言語

2019年10月10日 (木)

あまり好きではないけれど役に立つこともある言葉

昨日ラグビーについて、ワールドカップでメディアに乗せられてミーハーをしていると書いたついでに、またラグビーに(おそらく)関連したことについて触れてみます。
 
ぼくがあまり好きでない言葉がいくつかあって、その中の二つがラグビー関連用語というふうに聞き及んでいる「one for all, all for one」と「no side」です。「好きでない言葉」と言いましたが「それを聞くと眉に唾を付けたくなるような言葉」と言い換えてもかまいません。
 
「one for all, all for one」と「no side」は、それを称賛するかたは多くても嫌いだという人はとても少ないし珍しいようです。
 
価値観を共有している比較的小さなクローズド・サークルでそれらが使われている場合にはそれはまっとうな考え方なので、ある場面でその使用者にいろいろと利害の思惑があったとしても、それは駆け引きという景色の中のひとつの彩りなので、「one for all, all for one」と「no side」についてそれをわざわざ好きだとか嫌いだとか言う必要はありません。
 
しかし、そういうクローズド・サークルを離れた場合は、「one for all, all for one」や「no side」というのは、為政者とか経営者といった立場の人にとってはけっこう使い勝手のいい便利な言葉と化します。普段は心の奥では決してそんな風に思っていない人が、多数を前にした際のスピーチでその言葉をある意図をもって使うのを何度か目にしてきました。そういう立場だとそういう言葉を一度くらいは使ってみたくなるというのはよくわかります。
 
その美しい変形が「And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.」(ジョン・F・ケネディ 大統領就任演説 1961年)で、その後にベトナム戦争が続きました。
 
そういうことを考えると、「one for all, all for one」や「no side」というこの二つの表現は聞く側にとっても便利で有益な言葉です。それを口にする人のその時の表情や文脈やニュアンスによってその人の実際の思想や隠れた品性を判断する試験紙の役割を果たしてくれるだろうからです。


人気ブログランキングへ

 

| | コメント (0)

2019年9月 6日 (金)

「秋刀魚」という表記

「秋刀魚」という漢字の組み合わせで「サンマ」という秋の魚を表現するのは、「鯛(たい)」や「鰆(さわら)」という魚偏の表記法とは違って字の組み合わせに動きがあって、同時に絵画的です。それ以外の説得力のある漢字の組み合わせはちょっと思いつかない。
 
「秋刀魚」が使われ始めたのは、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」が発表されてからだそうです。それ以来、人口に膾炙(かいしゃ)した。「秋刀魚の歌」は『我が一九二二年』(ここでは青空文庫を参照)という大正12年(1923年)に出版された本に入っています。最初の数行を以下に引用します。
 
秋刀魚の歌
 
あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。
 
「タチウオ」という、小骨の多い白身の魚は「太刀魚」ないし「刀魚」と書きます。姿かたちが「太刀(タチ)」に似ているからです。銀色の身体で怖い顔と歯並びをしていますが、とても美味しい。
 
サンマも姿かたちが「太刀」です。「タチウオ」が長刀なら「サンマ」は短刀で、確かに「秋」に獲れる「刀」の形をした「魚」です。
 
現在、魚売り場に出回っているサンマは迫力のない短刀ですが、そのうち、「口先が黄色くて」「目の周りが透明に澄んでいて」「背がつやつやと青黒くて」「腹が銀白色に輝いて」そして「全身に張りのある脂ののったずんぐり体形」のサンマが出てきたら、もはやただの「短刀」ではなく「鎧通し」(武士が戦場で組打ちに使った短刀)です。そのうち根室で獲れた鎧通しが売り場に並ぶでしょう。
 


人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2019年8月23日 (金)

短編の集まりとして読むと味わい深い「無為で閑適な生活」小説

吉田健一の小説は、単行本や文庫本のページ数が二百ページくらいの、四百字詰め原稿用紙だと三百枚くらいの日本における一般的な分類上は長編小説になるもの(たとえば「金沢」や「絵空ごと」など)も、登場人物やストーリーがお互いになんとなく関連しているようなしていないようないくつかの短編の集まりとして読んだ方が、話の筋の展開を気にする必要もなくてその分個々が味わい深いかもしれません。

たとえば「4」(第四章とは表記されていないことが多い)を開いて読み始めて、そのまま物語の展開に入っていって気が付けば「4」の終りになっていたら、そこで止めてもかまいません。「3」や「1」に戻る必要は必ずしもない。彼の小説はエッセイみたいなもので、わくわくするようなストーリーがあるのではないので、そういう読み方で差し支えありません。長編小説は短編小説集です。あるいは複数の物語風エッセイで構成されるエッセイ集とも言えます。

吉田健一が、実際になかばそういう世界に住んでいて、そしてその連続や拡がりを小説の中でも目指していたのは「無為な生活」あるいは「閑適な生活」だったようです。

それがどういう生活かというと、「実際に一つの、或は幾つかの職業に携わっていても或はいなくても外見には閑人であること、或は少なくとも何をやっているのか解らない人間であることが大切だった。・・・如何にも役人らしい役人だとか画家らしい画家だとかいうのが日本、それも今の日本人に限られた現象で、それ以外の場所で職業が顔に書いてある人間などというものは先ずないことだった」(「絵空ごと」)、そういう生活です。知の水準の高い「高等遊民」の生活とも言えるので、そういう「無為な生活」についてのおしゃべりに拒否反応を起こす人たちも少なくないかもしれません。

しかし、そういう生活を描いた彼の幻想的な小説やエッセイにおいて特徴的なことは、自然と人間の間に境がないということ、そして過去と現在が連続して一体化しているということです。こういう世界はすでにどこかで描かれているようであまり描かれていない。

時間(過去と現在の連続)に関して言えば、たとえば「現在の領分が過去まで拡つてゐるのが、我々が生きてゐるといふことなのではないだらうか。それならば、男は生きてゐた」(「逃げる話」)という具合です。

人と自然が地続きであることについては、「誰も行ったことがない海に誰か行っても海はいやがりはしないんですよ、人間を見て人間に姿を見せるのも自然がすることのうちなんですからね。」(「金沢」)

それから、人と自然が地続きであることと過去と現在が連続していることの両方について言えば「『貴方が私には見えてこうして二人で日が差している川の傍らにいてこれが過去でも現在でもなくてその両方であることがこれが現在である証拠なんですから。』そうすると相手が又椀に川の水を汲んで内山の前に置いた。」(「金沢」)といった按配です。同じような表現、似たような描写が彼のそれ以外の作品にしばしば登場します。

以下は老子と荘子からの引用です。

『道のいうべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。・・・玄のまた玄、衆妙の門なり。』(老子)

『むかし、荘周は夢に胡蝶(こちょう)となる。栩栩然(くくぜん:ふわふわするさま)として胡蝶なり。・・・知らず、周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるかを。』(荘子)

この二つを混ぜ合わせて頭の中でぼんやりとした出発点とし、その出発点のイメージを現代の(たとえば日本の昭和という時代の)流れと風景の中で、吉田健一流の同語反復の多いくねくねした文体と時間感覚で小説風に膨らませると、自然と人間が地続きになり過去と現在が一体化した「金沢」のような幻想的な作品が出来上がります。

そういう作品の欠点は、読む側がバタバタしているときには楽しめないことです。だから、長い小説が短編の集まり風というのは結構ありがたい。

 

  

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2019年8月16日 (金)

台風レポーターが現場で静かになる時

札幌でも、今朝は5時過ぎからけっこう強い雨が降り始めました。風もあるし午後は強くなるという予報なので、ルッコラやバジルや青紫蘇はプランターと鉢植えを壁際に寄せて保護してやります。

台風10号の報道を見ていると、いつものことですが、現場のレポーターというのは、その場のリアルタイム映像が視聴者に同時に届いているにもかかわらず、現場の状況を視聴者に大げさに伝えたがるもののようです。全般的な気象庁の予報や警告や勧告内容と現場の様子の間に乖離があると、現実の姿があるべき現実でないのでおかしいというような口調にさえなります。

だから台風の目というか今回のようなとても大きな台風の大きな空洞的な中心に入った地域では、陽が差し波風もほとんどないような状況で、視聴者は、そこに知り合いや親戚がいる場合は、風雨の激しい大型台風というような一般描写ではなく、その場の正確な様子を(数時間前からの推移を含めて)伝えてほしいのに、そういう穏やかな場所でも雨が横殴りに降り風が飛び荒れているというふうにしゃべりたくてしかたがないみたいです。そうでないと自分が心地よい興奮状態になれないので仕事をしている感じがしないのでしょうか。

天気についての現場レポーターはたいていは饒舌で(レポートが仕事なのでそうでないと務まらないとしても)、それも住民への危険性が高い方向に傾いた饒舌がお好きなようです(あるいは、より安全性を重視する方向に傾いた饒舌が好みとも言えますが、しばしば「狼が出るぞ」口調になるようです)。気象庁の予報や観測と異なるローカルな個別事象がそこにあるならできるだけ見た儘を正確に伝えてほしいと思います。

視聴者はそれほどぼんやりとしているのではなくて、「雨雲の動き(高解像度降水ナウキャスト)」のような、1時間前の実際の雨雲の状態から1時間後の雨雲の状態まで、5分ごとの降水強度分布を、250メートルのメッシュ単位で報告・予測する気象庁のウェブサービスも参照しながらレポーターの報告を聞いています。

だからそういうレポーターが冗漫なおしゃべりをしている間はレポーターがいるあたりの地域の危険性のレベルは低いとも言えます。なぜなら、ほんとうにひどい状況、つまりレポーター自身が一瞬でも身の危険を感じるような状況に接すると、そのレポーターから饒舌が消え寡黙とは言わないまでも慎重な口調のレポーターへと変身するからです。そして状況をできるだけ「ケレン味」を排除して客観的になぞろうと努め始めます。そういう場面(というか人的な現象)を今回もテレビ画面上で観察しました。そういう場合は、レポーターの言葉と映像情報が一致しており、視聴者もレポーターの言葉に対してしっかりと聞く耳を持ち始めます。

【註】「雨雲の動き(高解像度降水ナウキャスト)」とは 気象庁が提供している、気象レーダーの観測データを利用した、250m解像度で降水の短時間予報ですが、詳しくは「高解像度降水ナウキャストとは」を参照。

札幌管区気象台では、学校が夏休みに入った7月下旬のある金曜日の夕方から夜にかけて、一日だけですが、オープンキャンパス風の気象台見学会を開いています。施設のさしつかえない主要部分を市民は自由に見学できます。職員とも気象台の仕事や天気予報について自由に会話ができる。立ち入りが許可された区域では写真撮影も大丈夫です。気象台活動のプロモーションが目的ですが、そういう機会がないと内供の様子がわからないので、都合が合えば参加するようにしています。いろいろと質問もさせていただきます。

下の写真は、その時(2016年7月22日)の2枚。時刻は午後7時。夜勤の担当者が仕事中です。株や債券のトレーディングルームではありません。

2016722-a

2016722-b

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2019年8月 6日 (火)

悪文と句読点

悪文雑感」の続きです。

今は文章は、文学も実用文も、古典も現代文も、紙に印刷された活字やそれの電子版であるところのIT端末の画面上の活字を通して読みますが、文章中の句点(。)や読点(、)が必須です。

しかし、奈良、平安の昔から江戸を経て明治中期くらいの日本の文学や記録文には読点や句点が原則としてありませんでした。句点(。)と読点(、)の総称である句読点は、明治以降に西洋の文章のピリオド(,)やカンマ(.)の代用として使い始めたもので、それ以前の日本にはそういうものは存在していませんでした。この伝統は今でも手書きの手紙や葉書に活きていて、そういう媒体では句読点はかえって煩わしい。

教科書に出てくるおなじみの文章例で、たとえば「枕草子/第一段」だと、今は(横書きに直すと)次のように表記されています(小学館 日本古典文学全集)。

 『春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。以下略。
 秋は夕暮。以下略。
 冬はつとめて。雪の降ふりたるは言ふべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などをいそぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。』

しかし、以前は、句読点のない状態なので、以下のようでした。

『春はあけぼのやうやうしろくなりゆく山ぎは少しあかりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる夏は夜月のころはさらなりやみもなほ螢飛びちがひたる雨などの降るさへをかし秋は夕暮夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに烏のねどころへ行くとて三つ四つ二つなど飛び行くさへあはれなりまして雁などのつらねたるがいと小さく見ゆるいとをかし日入り果てて風の音虫の音など冬はつとめて雪の降ふりたるは言ふべきにもあらず霜などのいと白くまたさらでもいと寒きに火などをいそぎおこして炭持てわたるもいとつきづきし昼になりてぬるくゆるびもて行けば炭櫃火桶の火も白き灰がちになりぬるはわろし』

わかりやすい景色や情景の描写ですが、初めての文章だと、やはり読みにくい。

しかし、これが、筆で書かれたものだと、文字の大きさや文字の勢い、文字の切れ目や墨の濃淡、そして改行などが句読点の役割を果たしていたので、句読点というものがなかったとしても(明治半ばくらいまでの人たちは)読みづらいということはなかったと思います。句読点を使わなかったということはその必要がなかったということです。

吉田健一という1977年に鬼籍に入った評論家・作家がいます。小説も評論もジャンルにかかわらずすべてがエッセイ風の趣きと言ってもいいのですが、彼の文体は句読点の使い方に独特のものがあります。

松岡正剛は吉田健一の文体を「いつも句読点が動く文体」と評しました。文体に応じて「その文体がほしがる句読点を打った」ということですが、吉田のたいていの作品は、文体と句読点に個性があり過ぎるので、普通は、それほど読みやすくはありません。

しかし、彼の文章を読みやすいと感じる読者にとっては、彼の文章は「作者の頭に生まれた言葉の流れをただ文章にしたもの」(倉橋由美子)なので、読みやすいとなります。

しかし、「作者の頭に生まれた言葉の流れをただ文章にしたもの」とは、いったんその時の意識の流れを文字に定着したあとでその文字列が必ずしも再構成されずに文章化されてしまうということも含まれるので、読者の頭の中の句読点が作者の頭の中の句読点と同調しない場合には、作者の文章はだらだらと落ち着きの悪い悪文、同じところを読み直さないと意味のとれない晦渋な文体、そして意味不明なところが残る悪文、ということになりそうです。

ある言葉で世界をなぞるということは、その言葉以外の言葉を使わないということによってある枠や方向に世界を切り取るということですが、句読点もそういう意味では同じ働きを持っています。吉田健一の文体と句読点は独特なので、彼が世界を区分する仕方に違和感や鬱陶しさを覚えると、彼の文章はだらだらと読みにくい悪文と化します。

そういう例(ただし控えめな例)を下に二つ引いてみます。

 『・・・別にそれを見てこれから一日が始まろうとしている気配を感じるのでもなければ前の日にあったことの結果で今日することになることを思い浮かべるのでもなくてただ眠気が去って朝になり、ものが自然の光で見えて来て体も一日の間覚めているのに堪える状態に戻っている朝というものがもの心が付いたその日からのことであっても、或はそのこともあって懐かしかった。』(「本当のような話」)

 『併しその碑がロッピアが作ったものであるということがあり得なければその作の精巧な模写で、それを見ていて思いがその紺と白が新鮮なものに感じられながら普通でもある場所に向かわざるを得ず、それは金沢に、又金沢のその店に自分がいなくなるのではなくて他所である筈のことが自分がいる場所を豊かにした。』(「金沢」)

一方、作者の息遣いや思考プロセスと読者のそれが重なっている場合は、つまりその文章における作者の句読点感覚と読者の句読点感性が重なっている場合は、急に立ち止まり、先ほどの近所を今度は歩幅を変えて歩き、あるいは意想外の場所に飛んで行って気が付けば元の場所に戻っていたというふうな癖のある文体が作る世界を賞味できます。

「時間」というエッセイの書き出し部分を引用します。「枕草子/第一段」のように冬と春が出てきます。行替えはありません。

『冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。それをのどかと見るならばのどかなのは春に限らなくて春は寧ろ樹液の匂いのように騒々しい。そして騒々しいというのはその印象があるうちは時間がたつのに気付かずにいることで逆に時間の観念が失われているから騒々しい感じがするのだとも考えられる。・・・・』(「時間」)

 

人気ブログランキングへ

 

| | コメント (0)

2019年7月 4日 (木)

札幌の「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」のことなど

北海道立近代美術館で開催されている「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」に行ってきました。東山魁夷が描いた唐招提寺御影堂のふすま絵や障壁画を目にするのは20年ぶりです。

今から20年前、1999年(平成11年)4月に「鑑真和上像里帰り二十周年展」が唐招提寺であり、その9日間は、開山忌(6月5日から7日)以外では開扉されない御影堂の中に立ち入りが許されるので、魁夷の絵をそれが実際に使われている部屋で拝見したいと思い、配偶者と出かけました。

今回の「障壁画展」は御影堂の実際の環境に近いものでしたが、そっくりに部屋を作るわけにはいきません。つまり美術品鑑賞用の造り、レイアウトです。しかし、いい空気感が漂っていました。

札幌で開催されるこういう絵画展や美術展のいいところは混雑しないことです。じっくりと絵と向き合えます。同じものが東京で開催されるとそうはいかない。おそらく普通の時間帯では人が多すぎて身動きがとれない。

数年以上前のことですが、空海の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」上巻巻頭(書き出し部分)の強い書体を、同じ美術館の空海展だったか(あるいは別の名前のものだったか)で、ゆっくりと観賞することができました。

「空海」の書、たとえば、「風信帖(ふうしんじょう)」(空海が最澄に宛てた書状)や、上述の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(空海が20歳代前半に書いた比較宗教論)などと直に向き合いたいと思ったら、それが保管されている場所に時期を選んで出かけていくしかありません。だから、かつて、空海の「風信帖」に会うために東寺に、それから、「聾瞽指帰」に会うために高野山に、それぞれ足を運んだのですが、時にも恵まれたのか、ほとんど一人占め状態でゆっくりとそれらを拝見(拝読というより拝見)することができました。しかし、同じ書に、旅をせずに札幌のゆったりとした施設で出会えるというのは、それはそれでありがたいことです。

ここでは蛇足になりますが、その「風信帖」に関して、以前のブログ記事(「頌(じゅ)と文字」)に次のように書いたことがあります。

<「風信帖」と呼ばれている手紙は空海から最澄への返書ですが、後年の二人の確執の強い香りがすでに濃厚に漂っています。この手紙の書かれた背景を説明すると、配偶者はこの返信のことを、空海から最澄への「あっかんべー手紙」と形容しました。そういう気分の時の方が緊張しながらも筆が自在に走って、心や存在のありさまが文字の動きに見事に凝縮されるというのは、空海らしいといえば空海らしいのかもしれません。>

Wiki

                    空海「風信帖」(Wikipediaより引用)

札幌で開催される展示会や展覧会のあまりよくないところは、催し物によっては、作者のもっともいいものの集合ではなくそのサブセットにしか出会えない場合があることです。

先日、次のような記事が目に入りました。

「44年ぶりに発見。鏑木清方の名作《築地明石町》など3作品を東京国立近代美術館が新収蔵、公開へ ・・・ 竹橋の東京国立近代美術館は、近代日本画の巨匠・鏑木清方の幻の作品とされてきた3作品を新たに収蔵。11月1日より特別公開すると発表した。」

これらは特別公開の後は国立近代の常設になると思いますが、その三作品が常にそろって展示されているかどうかは保証の限りではありません。これは、頑張って日帰りで出かけていくしかなさそうです。

人気ブログランキングへ

 

| | コメント (0)

2019年6月20日 (木)

悪文雑感

「悪文」(あくぶん)の意味を、一般的な国語辞典で調べてみると、「へたな文章。文脈が混乱して、わかりにくく誤解されるような文章」(広辞苑)をはじめ、他の辞書でも「へたでわかりにくい文章。文脈が混乱して、まとまりのない文章。」「難解な言葉を使ったり、文脈が乱れていたりして、理解しにくい文。へたな文章。」「へたで、読みにくい文章。文脈が混乱したりして、わかりにくく、意味のとりにくい文章。」と説明されています。

「あの内野手は守備がへた」という場合は、その内野手は捕球がぎこちない、守備範囲が狭い、ボールへの一歩が遅い、打球の方向の予測能力が低い、ときどきトンネルするし、スローイングがピリッとしない、アウトにできるゴロを内野安打にしてしまうなど、そのへたさ加減は観ているだけでよくわかります(たとえば、広島カープで二塁を護る菊池涼介選手と比べると一目瞭然です)。

しかし「あの内野手は守備がへた」というのとは違って、「悪文とはへたな文章のことである」というのは何をもってその文章を「へた」とするのかわかったようでわからない。だからここでは「悪文」とは「わかりにくい文章、意味のとりにくい文章」とします。このほうがわかりやすい。

わかりにくい文章というのは確かにあります。その文章を書いた当人は、その文章を、たとえば、自分の意識の流れや思考の流れや感性の移ろいをそのまま言葉に素直に移し替えたと思っているのかもしれませんが、読む側にとっては難解で、何度読み返しても意味不明で、そんな文章はじつにわかりにくい。魑魅魍魎(ちみもうりょう)に悪戯されている気分になります。

しっかりとした文章を書ける人が悪文を書く簡単な方法のひとつは、相当に酔っぱらった状態でやや抽象的な内容を含む文章を書いてみることです。酔いの勢いに乗って、自分の意識の流れや思考の流れや感性の移ろいをそのまま言葉に移し替えるつもりで書いてみると、書いているときは思考と言葉が一致していると感じていい気分でも、起きて素面になって読み返してみると、文章の流れや完成度をある程度想定していた場合は、気分はけっこう落ち込みます。

酩酊状態の利用が役に立たないというのではありません。ともかく思ったことや頭の中を流れていることをフワッとした気分で乱雑なメモとして書きつけておくという方法ではあるので、そこにはいくぶんかのキーワードやキーコンセプトが整理されないままその他の言葉といっしょに放置されています。これは、あとで手掛かりになります。

以下に、ある作家の作品(小説ということになっていますが、小説ともいえるし、幻想的な雰囲気の随想ともいえる作品)から二つの短い文章を「そのまま」引用してみます。それらが上述の意味で「悪文」かどうか?

『金沢には東京にも戦前にはあったような誰が客になって来るのでやって行けるのか解らない感じがする地下室の人気がなくて明るい西洋料理屋もあった。』

『その骨董屋がその次に内山が金沢に来た時に顔を出して内山はこの男に不義理をしたような気がしたが、それが何故か自分にも解らなくてそれが根拠があることであることも確かでなかったから内山もただそういう気がするだけということで片付ける他なかった。』

サッと読んで内容がサッと頭に入ってくる感じの文章ではありません。酔っ払いが、思いつくままの言葉で状況を説明してくれているようでもあるし、素面(しらふ)の語り手がゆっくりと言葉を選びつつ聞き手に語りかけてくれている風情でもあります。

試みに、オリジナルにはない「読点(、)」をいくつか追加してみると、わかりやすさの様子が少し変わってきます。

『金沢には、東京にも戦前にはあったような、誰が客になって来るのでやって行けるのか解らない感じがする地下室の、人気がなくて明るい西洋料理屋もあった。』(オリジナルに読点を三つ追加)

『その骨董屋がその次に内山が金沢に来た時に顔を出して、内山はこの男に不義理をしたような気がしたが、それが何故か自分にも解らなくて、それが根拠があることであることも確かでなかったから、内山もただそういう気がするだけということで片付ける他なかった。』(オリジナルに読点を三つ追加)

ところで、この作家が、酒や酒宴や酔っ払いや酔っ払い状態について書いたものは、酩酊とは遠く離れた状態で書いたのか、たいていは「わかりやすく意味のとりやすい文章」になっています。変な話ですが、たとえば、

『本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるのかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まっていればいいのである。』

という具合です。

文章がわかりやすいとか理解しやすいという美徳(それを美徳と考えて)が、あまり意味を持たない知や感性の世界もあります。わかりにくかろうが意味がとりにくかろうがそういう風に書くしかない、だからそう言葉を連ねた。そういう文章はここでの対象外です。

 

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2019年5月20日 (月)

変体仮名から漂う伸び伸び感

じつに奇妙な言葉だけれど、そういうことになっているのでとりあえずその用語を使います。奇妙な言葉とは「変体仮名」のことです。

「ひらがな」は現代では一音一字ですが、平安時代以来明治の半ばまで、さまざまな種類の字体が用いられてきました。現在、変体仮名と呼ばれている文字は、現在のというか、明治33年(1900年)に標準的な字体とされた平仮名に対しての異体字という意味です。ヘンタイという音はどうも変態を連想させるので、だから、異体仮名というほうが音からくる奇妙さは軽減されます。

下は『字典かな』という小冊子から「あ」の項をコピーしたものですが、「安」からできた「あ」という標準的な仮名字体と、「阿・愛・亜・悪」から派生したところの「あ」と発音される異体仮名が並んでいます。

Photo_10

こういうのは、今は、江戸時代やそれ以前の和本や文書を読むことが仕事の一部であるような人や仮名書の世界に遊ぶ人以外にはとくには必要のない知識ですが、まだ筆で書かれた手紙や葉書の遣り取りが珍しくなかった頃はある程度は必須でした。

「いろは歌」というのがあります。

「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」

わかりやすく漢字かな交じり文で書くと(下の表記以外の表記法もありますが)

「色は匂へど 散りぬるを わが世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」

「いろは歌」の漢字表記は、文献上の最も古い例(『金光明最勝王経音義』)を引用すると

「以呂波耳本へ止 千利奴流乎 和加余多連曾 津称那良牟
有為能於久耶万 計不己衣天 阿佐伎喩女美之 恵比毛勢須」

「あさきゆめみし」の「あ」はここでは「阿」と表記されていますが必ずしも「阿」である必要はありません。仮名や変体仮名にはけっこう自由な雰囲気が漂っているようです。

中国人は自分の発明品であり文明の源であるところの「漢字」を、必要に応じてどんどんと新しく作りましたが、日本人にとっては「漢字」は中国という文明先進国からの輸入品だったので、新しい熟語(とくに近代西洋生まれの概念や観念の漢語表現、たとえば「哲学」「意識」「観念」「左翼」など)をのぞいては新しい漢字(たとえば「峠」)はほとんど製造しませんでした。自制心のようなものが働いています。しかし(変体)仮名の世界ではその制約がないので、行書、草書と崩していく過程で、楽しく自由にその作成と適用を発想しているようにぼくには思えます。

 

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2018年8月14日 (火)

「どっちだって、いいじゃん」と「どっちだって、いいじゃん。」・補遺

昨日の《「どっちだって、いいじゃん」と「どっちだって、いいじゃん。」》を読み返してみたら「引用」ということに関して不十分なところがあったので補足です。自分が普段やっていることにちゃんと触れていない。

引用とは他者の書いた語句(語と句、すなわち、文章中の用語や文章中の一区切りとなる文や複数の文)を、自分の書いている文章の中に参照目的で持ち込むことです。

引用対象が「語」(単語、あるいは句点で終わらない単語の連なり、本のタイトルなども含まれる)の場合はどういう種類の括弧を使うかは別にして「・・・」や『・・・』や《・・・》で済むのですが、つまり「どっちだって、いいじゃん」で済むのですが、対象が「句」(句点で終わる文、ないしは、句点で終わる複数の文)の場合は、それ全体の引用なので、もともとの文が

どっちだって、いいじゃん。

となっていたら、選択肢は「どっちだって、いいじゃん。」しかありません。

「聡明な女は料理がうまい」(桐島洋子・著)というエッセイ本があります。以下はその中の一節。

漬けものは普通ピクルスと訳されるが、ぬかみそ漬けとか一夜漬け、即席漬けといった新鮮な漬物は、ピクルスというよりサラダというべきだろう。色あざやかななすやきゅうりやキャベツのぬか漬けをさくさくと切って鉢に盛るたびに、これほど傑作なサラダが他のどの国にあろうかと思ってしまう。

これを全部引用しようと思ったら、そのしかたは「漬けものは・・・・・と思ってしまう。」であって、「漬けものは・・・・・と思ってしまう」にはなりません。

だから、「『閉じ括弧の前には句点(。)を打たない』をデフォにしておいた方が、学校勤めを除く一般社会生活では汎用性が高いという意味で、便利なようです。」とは必ずしもならない。めんどうくさ。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月13日 (月)

「どっちだって、いいじゃん」と「どっちだって、いいじゃん。」

「そんなこと、どっちでもいいじゃん」なのか、それとも「そんなこと、どっちでもいいじゃん。」なのか。句点(マル、。)が閉じ括弧の前にあるかどうか、の違いです。

「どっちかなあ」と彼が言った。
「そんなこと、どっちだっていいじゃん」

「どっちかなあ?」と彼が言った。
「そんなこと、どっちだっていいじゃん。」

昭和21年3月に文部省教科書局国語調査室が発行した『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』という文書があります。句読点などの使い方に関して、公用文や学校教育は、現在でも、ここで示された考え方(準則)に従っています(従っているらしい)。

               213_2

つまり、文部省は「どっちだって、いいじゃん。」という表記法を勧めています。

一方、ジャーナリズムや商業出版界では、閉じ括弧と句点(。)の関係は以下のようになっているようです。

閉じ括弧の前には、句点(。)を打たない。

つまり、文章がビジネスの中心素材であるような分野の実業界では「どっちだって、いいじゃん」をデフォールト・バリューと考えています。その正確な理由はわかりませんが、活字印刷時代からの経済的な理由(少しでも無駄な文字埋め込み作業を減らす)と、会話文のスピード感を確保するという文芸上の理由が背景にあったのだろうと勝手に想像しています。

その実業界の実際はどうなのかを私的に検証してみたいと思ったので、手元にある文芸作品(明治末期から大正・昭和・平成まで)やノンフィクション(昭和と平成)、そして新聞記事(平成)からこの主題に関連する部分を、できる範囲でなるだけ偏りのないように引用してみます。

■谷崎潤一郎(『幇間』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「ここはお前さんと私と二人限りだから、遠慮しないでもいいわ。さあ、羽織をお脱ぎなさい。」

■芥川龍之介(『雛』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「明るいな。昼のようだな。」
父も母をかえりみながら、満足そうに申しました。
「眩し過ぎる位ですね。」

■川端康成(『禽獣』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「僕は年のせいか、男と会うのがだんだんいやになってきてね。男っていやなもんだね。直ぐこっちが疲れる。飯を食うのも、旅行をするのも、相手はやっぱり女に限るね。」
「結婚したらいいじゃないか。」

■三島由紀夫(『橋づくし』) 「どっちだって、いいじゃん」

「来年はきっといい役がつくわよ」
「そのうち年をとって小弓さんみたいになるのが落ちだわ」
「ばかね。まだ二十年も先の話じゃないの」

■吉田健一(『金沢』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「ただ無限に人間である他ないんですか、」と内山は言った。
「未来永劫に人間なんですよ、」と相手は答えた。「それだから人間が死んだって構わないじゃないですか。」

■吉行淳之介(『驟雨』) 「どっちだって、いいじゃん」

「あなたとお会いしていると、恥ずかしいという気持を思い出したの」
「なるほど、それはいい文句だ。商売柄いろんな言葉を知っているね」

■開高健(『輝ける闇』) 「どっちだって、いいじゃん」

男は茶をすすりつつたずねた。
「グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』を読みましたか?」
「読みましたよ」
「どう思います?」
「いい。シニカルだがいい作品ですよ」

■澁澤龍彦(『高丘親王航海記』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「日本の海の向うにある国はどこの国でしょう、みこ、お答えになれますか。」
「高麗。」
「そう、それでは高麗の向うにある国は。」
「唐土。」

■北方謙三(『雨は心だけを濡らす』) 「どっちだって、いいじゃん」

「現場、見とこうかね」
「それは構いませんけど」
「かたちは、もう覚えた」
「どこのトンネルですか?」
「坂になったところ。その坂を、ずっと真直ぐのばしゃ、野木という人の言った通りの絵になるんじゃないかね」

■倉橋由美子(『よもつひらさか往還』) 「どっちだって、いいじゃん」

「そろそろあちらに帰らなくては」
 と低い声で慧君だけに聞こえるように言った。
「まるでかぐや姫だ」
「私が?でもかぐや姫って、どう見ても十代の少女の感じでしょう」
「そんなことはないでしょう。最後に天に昇っていった時にはあなた位の堂々たる女神のような女性でしたよ」
「私の年もご存じないくせに」

■川上弘美(『センセイの鞄』) 「どっちだって、いいじゃん」

「なんでしょう、それは」わたしが訊ねると、センセイは首を横に振り、
「芭蕉も知らないんですか、キミは」と嘆いた。
「芭蕉ですか」聞き返すと、
「芭蕉ですよ。教えたでしょう、昔」と言う。

■松浦理英子(『ナチュラル・ウーマン』) 「どっちだって、いいじゃん。」

「何時?」
「五時。」
「朝の?夕方の?」
「わからない。」

■レイモンド・チャンドラー(清水俊二 訳)(『さらば愛しき女よ』) 「どっちだって、いいじゃん」

「これさえあれば、何も要らないんだよ」と、彼女は坐りながらいった。「ところで、何を話していたんだっけ」
「セントラル街の店で働いていた、ヴェルマという赤い髪の女のことだ」

■ロバート・B・パーカー(菊地光 訳)(『失投』) 「どっちだって、いいじゃん」

「そのように眉をひそめない方がいい。目の端に年不相応の小じわが出来るよ」
「ミスター・スペンサー、この話し合いに個人的な事柄を持ち込まないでもらいたいわ。私の目の状況はこの話とは無関係だわ」
「なれど、怒った時のその目の輝きよ」

■沢木耕太郎(『流星ひとつ』) 「どっちだって、いいじゃん」

「河、それとも海?」
「河」
「どこの河?」
「旭川の近くを流れている河」
「海はないの?」
「そう…‥なくはないな。少ないけどあるな。裸で泳いでいて、とても気持ちよくて、向こうに島か陸があって、辿り着くと別の国なのね」

■山際淳司(『江夏の21球」) 「どっちだって、いいじゃん」

江夏が佐々木を2-1と追い込んだとき、衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこういったのだ。
《オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな》

■井田真木子(『ルポ 十四歳 消える少女たち』) 「どっちだって、いいじゃん」

「さっき会った金髪の女性、アンヌマリーという。彼女は何歳だと思う」
「十七歳、あるいは十八歳になりかけ」
「よし、彼女は十八歳だ。彼女は今、何をしていると思う?」

■関川夏生(『東京からきたナグネ』) 「どっちだって、いいじゃん」

 写真をとりあげて彼女は、うん、とうなづいた。
「これが日本人よ。日本人のイメージ。眼鏡をかけてる。痩せてる。頭がよくて冷情で事務がじょうずで」

■日本経済新聞(最近のスポーツ記事) 「どっちだって、いいじゃん」

「ポジティブにレースができた。自分にとってとても大事な、刺激的な一日となった」・・・・・・「レースにいろんなものを持ち込んでいた」(平井伯昌監督)。

こうやって趣味的に書き並べてみると「どっちだって、いいじゃん」という気持ちになってきます。

公用文や一般企業で使われるそれに類する文書で使用される鍵括弧は、たいていは、他の文章や用語の引用のため、ないしは注目語句の表示のためだと思われるので、会話文を囲む鍵括弧(「どっちだって、いいじゃん。」や「どっちだって、いいじゃん」)というのは使用頻度が非常に低い。従って、『閉じ括弧の前には句点(。)を打たない』をデフォにしておいた方が、学校勤めを除く一般社会生活では汎用性が高いという意味で、便利なようです。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧