存在が花する

2024年4月15日 (月)

匍匐性のタイムがほぼ満開

匍匐性のタイムがほぼ満開になりました。橙を植えてある植栽区画の下生えとして芝桜の隣に一年前に移植したのが、環境が合っていたのかどんどんと全方位に這うように蔓と葉先を伸ばして繁茂し、満開に近い状態を迎えました。花はボンボンみたいな球形で色は薄紫。八分咲きです。コモンタイムの小さい白い花のように存在感をわざと隠そうとしているのも同じタイムですが、この淡い菫色はそれとはずいぶんと表情が違います。

今年は桜で花見、タイムで花見と、花見で忙しい。

0414

半年前の2023年9月27日は以下のような按配でした。

Iii_20240414070801


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2024年4月 1日 (月)

ローズマリーは順調に育っているようです

こうやって較べてみると、二週間でローズマリーの新芽が葉の形になって徐々にではあっても確かに伸びたようです。葉の色も陽に当たったためか濃くなってきました――撮影位置や撮影角度などが一定していないのできちんとした比較にはなりませんが。

左が2024年3月13日、右が2024年3月29日。種類は上から順にトスカナブルー、マリンブルー、インガウノ。よく似ているので名札なしだとそれぞれの違いはよくわからない。

今年の三月中旬と下旬は春の冷気に春の長雨が重なり苗にとってはいい環境ではなかったと思いますがしっかりと根付いている雰囲気で、ご同慶の至りです。

20240313_20240329180801 20240329
20240313_20240329181101 20240329_20240329181301
20240313_20240329181501 20240329_20240329181901


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2024年3月19日 (火)

カーツワイル著「シンギュラリティは近い」とハラリ著「サピエンス」と「生老病死」

特異点(Singularity)という言葉はいくつかの意味合いで使われますが、AI(人工知能)との関係において使われる特異点は、AIがヒトの知能を完璧に凌駕する歴史上のある時期といった文脈で登場します――2006年出版(日本語版は2010年)のレイ・カーツワイル著「シンギュラリティは近い」に詳しい。「2040年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう」。

そうなった場合のAIはヒトよりもはるかに高度な知能を駆使して勝手に自己更新や自己革新をともなった自己製造を自ら計画的に推し進めるので、将来のAI(人工知能)とヒトとの関係は、現在のヒトと家畜との関係に似たようなものになるだろうということをも意味します。

現在のチェスや将棋におけるヒトと人工知能の勝負、現在の検索エンジンのビッグデータ処理、あるいは現在のChatGPTの持つ能力から類推できるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量の総体をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのものがとても安いコストで人工知能そのものとそれを使った製品や労働サービスなどのサービスを、アルゴリズムに沿って再生産(企画・開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事の大部分を、人工知能が、とても高い経済効率で、代替するというわけです。

だから遺伝子工学やナノテクノロジーやロボット工学を駆使して生成される非生物的なAIは、生物としてのヒトの体内(脳や血液やその他の身体部分)に組み込まれると、とりあえずそういうことのできる富裕層はという限定があるにせよ、アナログなヒトはデジタルなAI(人工知能)とハイブリッドな共生関係を築くことができるようになります。

そういう意思を強く持つ人たちは確かに存在します。カーツワイルの文章の一節を「シンギュラリティは近い」から引用すると、「老化を人生のひとつの過程として潔く受け入れようとする人もいるが、私の考え方は違う。・・・わたしから見れば、何歳になっても病気と死は不幸な出来事であり、克服すべきものなのだ。・・(中略)・・デ・グレイは、みずからが目指すのは『遺伝子工学で老化に打ち勝つこと』つまり年をとっても身体や脳がもろくなったり病気にかかりやすくなったりしないようにすることだと説明している」。

仏教で四諦(したい)という考え方があります。「四諦」とは釈迦の説いた四つの真理「苦諦」「集諦(じったい)」「滅諦」「道諦」のことですが、このうち現世は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるということを説いたものが「苦諦」で、現世の「苦」の原因はひとが無常を認識できないからだと述べているのが「集諦」です。

つまり、ひとは生・老・病・死などの苦しみに悩まされる苦的存在であり、なぜ苦しみが生ずるかというとその原因は渇愛に代表されるところの煩悩があるからです。その煩悩(とくに渇愛)が滅した状態が涅槃(ねはん)で、涅槃に至るには八正道(はっしょうどう)などの実践行が必要というのが釈迦の基本的な教えです。

しかし「シンギュラリティ(特異点)は近い」の著者であるカーツワイルにとって、「老」や「病」や「死」は苦しいこと・不幸なこと、したがって回避したいことではあっても「生」(あるいは生き続けること)は「苦」ではないようです。

仏教の面白い――あるいは奥深い――のは、「病」や「老」や「死」だけでなく「生」も等しく「苦」の原因だと説いているところです。「生」というのは仕事でも私生活でも何でも渇愛という心的動因の連続で成り立っています――だから何とか生き続けられるとも言えるわけですが。

上述の意味での特異点やAIに、それは避けられない事態だと共鳴している「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、しかし、彼の前作である「サピエンス」のなかで以下のように述べています。ハラリは仏教についてとても造詣が深いようです。

「現代の最も支配的な宗教は自由主義だ。自由主義が神聖視するのは、個人の主観的感情だ。自由主義は、こうした感情を権力の市場の源泉と見なす。物事の善悪、美醜、是非はみな、私たち一人ひとりが何を感じるかによって決定される。」

「宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とはまったく異なる探求方法をとってきた。なかでも特に興味深いのが仏教の立場だ。・・・仏教によれば、たいていの人はこころよい感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。その結果、自分の感情に非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。・・・だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。・・・苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ。」

生の苦といっしょに死を視野に入れた場合の高齢化(あるいは生の意味合い)と、遺伝子工学やナノテクノロジーやロボット工学の成果を活用して病気や死を回避し続ける状況における高齢化(あるいは生の持つ意味)とは、同じ高齢化ではあってもその色合いはずいぶんと違います。


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2024年1月16日 (火)

注連飾りは小正月まで

関西では注連(しめ)飾りは小正月(十五日)までです。四国東北部の瀬戸内もそういうところは関西文化圏なので、したがって注連飾りは十五日までです。七日までではありません。

一月は、正月三が日、松の内(松七日)が明けた日の七草粥――今年も忘れずにいただきました――、十一日の鏡開き、十五日の小正月といくつかの節目を超えて少しずつ正月から日常へ戻り、「鬼は外」の節分(二月三日)で一区切りです。

注連飾りは小正月のあと処分するとして、神社に持ち込んで焚き上げてもらうのが一般的です。去年は近所の神社に徒歩で持参しましたが、今年は車で地域の一宮(いちのみや)にドライブを兼ねて納めに行きます。

以前にも書いたことですが、「正月」と「節分」、「ヤマ」と「サト」のつながりで一年の最初の一ヶ月の流れを実感するのがいちばん腑に落ちます。

「サト」は、農耕の地です。農作物がいっぱいで安定し生活も便利です。しかしその分、霊的なものの勢いが衰えています。一方「ヤマ」は、霊的なものやスピリットのパワーに満ちています。だから、山伏たちは、霊的なものの力を求めて山に入ります。

年に一度、サトの人たちは、ヤマから霊的なものにサトに降りてきてもらい、サトをスピリットで満たします。それがお正月で、霊的なものは「オニ」と呼ばれます。サトの家では、オニへの目印にヤマのシンボルを玄関に飾ります。門松あるいは根つきの松です。

約一ヶ月の間、オニはサトを霊的なパワーで満たします。霊的な力がサトに充溢したら、オニはヤマに帰ります。その日が節分で、鬼は外、です。そのとき、サトの人たちは感謝の念を込めて豆を撒きます。


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2024年1月 9日 (火)

ユヴァル・ノア・ハラリの「共同主観的な虚構」と吉本隆明の「共同幻想」

ユヴァル・ノア・ハリルが著した「ホモ・デウス」(2016年英語版)におけるキーワードは「共同主観的な虚構 (intersubjective fictions)」です。人間はイヌやネズミのような他の生き物にはないところの特徴的な能力を持っており、その能力とは共同主観的な夢や虚構を織り上げることができる才能のことだというのがハリルの主張です。

共同主観的な夢や虚構とは、人間の共通の想像の中にしか存在しないもののことで、たとえば共同体、宗教、国家、法律、自由、平等、資本主義、社会主義などが該当します。そういうものは虚構なので触ろうとしても触れないし、またそういうものは当然のことながら自分では比喩以外の痛みを感じることもない。

共同主観的な虚構は、しかしながら、時間の経過とともに、虚構ではなく共同主観的な現実 (intersubjective reality) となります。たとえば、日本や米国やEUにおいては資本主義が共同主観的な現実ですし、同じ朝鮮民族で構成される北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、北朝鮮と韓国が非常に異なる共同主観的な虚構に支配されそれが共同主観的な現実になったからです。

人間の集合的な想像力が、共同体や国家といった諸制度を生み出したというのが吉本隆明の「共同幻想論」(1968年)の骨子ですが、人間の集合的な想像力を吉本は「共同幻想」と名づけました。「共同幻想」は、ハラリの「共同主観的な虚構」とほぼ重なります。吉本は共同幻想としての国家というものをマルクスから学んだと述べているのでその重複は腑に落ちます。

もっとも「共同幻想論」の対象は国家が成立する以前の日本における共同幻想で、一方、ハラリの「ホモ・デウス」は、《ヒトも動物も植物も岩も同じという意味でのアニミズム(Animism)》→ 《絶対者としての神が世界を統御しているという意味での神イズム(Theism)》→ 《人間がいちばん偉いという意味でのヒューマニズム(Humanism)》→ そして、《人工知能とアルゴリズムが人間の大部分を主役の座から引きずり下ろすかもしれないというポストヒューマニズム文脈でのデータイズム(Dataism)》という流れを射程範囲にしているので、「共同幻想」と「共同主観的な虚構」とでは、途中から見える景色が大きく変わってきます。

「ホモ・デウス」も、マルクスの著書に似て、直線的に進展する史観――あるいは旧約聖書的な史観――が色濃い書作ですが、マルクスが資本主義社会の次により高次な、あるいは理想的な状態としての共産主義社会を想定したのに対して、ハリルはヒューマニズムのあとにデータイズムという黙示論的な状態になるかもしれない世界を提示しているようです。

関連記事は「抽象化ということ」。


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2023年12月29日 (金)

しめ(注連)飾り

正月に飾るしめ飾り(注連飾り)は、しめ縄に縁起物などの飾りをつけたもののことですが、地域差があります。札幌のように日本各地の複数の正月文化が混入した地域では、創作的なしめ飾りも人気です。

四国東北部の瀬戸内でも標準的な形のしめ飾りがあるので、我が家でもそれを飾ります。注文してあったのが昨日のまだ暗くなる前の夕方に届いたので、さっそく飾り付けました。すぐ下の写真は飾り付ける前のそのしめ飾りです。

2024-a

モノの本によると「海老(えび)型」と呼ばれているようです。再びモノの本によれば、日本には五系統のしめ飾りがあり、その五つとは、「牛蒡(ごぼう)じめ」系、「大根じめ」系、「玉飾り」系、「輪飾り」系、「前垂れ」系だそうです。どんな形かは言葉から連想できますが、「えび型」は「ごぼう締め」ないしは「大根締め」の変奏のように思われます。牛蒡(ごぼう)も海老(えび)も正月料理の定番素材です。そういう名前が選ばれたのでしょう。

しめ縄・しめ飾りの形の大本を天津神の伊勢ではなく国津神の出雲に求めると、写真のような様子です。紙の幣が風で揺れています。

Photo_20231228174301
148


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2023年12月18日 (月)

抽象化ということ

ものごとを抽象化しながら区分するというのは簡単ではないけれども楽しい作業です。それが完成すると、何か新しいものを摑んだ気分になります――実際はそうではなかったにしても。

物理的な世界の動きはたいてい美しい数式で表現されることになっていて、それ以外の、それをはみ出した世界も同様に美しく表現されるかどうかは別として、そういう無駄のない数式表現という抽象化はきれいです。もっとも世界は見たいようにしか見えないというのも間違えてはいないので、きれいな数式で要約された世界はその限られた範囲で存在するだけかもしれません。

より効果的にあるいは効率的にモノを売るために市場や消費者をいくつかに区分して操作するのも身近な抽象化ですし、人類の政治・社会・経済の遷り変りを発展段階という巨大な連続する石段を設置して記述するのもまた抽象化です。社会科学のそういう抽象化に関して突出していると思われるのがカール・マルクスとユヴァル・ノア・ハラリです。

カール・マルクスは、19世紀半ばに、彼の弁証法的唯物史観にしたがって、社会の発展段階を次のように大胆に抽象化しました。

■原始共産制
■古代奴隷制
■封建社会
■資本主義社会
■共産主義社会

実際は、そういう発展段階とはならずに、資本主義社会も共産主義社会も同じ産業主義社会で、平等よりも自由を優先させた産業主義社会が資本主義社会になり、逆に自由よりも平等を重視した産業主義社会が共産主義社会となったわけです。両者に実質的な差はありません――マクロな意味での経済運営の上手下手の違いは相当にありましたが。

イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは「ホモ・デウス」という著書(英語版の出版は2016年)で彼の史観とそれに基づく未来像を提示しました。

■アニミズム(Animism): ヒトも動物も植物も岩も同じ、それぞれが霊的なものの顕れで、それぞれに差はない。
■神イズム(Theism): 絶対者としての神が宇宙や世界を統御している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など。どちらかというと一神教の神。
■ヒューマニズム(Humanism): 知能(インテリジェンス)と意識を持つ人類(ホモ・サピエンス)が、動物よりもなによりも、いちばん偉い。人類が神になった。つまり、ニーチェの「神は死んだ」。ヒューマニズムとは、人類が自身を崇める宗教。
■データイズム(Dataism): ポスト・ヒューマニズム。人類(ホモサピエンス)はもはや主役ではない。人間とは生体アルゴリズムのことだとすると、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーやネットワークテクノロジーの進化で、人工アルゴリズムそのものであるところのコンピュータが、アルゴリズムとしては人類よりもはるかに優れているので、世界のシナリオライターになり、主人公になる。ほとんどの人類は「役に立たない存在」となる。

二人に共通するのは、樹の下に坐って世界の循環や輪廻を瞑想する仏教的な「森の思想」(註2)に対して、「砂漠の思想」(註1)とでも名付けられるところの、旧約聖書風に世界を高みから超越的な視点で俯瞰する方法です。この思想では世界は直線的に進展します。世界の変遷を眺めるマルクスの方法が唯物史観(史的唯物論)なら、ハラリの方法はデータ史観(史的データ論)です。二人ともユダヤ人です。

(註1) 世界には初めと終りがあり、時間は直線的に進み、その直線的な思考を彩るのは進歩概念と黙示録的な終末思想です。この考え方を、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が出てきた風土を考慮して「砂漠の思想」と呼ぶ場合がある。
(註2) 仏教の場合、万物が空なので、絶対的な存在もまた空ということになります。動物と植物は生まれ、土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生するという「円環的世界観」が成立します。つまり、世界には初めも終わりもないし、時間は輪廻的に循環し円環する。この考え方を、「砂漠の思想」が誕生した場所との風土的な対比で「森の思想」と呼ぶことがある。

人類の流れを抽象化するということは、人類の流れを何らかの視点で虚構化するということですが、その視点は共同幻想です。いっしょに暮している人たちが共有する集団的な思いが共同幻想です。マルクスとハラリの違いは、二人がそれぞれの切り口で鳥瞰した「共同幻想」の移り変わりにそれぞれどういう名前を付けるか、その違いです。

「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」。これは小林秀雄の「当麻」というエッセイの一節ですが、「・・・イズム」的な、固着する傾向のある流行的なものの見方(「様々なる意匠」)とその専横をもともと嫌いな小林ならではの主張です。これはことあるごとに本質なるものをすぐに求めたがる抽象化指向と意識的に距離を置くもので、直線的な抽象化作業の真逆にあるものの捉え方です。細部の記述が具体的で色鮮やかな「ホモ・デウス」はそうではないのですが、重機で巨石を積み重ねたり切り倒した巨木を大ナタで削り取るようなタイプの抽象化までは達していないにもかかわらず思い込みの強い抽象的な論述を読んだ後では「当麻」はいいバランス調整になります。


人気ブログランキングへ

 

| | コメント (0)

2023年9月20日 (水)

蝶々はなぜそこにいる?

凡ての生物は、この文章を書いている当事者も含めて、そこに存在する理由があるからそこで生きているという考え方があり――そうでない考え方もあるとしても――その考えに従うと連続殺人犯もアゲハ蝶やモンシロチョウにも存在理由があることになります。

蜂は、スズメバチなどは刺されると一大事ですが、ミツバチなどは蜂蜜を生産してくれるし、またたいていの植物の受粉を媒介してくれるので彼らの存在の理由というのが――ヒトというものにとっての存在理由ということになりますが――簡単に想像できます。

しかし、蝶々はひらひらしているのを見ている分には季節を感じて楽しいし、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」(安西冬衛「春」)のような壮大で絵画的な光景の蝶々も捨てがたいものがありますが、蝶々は「連続殺人犯」(正確には「連続殺『葉』犯」でもあるので)、すべてのものには存在理由があるので好き勝手をさせてもよいという考え方には賛同しかねます。

凶悪な(と言う形容詞をつけてみますが)連続殺人犯が出現したら警察は彼(ないし彼女)を逮捕し、状況によっては判事や住民が彼や彼女に死刑を宣告するように――それを一応まっとうな考え方だとすれば――休むことなくいろいろな植物の若い葉を食べ尽くそうとする蝶々の卵や幼虫を殺虫殺菌剤などの手段で排除するのもまっとうな考え方ということになります。

ほんとうは蝶々というような鬱陶しい存在はこの世からすっかり消えてほしいとしても、「凡ての生物は、この文章を書いている当事者も含めて、そこに存在する理由があるからそこで生きているという考え方」に従えば、そうもいかない。穏和な殺虫殺菌剤で彼らの接近を防御する(あるいは排除する)か、あるいは犯人を恨みながら傷だらけになった葉を処分してやるか、それ以外の対応策を思いつかないので気分は鬱陶しい。


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2023年6月28日 (水)

99円の「文語訳 旧約聖書」

「文語訳 旧約聖書」が日本聖書協会から電子書籍の形態で発行されていてその値段が99円なので購入してみました。

紙媒体の文語訳「舊新約聖書」は以前に買ったのが本棚にあるのですが、書籍の大きさがほぼ文庫本サイズなので――ただしとても太っている――昔の文庫本と同じで活字がとても小さい。気になる部分を通読したりある箇所を確認したりといった参照目的には、ランダムアクセスには適さないとしても、活字を好みの大きに拡大できる電子書籍が便利です。

旧約聖書は、そこから「聖書」という言葉を外し、オールド・テスタメント(Old Testament、旧い契約書、あるいはユダヤの神とその信者との間に交わされた契約についてのごった煮風の説明書)として読んだほうがユダヤ教やキリスト教に関係ない身としては接しやすい。

とはいえ「旧約」は、そこに哲学的なあるいは聖なる記述が存在するとはいえ、相当な部分が、怨みと妬み、さまざまな刑事犯罪や民事事件、あるいは裏切り行為などの事例がなまなましく溢れているところの、有体に言えば神のパワハラ・セクハラや執拗なイジメ、殺人と残虐行為と奸計事例の並んだ百科事典のような、そして登場する人名が多すぎていささかうんざりする歴史書のような読み物です。

無人島に一冊の本を持っていくとしたらそれは何かという問いに対して、開高健が「現代語訳でない旧約聖書。欧文脈、和文脈、漢文脈の完璧な成果。ただし、私は無信仰者である。人間学として読むのである。すべてはここに言い尽くされている。」と答えたのは、だから、よく理解できます。

仏教は、仏典や論書に記述される犯罪はなまなましいというよりも――そういうのもありますが――初期仏教系のものでも大乗仏教系のものでも表層心理が舞台の粗い犯罪や深層心理やその奥に繋がる微細な罪が中心なので、つまり、「旧約」の犯罪や罪がダイナミックな相貌を持つのに対して、仏教経典に記述される犯罪や罪はその性格や描写がスタティックなので、お経は、「旧約」と違って無人島に持っていくにはいささか退屈すぎるようです。

ただし、「旧約」は、犬養道子著「旧約聖書物語」などを前もって読んでおかないと、無人島に持って行っても途中で嫌になって投げ出すだけかもしれません。

それから、今回、電子版に目を通してみて、ある勘違いに気が付きました。「旧約」の「創世記」は「太初(はじめ)に言(ことば)あり」――あるいは「はじめにロゴスあり」――で始まると思っていましたが、それは記憶違いで、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神とともにあり、言(ことば)は神なりき」で始まるのは「新約」の「ヨハネ書」でした。

「創世記」は、「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり 地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり 神の霊(れい)水(みず)の面(おもて)を覆(おほひ)たりき 神光あれと言たまひければ光ありき」で始まります。「神光あれと言たまひければ光ありき」というところは意味的には確かに「太初(はじめ)に言(ことば)あり」だとしても、言(ことば)が出現する前のぐちゃぐちゃとした世界というものもそこにはありそうです。

老子は「名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり」と言いましたが、「名」とは言葉のことなので、名前(言葉)のない状態が天地の始めだとして、それに名前が付けられて世界が始まったというわけです。名前を付けたのがそれぞれ誰かということを別にしても、また、言葉への執着の度合いが「旧約」と「老子」では天と地ほど隔たっているとしても、両者には似たような香りが漂っているとも言えます。


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2023年6月19日 (月)

司馬遼太郎の開高健への弔辞は、「開高健の風景」とでも題したい

弔辞は故人へ贈る別れの言葉ですが、同時に弔辞には故人のことを必ずしもよく知っているのではない葬儀への列席者に故人の一生や業績を要約して印象的に紹介するという側面があります。弔辞の持つもうひとつのひそかな役割は、故人との関係において喪主の中に存在すると思われるなんらかの達成感、それを正当化する気持ちに、第三者としての同意を提供するということです。

司馬遼太郎の開高健への弔辞(1990年1月12日)は――司馬遼太郎と開高健がとそれほど親しい間柄であったかどうかについてはよくわからないししても「不幸ヲ見テハ郷党相集フ」という理由で喪主から依頼されたようです――、当然ながらそういう側面や役割も含んでいて、そして開高健の文体と作風と作品の見事な要約になっています。司馬遼太郎には「空海の風景」という上下二冊の名作がありますが、活字にすると十三ページくらいの短篇の分量であるところのこの弔辞は「開高健の風景」とでも題したいほどの迫力を持っています。

(【註】なお、司馬遼太郎の開高健への弔辞はその全文が「悠々として急げ : 追悼 開高健」(筑摩書房)という本に収められている。)

司馬は開高を「大兄(たいけい)」と呼びかけます。こういう場合に使われる「大兄」という言葉は美しい。

以下に、印象的な部分を引用してみます。

司馬は開高の作品全体を以下のようにまとめます。

《その人工的な世界には、ヴェトナムがあり、戦場の死体があり、グルメ的崇物主義があり、マグナム瓶のワインがあり、また知的ではちきれるように烈しい自己主張をもちながら、死体のように自己を諦めきった饒舌の美女があり、さらには中部ヨーロッパの都市の汚い路地の奥の酒場があります。》

最も気に入っているらしい「夏の闇」に関しては、以下のような言葉で呼びかけます。

《『夏の闇』一作を書くだけで、天が開高健に与えた才能への返礼は十分ではないかと思われたのです。それほど小生は『夏の闇』が気に入っていました。》

《『夏の闇』における主題は、さきにふれた西欧的絶対というものにはかかわらず、プラスもなくマイナスもなき東洋的ゼロというものでありました。ゼロ、空(くう)のことです。空に内臓を入れ、血を循環させ、体温をもたせ、粘液をしたたらせるというものが『夏の闇』でありました。・・・中略・・・絶対を持たぬ日本的土壌に置いてむろん成功した文学的営みの例はたくさんあるにせよ、『夏の闇』は、まったく新しい地平――絶対のかわりに空を置くという地平――をきりひらいたものでありました。》

《『日本三文オペラ』のころから気づいたのは、開高健における文体の掘削力というものでありました。大地に深く爪を突き刺して掘りくずしてゆく巨大な土木機械を思わせるような文体の創造とその成長に驚くうち、やがて『夏の闇』にいたって、特殊金属でできあがったようなその文体は、いよいよ妖怪のような力を見せました。・・・中略・・・この信じがたい手間ひまのあげくにつくりあげられたのが『夏の闇』であり、名作という以上にあたらしい日本語世界であり、おそらく開高健はこの一作を頂点として大河になり、後世を流れ続けるでありましょう。》

そして、遺作となった「珠玉」については、次のように静かに語りかけます。

《この最後の作品においては、得らるべくもない「絶対」へのあこがれや疑心暗鬼は消滅し、それを掘削するために必要だった土木機械は、かすかなエンジン音をたてているだけで休止しています。・・・中略・・・情景はことごとく大兄がかつて遍歴した町々や山峡(やまあい)や戦場であります。それらが故郷に帰る六部(りくぶ)の目にうつる情景のように巡りゆき、最後に主人公らしい人物が、女に対し、自分は生身ではなく、空である、と正体を明かすようにして終わるのです。能に似ています。あるいは「大乗経典」に似ているかもしれません。・・・中略・・・いずれにせよ、開高健は、『珠玉』によって、自らの生を送り、みずからの葬儀をしつらえ、みずから声明梵唄(しょうみょうぼんばい)をとなえたのです。》

関連記事は「開高健の『花終る闇』」。


人気ブログランキングへ

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧