存在が花する

2018年4月13日 (金)

回り道が必要な「大乗起信論」

サンスクリット語でかかれた原典を漢文に訳したものが「大乗起信論」ということになっているのに、つまり、「馬鳴菩薩 造。真諦三蔵 訳」〈述作者は馬鳴(めみょう)菩薩。漢訳者は西インド出身の訳経僧、真諦(しんだい)。〉と最初に書いてあるのに、サンスクリット原典が見つからないのが「大乗起信論」です。
 
だから、もともとサンスクリット原典などなく、だれか優れた僧侶が最初から漢文で書いたに違いないという専門家の意見もありますが、ぼくはそういうことには関心がありません。
 
「大乗起信論」とは、大乗への信心を起こさせる書(論文)というくらいの意味です。だから、英訳本だと英文タイトルは “The Awakening of Faith“ です。しかし、「大乗」といっても小乗仏教に対する「大乗」というのではなく、「仏教的な観点から見た真理」、「仏教的な観点から見た形而上的な真理」といった意味で「大乗」という言葉を使っているようです。
 
最初に読んだときには、「原文」と「読み下し文」と「現代語訳」を交互に読んでも、何を書いてあるのかよくわからない。用語の使い方が独特だし(たとえば、「アーラヤ識」、唯識での「アーラヤ識」は、ユングの集合的無意識をもっと深めたようなもの、「起信論」では「悟り」と「迷妄」が重なり合う集合体)、ある用語が事前説明や補足説明なしに急に飛び出してくるので困ってしまう(この論文が書かれた頃の読者はそういう事態にはまったく困らなかったにせよ)。
 
それから、この論文は、どういう読者を想定しているかを最初にあたりにわざわざ書いてあり、そのなかには、プロもアマチュアも含まれており、今風に言えばA4二枚以上の長い文章は読みたくないというような読者も想定されています。だから論理展開はわかりやすいに違いないと思ってしまうのですが、表現をできるだけ簡潔にコンパクトにと努めたせいも影響してか、実際の論理展開はとても込み入ったものになっています。形而上学的な議論が展開する中核部分の論述は、複雑な構成の変奏曲といった趣の書物です。
 
日本の仏教学者による複数の「原文」「読み下し文」「現代語訳」のセットに取り組んでみても、途中ですぐに暗澹となり、我慢して読み進んでもうんざりするばかりでした。
 
しばらく放っておいたのですが、そのしばらくの間に、藁にも縋りつく思いの藁に出会うことができました。その藁になってくれたのが二冊の書物で、ひとつは井筒俊彦の「意識の形而上学 ―『大乗起信論』の哲学」(1993)、もうひとつが ”The Awakening of Faith” (Translated, with Commentary by Yoshito S. Hakeda, 1967) における羽毛田義人のわかりやすい英語訳と丁寧な解説です。
 
そういういわば遠回りをしないと、もともとの「原文(漢文)」「読み下し文」「現代語訳」のセットに戻ってこれませんでした。「原文」「読み下し文」「現代語訳」セットで、回り道の結果、結局のところ落ち着いたのが「大乗起信論 宇井白寿・高崎直道訳注」(岩波文庫)。正確には、高崎直道の訳注という形式の解説です。
 
「大乗起信論」の骨子は、お気に入りの箇所を勝手に持ち出してそれを骨子ということにすると、以下のようになります。
 
《まず、心の真実の不生不滅なあり方(生ぜず滅せずという普遍的なあり方)を、衆生心のうちに如来(という名の真実)が蔵されているという意味で「如来蔵」と呼ぶことにする。しかし、心は現実には絶え間なく変化し生滅する。その普遍的でない(不生不滅でない)生滅のすがたを「心生滅」と呼ぶとすると、全体的な心の構造は、「如来蔵」という普遍的なあり方(の上)に、現実に個別に生滅を繰り返す「心生滅」が重なっているということになる。
 
言葉を換えれば、心の構造とは、不生不滅であるところの真実のあり方という面と、生滅する現実の個別的なすがたという面とが「和合」(結合)した状態である。この両面は、あるべきあり方と現実のあり方という点で同じではないが、ともに同じひとりの衆生の心であるという点では、異なったものでもない。この両面を含んだ衆生ひとりひとりの心のあり方を、ここでは「アーラヤ識」と呼ぶ。
 
この「アーラヤ識」は世俗と超世俗の一切のものを包摂し、一切の現象を顕し出すのでその名(アーラヤ、貯える)があるが、二種の内容を含むと考えると、そのひとつは「覚」(さとり)という内容、もうひとつは「不覚」(まよい、悟っていない状態)という内容である。つまり、「アーラヤ識」は「覚」と「不覚」の和合態である。》
 
「アーラヤ識」は音を漢字に置き換えた訳が「阿頼耶識」、意味的には「蔵識」、したがって英訳本だと The Storehouse Consciousness。《「アーラヤ識」は「覚」と「不覚」の和合態である》は、”the Storehouse Consciousness be defined as the place of intersection of the Absolute order and of the phenomenal order, or enlightenment and non-enlightenment, in man” となっていて言葉の緊張感は希薄になりますが、とてもわかりやすい。
 
この論文に限りませんが、古典というものは、けっこう遠回りの散歩がないと近づけないようです。
 

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月27日 (火)

「シンギュラリティは近い」の口直しには「ハーモニー」と「ホモ・デウス」:補遺

『シンギュラリティは近い』の口直しには『ハーモニー』と『ホモ・デウス』」、という先日の記事に関する補足です。補足内容は、「ハーモニー」と「ホモ・デウス」のそれぞれの著者がそれぞれにその本を書いたときの視点・視座に関することです。
 
ユダヤ教・キリスト教においては、万物が「全能なる神」により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない(そういう意味ではイスラム教も同じです)、世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行(進歩)していると考えられています。そういう「直線的な世界観」が特徴です。
 
つまり、世界には初めと終わりがあり、時間は直線的に進み、その直線的な思考を彩るのは進歩概念と黙示録的な終末思想です。この考え方を、それが出てきた風土を考慮して「砂漠の思想」と呼ぶ場合もあります。
 
マルクスの唯物史観 「原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会→共産主義社会」 などは、その典型例です。
 
また、マルクスから時代を少し遡ると、18世紀初頭の著作物に現れる「天地創造」の例として次のようなものもあります。「神による創造はおそらくこうではなかったろうか。初めに神は物質を創造の目的にそって、充実した、質量のある、堅固で貫くことができない可動粒子として創造し、その大きさと形などの性質や空間的な比率を定めた。」(ニュートン「光学」)
 
延長が性質であるところの外的世界は決定論的に動きますが、わたしという考える自我を含めた世界は直線的に進歩するということになります。
 
それに対し、仏教の場合、まず、万物が空なので、絶対的な存在(たとえば如来)もまた空ということになります。天地の万物は、空ではあるのですが、絶対的な存在の顕れとして絶対的な存在とともにあります。絶対者がなくなるということはないので、その顕れである天地万物もなくなることはない。死んだ動物と植物は土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生する。そこに、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立します。
 
つまり、世界には初めも終わりもないし、時間は輪廻的に循環し円環する。この考え方を、「砂漠の思想」が誕生した場所との風土的な対比で、「森の思想」と呼ぶ場合もあります。
 
超越的な視点を持つには(あるいは超越的な視座に結果として至るには)、ユダヤ教・キリスト教の神のように天の高みから下界を見下ろすという砂漠の方法と、葉が鬱蒼と生い茂る森の樹の下に静かに坐って瞑想をするという森の方法があります。
 
後者に関しては松岡正剛「空海の夢」の次の一節、「まったく『座る』とは東洋のおそろしい発見だったとおもう。・・・その契機は雨期によってとじこめられた森林生活によって余儀なくされたのかもしれないが、そこに『意識と言語の中断』を加えたのは、やはり恐るべき発見だった。」も参考になる。
 
そういうことを考えると、ユダヤ人の歴史学者で「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari)は、彼の中ではやはり「砂漠の方法」がデフォで、その顕れのひとつが「アニミズム→神イズム→ヒューマニズム→データイズム」という世界の発展の推移(どんな虚構、換言すればどんな共同幻想が世界を実質的に支配しているのか、その発展の推移)についての考え方です。
 
それに対して、日本人作家で「ハーモニー」の著者である伊藤計劃(いとうけいかく)の発想のデフォは「森の方法」です。政治と経済やわれわれをとりまく事態が「直線的世界観」を軸に強く進行していくなかで、それに組み込まれない方法しての「森の方法」を、その小説を書くときに強く意識したようにぼくには思えます。
 

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年2月23日 (金)

「シンギュラリティは近い」の口直しには「ハーモニー」と「ホモ・デウス」

レイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」と、伊藤計劃(いとうけいかく)の「ハーモニー」とユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」というタイトルの本を、ここに書いた順番に続けて読んでみました。最初からそういう予定だったのではなく、「シンギュラリティは近い」を読んだ後で、口直しが欲しくなったからです。
 
レイ・カーツワイルは米国生まれの発明家、未来学者であり人工知能の権威。伊藤計劃は、2009年に34歳で鬼籍に入られたSF分野の日本人作家。そして、ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエルの歴史学者で「サピエンス」とその続編である「ホモ・デウス」の著者です。
 
「シンギュラリティは近い」という不思議な題名(宗教関係の本かもしれないというような雰囲気が漂う題名)の本は2005年に出版されましたが、シンギュラリティ(singularity)とは「技術的特異点」という意味(だそう)です。
 
遺伝子工学とナノテクノロジーとロボット工学というのお互いに重なり合う3つの技術を軸にテクノロジー全般が加速度的に進展する(収穫が指数関数的に増加する)、その結果、2045年あたりに「技術的特異点」に達し、そのとき、世界の主人公というか世界の支配者層は「人工知能」になっている。そういう趣旨の本です。
 
その時点の「人工知能」(Artificial Intelligence)を、一部の人類の発展形とみなすのか、人類とは別種の知的な存在と考えるのか、そのあたりは定かではありません。その状況は、「科学革命の構造」における「パラダイム・シフト」のあとの状況よりも、人類を相当にはみ出る部分があるだけに、「特異」です。
 
現在の碁や将棋におけるヒトと人工知能の勝負や、現在のGoogleやAmazonのビッグデータ処理から想像できるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量の総体をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのものがとても安いコストで人口知能そのものとそれを使った製品や労働サービスなどのサービスを、アルゴリズムに沿って再生産(開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事のほとんどを、人工知能が、とても高い経済効率で、代替します。
 
Artificial Intelligence(アーティフィシャル・インテリジェンス)をいちばん最初に「人工知能」とどなたが訳したのか知りませんが、人工「知能」と訳して人口「知性」と訳さなかったのはとてもよかったと思います。「知性」となると「情報処理系・アルゴリズム系の知能」だけでなく「意識」までが含まれるからです。
 
知性を、かりに、科学技術と適合的な「測る知性」、芸術と適合的な「共感する知性」、形而上学的な思索と適合的な「黙想する知性」の三つに層別してみると、インテリジェンスは「測る知性」です。つまり「インテリジェンス」に意識は入り込まない。しかし、「シンギュラリティは近い」の著者は人工知能に意識や感情まで含めたいらしい。しかし、そこまで跳ぶのはいささか「教義的」過ぎる。
 
「シンギュラリティは近い」は刺激的な本ですが、同時に、(ぼくにとっては)読後に口直しが必要な種類の著作でした。おそらく口直しに最適なのは、まず、伊藤計劃(いとうけいかく)の「ハーモニー」です。
 
「ハーモニー」は2008年に上梓されましたが、主人公は三人の女子高校生、女子高時代とその13年後がこの小説の舞台です。21世紀の後半に「大災禍」と呼ばれる(第三次世界大戦のサブセットのような、核兵器も使用された)世界的な混乱を経験した後、人類は大規模で高度な福祉構成社会を構築します。
 
すべてのヒトには「WatchMe」と呼ばれるナノ・デバイスが埋め込まれ、「アルゴリズム」はそのナノ・デバイスを通してヒトの健康状態を監視・維持し続ける。人類のほとんどは、とくにする仕事も役割もないが、日々を健康に生かされている「役に立たない人たち」。「ハーモニー」は、ざっくりと言えば、そういう予定調和的な状況への三人の元少女の、それぞれの、政治的な反乱の物語です。
 
ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」も「シンギュラリティは近い」の口直しに向いています。バイオテクノロジーやナノテクノロジー、人工知能などの進展やその将来の「地位」に関しては「シンギュラリティは近い」やその他の関連論文を参照しているようですが、「シンギュラリティは近い」の技術的で細かい記述を、歴史家のマクロな視点で描写し直してくれます。
 
近代資本主義成立期に発生した農業革命によって大量の人たちが生き場所を失いました。彼らは都市に流れ込み、産業革命を支える大量の「プロレタリアート」となったように(しかし、彼らには単調な、資本家から見れば搾取対象としての工場労働というものがあった)、今度は人工知能の進出で行き場を失った大量の「役に立たない人たち」が世界にあふれることになります。
 
株式トレーディングの世界からヒトがいなくなりました。活躍するのは、迷いなく超高速で売買するコンピュータアルゴリズムです。そのうちコールセンターやその他のサービス部門にもヒトは要らなくなる。弁護士や弁護士事務所の職員も例外ではない。ヒトの兵士も要らない。戦闘機や爆撃機のパイロットも要らない。
 
ハラリの「ホモ・デウス」(出版は2017年)を読んでいると、カール・マルクスの「唯物史観」を思い出します。マルクスは、彼の弁証法的唯物史観にしたがって、社会の発展段階を次のように大別しました。
 
■ 原始共産制
■ 古代奴隷制
■ 封建社会
■ 資本主義社会
■ 共産主義社会
 
実際は、そういう発展段階とはならずに、資本主義も共産主義も同じ産業主義で、平等よりも自由に大きな丸印をつけた産業主義が資本主義、逆に自由よりも平等に大きな丸印をつけた産業主義が共産主義だったわけです。両者に実質的な差はありません(マクロな意味でのビジネス運営の上手下手の違いはありましたが)。
 
ハラリの史観をマルクスの唯物史観風にまとめてみると以下のようになります。ここではその史観をとりあえず「データ史観」と呼んでみます。虚構史観というほうがハラリらしいのですが、そういう言い方だと、マルクスの唯物史観も虚構史観なので、違いは、それぞれの切り口で鳥瞰した「共同幻想」の移り変わりにどういう名前を付けるか、その差です。
 
■ アニミズム(Animism): ヒトも動物も植物も岩も同じ、それぞれが霊的なものの顕れで、それぞれに差はない。
 
■ 神イズム(Theism): 絶対者としての神が宇宙や世界を統御している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など。どちらかというと一神教。
 
■ ヒューマニズム(Humanism): 知能(インテリジェンス)と意識を持つ人類(ホモ・サピエンス)が、動物よりもなによりも、いちばん偉い。人類が神になった。つまり、ニーチェの「神は死んだ」。ヒューマニズムとは、人類が自身を崇める宗教。
 
■ データイズム(Dataism): ポスト・ヒューマニズム。人類(ホモサピエンス)はもはや主役ではない。人間とは生体アルゴリズムのことだとすると、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーやネットワークテクノロジーの進化で、人工アルゴリズムそのものであるところのコンピュータが、アルゴリズムとしては人類よりもはるかに優れているので、世界のシナリオライターになり、主人公になる。ほとんどの人類は「役に立たない存在」となる。
 
もっとも、ハラリは「人工知能(アーティフィシャル・インテリジェンス)」はあり得ても、「人工意識(アーティフィシャル・コンシャスネス)」はあり得ない、という考えの持ち主のようです。AIというもので、知能(インテリジェンス)と意識(コンシャスネス)を混同するシリコンバレーの連中には違和感を持っている。反撃しようと思っている。そのようにぼくは、感じます。
 
それは、「ホモ・デウス」の献辞 「To my teacher, S.N.Goenka (1924-2013), who lovingly taught me important things.」からも読み取れます。S.N.Goenkaは、ミャンマー生まれのインド人で、在家の瞑想指導者です。
 
そういうものがじわじわとにじみ出てくる。それが、それなりの「口直し」になります。
 

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月13日 (木)

早朝の水遣りの楽しみ

札幌だと家庭で夏野菜の水遣りが楽しめるのは、6月と7月と8月の3か月だけです。晴れた早朝に「おはよう」と声をかけ、根が地中に伸びたあたりに適量の水を遣ったあと、霧吹きで葉を湿らせてやると、気持ちよさそうに背を伸ばします。ぼくにはそう見える。
 
植物との間に無言の会話みたいなものが成立してもおかしくないと勝手に思っています。シソ科植物を適切な場所で摘芯すると、そのあと、その場所から新しい芽が左右に倍々ゲームで伸びてきますが、それなども、野菜とのある種の対話といえなくもない。
 
20170712_2 バジル
 
三木成夫(みきしげお)は内臓というものの持つ意味について深い思索をした医学者(解剖学・発生学・自然哲学)ですが、彼は、ヒトの体を、「外皮系(感覚)と神経系(伝達)と筋肉系(運動)」からなる「体壁系」と、「腎菅系(排出)と血管系(循環)と腸管系(吸収)」からなる「内臓系」の二つに分けました。ぼくにとって目からうろこだったのは、体壁系を「動物器官」、そして内臓系を「植物器官」と位置づけたところです。
 
「すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『食と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。」(三木成夫著「内臓とこころ」より)
 
ぼくのなかにもこの大きなリズムと呼応する植物的な機能が内在していて、その機能がたとえば水遣りのときにバジルの持つ同様の(しかし、原初の)機能とシンクロナイズしていると考えると、植物との無言の会話らしきものの意味が腑に落ちます。
 

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月11日 (火)

食べたくてしかたがない、やっつけたくてしかたがない

防御本能から相手をやっつけるというのは、やっつける程度にもよりますが、不可思議な行為ではありません。しかし、これが、正義のために敵をやっつける、神様(ないしは、そういうもの)のために敵を抹殺するとなるとどうなるか。そういう行為もぼくたちはそれなりに納得してしまいます。昔も今も頻繁に目にする光景です。
 
どうしてそういうことが繰り返されるのか、そして、そういうことに違和感を抱かないのということを、それなりにきれいに説明してくれるのが、ポール・マクリーンのいう「脳の三層構造(ないし三位一体型の脳)」です(下がその絵。ただし、ここでは「魚類脳」という余分なものを追加してある)。
 
「人類は苦悩している。自然は人類に三つの脳を授けたが、それらは構造がひどく異なるにもかかわらず共に機能し、たがいに通じ合わなければならないという代物だ。この三つの脳のうち最古のものは基本的に爬虫類の脳であり、二番目が下等哺乳類から受け継いだ脳である。そして三番目は後期哺乳類から発達した脳で、それが人類を異様に『人類的』にしてきたのである。」つまり、「本能脳」と「情動脳」と「知性脳」という育ちと構造の違う三つの脳が辻褄合わせをしながらなんとか共生しているのが「ヒト」だということです。
 
Photo
先日、伝統的な大豆の発酵食品であるところの「味噌・醤油・納豆」の人体への悪影響について気になる記述があるらしいというので、それを確かめるために「最強の食事」(デイヴ・アスプリー著、栗原百代訳)を読んでみましたが(関連記事は「味噌と醤油とヒスタミン」)、その本の中で、上述の「三位一体型の脳」モデルが参照されていました。
 
著者の考え方の文脈におけるこの絵のポイントは、知性脳と情動脳と本能脳の三つにバランスよくエネルギーを補給しないと、知性脳は疲弊してしまい、情動脳と本能脳の暴走を知性脳は食い止められないということです。「低脂肪、低カロリー」の健康ダイエットは、知性脳をまっさきにエネルギー切れにするし、いわんや、そのあたりのオメガ-6系の植物油たっぷりのファストフードにおいておや、です。「食後のスイーツは別腹」という知性脳の判断も、要は、不適当な食べもので刺激された情動脳と本能脳の突進を、不適当な食べもので判断力の衰えた知性脳が食い止められなかった結果だ、ということです。
 
古い脳にはプラス面とマイナス面があります。内臓感覚や植物感覚にもとづいた宇宙リズムとの共振といった微細な感覚は、新しい脳にはない古い脳の持つプラス面です。マイナス面は、大きくは、自分の神と同じ神を信じない人たちを「献身的に」殺していく宗教戦争であり、イデオロギーによる大量粛清などです。小さくは、我々におなじみの、突然に湧き上がる不合理な激情です。たとえば、「ふとわれに返ったときには、大型容器のアイスクリームを半分も平らげてしまっている」(最強の食事)という事態です。
 
しかし、もっとややこしいのは、いい食べものを食べて知性脳と情動脳と本能脳の三つにバランスよくエネルギーを補給すれば、小学校のクラスで見られるイジメみたいなもの、たとえば「ボクは良い子で強い子なので核兵器を持ってもいいけれど、キミは悪い子で弱い子なので核兵器を持っちゃだめだよ。クラスのほかの子もそう言っているよ。約束を守らないとイジメちゃうよ。」がなくなるかというと、必ずしもそうではないらしいということです。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月22日 (木)

夏至のお祝い

札幌のような北の街で暮らしていると、個人的に一年でいちばんお祝いしたいのは一年で昼がいちばん長くなる「夏至」の日です。しかし、6月21日~22日というのは、日本の各地は梅雨の最中だし気温も高いので、鬱陶しくて、お祝いという気分ではないのかもしれません。でも、ぼくとしてはお祝い気分に浸りたい。
 
夏至の周辺にディオニソス的熱狂を求めると札幌では6月上旬に「よさこいソーラン」とという団体演舞風があります。しかし、ぼくの欲しいものではありません。
 
夏至のころの花は、札幌では「アカシア(ニセアカシア)」ですが、地味な白い花です(写真)。「アカシアの雨に打たれて」という歌詞がよく似合う雰囲気の花で、ディオニソス的熱狂とは程遠い。
 
Photo
 
で、バジルです。いつもは、屋内で発芽させてから素焼きの鉢植えに移すのですが、今回は戸外に置いた土ポットに直接種を播いてみたら、ゆるゆると夏至に合わせて発芽してきました。ぼくと同様に日照時間の長さを一番楽しんでいる。つまり、両者はある種のディオニソス的な傾向を共有していると、無理して言っておきます。
 
20170622rev
 
人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 7日 (水)

アップルミントと雑草

どこかから種が飛んできて生育したとは考えにくい。ミントの一種なので誰かが家庭で要らなくなった苗を植えたか捨てるかしたのでしょうか。去年は道路脇のこの場所にミントは見かけなかったと思います。現在は街路樹用の植栽場で街路樹(プラタナス)を取り囲むようにどんどんと繁茂しています。
 
Photo
 
以前、別の記事にも書いたことですが、ミントは雑草以上に生命力が強いハーブです。僕の経験では、ミント類でいちばん繁殖力が強いのはアップルミント(上の写真)です。地面に植えると背の高さは50~60センチメートルくらいにはなり、彼女の登場以前にそのあたりでわが世の春を謳歌していた雑草などは(写真の左上に写っていますが)簡単に駆逐されてしまう。
 
時間があれば(そして覚えていれば)1ヶ月後にどうなったか確かめてみようと思います。おそらく、そのあたりはアップルミントの産業集積地になっている。ノマド(遊牧民)風に気楽な生活を楽しんでいた雑草は生活基盤を失っている。
 
雑草にとってはアップルミントも似たような仲間ですが、ミントのようにぼくたち(植物分類学者をのぞく)が比較的よく名前を知っている種類の草はそうでないのよりも優遇されるので、その他の雑草にとっては腹立たしいに違いない。13世紀初頭から「華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」(きれいな花は惜しまれつつ散り、そうでない雑草は嫌われつつ生い茂るものである)ということに変わりはないようです。
 
ペパーミントも強いミントですが、よく考えずにアップルミントと寄せ植えなどしてしまうと非常に分が悪い。ペパーミントにはほとんど勝ち目がない。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 2日 (金)

「・・・の如し(ごとし)」

仏教という絶対者を想定しない形而上学的な宗教は、「空(くう)」を軸に、世界を次のような構造でとらえようとします。
 
(一) 「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界、対象が言葉によって切り刻まれた文節的な世界」
(二) 「(途中の悟りの段階で見えてくる)そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な世界、あるいは区分や区画が発生する前の未文節的な世界、空の世界」
(三) 「(悟りがさらに進んだ人たちが住む)非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる、区分と文節の世界、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」
 
(三)は見かけは(一)とまったく同じです。(一)から(二)を経由して(三)へと往還した人たちだけが同じ見かけの奥にある違いを知っている。
 
以下に十二世紀に生きた中国の禅僧と十三世紀の日本の禅僧の言葉を並べてみます(後者は前者の本歌取り的な立場に位置している)。
 
『水清(きよく)して底(てい)に徹す、魚(うお)の行くこと遅遅(ちち)たり
 空闊(ひろく)して涯(はて)しなし、鳥飛んで杳杳(ようよう)たり。』
 
『水清(きよ)くして地に徹す、魚行(い)いて魚に似たり。
 空闊(ひろ)くして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し。』
 
どちらの表現にも引きつけられます。
 
後者に引かれるのは、悟り(空)の世界と日常の世界、無分節な世界と分節された世界が二重写し的にクロスオーバーされており(魚行いて魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し)、クロスオーバーされた世界が持つ透明感に凄みがあるからです。前者に引かれるのは、「似たり」や「如し」のような修辞を使わなくても、無文節な世界と文節化された世界のクロスオーバー状態は厳としてそこにあり、その状況の被写界深度がとても深いからです。
 
でも、どちらが好きかと云われたら、ぼくは後者の凄みのほうに傾きます。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月31日 (水)

「正法眼蔵」のなかの「われ」

「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」のような著作では、キーワード的な用語の定義はゆるやかであり、固定的ではありません。読者は、普通、同じ著作物の中ではある用語が同じ意味を担い続けることを期待しますが(なぜなら、そうでないと読みにくいし、通常はそういう約束事が書き手と読み手の間に成立していると思っているので)、道元の「正法眼蔵」は必ずしもそういう具合に進んでくれません。議論の文脈や話題が変われば、その用語の意味合いがドラスティックに遷移します。
 
「正法眼蔵」は「空(くう)」についての形而上学的な著作なので、そこに描かれた世界は「(私たちが普段住んでいる)主体と客体が区分された二元論的世界・文節的な世界」「そういう主客の区分やものごとの区画が消えた非文節的な(空の)世界」そして「非文節的な世界を通過したあとでまた戻ってくる(戻ってくるしかない)、非文節的なものの日常的な顕れであるところの区分と文節の世界」という(三層構造のような)構造になっています。(「文節」や「非文節」といった考え方や用語は井筒俊彦の「意識と本質」や「Toward a Philosophy of Zen Buddhism」から)
 
そういう世界の見え方、あるいは、世界と自分とのそういう三重の関係性を、中国、宋時代のある禅僧(青原惟信)は平明な日常用語で次のように述懐しました。
 
「上堂して言った,わしは三十年前,まだ禅に參ずる以前,山を見れば山であり,川を見れば川であった。のちになって親しく善知識にお目にかかり,入り口が見つかった時,山を見ても山でなくなり,川を見ても川でなくなった。今は落ちつく場所が得られて,前と同じく,山を見ればただ山であるだけ,川を見ればただ川であるだけだ。諸君,この三種の見かたは,同じか別か。はっきりと区別がつけられる者がいたら,わしと出逢ったと認めよう。」(「嘉泰普灯録」、訳文は衣川賢次著「感興のことば」から引用)
 
だから「正法眼蔵」に登場する「われ」も、
 
・「外界と内部をともに二元論的に区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」
・「主客の区分や固定的な実体の存在しない無文節な(狭義の)空の世界におけるわれ」
・「無文節な空や無の世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した(広義の空の)世界に住んでいるわれ」
 
の三つの衣装を文脈や状況に応じて纏うことになります。
 
「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻の冒頭には意味合いの異なる二つの「われ」が、最初は明示的に、つづいてもうひとつは非明示的に現れます。
 
「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。・・・・しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」
 
「万法ともに『われ』にあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。」の「われ」は明示的な「われ」で、「外界と内部をともに区分するわれ、すなわち文節的な世界と適合的なわれ」です。だから、そういう「われ」にとらわれない世界では、二元論的な対立概念であるところの迷いも悟りも、生も滅もともに存在しない。二つの区分そのものがない。
 
「しかもかくのごとなりといへども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」(そうではあっても、きれいな花が散ってしまうのは惜しいし、雑草が繁茂してくるのを見るのは嫌いだ)と感じる(明示的でない)「われ」は「無文節な世界を経て再び分節化した世界に住んでいるわれ」です。しかし、そういう空や無を経た「われ」でも分節化した日常では花を惜しみ雑草を嫌う。
 
「われ」はそこにとどまりません。「有時(ゆうじ、ないし、うじ)」という巻に登場する『われ』は、また別のニュアンスを持っています。
 
「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいるわれ」には違いないのだけれど、文節的な「われ」がどうも強く匂うようです。
 
ぼくたちが「世界」や「われ」という言葉と出会ったときには、ぼくたちのなかで世界が分節化していても分節化していなくても、存在論的な意味合いでの「世界」や「われ」というものがまず頭に浮かびます。時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」というのはどうも後回しになる。時間としての「世界」、時間としての「われ」というものには、ぼくたちはなじみが薄い。ぼくたちの成長過程で刷り込まれることになっているものの一つがアイデンティティーや自我の確立ですが、そういう場合のアイデンティティーや自我とは存在論的なそれのことです。
 
だから、「われを排列(はいれつ)しおきて尽界(じんかい)とせり、この尽界の頭頭物物(ずずもつもつ)を時時(じじ)なりと「しょ見」すべし。物物(もつもつ)の相礙(そうげ)せざるは時時の相礙せざるがごとし。・・・・われを排列して、われこれを見るなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。」といった一文を前にすると、ぼくたちは、時間論的な「われ」の出現でどうにも落ち着かない。
 
ぼくたちをもっと落ち着かせなくさせるのは、この一節における文節的な「われ」の香りの強さです。「有時」の「われ」は「無文節な世界を経て、再び、無文節な世界の顕れとしての分節化した世界に住んでいる『われ』」には違いないのだけれど、その『われ』のなかからどうしても文節的な「われ」が強く匂いだしてくるように感じられます。ぼくには、これは道元がわざとそうしていると思われるのですが、その理由は、時間論的な意味合いでの「世界」や「われ」に不慣れな人たちに「有時」という衝撃を与え、「有時」に引き寄せるためには「われを排列して、われこれを見るなり」といった文節的に見える「われ」の在りようが必要だったからです。
 
「有時」とは、普通は「或る時は」くらいの意味ですが、道元はそれを、「存在(有)」と「時間(時)」がいっしょになったもの、(存在とは時間であり、時間は存在であるという意味で)存在と時間の一体性を表すもの、として使っています。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」時間はもともと存在である、存在とは時間のことである。
 
塵(ちり)の小片ひとつの中にも世界のすべてが含まれている。「華厳」とはそういう存在論的に輝く世界です。しかし、そういう世界観だけでは、時間論的な「われ」の出現を聞かされたぼくたちの「落ち着きのなさ」は消えないかもしれません。だから、文節的な「われ」と勘違いしそうなくらいの「スーパー華厳的な『われ』」が、ここでは持ち出されたのでしょう。それが「有時」における「文節的なわれ」風の香りの強さにつながっているように思われます。
 
そういう香りを持ちながら「正法眼蔵」の「われ」は時空を貫きます。「われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず(自己に時があるはずである。自己がすでにあるのだから、時が自己を離れて行ってしまうはずがない)」。
 
過去が現在を呑み込みながら現在を吐き出しているとも考えられますが、「われ」という現在が過去を呑み込み、同時に新たに、現在と過去を吐き出しているのでしょう。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月11日 (木)

サクラガサイタ・補遺

「桜は満開よりも、六分七分の方が好き」ですが、ゴールデンウィーク中の先日夕方、札幌のあるところで、満開の桜の樹の下から上を見上げてシャッターを押したときに、偶然、華やかだけれども想像以上にしっとりとした風情の満開の花が撮れていました。満開の桜もこういう按配ならうんざりもしませんし、艶めかしすぎてひょっとして樹の下に屍体が埋まっているのではないかなどと考える必要もありません。
 
Dsc_4400
 
桜は象徴的な表象なので、満開に限れば、実際の桜よりも、手前と向こうに三重くらいに重なり合うのが四角に切り取られたこの写真のような淡い桜色のぼんやりとした花の集合の方が、桜らしいとも云えます。その桜の近くには、こんな外壁の家がありました。いい組み合わせです。
 
Dsc_4408_2
 
人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧