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2020年4月 9日 (木)

コロナウィルス:各国の対応と、日本の「空気」

下に引用した主要国別の死者数と感染者数の推移グラフ(Financial Times ”Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads | Free to read”)がコロナウィルスに関する各国の状況を一覧するには、ぼくにはいちばんわかりやすい。

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死者数グラフは、縦軸は日々の死者の数、横軸は1日の死者数が3人になった日から現在までの日数(グラフは4月8日まで)。感染者数グラフは、縦軸は日ごとの新たな感染者数、横軸は1日の感染者数が30人になった日から現在までの日数(グラフは4月8日まで)。

イタリアとスペインは1日の死者数が3人になった日から30日から40日経過して感染の拡大がピークを過ぎ、その結果、死者数カーブが横ばいからやや下降気味に(台地系に)なってきたようです。米国は感染がまだ拡大中で、日々の死者数も増加中。日本は死者数(絶対数、あるいは人口10万人に対しての死者数比率)は少ない。

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新たな感染者数もイタリアやスペインではピークを過ぎて減少中。米国はまだ増加中。日本では少ないことになっていた感染者数が「オリンピック延期決定」後の検査数の増加に伴ってそれなりに急に増加し始めた様子がグラフに現れています。

各国の対応を比べると、そこに国民性(ないしは民族性)の違い、あるいは西洋の思考方式や意思決定方式と東洋の思考方式や意思決定方式の違いがそれなりにきれいに反映されているようで、不謹慎を承知で言えばとても興味深い。

ヨーロッパや米国は感染防止対策として国や都市のロックダウン(lockdown)がお好きなようです。それがデフォな選択肢になっている。そしてそういう施策の一部として家計や個人の経済的な救済策が最初からセットになっていて、すぐに実施される。

中国も武漢をロックダウンしましたが、そのやり方をニュース報道やSNSで拝見していると、共産党政府らしいやり方というよりもほとんど漢王朝や唐王朝や明王朝のやり方です。各王朝でそれぞれに発生した騒乱や擾乱や民衆蜂起を制圧・鎮圧した方法のサブセットが今回も出現したようでした。

韓国は都市のロックダウンはせずに、感染検査の数を急速に増やすことで成功裡に対応してきました。この発想がどこから出てきたのかわかりませんが、西洋ロジックではない。

日本は、その点ではユニークです。都市のロックダウンはしない、大掛かりな感染検査を実施するわけではない、法的強制力のない「三密回避」と「外出自粛」を呼びかける。だからかならず「漏れ」はある。

たとえば、北海道の現在患者数が40人になってからそれを下回ることがなくてそのあたりで(最近は少しだすが急に増えたりしながら)停滞しているのは、原因はおそらく東京とのヒトの往来です。ビジネスで東京からヒトがやって来る。札幌から東京に仕事に行って二泊三日くらいで帰って来る。ヒトの往来が少なくて相互に関連のなさそうな北海道の複数の過疎部で急に同時発生的に感染者が出現したというのは学生や家族の「東京からの疎開」がその理由だと思われます。そういう「漏れ」がビルトインされている。「漏れ」としてもう一つビルトインされているのは家計や個人や中小企業や個人事業主の金銭的な救済策の曖昧さと制約と支払いの遅さです。

しかしそういう「漏れ」を抱え込んでいても、結果として「コロナ死者」「コロナ経済不況関連死者」がとても少なくて済むのであれば、ここでは、それはそれで結構であるとします。

欧米のコロナ対応を Democracy(字義通りの訳は「民衆支配」)とすると、日本のコロナ対応は「民主主義」で、つまり似て非なるものです。欧米の対応を Constitution(字義通りの訳は「いっしょに作る」)とすると、日本の対応は「憲法」です。「憲」は「のり、おきて」「法」も「のり、おきて」、つまり「憲法」は「おきて+おきて」という意味になる。欧米と日本のコロナ対応にそういう違いが出ています。

 安倍首相は4月7日の記者会見で、ある記者から、緊急事態宣言を発令しても新型コロナウィルスの感染拡大が抑えられなかった場合の自身の責任について質問された際に、「最悪の事態になった場合、私は責任を取ればいいというものではない」と答えました。本当は首相は「うまく行けば私の手柄だが、うまく行かなかった場合は私の責任ではない」というシンプルな考え方なのかもしれませんが、これは日中戦争から太平洋戦争に至る政府の意思決定を彷彿させます。

当時の政府の最終的な意思は、丸山眞男や山本七平が指摘したように、結局はその場の「空気」「空気感」によって決定されていた。今回の緊急事態宣言やその実行に不可欠な諸政策も中軸シナリオライターが不在のなかで醸成された「空気」が決定したのかもしれません。もしそうなら「最悪の事態になった場合、私は責任を取ればいいというものではない」というのは、うまく行かなかった場合に責任を取るのは閣僚や財務官僚などの官僚を含めたその場の「空気」であって「私」ではない。これももうひとつの「漏れ」かもしれません。

しかし、そういう曖昧さや「漏れ」があるにもかかわらず、ぼくには日本や日本人というもの基本部分に期待するところもあって、日本人は、よく手を洗う、毎日お風呂に入る、握手やハグをしない、マスクをするのが日常習慣である、風呂好き・温泉好きで清潔な国民である。こういう国民性要素や食生活を含む生活要素が、国民目線を失った政治家や官僚、勝手に安全地帯に疎開する人たちの存在にもかかわらず、上述のような漏れを相殺する可能性も高い。海外からのヒトの流入阻止や外出自粛というのも「ミニ鎖国」みたいなものだと考えたら、「鎖国」経験は普段はとくには意識しないけれどぼくたちの文化生活的なDNAの一部になっている。


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2020年3月30日 (月)

コロナの巣ごもり読書には「聊斎志異(りょうさいしい)」

新型コロナウィルス騒動で巣ごもり状態が要請され退屈するかと思ったら、世間は、というか政治と行政の世界はほとんど毎日がコメディなので思ったほど退屈しません。コメディは役者が真面目に演じれば演じるほど滑稽になるとしても、最近の政治行政コメディは登場人物がおのおのの利害と利権の追及にバラバラな方向で熱心なので、その結果、普通のシナリオライターが描く筋書きをはるかに超えたおかしさに満ちています。

「外出は自粛してください。」「不要不急の用事で外に出かけないでください。」「ただし、旅行券と外食券を提供しますので、(外出自粛要請などは気にせずに)旅行し、レストランで思うまま食事を楽しんでください。」「肉や高級魚の購入を支援するクーポンも用意します。」「日常生活で必要なものは政府が責任をもって製造と流通を保証するので心配無用です。」「マスクがいまだに買えないのですがどうなっているのでしょうか?」「申告所得税、贈与税及び個人事業者の消費税の申告期限・納付期限について、令和2年4月16日(木)まで延長することといたしました。」「経済的支援は、前例のない規模で速やかに行います。」「(現金による給付は)当面のキャッシュがない人など(だけ)を対象に(します)。」「(実際の現金給付は)早くても5月末になります。」「首都封鎖も検討しています。」「これでわたしの支持率上がったわね。」「花見や宴会での外出は控えてください。」「都が自粛を求めている公園で花見のような宴会を行っていた事実はない。・・・レストランに行ってはいけないのか。」

「レストランに行ってはいけないのか」を「おいしいケーキを食べてはいけないのか」に翻訳するとフランスやルーマニアではほとんど革命前夜ですが、先日の記事「Financial Times のコロナ(COVID-19)関連の無料記事」で参照した “Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads | Free to read” でも戯画化されているように、日本は「従順で社会規範が強くてマスク着用」の国なので、まだ革命には至っていないようです。

最近になって、東京都でも「密閉」「密集」「密接」の「三密」を回避しようという主旨のメッセージが飛び交うようになってきました。三密の意味は違いますが、三密と言えば密教で、空海です。ただし密教の場合は「三密の回避」ではなく、「肉体と言語と意識のひそかな相互作用であるところの三密、の勧め」になります。

空海の「即身成仏義」という著書に七言八句の頌(じゅ、韻文)があり、下にその上四句を引用します。世界はそのままで(即身)、つまり、ヒトを便利な乗り物として生存しようとしている出自がはっきりとしないがとても頭のよさそうなコロナウィルスを含めてそのままで、悟っている(成仏)という意味の韻文です。

《六大無碍にして 常に瑜伽なり》(宇宙の六つの構成要素はお互いに融けあっていて常に瞑想している)

《四種曼荼 各(おのおの) 離れず》(そういう宇宙を四種類の曼荼羅(まんだら)で象徴的に表現した場合でも、おのおのが離れることはない)

《三密加持すれば 速疾(そくしつ)に顕わる》(私たちの肉体・言語・意識の三種類の働きが仏のそれぞれの働きと応じ合えば、速やかにさとりの世界が顕われる)

《重々(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即身と名づく》(六大と四種曼荼と三密は宇宙の網の中で重なり合っていて互いに映り合うような状態であり、だからそのままで私たちは仏の状態にあると言える)

今回のコメディで登場した演者の(まだまだ進行中なので新しい役者も裏に控えていると思いますが)いろいろな言葉や表現はぼくたちの笑いを誘ってくれるし、またいろいろなことを考えさせてもくれるようです。

さて「聊斎志異」です。

巣ごもり読書には推理小説でもいいのですが、あまりに犯罪者の心理分析が重いものは鬱陶しいので、こういう場合は、神仙・幽霊・妖しい狐や妖しい美女・魑魅魍魎(ちみもうりょう)にまつわる中国の怪異譚「聊斎志異」にしくはない。

日本語訳にいくつかの種類があります。ここでは岩波文庫版の「聊斎志異」(上下二巻)が対象です。完訳本だと短篇掌篇合わせて491篇を訳すので膨大な量になるので、たいていは翻訳者と出版社が読者に面白そうなものを選んで一冊か二冊に収まるようにしてあります。岩波文庫版だと上下二巻で92篇。それぞれ450ページ余り。文字数はとても多く、各ページは(ジジイ、ババア向きでない)非常に小さいポイントの活字で埋まっています。ただし篇ごとに挿絵もついている。

この世のものではない美しさの女性や傾国の美女、えも言われぬ香りの女性が数多くの篇に現れます。路上でそういう女性に出会うこともあるし、そういう女性が深夜に戸を静かに叩く場合もあります。だから題名を手掛かりにそういう女性が登場するに違いない、その可能性の高そうな篇を選んで読み進めるのは一つの方法です。たとえば女性や女性の名前が題名になっているところの「青鳳(せいほう)」「侠女(きょうじょ)」「蓮香」「巧娘(こうじょう)」「紅玉」「連城」「花姑子(かこし)」「緑衣女」「青蛾(せいが)」「嫦蛾(こうが)」など。

「ある日も読書をしているとき、不意に室内にえも言われぬ香りが満ちてきて、しばらくすると佩玉(はいぎょく)の音がしきりに聞こえてきた。驚いて振り返ると、きらびやかな簪(かんざし)や耳輪を飾った美人が入ってきた。」(「甄后(しんこう)」

あるいは「労山道士(ろうざんどうし)」のようないわゆる道教や神仙を匂わせる篇を開くのももう一つのやり方です。「労山道士」では次のようなわくわくする描写に出会えます。

「日もとっぷりと暮れてきたのに灯もない。すると、師匠が紙をまんまるく切り抜いて壁に貼りつけた。と、その紙がたちまち月にかわって、室内をこうこうと照らし出した。・・・・『せっかくこんな月明かりをいただいたのに、黙りこくって飲んでいるのも曲もない。ひとつ嫦蛾(月宮の仙女)でも呼びましょうか』と言って箸を月の中に投げ入れたかと思うと、ひとりの美女が月光の中から姿をあらわした。」

短篇集なので頭から読んでもいいし、書き出しが気に入った篇をつまみ読みしてもいい。一度読んで好きになったのを読み返しても楽しい。


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2020年3月24日 (火)

「アクティブ・ババア」「アクティブ・ジジイ」と姥(うば)捨て山

今回の新型コロナウィルス騒動でも、初期段階でぼくたちの眼に見えた現象は、アクティブシニア層やその層より少し若いアクティブ熟年層がウィルスの攻撃対象やウィルスの顕著な運搬媒体になっていたということです(現在がどういう形の感染カーブのどのあたりにあたるのかよくわからないにしても、初期段階の現象でした)。複数の外洋クルーズ船の主要乗客はアクティブシニア層でしたし(そういう層しか参加しないということであるにせよ)、ライブハウスやスポーツクラブの主要顧客層のひとつは確かにアクティブシニア層です。彼らは体調がいいので、あるいは、体調に如何にかかわらず、昼も夕方もともかくよく動く。

以前はシニア層が屯(たむろ)する場所は午前中の整形外科の待合室や図書館や近所の公園などが多かったようです。今も公立図書館の新聞などは開館時からシニア層に占有されているらしい。早い時間帯のスーパー銭湯もシニア層のサロンだと聞きます。動いていないと気が済まないアクティブシニア層は、静的な空間だけでなく浴室設備のあるスポーツジムやスポーツクラブにも浸透し始めました。

外へ出て積極的に何かをするという意味では図書館通いからスポーツクラブ通いまで一貫していますが、外出先での彼らの自由な振る舞いが若い人の眼にはオーボーな行為と映っているのかもしれません。そういうシニア層には傍若無人な態度を見せる人たちが確かに混じっていて、そういうことも合わさって彼らが「アクティブ・ジジイ」や「アクティブ・ババア」と呼ばれている模様です。

昔々「姥捨て(うばすて)」という風習があったようです。そういう民話や伝説が日本の各地に伝わっていて、これを棄老(きろう)伝説といいます。伝説や民話が残っているということは、そういうこと(あるいは、それに近いこと)が実際に行われたということなのでしょう。柳田國男の「遠野物語」はその一例です。

「姥(うば)」とは老女や老婆を指します。爺ではない。しかし「姥捨て」となると棄(す)てられるのはお年寄りで、そこにはおばあさんもおじいさんも入ってきます。しかし古人が選んだ名称は「姥」。共同体や家族の負担でしかなくなった「ジジイ」や「ババア」を山に棄てた。

世の中には、元気であっても、大きな網に放り込んで姥(うば)捨て山に持っていって棄ておきたい、そういう婆さん連中や爺さん連中が確かにいらっしゃる。そういうシニア層が若い人たちから「アクティブ・ジジイ」や「アクティブ・ババア」と呼ばれているのでしょう。

COVID-19が猛威を振るっているイタリアでは医療スタッフや設備不足で全員を同時に同様な設備で治療できないときに、誰を治療し誰を治療しないのか、その優先順位の決定で苦しんでいる医者もいらっしゃるようです。かりにある70歳の重篤な感染者と、ある20歳の重篤な感染者と、ある1歳の重篤な感染者がいるときに、医療スタッフと医療設備が不足した環境で3人の治療優先順位をつけるとすると、

第1案は、①20歳 ② 1歳 ③70歳
第2案は、① 1歳 ②20歳 ③70歳

となります。20歳と1歳の優先順位をどうするかは「すでに才能や実績として顕在化したもの」と「今後開花する潜在能力や可能性の大きさ」をどう組み合わせてどういう視点で評価するかという哲学的な議論が絡んできますが、70歳の順番を一番後回しにすることについてはその合意形成にとくに悩まなくてもよさそうです。しかしその場合は、捨て置かれる70歳については安楽死という選択肢も必要になります。

しかし実際には当該70歳の持つ政治力や取り巻きが、「70歳の置かれた土俵」と「1歳と20歳の置かれた土俵」を切り離し、70歳の土俵を高みに持ち上げて70歳の優先治療を医者に迫るといった事態も発生します。「アクティブ・ジジイ」や「ババア」の属性のひとつです。


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2020年3月23日 (月)

濃厚接触とソーシャル・ディスタンシング

今回の、世界的にはまだまだ落ち着かない新型コロナウィルス騒動が始まった時に驚いた用語のひとつが「濃厚接触」でした。

「濃厚接触」という言葉できれいな女性のいるところに行ってお酒を飲みながら親しく歓談する場面を連想したら、それもそのひとつには違いないにしても、主にはウィルスの感染者や保有者と親しくおしゃべりしたり、食事をしたり、同じスポーツクラブで運動したり、カラオケボックスで過ごすことなどを意味すると聞いてその不思議な日本語にいささか驚いたものです。その原語というか英語を調べてみると、CLOSE CONTACT でした。もともとは一般語です。それを、どなたが最初に訳したのか、術語(テクニカルターム)の翻訳とはいえなかなかに強烈な訳語です。

ちょっと前まで対岸の火事とみなしてボーとしていたヨーロッパや米国でこのウィルスが急速に蔓延し始めてからのことですが、英語のニュースで SOCIAL DISTANCING という耳慣れない用語が目につくようになってきました(感染症や疫学の専門家にとっては日常語かもしれませんが)。

「濃厚接触」のような刺激的な日本語に訳せないので、ソーシャル・ディスタンシングというカタカナ言葉をそのまま使うとしてもその意味は、「濃厚接触をしない、あるいは濃厚接触の逆をするということ」です。

仕事の場面だと、職場に来て一緒に働くのではなくてテレワークやリモートワーク、あるいは会議室で議論ではなくビデオ会議。学校だと休校やリモート授業。イベントは中止。私的な場面だと、外出は控える、外食はしない、ススキノも行かない。スポーツクラブも行かない。ドラッグストアでマスクの行列に並ぶときに限らず複数で集まる時も前後の人やまわりとは6フィート(1.8メートル)以上離れる、つまりは引きこもり的な生活の勧めということです。

理由は、COVID-19のような接触感染で拡がるタイプのウィルスには SOCIAL DISTANCING することが有効で、そうすることで、感染カーブをフラットにして(つまり低く長く引き伸ばして)感染の拡大を抑える、あるいは感染速度をゆるやかにして医療崩壊を避けることができる。そういう考え方です。

つまり日本では、地域によっては一ヶ月前から実行していることですが、そういう方法を「濃厚接触 CLOSE CONTACT」のように印象的なひと言で要約した表現がないものか。SOCIAL DISTANCINGを「社会(的)距離戦略」としたのでは専門用語辞典風で人口に膾炙しません。「そばに寄るな」「べたべた触るな」「でもバーチャルに濃厚接触したいね」というようなニュアンスを含んで発音しやすく記憶に残る漢字の4文字用語はないものか。

密閉・密集・密接・密着・密議などを避けることなので、とりあえず、「避密のすすめ」あるいは「疎のすすめ」とでもしておきますか。

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2020年3月19日 (木)

オリンピックには新興宗教の香り?

運動やスポーツは走るだけのタイプであってもボールを扱うタイプであっても、好きなら下手なりに楽しいものです。下手なりに楽しいというのは、それを職業や職業に類するものと考える必要がないからです。オリンピックを仕事にしている人たちはそうはいかない。

東京オリンピックをどうするかに関する議論を拝聴していると、なかにはほとんど近代オリンピック教という新興宗教の信者のような考え方のかたがいらっしゃるのでいささか驚かされます。オリンピックの理念や原則といった言葉といっしょに教義らしきものが生な形で姿を見せるのでびっくりするわけです。オリンピックを材料に金儲けを企んでいる人たちではなく、オリンピックを仕事にしている人たちにそういう考えの方が多い。そうでないと仕事にならないのでしょう。

「新興宗教」と言ったのは、IOCができたのが1894年、第一回目のアテネ大会が1896年、つまり近代オリンピックなるものは、わずか125年くらい前(日本だと明治時代半ば、日清戦争の頃)に生まれたました。「新興」です。

新興宗教はその基本的な教義や考え方を、ユダヤ教・キリスト教のような絶対者を想定する宗教的な宗教や、仏教のような絶対者を想定しない哲学的な宗教など三千年から二千年くらい前の世界に生まれた宗教に依拠していることが多い。あるいはそうでなければ、その後世界(に拡がることになった)宗教が出現する以前に各地域に生まれていたその地域固有の神々(たとえばギリシャ神話に登場する神々や日本の神道の神々など)に根差してしていることも多いようです。

近代オリンピックもその基本的な考え方は古代ギリシャ人がオリンピア祭に催した古代オリンピック競技のそれから来ています。古代オリンピック競技は運動だけでなく詩の競演も含んでいたようですが、紀元前776年から紀元393年まで4年ごとに開催されました。

紀元393年の古代オリンピック競技が最後になったのは、その翌年,オリンピック競技会の開催を禁じるテオドシウス帝の勅令が出されたからです。キリスト教徒であったテオドシウス帝は「ギリシャの神」に捧げられるオリンピックを「異教的なもの」(キリスト教の勝手な言い草ですが)として排除しました。ギリシャ人も他民族・異民族をバルバロイ(よくわからない言葉を話す人たち)と呼んでいたので似たようなものです。中華思想では東夷・北狄・西戎・南蛮がバルバロイです。

「宗教」といったのは、オリンピックを仕事にしている人たちにとっては、オリンピックは他のスポーツ競技会(たとえば世界選手権)やスポーツイベントとは違ってたかがスポーツではないらしいからです。そういうところに原理主義的・教条主義的な匂いが漂います。オリンピック以外の競技会は「バルバロイ的」なのでしょう。

古代ギリシアにおいて開かれていた大規模なスポーツの祭典としては、古代のオリンピックにあたる「オリンピュア大祭」のほかに、「ネメア大祭」と「イストモス大祭」と「ピューティア大祭」の三つの競技大会があったそうです。

「オリュンピア大祭」は4年に1度、「ネメアー大祭」は2年に1度、「イストモス大祭」も2年に1度、「ピューティア大祭」は4年に1度開催されましたが、4つの競技大祭のうちゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われたそうです。だから、これが近代オリンピックにつながった。

ちなみに、古代ギリシャの哲学者プラトンは青年期はアテナイを代表するレスリング競技者として活躍し「イストモス大祭」(4年に1度のオリュンピア大祭の開催年の前後の年に、つまり古代オリンピックを挟んで2年ごとに開催された)に出場したらしい(そういう弟子の記録が残っている)。当時のギリシャ世界の世界選手権大会です。オリュンピア大祭(古代オリンピック)と比べると格が落ちる。プラトンがオリュンピア大祭(古代オリンピック)に参加したかどうかはわからない。多分参加していない。プラトンが「バルバロイ的」な「イストモス大祭」だけに参加していたかもしれないというのは何となく興味深い。本当は何十キロも歩くのが面倒なのでアテナイと地理的に近い大会に参加しただけかもしれないのですが。

オリンピックの聖火採火式が行われるのはヘラ神殿跡です(ヘラはゼウスの奥さん)。ゼウスも天の高みから採火式を見下ろしているのでしょう。ギリシャ神話的な意味で宗教的な儀式です。古代ギリシャの神々の息吹が、どうして現在のオリンピック関係者の教条主義的な(ギリシャの神々からすれば異教的な)姿勢に繋がるのかぼくにはよくわからない。


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2020年3月17日 (火)

安倍首相のスピーチや質疑応答における冗漫と曖昧

新型コロナウイルス対応に関する安倍首相の2度目の記者会見が3月14日(土曜)の午後6時からあり、その模様がNHK(テレビとインターネット)で中継されたのでテレビやタブレット端末の画面を通して拝見・拝聴しました。

安倍首相のスピーチや質疑応答はたいていは応援演説風で、応援演説とは「○○君をよろしく」「●●さんをご声援ください」以外にはとくに意味を持たないので適当に聞き流すにはいいとしても、しかしそうではなくて話の内容を真面目に理解しようとするとなかなか大変です。なぜなら彼のスピーチや彼の応答は以下のような特徴を持っているからです。

・何が主語で何が述語なのかかが、どうもはっきりしない。
・つまり、行為の主体が曖昧だし、その曖昧な行為主体が何を目的に何をするのかということも曖昧であり、そういう曖昧な叙述が区切りなく流れて行く。
・なくても構わない、似たような形容詞と副詞がむやみに(うんざりするくらいに)多い。「意気込み」を感じさせる似たような動詞の繰り返しも多い。
・「意気込み」の具体的な内容や対象や時期について質問された場合は、その質問と無関係な意見陳述を繰り返してその質問を「しかと」する。まれに彼が何かを説明し始める雰囲気になることがあり、珍しいので聞く側が聞く姿勢になると、後に続くはずの説明が行方不明になる。

ぼくの記憶にある彼のスピーチや質疑応答における発言の基本の流れを再構成してみると次のような具合になります。

「こういうわけでありますから」「まさに」「と考えるわけであります」「迅速に」「一気呵成に」「総力を挙げて」「一丸となって」「しっかりと」「前例に捉われることなく」「全力で」「いわば」「というわけでありますから」「最優先に」「あらゆる手段を使って」「総理大臣としての私の責任において」「真摯に」「これから」「取り組んでまいります」。

その流れの中に主語や目的語に相当する言葉をなんとなくもやもやと混ぜ込んでいくと安倍スピーチや安倍発言ができ上がる。ぼくはこれを『安倍テンプレート』」と呼んでいます。

今回の会見も冒頭に安倍首相から20分を少し超えるくらいの長さのスピーチ(「緊急事態宣言」を可能にする改正特別措置法や世界的に落ち込みを見せる経済への対策についての説明など)があり、その後質疑応答に移りました。

申し合わせ通りにいくつかの幹事会社から提出されていたいくつかの質問が処理された時に、前回と同じく司会(広報官)が大胆にも早々に会見を切り上げようとしたのですが、2週間前の初回と違って、他の記者から「質問に答えてください」「おかしいですよ」「時間取ってもいいんじゃないですか」「総理、これ記者会見と呼べますか」などとといった非難の声や不満の大声が上がり、その結果、質疑は継続されることになりました。これは前回の会見からの改善点です。改善ではあるのですが、首相記者会見が初めて普通の状態の記者会見になっただけとも言えます。

相変わらずだなと思ったのは苛々するくらいに形容詞や副詞の繰り返しの多いことと、主体と主語・述語の関連が曖昧なことです。しかしそういうことでイライラするだけではぼくも時間がもったいない。

「安倍テンプレート」(「こういうわけでありますから」「まさに」「と考えるわけであります」「迅速に」「一気呵成に」「総力を挙げて」「一丸となって」「しっかりと」「前例に捉われることなく」「全力で」「いわば」「というわけでありますから」「最優先に」「あらゆる手段を使って」「総理大臣としての私の責任において」「真摯に」「取り組んでまいります」)と、その夕方の実際の発言を比べながら次はどういう副詞が登場するかを予想したりして楽しんでおりました。


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2020年3月 6日 (金)

チャットサポート雑感

年に一回くらいはチャットサポートを利用します。たいていはIT関連の利用で、電話でもいいのですが、文字情報で会話できると便利なことも多いからです。今回も拡大解釈すればIT関連の利用でした(実際は携帯・スマートフォンのキャリアが提供している通信サービスの料金に関するチャット相談です)。

難しい話ではありません。しかし、どこにあるのかわからない情報を探し回るのが面倒なのでチャットにしました。

ある日ある時さるDMがそのキャリアから届き、「今の使い方ならこういう風な新しい契約に移行すると毎月これだけお得」というのがその内容でした。最近は、キャリア3社の競合が激しくていろいろと新しいサービスを提供し料金改定も行っているので、そのキャリアも継続的に自社サービスの便利さや安さを訴求しないと、お客は競合キャリアや格安SIMベンダーに乗り変えてしまうかもしれません。

紙だけではよくわからないのでそのキャリアのユーザーサイトに入り、お勧めコースの詳細と現在の契約内容との比較シミュレーションを拝見したところ、プラス面は納得できたのですが、お勧めコースの機能やサービスに関するマイナス面・制約面の詳細がよくわからない。

そういうマイナス面はサイトのどこかに書いてあることは確かだとは思うのですが、それを見付けだすのがひと手間です(実際にはそういうのはひと手間で収まらないことが多い)。だから、チャットサポートをお願いしました。特殊な主題ではないので、チャットなら制約事項やその関連事項をまとめて案内してもらえるはずです。

サポート担当者は、新しいサービスメニューの制約事項と移行に伴う留意事項を列挙してくれました。それらは画面に残っているし、コピーもできる。こういうのは電話では無理です。夕方にチャットをし、その夜にお勧めコースに変更しました。

コールセンターやサポートセンターも電話だと顧客や顧客になるかもしれない人の「怒り発言」や「侮辱発言」に応ずるのが大変だと思いますが―――ぼく自身、0120-で始まる番号から商品やサービスの売り込みに関する要領を得ない電話がかかってくると途中で鬱陶しくて我慢しきれなることがあるので―――しかし、チャットサポートだと文字情報が流れてくるだけなのでそこに相手の感情の爆発が観察されても、サポート側はそれほどイライラしなくてもすみそうです。まあ、それで収まらない種類のお客はいるとしても。


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2020年2月21日 (金)

困った時の「大本営発表」

大本営(だいほんえい)とは、現代史辞典風に言えば、「戦時または事変の際に設置された、天皇直属の最高統帥機関」のことです。明治26年に制定され、第二次世界大戦後廃止されました。

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)と言った場合には、太平洋戦争中に、大本営の陸軍部及び海軍部が行った、戦況などに関する公式発表を指します。公式発表だからといって内容の正確さが保証されているわけではありません。大本営に都合のいいように、言葉を換えれば国民の誘導に都合がいいように、攻撃面をより華美に、損害を実際よりも相当に矮小化して公表しました。そういう意味の大本営発表で最初に有名になったのが、おそらく以下の1942年6月の「ミッドウェー海戦」に関する発表です。

__19426

現在の新型コロナウィルスに関する(とくに、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に関する)厚労省やその関連機関の発表も、大本営発表に近い内容のものがあります。

国立感染症研究所は「現場からの概況:ダイアモンドプリンセス号におけるCOVID-19症例」を2月19日に発表しました。そのなかで、いささか断定的に次のような「暫定的な結論」なるものを提示しています。

「発症日の判明している確定例の検討に基づいて評価すると、2月5日にクルーズ船で検疫が開始される前にCOVID-19の実質的な伝播が起こっていたことが分かる(下記船内の常設診療所に発熱で受診した患者数参照)。確定患者数が減少傾向にあることは、検疫による介入が乗客間の伝播を減らすのに有効であったことを示唆している。」

「一部の症例は、客室内での二次感染例であった可能性はあるが、検疫が始まる前に感染した可能性も否定できず、実際にいつ感染したか、判断は難しい。」

確定患者数が減少傾向にあるグラフとは以下の棒グラフです。

《2020年2月6日から17日におけるクルーズ船乗員乗客の発症日別COVID-19確定症例報告数(n = 151)》

Covid19-20200219

これと矛盾するのが、当該クルーズ船の陽性者数(赤い部分)の日別の推移で、船内での二次感染増殖を明確に示唆しているようにぼくには思われます(この棒グラフは、三重大学名誉教授・奥村晴彦 (Haruhiko Okumura) 様のブログから引用させていただきました)。

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また、以下のニュースは、その内容に大本営発表風の脚色がないとして、その感染が明らかに追加的な船内の二次感染なので、上述の大本営発表風の強引さ(「2月5日にクルーズ船で検疫が開始される前にCOVID-19の実質的な伝播が起こっていたことが分かる」)と合わせて厚労省発表の信頼性を相当程度に損なっているようです。

「厚生労働省は20日、新型コロナウイルスの集団感染が起きた大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の船内で事務業務をしていた、厚労省の40代男性職員と内閣官房の30代男性職員の計2人の感染が確認されたと発表した。2人は同じチームだったという。
 厚労省職員は12日から船内の業務にあたっていたという。18日夜から発熱を訴え、翌19日に熱は下がったものの、鼻水の症状はあった。その後、検査で陽性とわかったため、東京都内の医療機関に搬送された。
 内閣官房職員は11日から船内で業務。18日にせきなどの不調を感じ、翌19日はホテルで休んだという。その後、検査で陽性だとわかり、20日午前に都内の医療機関に搬送された。」

「大本営発表」についてその背景の政治構造や時代風景も含めて知りたい場合は、「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」という本が参考になります。


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2020年2月10日 (月)

中国の人たちの立ち居振る舞いの美しさとそうでもないもの

新型コロナウィルスの発生と蔓延への中国共産党やその地方組織の対応を見ていると、先進国の性格と発展途上国の特徴が併存しているだけでなく、こういう問題に対する強圧的な政治体制の限界も現れています。皇帝支配の漢や唐でも一定以上の予期せぬ社会的混乱が起こると、ひとびとはもっとおおらかだったとしても、世間はこんな感じになっていたのかもしれないなと千数百年以上前のライブ映像を目の当たりにしているようです。司馬遷が生きていたらこの状態をどう纏め上げるでしょうか。

最近は中国のYouTuberも活躍中で各地域の家庭料理の映像も興味深いですし、「漢服舞踊」(簡体字だと「汉服舞蹈」)も印象的です。女性用の伝統的な「漢」の服を着て蝶のように舞います。チャイナドレスは「清」の洋服なのでそういうタイプではなくて、身にまとうのはそれより前の時代の(たとえば唐時代の)ひらひらする袖が優美な女性用の絹の着物です。

若い中国人女性が投稿した「漢服舞踊」の動画で出来のいいのを拝見すると、アマチュアだけれども伝統的な漢服で踊る彼女らには日本女性には真似ができない種類の優雅があるようです。この優雅の中には、嫋(たお)やかさだけでなく同性の仇敵を排除するときに見せる優雅な凶悪行為遂行能力も含まれます。そういう時には、今まで絵以外では会ったことも見たこともない中国四大美人である西施(せいし)や王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)や楊貴妃(ようきひ)、あるいは漢の高祖の皇后である呂雉(りょち)の姿を、舞う彼女らに重ね合わせてみたくなる。

またそういう時には、ぼくが高校生だったころに古典(古文と漢文)の先生だった当時40歳代半ば過ぎくらいの女性教師が授業中に雑談風に穏やかに話してくれたことも思い出します。なぜそんなことを男女高校生を相手に話してくれたのか当時も今もよくはわからないけれど。

国語の先生の資質というものが話題になった時に彼女は「国語の教師というのは結局はいい文章が書けるかどうかで決まりね。■■さんは、」と、ある有名女流作家の名を挙げて「今はとてもかなわないけど、学生時代は書くのが上手じゃなかったわ」。それから、漢文の授業のときに何かの具合で話が中国四大美人に飛んだついでに「中国の美人ということだけれど、大学で同級生だった中国人女性の中にはお風呂にいっしょに入ると日本人ではとてもかなわないというくらい肌がきれいでスタイルのいい人がいましたわ」。そういう中国人女性の後輩が今はYouTubeで漢服舞踊を舞っているのでしょう。

中国人の立ち居振る舞いの特徴のひとつは、とても大きな声でよくしゃべることです。札幌でも京都でも香港でも上海でも台北でもシンガポールでもどこでも。街の通りでも、ホテルのロビーでも、レストランでも、デパ地下でも、観光名所でもどこでも。声の大きさは中国語という言語を発声するその具合も関係しているとは思いますが、そういう場合の声の大きさは美学的には印象深いとは思えない。

一方、たとえば、唐の白居易の「琵琶行」(落ちぶれてしまったかつての長安の名妓の弾く琵琶を舟中に聞いて、左遷されたわが身に引き比べるという内容の歌、「行」は長い歌)を中国や台湾の男性や女性が朗誦しているYouTube投稿を聴くと、音から意味は解らないので一緒に表示される文字表現された漢詩を眼で追いながら聴くのですが、朗誦の巧みさもあって七言古詩の韻の流れ(平仄 ひょうそく)が美しく心地よく伝わってきます。

余計なことを付け加えれば、中国人ツアー客の泊まった部屋はたいていは汚れがひどくて、後の掃除が大変であるとはよく聞く話です。ぼくもある都市ホテルに働く方から同じ内容の話を直接に聞いたことがあります。

どこの国もそうだとしても、中国というのは、美しいものと必ずしもそうではないものと、衛生と不衛生と、効率と非効率と、「琵琶行」の朗誦と「漢服舞踊」の優美と広東省起源のSARS (Severe Acute Respiratory Syndrome 重症急性呼吸器症候群)のトラウマと今回の湖北省発生の新型コロナウィルスが、他よりも、よりにぎやかに同居している国のようです。そして統治者の意識は常に「中華」です。「長安の春」というのも、当時の人びとの性質は胡人も含めてもっとおおらかで激情的だったのかもしれませんが、社会生活的にはこんな感じだったのかもしれません。


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2020年2月 6日 (木)

言葉は正しく使いたいものです

《宿泊キャンセル1万人 新型肺炎の風評被害懸念 奈良》というニュース見出しが目に入りました。見出しには本文が続きますが、その記事本文中に

《・・・キャンセル客の国籍などは不明だが、県は中国人団体旅行客のキャンセルの影響が大きいとみている。

県内では1月28日、60代の男性バス運転手の感染が確認された。この男性が運転していた中国・武漢市からのツアー客を乗せたバスが奈良公園を訪れていたことが明らかになっており、県は風評被害を懸念している。

 荒井知事は「減少していることは確かだが(客数の減少は)観光では常にあるリスクで、これまでそれを克服してきている。心配していない。体力のない施設には金融支援を行う」と語った。」》

とありました。

記事中の知事の発言に関する限りは、とても冷静で、県は風評被害を心配している雰囲気はありません。

風評被害とは、事実にもとづかない、事実とは違う内容の噂が飛び交うことによって、あるいは意図的に流布されることによって、特定の人(人たち)や地域や国などが政治的・経済的・社会的・精神的な被害を被ることですが、記事の《県は風評被害を懸念している》というのは、どこの誰がどんな風評被害を実際のところ懸念しているでしょうか?

日本人旅行者は冷静に判断しているので、風評被害を懸念しているのは、この記事を書いたメディアの記者だけという気もします。というよりもプロの手になるこの記事が風評被害のそもそもになっているようです。


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