雑感

2020年11月20日 (金)

散髪はうとうとしていて気がついたら終わっていた、というのが望ましい

客としての身勝手な願望は、椅子に坐って5~6分ほど経ったころからうとうとし始めて、ふと気がついたら散髪(ないし調髪)はいつもの仕上がりで終わっていた、というものです。

細々(こまごま)したことを伝えるのは面倒なので、始めに「いつもの通りに」と口にしたら会話はそれでおしまいで、洗髪の心地よさとそれに続く鋏の音が眠気を誘い、目が覚めたら散髪は完了していて、ついでに上手に肩でも揉んでくれるとするならば理想的な1時間となります。

美容室や理容室で美容師や理容師として働く人は、その立場に立ってみれば、彼や彼女が店のオーナーであるかそこで雇われているかの区分なく、理髪・調髪能力といった基本の技能以外に、顧客との会話能力が要求されるようです。ここで言う会話能力とは、会話技術というよりも、その場その場での話題の選択やお客が持ち出す話題への対応能力のことです。話好きな客は少なくありません。

新型コロナウィルス関連の街の噂話からヘアファッションの最先端トレンドまで話題には限りがない。最近はコロナのせいで会話量はお互いに意識的に少なくなっているかもしれませんが、話題の拡がりが減退するわけではありません。そしてそこに何もしゃべらないのが好きな客も混じるので、美容室・理容室側の全般的な対応は簡単ではありません。

それからこれは必須技能ではないにしても、肩や背中のマッサージが得意な美容師・理容師はたいていは顧客から歓迎されます。同じ調髪技量ならマッサージの上手い方が客に重宝がられるのは間違いありません。

どんな話題でも静かにこなせて――この中には話題や会話の不在への静かな対応も含まれます――、うっとりと眠くなるような調髪・整髪技術とマッサージ技術を持つような美容師や理容師に髪を切ってもらう1時間というのは悪くない。


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2020年11月19日 (木)

コミュニケーションツールとしての自家製クッキーやケーキ

今年は頻繁に紅玉のアップパイを食後に食べています。地元のパイ向きのリンゴがそれなりに手に入るというのはそれなりに幸せなことかもしれません。

Apple-pie-2020 紅玉のアップルパイ

配偶者は、パイ作り作業のついでの暇つぶしといった感じでクッキーも作っています。クッキー生地を市販のクッキー用の型でスタンプを押すようにくり抜き、オーブンで焼いて適当な市販のガス袋に個別包装すると下の写真のようなの出来上がります。

作ったのがそのときにそれなりに残っていたらという条件付きですが、それを、いつもお世話になっていて、最近はとくに忙しい宅配便の担当者にさしあげたりもします。

修行中の若い人のいる美容室にパウンドケーキやクッキーを個別包装したのを差し入れとして持っていくこともあります。ほのかに甘いので、休憩時間にでも疲れ休みに臨時のおやつとして楽しんでいただける。言葉ではない領域のコミュニケーション支援ツールとしてそれなりに役に立っています。

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2020年11月12日 (木)

今年は冬が早いようです

今年は冬が早いといった実感は、たとえば初雪の日付といった気象台の観測値やメディアを流れる天気予報で抱くものではなくて、ぼくの中では、最初の冬靴(雪靴)を取り出して靴箱の中の夏靴(というか冬靴でない普通の靴)と置き替える作業と関連しています。車ならスノータイヤに履き替える日です。それが去年よりも早いかどうか、そしてどれくらい早いか。

今年は去年よりも一ヶ月以上冬が早いようです。異常気象をなんでもここ百数十年の地球温暖化と結びつけるノリの軽い気象予報士なら地球寒冷化の始まりかとでも言ってもよさそうなくらいですが、さすがにそういう勇み足は控えています。

去年は12月下旬くらいまで札幌では雪の実感はなくて、だから去年の12月10日に東京国立近代美術館(MOMAT)に気軽に日帰りすることができました。「日帰りで『鏑木清方 築地明石町展』へ行って来ました。いい画は無理をしても実物の前に立つようにしています。そうしないと目が衰える。」

まわりに雪が積もっていると気軽に出かける気分が抑え込まれてしまいます。それに、雪と縁のない丸の内や竹橋を札幌からの冬靴で歩くのもぞっとしない。

今年は、この日曜の夜中に強い霙(みぞれ)を経験したかと思うと、その後、穏やかに霙混じりの雪が間歇的に降り続いています。途中、強い晴れの時間帯が気まぐれに長く短く割り込んでくるのが、比較的日本海に近い札幌らしいところです。

【蛇足的な註】「ぞっとしない」は「面白くない」「感心しない」という意味で使っています。


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2020年10月29日 (木)

「平家物語」を斜め読みして、ふと、感じること

ぼくは「平家物語」の名場面と呼ばれているような箇所――「一の谷の戦いの鵯越(ひよどりごえ)」、「平敦盛と熊谷直実の一騎打ち」、「屋島の戦いにおける那須与一の弓」など――は、小さい頃に祖父の口から、たとえば縁側で繰り返し聞くのを楽しみにしていました。琵琶の音色は決して混じらないにしても、平家物語の一部を孫に話すのが好きな家庭版の琵琶法師から聞くようなものだったかもしれません。明治生まれにはそういうことのできる人がいました。令和の今なら、その代替はおそらく「漫画で読む平家物語」「アニメで観る平家物語」ということになります。

その平家物語を本という媒体で斜め読みしてみて、ふと、感じることがありました。

この物語の主題は戦記物語的に書かれた平家の栄枯盛衰であるとしても、底を流れているのは天皇家の、最近の社会科学ないし環境関連用語を借用すれば、サステイナビリティ(sustainability)の強靭さかもしれないなということです。琵琶法師経由で日本中に拡がることになるその物語の原作者がそういうことを意図したのではないにしても、そういう風に読もうと思えばそういうものについての地味な詳細叙述とも読めます。

この物語作者は「奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」というストーリー展開に必要な鮮やかな色の場面記述と、その場面の裏に同時に存在するものについての地味な記述を織り混ぜているようです。

天皇家は、見かけは藤原家や武家に翻弄されても、一族の生存にかかわる土台の部分は、専横的な政治経済的な駆け引き(この中には院政や臣籍降下といった手段も含まれますが)を駆使しつつ、不死身のアメーバーのように、生存に必要なものを新たに取り込みながら不要になった周辺部は切り離し、ネバネバと動いていて崩れ去るということがありません。「この世にこそ王位も無下に軽けれ。昔は宣旨を向って読みければ、枯れたる草木も花咲き実なり、飛ぶ鳥も従いけり。」(今でこそ、天皇の地位もはなはだ軽くなったが、昔は宣旨を対面して読みかけると、枯れた草木も花を咲かせて実を結び、飛ぶ鳥も従ったものだ)という状態ではあっても、平家は朝敵として滅亡し、源義経は兄の頼朝に殺されてしまいます。

平家物語の冒頭部分の以下のような一節も、天皇家のサステイナビリティという観点から見ると、自分にそのうち役に立つかもしれない別のある一族に短期間の夢幻を楽しませるための、そしてその一族が邪魔な存在になれば彼らの夢を破壊してしまうつもりの、ひそかな布石について語っているのかもしれません。

『その先祖を尋ぬれば桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の嫡男なり。かの親王の御子高見王無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望王の時、初めて平の姓を賜はつて上総介に成り給ひしよりたちまちに王氏を出でて人臣に列なる、その子鎮守府将軍良望後には國香と改む、國香より正盛に至る六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をば未だ赦されず。』

《現代語訳》『清盛の先祖を調べると、桓武天皇の第五皇子、一品式部卿葛原親王から数えて九代目の子孫、讃岐守正盛の孫で、刑部卿忠盛の嫡男である。葛原親王の御子、高見王は、官職も官位もないままなくなられた。その御子の高望王のとき、初めて平の姓を賜わって、上総介になられてから、ただちに皇籍を離れて臣下の列に連なる。その子・鎮守府将軍良望は、後には国香と名を改めた。国香から正盛に至るまでの六代は、諸国の国守ではあったが、殿上人として昇殿することはまだ許されなかった。』

ふと感じたことのもうひとつは、これはひとつめとは関係がないことですが、「物語」に登場するさまざまな戦いの時間がとても短いことです。鏑矢(かぶらや)を飛ばし合い、鬨(とき)の声をあげたら、途中に修羅場は数多く登場しても、あるいは戦いの場が、やがて、一の谷、屋島、壇之浦と移っていっても、戦は、実質的には短時間で片が付いてしまいます。合戦は短時間なそれの間歇的な繰り返しと映ります。余計なことですが、義経の仕掛ける戦は奇襲攻撃ばかりで、当事者にとってはそういう奇襲攻撃も壮絶な殺し合いの場には違いないとしてもなんだかあっさりとしている。

だから、戦いにおける兵站(へいたん)については、長期戦ではないので、敵の攻め方や殺し方を考えるほどには、兵站について真剣に考えなかった武将が多かったかもしれない。頼朝はそういうことにも時間をかけたにしても、国民に人気の高い義経はそういうことは苦手だったようです。それが国民のDNA的な一般性質として伝わって、たとえば第二次世界大戦における帝国陸軍の中国東北部や東南アジアの兵站事情――気合だけがあって武器弾薬や食糧は大幅に不足――に繋がっていたようにも思われます。


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2020年10月26日 (月)

サツマイモは美人の鳴門金時

焼き芋にすると中身が金色に近くなるサツマイモを金時芋(きんときいも)と呼ぶ慣わしです。このサツマイモは鳴門の産なので鳴門(なると)金時ということになりますが、実際はブランド化されていて、徳島県の北部、鳴門海峡近くの砂地のある地域で栽培された金時芋だけを「鳴門金時」と呼んでいるようです。「松阪牛」などと同じです。砂地栽培なので色がきれいです。

おいしいサツマイモのブランドはいくつかありますが、我が家では鳴門金時がいちばんの好みです。赤紫の色が鮮やかで姿かたちが整ったのが、つまり美人なほうが、長年食した経験上、味もいい。鳴門金時は、姿かたちの美しさと味の良さが正の相関関係にあるようです。他の野菜と同じです。

写真の鳴門金時はLサイズ。Lサイズくらいが味もいいし、料理での使い勝手もいい。オーブンで焼き芋にしてそのままおやつで食べても、焼いたのや蒸したのをマッシュしてサラダの一部にしても美味しい。

鳴門金時の収穫最盛期は8月~9月。札幌の野菜売り場でも9月以降によく見かけるようになります。水分が抜けたほうが甘味が増すので食べごろは秋から冬ですが、収穫後、蔵に貯蔵してあったのを寒い時期に付加価値を付けた「蔵出し」として出荷するところもあり、そういうのを味わうのも悪くない。

L-202010


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2020年10月23日 (金)

宅配便も種類によっていろいろとややこしい

ウェブサイトなどのオンライン処理だと硬い(つまり自由度の少ない)システムで埒が明かないので――ぼくの感覚ではということですが――、近所の配達担当郵便局に電話です。午前8時以降なら電話は通じます。

 「荷物はすぐそばの配達担当郵便局までこの夜中に届いているので、荷物のお届け日時を当初の指定よりも早くしていただきたいのですが・・」
 「お問い合わせ番号はおわかりですか」
 追跡番号というか荷物の問い合わせ番号というか、それを答えます。
 「お客様はお受け取りの方ですか」
 「そうです」
 「申し訳ありませんがお届け日の前倒しは、発送元でないとできないことになっていますので、発送元にそう依頼していただけませんか」
 「品物はすぐそばの郵便局にあるのですが」
 「そういう規則ですので」と、電話対応の女性はそっけない。こういう種類の《迷惑》電話はきっと多いのでしょう。
 「うーん、そうですか、わかりました。」

しかたないので郵便局の宅配便を利用しているところのその発送元に電話をし、前倒し依頼です。この点に関しては競合他社と比べると柔軟性がない。システムフローをそういう風にせざるを得ないような事件や事情がかつてあったのでしょうか。それとも有職故実でしょうか。

 「注文日から一週間先かそのあとしかお届け日時を指定できない仕組みだったのでそうしましたが、荷物は既に近所の郵便局に届いているので、配達の前倒し依頼をお願いしたいのですが・・・」とぼくから発送元に事情を説明すると、すぐに対処してくれました。

 「お客様、そういう場合は、お届け時間帯は指定されても、お届け日を指定せずに空白のままのほうがお届けが早くなることが多いです。日にちを指定をされても、ご注文時のコメント欄に、配達はできるだけ早く、とでもお書きになっていただければそう対応いたします。」

配偶者にそのあたりのことを聞くと、そんなのあたりまえじゃない、という顔をされました。そういうノウハウはぼくに既に懇切丁寧に伝達済みだそうです。


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2020年10月21日 (水)

クロバネキノコバエが急に発生?

一昨日は明け方まで降った雨が上がり、日中は秋の陽光を満喫できるいい天気でした。まだ暗くなる前の時刻に所用先から歩いて帰る途中のことです。向うから中学生くらいの女の子の二人連れがしきりに何かを追い払うようなしぐさをしながら歩いてきます。訝りながらその女の子たちとの距離を詰めていくと、顔に小さな動くものがいっぱいぶつかってきます。

何だろうと思い着ているものを見ると、小さい黒い羽のある虫がいっぱいくっついています。ジャケットもズボンもすべてです。幸いマスクをしているので口には入らないものの、おそらく背中も帽子もその小さな虫だらけだと思われます。

玄関先でそのたくさんの黒いのをそっと丁寧に払い落として中に入りましたが、数が多いので全部が獲りきれたわけではありません。

そういえば、と、その前の晩、部屋の中にその虫と同じ種類と思われる小さな虫が数匹紛れ込んでいたことを思い出しました。不思議なこともあるものだ、で片付けてとくには気にはしなかったのですが、どうもそういう虫の集団のごく一部が窓を開けたすきに侵入したのでしょう。

調べてみると、姿かたちから「クロバネキノコバエ」という虫らしい。「いわき市」のウェブサイトに「クロバネキノコバエが大量発生しています」(2020年7月3日 保健福祉部 保健所生活衛生課)というお知らせがありました。虫の写真を見るとそっくりです。

『現在、クロバネキノコバエと思われる、網戸を通り抜けて屋内に侵入してくる小さな黒い虫についての相談が多く寄せられています。クロバネキノコバエは網戸を通り抜けるほど小さく、気候等の条件がそろうと大量発生し家の中に侵入することがあるため、大変不快に感じる虫ですが、刺すなどの人へ直接的な被害を及ぼすことはありません。』

『幼虫は土壌中の腐植物を食べていると考えられており、水分を適度に含んだ腐葉土(畑、プランター、野山)などから発生するといわれていますが、特定はされていません。一年中発生が見られますが、梅雨の時期に大量発生することが多く、雨の翌日が晴れると多く発生する傾向があります。夜明けから午前10時ごろに多く発生し、網戸の隙間などから家屋内に侵入してくることがあります。』

そういえば、最近の札幌は雨続きで、しかしその直後はよく晴れます。晴れと雨が交互にやってくる感じです。だから、天気予報は、雨のち晴れのち曇りのち雨、とでもしておけば大丈夫です。ぼくでもできる。つまり、『雨がたくさん降って、雨の翌日が晴れると多く発生する傾向があります』という観察と一致しています。季節外れの発生だし、虫の寿命も短いので、遣り過ごすしかなさそうです。


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2020年10月19日 (月)

言語は時間をかけて、規則性が少なく組み合わせが自由な方向に流れていくらしい

ぼんやりとであっても、まわりの(ないしは世界の)言葉の動きを眺めていると次のような事態には気がつきます。

・強い政治経済的な背景があるにせよ、屈折系言語では他の言語ではなく、英語が抜きんでて世界標準的な役割をしている。インターネットなどでもそうである。

・(中国本土での簡体字への移行ということはさておいて)中国語で「・・・的」という表現が増えてきた。たとえば、「我的手机」(私の携帯電話)、「幸福的家庭」(幸せな家庭)、「西方的力量」(西洋の力)、「虔誠的基督徒」(敬虔なクリスチャン)。そういう表現は、中国の古い文章の集合体であるところのたとえば古典授業用「漢文教科書」にはおそらく載っていない。

・日本語では、「旧仮名遣い」や「係り結び」といった言葉の規則性や関係性がいつの間にか消えてしまった。たとえば、「ゐ」や「ゑ」、「その中に、もと光る竹なむ一筋ありける」や「名こそ流れてなほ聞こえけれ」。

世界の言語は、通常、孤立語、屈折語、膠着語の三つに分類されます。

「孤立語」の代表例が中国語。それぞれの単語が孤立(自立)していて、それぞれの単語が個別に意味を持っています。日本語のような助詞(・・は、・・を)は使わない。中国語で「私はあなたを愛している」は「我愛你」。「孤立語」なのでそれぞれ語が、たとえばドイツ語(Ich liebe dich.)のような活用や格変化をすることはありません。

屈折語は古代ギリシャ語、サンスクリット語、フランス語、ドイツ語などです。英語も屈折語ですが、屈折語の中では屈折度が少ない言語です。屈折とは活用のことで、動詞の人称変化や時制、名詞の格変化(主格・属格・与格・対格・呼格)などの文法的性質を指しています。

古代ギリシャ語だと、「ギリシャ語の活用変化(語形変化)は大別して、名詞変化(declension)と動詞変化(conjugation)の二種になる。形容詞や代名詞等の変化は名詞変化に含まれる。」「数は単数(singular)、双数(dual),複数(plural)の三つがある。」「ギリシャ語においては、人称や数が動詞の変化の中に示されているわけであるから、とくに強調せんとする時以外には、代名詞の主語を置くということはない。従って外見上主語のない文章はギリシャ語においては極めて普通のことである」(田中美知太郎・松平千秋 著「ギリシャ語入門」)という具合です。

膠着語は、そのひとつが日本語ですが、助詞や接辞などの機能語が、名詞・動詞などの自立語にひっついて文が構成される言語のことです。「うちはあんたが好きや」の「は」「が」「や」は、それ自体では実質的な意味を持たない、機能語です。膠着語では、そういった機能語が、「うち」「あんた」などの名詞(自立語)や「好き」などの動詞(自立語)に付着して文が構成されます。

中国語における「・・的」という表現の増加は、孤立語に日本語のような膠着語の便利さ(孤立したものをねばねばとくっつける性質)が取り込まれつつあるということです。前述した例を再掲すると「幸福的家庭」(幸せな家庭)や「西方的力量」(西洋の力)などです。その背景にある理由は「和製漢語」の輸入と、あるいは似ているかもしれません。言語として時代の変化に俊敏に対応するためにはその言語の表現柔軟性を高める必要がある。

19世紀末~20世紀初期に日本で作られた「和製漢語」のなかで、中国で普及したものには、たとえば、次のような熟語があります。和製漢語を輸入しないと中国語は西欧の脅威、時代の変化、文化の変貌に対応できなかった。

《系統・電話・電気・旅行・自転車・野球・科学・歴史・哲学・病院・派出所・銀行・弁当・味噌・寿司・抹茶・煎茶・文化・和紙・鉛筆・雑誌・美術・時間・空間・入口・出口・市場・投資・企業・広告・国際》

「中華人民共和国駐日本国大使館 ウェブサイトの記事 《和製漢語:中国 日本と世界を繋ぐ絆》によれば、中国は、20世紀初頭に『独立、平等、自由、民主、法制、主権、民族、国際、哲学(西周による)、美学(中江兆民による)』といった和製漢語を輸入し――現代中国語における『社会科学関連語彙の六割は和製漢語』――、また20世紀の終わりごろからは『人気、写真、料理、新人類』などの新しい和製漢語を再び取り入れ始めたそうです。

ある言語の他国や他地域への浸透力はその言語を主言語とする国々の政治力や経済力に基づくとしても、自国語以外の言語を使う必要に迫られた場合でそれが屈折語だと、その中では屈折の度合いが低い言語が選好されるのは理にかなっています。つまり、フランス語やドイツ語ではなく英語です。

高度な屈折性をそなえた言語は、それを母国語とする人には肌理(きめ)細かい配慮が可能ですが、外国語(や古典語)としてそれを学ぶ人にとっては、自国語がそういう性質のものでない場合は、その屈折性が学びのとても高い参入障壁になりますが、英語はその障壁がまだ相対的に低い。

日本語は、ややこしい言語規制を水に流すように取り払ってしまったあとどこへ向かっているのか。ひょっとすると「オノマトペ(擬音語と擬態語の総称)」的な表現方法を拡大・強化する方向に進展しているのかもしれません。言葉のアニメ化とも言えます。画像や映像としてのアニメは輸出力の強い日本の卓越した文化なので、言語のアニメ化傾向というのも悪くはありません。「オノマトペ」的な表現自由度が強化された日本語が「和製漢語」のように中国に浸透して中国語を変えるかもしれません。今後のお楽しみです。関連記事は「ぴえん超えてぱおん」。

 


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2020年10月16日 (金)

雪虫(ゆきむし)

「雪虫が飛んでいました。ご覧になりました?」
「今年はまだ見ていません」

こういう会話が北海道以外でも成立するのかどうか知りませんが、「雪虫」とは雪の季節が到来する直前にそのあたりを飛ぶ白い小さい虫のことです。飛ぶ姿が小さな雪片が舞うようにも見えるので「『雪』虫」です。弱弱しくふわふわと舞うように飛ぶこの白い虫に出会うと、その日から1週間から10日ほどで初雪だと言われています。

雪虫の出現と初雪――初雪には雪片が短時間ちらちらと舞い落ちるのも含む――との時期的な相関は高いようです。昆虫の中にはスーパーコンピュータのシミュレーションをはるかに凌駕する予測能力を発揮するものもいるので、とくに不思議ではありません。

手元に自分で撮影した雪虫の写真がないので、「えんがる(遠軽)で見た」という北海道・遠軽町にお住いのかたのブログからお借りしました。この場を借りてお礼申し上げます。

雪虫が林の中を舞っています。

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2020年10月14日 (水)

「従って」が多すぎる、従って、解りにくい

かつてベストセラーになった刺激的な内容のエッセーがあります。必要があって一部を読み返していたところ、黙示文学に関する論述のなかで、「従って」という言葉がやたらと出現する箇所に出会いました――著者はもともと「従って」という接続詞がお好きな雰囲気ではありますが。

書き手が「従って」を繰り返すときは、その一節を書き進めているときの書き手の強い気持ちがその論述の展開に滲み出てきて、それが「従って」という接続詞の多用となる場合があるとしても、読み手はその繰り返しを鬱陶しいと感じるかもしれません。ぼくは「従って」の頻出がけっこう気になりました。

その一節の《原文》と、《原文から「従って」をすべて取り除いた場合の文章》を以下に並べてみます。

《原文》

《これには別の理由もある。ユダヤ人は、モーセの第二誠によって、実質的には絵画・彫刻を禁じられたに等しかった。従って、ゲルニカ(引用者註:ピカソのゲルニカ)を描こうとすれば、それを文章になおした形にならざるをえない。従って読者諸君が、一度実際にゲルニカを文章になおしてみれば、ある程度、その表現方法が理解していただけると思う。従ってこの逆も可能で、黙示文学はそのまま絵になるのであって、『ヨハネ黙示録』の多くの場面は、二千年にわたって、キリスト教美術の主要なモチーフになっている。またいわゆる「聖画」が氾濫する理由もこれであり、一方、古代のさまざまのレリーフや彫刻には、それを文章になおせば、そのまま黙示文学的表現になるものも少なくない。従って、こういった表現は、考えようによっては、別に珍しくないともいえる。》(下線は引用者による)

《「従って」をすべて取り除くとどうなるか》

《これには別の理由もある。ユダヤ人は、モーセの第二誠によって、実質的には絵画・彫刻を禁じられたに等しかった。ゲルニカ(引用者註:ピカソのゲルニカ)を描こうとすれば、それを文章になおした形にならざるをえない。読者諸君が、一度実際にゲルニカを文章になおしてみれば、ある程度、その表現方法が理解していただけると思う。この逆も可能で、黙示文学はそのまま絵になるのであって、『ヨハネ黙示録』の多くの場面は、二千年にわたって、キリスト教美術の主要なモチーフになっている。またいわゆる「聖画」が氾濫する理由もこれであり、一方、古代のさまざまのレリーフや彫刻には、それを文章になおせば、そのまま黙示文学的表現になるものも少なくない。こういった表現は、考えようによっては、別に珍しくないともいえる。》

「従って」のない文章は意外とすっきりとしています。しかしそれは読み手がそう感じるだけであって、書き手にとっては、「従って」がないと、少なくとも著者心理的には、画竜点睛を欠くということになりそうです。

関連記事は「文間文法(ぶんかんぶんぽう)という見慣れない用語」。

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