花と存在、存在と花

2017年6月22日 (木)

夏至のお祝い

札幌のような北の街で暮らしていると、個人的に一年でいちばんお祝いしたいのは一年で昼がいちばん長くなる「夏至」の日です。しかし、6月21日~22日というのは、日本の各地は梅雨の最中だし気温も高いので、鬱陶しくて、お祝いという気分ではないのかもしれません。でも、ぼくとしてはお祝い気分に浸りたい。
 
夏至の周辺にディオニソス的熱狂を求めると札幌では6月上旬に「よさこいソーラン」とという団体演舞風があります。しかし、ぼくの欲しいものではありません。
 
夏至のころの花は、札幌では「アカシア(ニセアカシア)」ですが、地味な白い花です(写真)。「アカシアの雨に打たれて」という歌詞がよく似合う雰囲気の花で、ディオニソス的熱狂とは程遠い。
 
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で、バジルです。いつもは、屋内で発芽させてから素焼きの鉢植えに移すのですが、今回は戸外に置いた土ポットに直接種を播いてみたら、ゆるゆると夏至に合わせて発芽してきました。ぼくと同様に日照時間の長さを一番楽しんでいる。つまり、両者はある種のディオニソス的な傾向を共有していると、無理して言っておきます。
 
20170622rev
 
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2017年6月 7日 (水)

アップルミントと雑草

どこかから種が飛んできて生育したとは考えにくい。ミントの一種なので誰かが家庭で要らなくなった苗を植えたか捨てるかしたのでしょうか。去年は道路脇のこの場所にミントは見かけなかったと思います。現在は街路樹用の植栽場で街路樹(プラタナス)を取り囲むようにどんどんと繁茂しています。
 
Photo
 
以前、別の記事にも書いたことですが、ミントは雑草以上に生命力が強いハーブです。僕の経験では、ミント類でいちばん繁殖力が強いのはアップルミント(上の写真)です。地面に植えると背の高さは50~60センチメートルくらいにはなり、彼女の登場以前にそのあたりでわが世の春を謳歌していた雑草などは(写真の左上に写っていますが)簡単に駆逐されてしまう。
 
時間があれば(そして覚えていれば)1ヶ月後にどうなったか確かめてみようと思います。おそらく、そのあたりはアップルミントの産業集積地になっている。ノマド(遊牧民)風に気楽な生活を楽しんでいた雑草は生活基盤を失っている。
 
雑草にとってはアップルミントも似たような仲間ですが、ミントのようにぼくたち(植物分類学者をのぞく)が比較的よく名前を知っている種類の草はそうでないのよりも優遇されるので、その他の雑草にとっては腹立たしいに違いない。13世紀初頭から「華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」(きれいな花は惜しまれつつ散り、そうでない雑草は嫌われつつ生い茂るものである)ということに変わりはないようです。
 
ペパーミントも強いミントですが、よく考えずにアップルミントと寄せ植えなどしてしまうと非常に分が悪い。ペパーミントにはほとんど勝ち目がない。

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2017年6月 2日 (金)

「・・・の如し(ごとし)」

仏教という絶対者を想定しない形而上学的な宗教は、「空(くう)」を軸に、世界を次のような構造でとらえようとします。
 
(一) 「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界、対象が言葉によって切り刻まれた文節的な世界」
(二) 「(途中の悟りの段階で見えてくる)そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な世界、あるいは区分や区画が発生する前の未文節的な世界、空の世界」
(三) 「(悟りがさらに進んだ人たちが住む)非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる、区分と文節の世界、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」
 
(三)は見かけは(一)とまったく同じです。(一)から(二)を経由して(三)へと往還した人たちだけが同じ見かけの奥にある違いを知っている。
 
以下に十二世紀に生きた中国の禅僧と十三世紀の日本の禅僧の言葉を並べてみます(後者は前者の本歌取り的な立場に位置している)。
 
『水清(きよく)して底(てい)に徹す、魚(うお)の行くこと遅遅(ちち)たり
 空闊(ひろく)して涯(はて)しなし、鳥飛んで杳杳(ようよう)たり。』
 
『水清(きよ)くして地に徹す、魚行(い)いて魚に似たり。
 空闊(ひろ)くして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し。』
 
どちらの表現にも引きつけられます。
 
後者に引かれるのは、悟り(空)の世界と日常の世界、無分節な世界と分節された世界が二重写し的にクロスオーバーされており(魚行いて魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し)、クロスオーバーされた世界が持つ透明感に凄みがあるからです。前者に引かれるのは、「似たり」や「如し」のような修辞を使わなくても、無文節な世界と文節化された世界のクロスオーバー状態は厳としてそこにあり、その状況の被写界深度がとても深いからです。
 
でも、どちらが好きかと云われたら、ぼくは後者の凄みのほうに傾きます。

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2017年5月31日 (水)

「正法眼蔵」のなかの「われ」

「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」のような著作では、キーワード的な用語の定義はゆるやかであり、固定的ではありません。読者は、普通、同じ著作物の中ではある用語が同じ意味を担い続けることを期待しますが(なぜなら、そうでないと読みにくいし、通常はそういう約束事が書き手と読み手の間に成立していると思っているので)、道元の「正法眼蔵」は必ずしもそういう具合に進んでくれません。議論の文脈や話題が変われば、その用語の意味合いがドラスティックに遷移します。
 
「正法眼蔵」は「空(くう)」についての形而上学的な著作なので、そこに描かれた世界は「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界・文節的な世界」「そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な(空の)世界」そして「非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる(戻ってくるしかない)、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」という(三層構造のような)構造になっています。(「文節」や「非文節」といった考え方や用語は井筒俊彦の「意識と本質」や「Toward a Philosophy of Zen Buddhism」から)
 
そういう世界の見え方、あるいは、世界と自分とのそういう三重の関係性を、中国、宋時代のある禅僧(青原惟信)は平明な日常用語で次のように述懐しました。
 
「上堂して言った,わしは三十年前,まだ禅に參ずる以前,山を見れば山であり,川を見れば川であった。のちになって親しく善知識にお目にかかり,入り口が見つかった時,山を見ても山でなくなり,川を見ても川でなくなった。今は落ちつく場所が得られて,前と同じく,山を見ればただ山であるだけ,川を見ればただ川であるだけだ。諸君,この三種の見かたは,同じか別か。はっきりと区別がつけられる者がいたら,わしと出逢ったと認めよう。」(「嘉泰普灯録」、訳文は衣川賢次著「感興のことば」から引用)
 
だから「正法眼蔵」に登場する「われ」も、
 
・「外界と内部をともに二元論的に区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」
・「主客の区分や固定的な実体の存在しない無文節な(狭義の)空の世界におけるわれ」
・「無文節な空や無の世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した(広義の空の)世界に住んでいるわれ」
 
の三つの衣装を文脈や状況に応じて纏うことになります。
 
「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻の冒頭には意味合いの異なる二つの「われ」が、最初は明示的に、つづいてもうひとつは非明示的に現れます。
 
「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。・・・・しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」
 
「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。」の「われ」は明示的な「われ」で、「外界と内部をともに区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」です。だから、そういう「われ」にとらわれない世界では、二元論的な対立概念であるところの迷いも悟りも、生も滅もともに存在しない。二つの区分そのものがない。
 
「しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」(そうではあっても、きれいな花が散ってしまうのは惜しいし、雑草が繁茂してくるのを見るのは嫌いだ)と感じる(明示的でない)「われ」は「無文節な世界を経て再び分節化した世界に住んでいるわれ」です。しかし、そういう空や無を経た「われ」でも分節化した日常では花を惜しみ雑草を嫌う。
 
「われ」はそこにとどまりません。「有時(ゆうじ、ないし、うじ)」という巻に登場する『われ』は、また別のニュアンスを持っています。
 
「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいるわれ」には違いないのだけれど、文節的な「われ」がどうも強く匂うようです。
 
ぼくたちが「世界」や「われ」という言葉と出会ったときには、ぼくたちのなかで世界が分節化していても分節化していなくても、存在論的な意味合いでの「世界」や「われ」というものがまず頭に浮かびます。時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」というのはどうも後回しになる。時間としての「世界」、時間としての「われ」というものには、ぼくたちはなじみが薄い。ぼくたちの成長過程で刷り込まれることになっているものの一つがアイデンティティーや自我の確立ですが、そういう場合のアイデンティティーや自我とは存在論的なそれのことです。
 
だから、「われを排列(はいれつ)しおきて尽界(じんかい)とせり、この尽界の頭頭物物(ずずもつもつ)を時時(じじ)なりと「しょ見」すべし。物物(もつもつ)の相礙(そうげ)せざるは時時の相礙せざるがごとし。・・・・われを排列して、われこれを見るなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。」といった一文を前にすると、ぼくたちは、時間論的な「われ」の出現でどうにも落ち着かない。
 
ぼくたちをもっと落ち着かせなくさせるのは、この一節における文節的な「われ」の香りの強さです。「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいる『われ』」には違いないのだけれど、その『われ』のなかからどうしても文節的な「われ」が強く匂いだしてくるように感じられます。ぼくには、これは道元がわざとそうしていると思われるのですが、その理由は、時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」に不慣れな人たちに「有時」という衝撃を与え、「有時」に引き寄せるためには「われを排列して、われこれを見るなり」といった文節的に見える「われ」の在りようが必要だったからです。
 
「有時」とは、普通は「或る時は」くらいの意味ですが、道元はそれを、「存在(有)」と「時間(時)」がいっしょになったもの、(存在とは時間であり、時間は存在であるという意味で)存在と時間の一体性を表すもの、として使っています。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」時間はもともと存在である、存在とは時間のことである。
 
塵(ちり)の小片ひとつの中にも世界のすべてが含まれている。「華厳」とはそういう存在論的に輝く世界です。しかし、そういう世界観だけでは、時間論的な「われ」の出現を聞かされたぼくたちの「落ち着きのなさ」は消えないかもしれません。だから、文節的な「われ」と勘違いしそうなくらいの「スーパー華厳的な『われ』」が、ここでは持ち出されたのでしょう。それが「有時」における「文節的なわれ」風の香りの強さにつながっているように思われます。
 
そういう香りを持ちながら「正法眼蔵」の「われ」は時空を貫きます。「われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず(自己に時があるはずである。自己がすでにあるのだから、時が自己を離れて行ってしまうはずがない)」。
 
過去が現在を呑み込みながら現在を吐き出しているとも考えられますが、「われ」という現在が過去を呑み込み、同時に新たに、現在と過去を吐き出しているのでしょう。

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2017年5月11日 (木)

サクラガサイタ・補遺

「桜は満開よりも、六分七分の方が好き」ですが、ゴールデンウィーク中の先日夕方、札幌のあるところで、満開の桜の樹の下から上を見上げてシャッターを押したときに、偶然、華やかだけれども想像以上にしっとりとした風情の満開の花が撮れていました。満開の桜もこういう按配ならうんざりもしませんし、艶めかしすぎてひょっとして樹の下に屍体が埋まっているのではないかなどと考える必要もありません。
 
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桜は象徴的な表象なので、満開に限れば、実際の桜よりも、手前と向こうに三重くらいに重なり合うのが四角に切り取られたこの写真のような淡い桜色のぼんやりとした花の集合の方が、桜らしいとも云えます。その桜の近くには、こんな外壁の家がありました。いい組み合わせです。
 
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2017年5月 2日 (火)

花と街のメッセージ

いつも楽しみにしている、黒板に書かれた「街のメッセージ」も「桜が咲いた」から「緑の新芽」に変わりました。桜はこれからが満開で散ってしまったわけではありませんが、メッセージ作成者の視点は桜の花から新芽に移ったようです。先日の「「セロニアス・ヒムセルフ」と「正法眼蔵」」という記事の関連で、「正法眼蔵」のなかで花や華が登場する印象的なところを二つ引用してみます。
 
「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、生あり死あり、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。・・・略・・・しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」(あらゆるものが、ともに区分的・文節的な自己でない時節には、二元対立的なものであるところの、惑いもないし悟りもない、仏もないし衆生もない、生もないし滅もない。・・・略・・・しかし、たとえそうではあっても、やはり、きれいな花は惜しまれつつ散り、そうでない雑草は嫌われつつ生い茂るものである。)
 
「本無華なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。」(花は本来的には空であるとはいっても、その空の花は、今、確かに存在している花でもある。この事情は、目の前の桃の花や李(すもも)の花についても同じであり、目の前の梅の花や柳の花についても同様である。)
 
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2017年4月26日 (水)

「セロニアス・ヒムセルフ」と「正法眼蔵」

ジャズピアニストであるセルニアス・モンク(1917 – 1982)のたとえば「セロニアス・ヒムセルフ」というピアノソロアルバムを聴いていると、道元(1200 – 1253)の「正法眼蔵」の一節を読んでいるような気分になります。
 
ジャズが好きでもセロニアス・モンクが嫌いなかたは、彼独特の不協和音や彼独自のリズム(リズムのとぎれや乱れ)にうんざりして彼から遠ざかったみたいですが、モンクを好きなかたにとってはそこが彼の魅力の源泉です。道元の「正法眼蔵」のような形而上学的著作物では彼が意識的に作り出す独自の不協和音やリズム感の「前後際断」に頻繁に出会えます。
 
「正法眼蔵」はわかりにくい書物です。禅を含む仏教全般の知識がある程度あるくらいでは歯が立たない。わかりにくさの理由は、おそらく次の二つです。
 
そのひとつは、言葉や用語の定義。「この言葉(この用語)はここではこういう意味で使います」というその定義の仕方(というか使い方)がとても大胆なこと(たとえば「悉有仏性」、これについては後述)。
 
もうひとつは、ある言葉(用語)をある意味で(ある定義で)使ったあと、その同じ言葉(用語)をすぐあとに別の意味で(別の定義で)使うという不協和音的な転調が好きなことです。たとえば、自己。同じ自己でも自分を含む世界を区分しようとする自己とそういう執着から自由になった自己とが同じ自己という言葉で連続し、どちらの自己かは文脈から判断するしかないのですが、文章自体がいわば不協和音の響きを内在させた音楽みたいなものなので、それほど簡単ではありません。
 
後者(二つめの理由)に関してひとつ追加すれば、極端な場合には、たとえば複数の漢字からなる用語(たとえば、古仏心)を説明しながら、説明の後でそれを三つに分解し、そのうちの二つを自由に組み合わせて(たとえば、古心、心古、心仏など)新しい意味を創り出すといったことにも躊躇がありません。読者にとっては、新たな不協和音の登場です。
 
「一切衆生悉有仏性」というぼくたちにとって比較的おなじみの表現は、通常は「一切衆生、悉く(ことごとく)仏性(ぶっしょう)有り」(すべての存在に仏性―如来蔵とも呼ばれている-がある)と読み、仏性の有無を説明する表現ということになっていますが、道元はそう読まない。彼の形而上学がそう読ませない。「悉有(しつう)は仏性なり」と強引な(つまり高校の漢文の授業だったら教師から間違いだといわれるような)読み方をします。
 
人も草木も石も山も風もすべての存在は、仏性が、そのまま、それぞれにそれぞれの瞬間に顕れたものであるという「空」の構造を道元風に表現したものが「悉有(しつう)は仏性なり」です。ちなみに、仏教という絶対者を想定しない形而上的な思想においては仏性とは真理(曖昧な言葉ですが)のことです。別の形而上的な表現だと「空(くう)」とも云う。
 
何もないところから、人も草木も石も山も雲もすべての存在が顕現します(なにもないのでその意味では空であり無です、しかし、顕現するということは、それらの潜在態がすべてそこにあるので、その意味では有であり空です)。
 
「般若心経」という短いけれどもとても哲学的なお経があります。そのお経はこの存在の往復運動(循環運動)のことを「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」とまとめました。「悉有(しつう)は仏性なり」は、仏性を軸にそのまとめをさらに道元流に凝縮したものと云えます。
 
正法眼蔵のある章だけを読み返し、そのあとセロニアス・モンクの好きなピアノソロアルバムの好きな曲だけを数曲聴き返すというのもけっこう楽しい作業です。順番は逆でも構わない。
 

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2017年4月20日 (木)

赤紫の樹の芽と、黄緑の樹の葉

この二日間雨が降り続きました。外を歩く人間は傘とコートが必要なのでちょっとうんざりですが、発芽準備中の樹々にとっては歓迎の降雨です。雨の結果、植物園や街路の樹々は汚れがとれてきれいになり、芽の数を急に増やし始めました。遠目には赤紫のぼんやりとしたかたまりが急にいくつも空中に浮かんできたと映ります。
 
あと10日もすれば、その赤紫が一斉に黄緑に変化するのですが、気の早いのは、下の写真の左半分のように、他との横並びなどは眼中になく、すでに、いつのまにか赤紫の芽を黄緑の葉に変えています。
 
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芽を葉に変える、芽が葉に変わると書きましたが、ぼくたちは、たいていは、寒い冬が暖かい春になり、赤紫のかたい芽が柔らかい黄緑の葉になるというように、時間の均等な連続性に基づく変化を自然に(あるいは勝手に)意識しています。だから、上の写真のような景色を目にすると、右半分の赤紫には現在であると同時に現在のなかの過去を、左側の黄緑には現在であると同時に現在の中の未来を見ることになります。
 
しかし、そうでないものの見方もあります。緑の葉は緑の葉として、昏いところから常に新しく顕れ続けるのであり、赤い芽が葉になるのではない。春は春として形のない潜在態から瞬間瞬間に新しく生まれ出ているのであり、冬が春になるわけではない。刺激的な見方です。そういう見方でこの写真の光景を眺め直したりもします。

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2017年2月10日 (金)

続・さっぽろ雪まつり

一昨日の「札幌雪祭り」という記事で、大小の雪像が依代(よりしろ)だ、と書きましたが、その大きな雪像のひとつが、現在復元工事が進んでいる「興福寺 中金堂」です。お寺がかみさまの依代になっている。そういうことをぼくたちはじつに自然に納得します。
 
神仏習合という言葉や本地垂迹(ほんじすいじゃく)説という考え方があります。神仏習合はかみさまと仏さまがいっしょになってワイワイという曖昧な雰囲気があり、その曖昧さに魅力があります。本地垂迹説となると、「垂迹」(あとを垂れる)というのは難しい言葉ですが「化身」という意味なので、つまり、かみさまは、「本地」であるところの仏が衆生救済のために姿を変えたもの(すなわち、「化身」)である、という考え方です。妙に理屈っぽい。
 
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本地垂迹説という理論に行き着くまでには、かみさまは仏教との関連で、その前にあたる段階を経験したようです。下の写真は、宇佐神宮(大分)にある弥勒寺(つまり、神宮寺)の跡ですが、神宮寺とはかみさまのために用意されたお寺という意味です。
 
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仏教で六道という考え方があります。衆生が徘徊する六つの迷界のことですが、その六つとは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天で、仏教が伝わったころは、かみさまは「天」という迷界の住人でした。人間にお寺が必要なように、かみさまにも衆生救済の対象という意味で(なにしろ迷界の住人なので)お寺が必要で、神宮寺が作られました。かみさまが、仏様の化身として「菩薩」や「大菩薩」に出世するのはその後のことです(たとえば、八幡大菩薩)。
 
依代としての雪像寺院を彩るプロジェクションマッピングを見ながら、そんなことを考えていました。
 
蛇足ですが、「垂迹」(すいじゃく)と同じような意味の言葉に「権現」(ごんげん)があります。「権」(かり)に「現れる」ということなので、「化身」です。「■■権現」は各地にあります。

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2017年2月 8日 (水)

札幌雪祭り

公式名称は「さっぽろ雪まつり」です。
 
日本の「まつり」とは、神道以前の昔から日本にいらっしゃる「かみさま」のおいでを、身を清めて待ち、かみさまと出会う手段のことなので、雪まつりもそのひとつということになります。
 
かみさまが来臨する場が「依代(よりしろ)」ですが、依代が神社である必要はありません。木でもいいし岩でもいい。即席に作ったものでもいい。大小の雪像が依代です。かみさまとのコミュニケーションの方法が「祝詞(のりと)」です。昼は歌手という「巫覡(ふげき)」・「巫女(ふじょ、みこ)」を媒体とした歌が歌われ、夜は音楽と色彩の華やかなプロジェクションマッピングが輝き、それらが祝詞になります。
 
祝詞のひとつであるところのプロジェクションマッピングを、配偶者と、ミーハーしてきました。まつりには不可欠なお酒も食べ物も、軒を連ねた屋台でふんだんに用意されています。
 
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「さっぽろ雪まつり」のころは、例年、一時的に気温が緩むことが多くて、せっかく作った雪像に悪影響が出ることがあります。しかし、「雪まつり」が終わるとまた寒気がぶりかえすので、皮肉なものです。今年も初日は日中の最高気温が氷点下という冬日ではありませんでした。しかし、二日目以降は十分に寒いようです。

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