 
実際は、そういう発展段階とはならずに、資本主義も共産主義も同じ産業主義で、平等よりも自由に大きな丸印をつけた産業主義が資本主義、逆に自由よりも平等に大きな丸印をつけた産業主義が共産主義だったわけです。両者に実質的な差はありません(マクロな意味でのビジネス運営の上手下手の違いはありましたが)。
 
ハラリの史観をマルクスの唯物史観風にまとめてみると以下のようになります。ここではその史観をとりあえず「データ史観」と呼んでみます。虚構史観というほうがハラリらしいのですが、そういう言い方だと、マルクスの唯物史観も虚構史観なので、違いは、それぞれの切り口で鳥瞰した「共同幻想」の移り変わりにどういう名前を付けるか、その差です。
 
■ アニミズム(Animism): ヒトも動物も植物も岩も同じ、それぞれが霊的なものの顕れで、それぞれに差はない。
 
■ 神イズム(Theism): 絶対者としての神が宇宙や世界を統御している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など。どちらかというと一神教。
 
■ ヒューマニズム(Humanism): 知能(インテリジェンス)と意識を持つ人類(ホモ・サピエンス)が、動物よりもなによりも、いちばん偉い。人類が神になった。つまり、ニーチェの「神は死んだ」。ヒューマニズムとは、人類が自身を崇める宗教。
 
■ データイズム(Dataism): ポスト・ヒューマニズム。人類(ホモサピエンス)はもはや主役ではない。人間とは生体アルゴリズムのことだとすると、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーやネットワークテクノロジーの進化で、人工アルゴリズムそのものであるところのコンピュータが、アルゴリズムとしては人類よりもはるかに優れているので、世界のシナリオライターになり、主人公になる。ほとんどの人類は「役に立たない存在」となる。
 
もっとも、ハラリは「人工知能(アーティフィシャル・インテリジェンス)」はあり得ても、「人工意識(アーティフィシャル・コンシャスネス)」はあり得ない、という考えの持ち主のようです。AIというもので、知能(インテリジェンス)と意識(コンシャスネス)を混同するシリコンバレーの連中には違和感を持っている。反撃しようと思っている。そのようにぼくは、感じます。
 
それは、「ホモ・デウス」の献辞 「To my teacher, S.N.Goenka (1924-2013), who lovingly taught me important things.」からも読み取れます。S.N.Goenkaは、ミャンマー生まれのインド人で、在家の瞑想指導者です。
 
そういうものがじわじわとにじみ出てくる。それが、それなりの「口直し」になります。
 

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2018年1月 4日 (木)

インターネット経由で聞く世界のラジオ放送

日本国内ではradiko(ラジコ)というパソコンやタブレット端末やスマートフォンがそのままラジオ受信機となるIP(Internet Protocol)サイマルラジオの有料配信サービスがあります。ラジオなので全国各地のAMとFMが対象ですが、通常のラジオではノイズだらけのAM放送でしか聞けないプロ野球の実況中継なんかを聞くにはとても便利です。
 
これをグローバルに拡大して無料で提供しているRadio Gardenというウェブサイトがあります。ドイツのマルティン・ルター大学ハレ校のGolo Föllmerが作ったものだそうです。先日初めてこれを知って、いろいろと聴いてみてなかなかに楽しかったので、配偶者に「こういうの知ってる?」と尋ねたら、「radikoの世界版でしょ」という返事が返ってきました。世界地図上にいっぱいある緑の点をクリックすると地元の放送局が現れるので、好みのものを選択します。
 
世界中のラジオ放送(AMとFM)が聴けるといっても、日本と中国はカバーされている放送局がとても少ない。日本では15局。radikoとの関係も影響しているのかどうかわからないけれど。日本で聴けるのは音楽配信(J-Popやアニメ音楽など)をしている放送局や、英語で発信している放送局だけ。中国は、北京と広州と香港の7局のみ。しかし、インドヨーロッパ語圏の放送局を重視しているというわけでもなさそうです。タイやミャンマーやインドネシアでカバーされている現地語放送局は多い。しかし、ベトナムの放送局はなぜか地図に現れてこない。
 
ぼくは札幌なので、札幌からこのウェブサイトにアクセスすると、最初に地理的にいちばん近い放送局が登場します。「ユジノ・サハリンスク@サハリン《樺太》@ロシア」の音楽放送局で、パーソナリティーの言葉はロシア語です。ロシアの「艶歌」がロシア語で流れてきます。
 
アイルランドやアイスランド(アイスランド語が楽しめる)、ロシア、イラク、カイロのコーラン放送、サウジアラビアの音楽放送、米国西海岸やディープサウスのジャズ、オーストラリア、ニュージーランドの音楽番組や時事放送、ブエノスアイレスのタンゴ放送局などを巡っていると、大放送局とは雰囲気の違う音楽や番組(何をしゃべっているのかわからないにしても)を楽しめます。
 
ラジオなので、とにかく音楽が多い。同じ街で地元の音楽と世界の流行音楽が同じように流れています。モロッコの流行歌を現地語で聴きながら、街の喧騒を想像するのも悪くない。
 
この記事は、レイキャヴィック(アイスランド)のあるFM局の音楽番組をとても小さい音で流しながら書いています。ときどきアイスランド語のおしゃべりが混じります。音だけのほうがレイキャヴィックのホテルの一室にでもいる気分になれます。なんとなく気になったのでレイキャヴィックのこの1週間の気温推移を調べてみると、「『アイス』ランド」なのに札幌よりも暖かい。沿岸部を、暖流のメキシコ湾流が流れているためです。
 
Radio_garden_reykjavik_iceland_3
 
このサイトにアクセスすると、実際にはとても行けそうもない土地や、もう一度訪れてみたい土地に気軽にヴァーチャルな旅行ができます。現地の声や地元の音楽が聴けるのがいい。

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2017年12月15日 (金)

顔認証システム雑感

リリースされたばかりのあるスマートフォンの、赤外線センサーを利用した顔認証システムの紹介記事や機能レヴュー記事に目を通すと、指紋認証よりも便利である、顔認証機能の出来が非常にいいという評価が多いようです。ぼくはその機能を使ったことはないのですが、ユーザー側の視点で記事内容を読むと確かにそうだろうと思います。
 
「ヒゲが一晩であり得ないくらいにボサボサに伸びると認証されないかもしれないが、髪形が変わっても、サングラス越しでも認証される」というのが評価骨子です。つまり、少々のことでは本人の顔認証機能は混乱しない。
 
ミステリー小説やスパイ小説の読み過ぎか、あるいはミステリードラマの見過ぎか、機能レヴュー記事に目を通しながら顔認証システムの悪用方法をつい想像してしまいます。ハッキングといった同じ土俵の中での悪用方法ではありません。
 
かりに所有者が犯罪に巻き込まれて、有体にいえば犯罪の被害者になって、犯罪者が所有者のスマートフォンの保存内容を見たいというような場合、顔認証システムではパスコードは顔なので、顔とかが特に傷つけられていないとすれば、ロック解除は実に簡単だということになります。この事情は指紋認証も同じで、パスコード番号を被害者であるところの所有者から暴力を使って無理やり聞き出さなくても大丈夫です。そこに、本人の顔や指があればそれでいい。
 
自分が被害者になった場合の視点からの「認証システム」の優劣比較のレヴューというのもどこかにあるのかもしれませんが、ぼくは寡聞にして知りません。最近、北海道にも北朝鮮からの奇妙な海の訪問者が増えているので、つい、そんなことを考えてしまいました。

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2017年12月 8日 (金)

不要なものの排除

本格的なITサービスも手掛ける通販の大手と、検索サービスから出発してIT関連サービスの巨大百貨店のように変貌してきた大手が、それなりに賢いソフトウェアを組み込んだハードウェア製品を、それぞれ、売り出しました。ほぼ同じような製品で、したがって互いに競合します。
 
現状のシステムはお互いに柔軟でよくできているので、現状のままだと、敵のハードウェアやソフトウェアが自社の流通網のなかで勝手に動き回ることになります。敵の製品が動き回れば動き回るだけ、自社製品の流通が圧迫される。それが我慢できない。当然のビジネス感情です。で、おたがいに、敵の製品が自社の流通ネットワーク、サービスネットワークの中で機能しないような方策を打ち出し始めた。外野の観客としては、なかなかに面白そうな喧嘩です。
 
ときどき、テレビで放映されるドラマを録画して、あとで時間のある時に楽しむことがあります。そういう楽しみ方をすると嬉しいのは、60分が45分くらいに短縮されることです。民放の番組は、見る側からすると番組の間に番組提供者のコマーシャルが流れるということですが、番組提供側からすると、主はコマーシャルで、コマーシャルの合間にたとえばドラマのようなものをついでに見せてやる、ということになります。
 
最近は、以前もそうでしたが、ひとひねりしたソフトウェアをAIと呼ぶのが流行です。見る側からすると、なにしろAIの時代らしいので、コマーシャルを全部カットしてコマーシャル以外だけを録画する機能の製品を発売したら人気を博するとは思うのですが、そういう自分の首も絞めてしまうような製品はさすがに販売しないみたいです。ぼくは、観客として、コマーシャルをドラマ部分から区別できます(最近は意識的に紛らわしいのも多いですが)。だから、その気になれば、そういう機能は製品に内在させることができる。
 
余分なものの排除というのは、簡単そうで簡単ではない、ということでしょうか。ある作家のエッセイに次のような内容のものがありました(と、記憶しています)。家庭にたまってしまった余計なものを深夜に夫婦で捨て始めたら、お互いにその作業が面白くなってきて、不用品の整理がどんどんと進んだ。一区切りついたあと、視線を移すと、そこには相手がいた。

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2017年12月 5日 (火)

ひらがな表記ではなくて、ローマ字表記で見ると・・

日本語の動詞の活用の構造や敬語・謙譲語の成り立ちは、ひらがな表記で見るよりも、もっと細かく分解してローマ字(という音素)表記で見た方がわかりやすいとということを、ぼくは「金谷武洋(かなやたけひろ)」の日本語についての何冊かの著書で教えてもらったのですが、似たような話題に最近出合いました。
 
可能動詞の話です。
 
「食べることができる」ということを表す可能動詞は、「食べられる」が正しい使い方で、「食べれる」は間違い。同様に「見れる」は正しくなくて、正しくは「見られる」。ぼくたちはそう教わってきたし、また、実際にそういう使い方をしています。
 
しかし、『「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」じゃない? 予想外の真相が…「正しい日本語」論争への答え』という記事によれば、『「見れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」。一部の人には評判があまりよろしくない使い方ですが、文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」では、「ら抜き言葉」を使う人が、使わない人の割合を初めて上回りました。』だそうです。
 
「ら抜き言葉を使う人」とは、一部でも「ら抜き言葉」を使う人を指すのか、可能動詞はすべて「ら抜き」で通す人を指すのか判然としませんが、いずれにせよ「食べれる」「見れる」人気が、「食べられる」「見られる」人気を上回ったということのようです。
 
「食べられる」から「ら」が抜けて「食べれる」、「見られる」から「れ」が抜けて「見れる」というのがひらがな表記で見た時の変化ですが、これをローマ字表記で眺めると、その記事にあるように、「taberareru」からまん中の「ar」が抜けて「tabereru」、同様に、「mirareru」から まん中の「ar」が抜けて「mireru」。この方がわかりやすいかもしれません。
 
Photo (同記事より引用)
 
「行ける」「歩ける」に関しては、『室町時代ごろから「行ける」「歩ける」といった可能動詞が生まれ、もともとあった「行かれる」「歩かれる」と併用されるようになりました』、ということなので、先行事例は、それなりに古い。
 
別のよく知られた表現を「ひらがな表記ではなくて、ローマ字表記で」観察してみます。その表現とは、「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」の「小諸なる」です。
 
「小諸なる古城」とは「小諸にある古城」が変化してできたものですが、「なる」と「にある」をひらがなで見くらべてもその変化の様子がよくわかりません。しかし、ローマ字表記で、「KOMORO niaru KOJO」の「niaru」から「i」を抜いて「naru」とすると、「にある」から「なる」への「い(i)抜き」変化の具合が納得できます。
 
日本語文法の説明にローマ字表記といった漢字と仮名以外の文字を持ち込むことに違和感を覚えるかたもいらっしゃるとは思いますが、それなりに便利なところがあります。
 

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