言語・言葉

2024年4月 3日 (水)

なぜかコンスタントに読まれている「高いお米、安いご飯」の記事がある

「高いお米、安いご飯」というブログを書き始めたのは2010年の1月で、いちばん最初の記事をアップしてから14年が経過しました。土曜・日曜と祝日そして正月を除いてほぼ毎日書き続けているので記事数もけっこうなものになります。テーマは「北海道フードマイスターです。食べものと食べることと経済・マーケティングの交差するあたりを食から見た健康という視点も交えて考えます」ですが、当然それ以外の雑談風や趣味の雑感も含まれています。

ある時期にそれをアップして以降、季節の推移も関係なく、コンスタントに読まれ続けている記事があり、そのひとつが「郵便物の厚さ制限と郵便ポストの投函口の厚さに関する雑感」(2018年10月 1日)で、もうひとつが――これは書いた本人にとっても意想外な結果なのですが――「サンスクリット語のアルファベットと、仮名の五十音」(2015年10月30日)です。

「郵便物の厚さ制限と郵便ポストの投函口の厚さに関する雑感」がなぜ頻繁に読まれるかはそれなりに納得できます。

書類や本の郵送にも便利なレターパックだけでなく、蚤の市サイトの登場と拡大で、最近は本や薄い衣類を気軽に安価な郵便物として投函できるようになりました。

投函口の大きい最新の大型郵便ポストが近所にあるとは限らない。歴史の違う、したがって種類の違う郵便ポストが同居しています。郵便物を用意してみたものの、投函口に入らなかったというような経験をお持ちの方は、そういう情報がまとめられたものがあれば参照したい。それで、他に同じような情報源はあるにしても、この記事へのアクセスが安定的に多いのだと考えています。

しかしわからないのが「サンスクリット語のアルファベットと、仮名の五十音」です。どういう人たちがこの記事を読みに来るのか。学生が一時の気まぐれで、あるいは宿題や課題の答え探しのために、ある季節に集中して当該記事にアクセスするというのは考えられるとしても、年にも季節にかかわらすコンスタントにアクセスがあるという事態のその背景が見えてきません。

ぼくは、「ギリシャ語入門」「ラテン語入門」や「サンスクリットの基礎と実践」といったタイトルの本の入り口部分を、英語の書物や仏典・仏教関連書籍――仏教関連は現代日本語に訳されたものであっても――を読むのに役に立つと考え、若い頃に、独学でよろよろと読み齧ったことがあります。また主にラテン語の語源が簡潔に説明されている「語源英和辞典」などは英語の単語の語源を調べたいときや確認したいときには頻繁に参照していました。しかし、そういう趣味や傾向の人たちが多いとは思わないし、そういう人たちがこの記事を読みに来るとも考えづらい。

しかし、なぜ五十音は「あいうえおかきくけこ・・・」という並びなのか、なぜ「あかさたなはまやらわ」という順序なのか、そういう五十音の背景の根拠が気になる人たち(高校生や大学生)が毎年一定数は季節にかかわらず新たに現れるらしいということにしておきます。

ともあれ、仮名四十八文字の全部が重複なく使われている「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」は誰の手になるのかはわからないとしても美しい。


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2024年3月29日 (金)

思わず引き込まれてしまうエッセイや小説の最初の数行

専門書だとそういうのは難しいと思われますが、本屋で小説でもエッセイ集でもなんでもいいのでその本を手にとって最初から読み始めたときに、出来のいいのは初めの数行ですっとその世界に誘い込まれるし、すっとでない場合であっても何かとんでもない内容があとに潜んでいるかもしれないと予感して強引にその世界に引っ張り込まれてしまうこともあります。

どちらにせよそういう巧みな導入部をもった吉田健一のエッセイを以下に並べてみます。「・・・」はエッセイのタイトルで、その下の《・・・・・》がそれぞれの最初の数行です。文章らしくない文章を読み続けるという作業をしていたので、その口直しにこんなことをやってみました。

「金沢(エッセイ)」
《旅行をする時は、気が付いて見たら汽車に乗っていたという風でありたいものである。今度旅行に出掛けたらどうしようとか、後何日すればどこに行けるとかいう期待や計画は止むを得ない程度にだけにして置かないと、折角、旅行しているのにその気分を崩し、無駄な手間を取らせる。》

「ある田舎町の魅力」
《何の用事もなしに旅にでるのが本当の旅だと前にも書いたことがあるが、折角、用事がない旅に出掛けても、結局はひどく忙しい思いをさせて何にもならなくするのが名所旧跡である。極めて明快な一例として、鎌倉に旅行した場合を考えてみるといい。あまり明快でそれ以上に、何も言う必要はないだろうと思う。》

「ピアノ」
《ヴェルレエヌの詩に、と書くと、もう話がどこか湿っぽくなって来るのは、これはヴェルレエヌのせいではなくて、この詩人が日本で受けた扱いがそういう性質のものだったことを示すものに過ぎない。ヴェルレエヌがマリア様に縋ったからという理由で、白樺だの、夢二の絵だのと一緒にしたのでは、この飲んだくれで好色漢の詩人の作品を読んだことにはならないので、マリア様や海よりも美しい伽藍は、日本で北海道の白樺の額縁に入れた絵になる前から、別な形でヨオロッパにあった。》

「英語上達法」
《英語というのは絶対に覚えられないものなのであるから、そういうことは初めから諦めた方がいい。仮に、英語が読めたり、話せたりする人間がいたら、それは英語を知らないからそういうことができるのである。このことは、日本の英語の先生が真先に承認してくれるに違いない。英語の本が読みたければ、大概のものは翻訳されているし、英語が喋りたければ、通訳というものがある。無理する必要はない。英語を覚えようとする位の暇があるならば、エジプト文字でも勉強することである。》

「金沢(小説)」
《これは加賀の金沢である。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの町を廻って展開することになるようなので初めにそのことを断っておかなければならない。併しそれで兼六公園とか誰と誰の出身地とかいうことを考えることもなくて町を流れている犀川と浅野川の二つの川、それに挟まれていて又二つの谷間に分けられてもいるこの町という一つの丘陵地帯、又それを縫っている無数の路次というものが想像できればそれでことは足りる。》


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2024年3月26日 (火)

人工知能化がとても難しいかもしれない身体の場所

動物が植物や他の動物、あるいはその両方を動き回ることによって食べないと生きていけないのに対して、植物は太陽と雨と土(の中の無機物)と空気中の二酸化炭素があれば光合成をしてその場を動かずに独りで生きていけます。そういう違いがある。庭のローズマリーでもタイムでも、あるいは近所の原っぱのスギナやドクダミでも何でもいいのですが、植物はその場を動かずに生長し続けます。

三木成夫の著した「生命形態学序説」を参照すると、植物的な営みとは、「栄養と生殖」を軸としたプロセスであり、動物的な営みとは、「感覚と運動」を軸としたプロセスですが、動物やヒトには、植物的なもの(栄養と生殖にかかわる植物性器官、あるいは内臓系)と動物的なもの(感覚と運動にかかわる動物性器官、あるいは体壁系)の双方の営みが存在します。

動物における植物性(内臓系)器官とは、吸収系(腸管系)と循環系(血管系、その中心が心臓)と排出系(腎菅系)にかかわる器官のことであり――昔からの用語だと「五臓六腑」――、また、動物性(体壁系)器官とは、感覚系(外皮系)と伝達系(神経系、その中心が脳)と運動系(筋肉系)にかかわる器官のことです。そしてヒトは「栄養と生殖」を軸としたプロセスにおける栄養面を、動物にはないところの知能・知性と技術を使って、つまり農業革命や産業革命などを通して、それなりに変化させました――動物から見れば、劇的に。

そういうさまざまな系の中で、カーツワイルの「シンギュラリティは近い」で言及されているような人工知能的な対応がいちばん困難なのは消化・吸収系(腸管系)のなかの腸ではないかと、その本を読みながら、直感的にそう思いました。

胃はそうでないとしても、知性の象徴としての脳やこころの象徴としての心臓と違って、愚鈍だとされていたのが実はとても賢いということがだんだんと解ってきた腸は――それで腸は第二の脳と言われるようになった――人工知能的な対応、つまり人工知能によってそれを置き換えたり、あるいは腸の機能を人工知能で補完したりすることが脳を相手にするよりもよりも難しいかもしれない。

モノの本によれば、腸には一億以上の神経細胞があり、これは脳よりは少ないとしても脊髄や末梢神経系よりも多く、脳とは独立して自らの判断で機能しています。腸は、脳からの指示を待つことなく消化吸収排泄という機能を自律的に遂行している。

腸には迷走神経という太くて大きな神経が埋め込まれています。その神経繊維の90%までが腸から脳へと情報を運んでいることが明らかになってきたそうです。脳は腸からの信号を感情に関するそれとして解釈します。感情を支配するところの脳内神経伝達物質の代表的なものにドーパミン(快感ホルモン)やノルアドレナリン(ストレスホルモン)やセロトニン(幸せホルモン)がありますが、その多くは腸で作られています。

また腸(腸菅関連リンパ組織)には体内の免疫細胞の70%が棲んでおり、免疫細胞は外部から侵入した細菌や食物に混じった毒物をそこで撃退してくれます。脳が唇や舌といっしょに騙されて旨そうだからと口にしてしまったものが実際には危険因子を含んでいた場合は、下痢などの症状を起こして自らそれらを武力排除するわけです。

つまり、腸は相当な以上の智慧と力を持っている。

腹や腑という言葉を使った心理や感情に関する表現は日本語に多くて、「どうも腑に落ちない」「腹に落ちた」「腹が立つ」「腹の虫が治まらない」「腹をくくる」「肚の底から」などいろいろあります。

植物系(内臓系)器官の中核は心臓であり、動物系(体壁系)器官の中心は脳だとして、脳が「知性や知能」なら、心臓は「こころ」です。脳死という状態を死とは言えないとするのは、体壁系の「知性や知能」が機能を停止しても、心臓という内臓系の「こころ」が死んではいない状態を死とは言えないとすることですが、その「知性や知能」と「こころ」の両方をサポートしている控えめなインフラ的存在が腸なのかもしれません――どういう風にそうなのかはわからないとしても、第六感がそう囁きます。なぜなら、「知性や知能」が届かないその先で理解しているのが腑に落ちるということだし、腹をくくると「こころ」も落ち着きます。

腹や腑を使った多くの表現が決して廃語にならないのは、腸に係るわれわれの集合的無意識が、腸の明示的でなかった役割に共鳴し、今までも今もその智慧を後押しし続けているためとも考えられます。だとすると、そういう高度に洗練された場所であるところの腸の非生物的な人工知能化は、あるいは腸の人工知能的なハイブリッド化は簡単ではなさそうです。


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2024年3月21日 (木)

再び、繰り返し楽しめる本

本の裏表紙に「新潮ミステリー倶楽部 クリスマス黙示録 多島斗志之」とあるので分類はミステリー(推理小説)ということになっているようです。発行は1990年。日系三世のFBI女性捜査官が主人公です。繰り返し読めるミステリーで、購入してから、三十年間で三度、読みました。文章がいいので三度目も飽きない。拳銃の腕が優れているとは決して言えず腕力もない女性捜査官が警護の職務を遂行する話で、ハードボイルドの香りが適度に漂っています。

書くことで食べているのではないので、ここは書くことを職業にしていた倉橋由美子が宮部みゆきの「火車」という推理小説の文章について書いたものから一部をお借りします。同じことが「クリスマス黙示録」にも当てはまります。

《推理小説は暇つぶしのため、娯楽のために読むものということになっていても、それが文学になっていなければとても読めたものではありませんし、楽しむこともできません。宮部みゆきさんの小説は何よりもいい文章で書かれています。これは天性のいい声と正確な音程で自在に歌える人の歌に似て、安心して快適に読めます。こういう楽しさは、残念ながら最近の多くの推理小説に欠けているものです。》

電子書籍の読み放題サービスを利用していた時に、刑事や探偵などを主人公にした推理小説を読み漁りましたが、再読したくなるような文章に出会うことは少なかったようです。

寝転がっての拾い読みを含めると目次からあとがきまで、この三十年で十回以上は目を通している本があります。「男流文学論」というタイトルの、女性三人――上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子――の鼎談集です。発行は1992年。三人とも関西あるいは関西文化圏で育ったかたで、二人は学者、一人は詩人・作家です。

谷崎潤一郎と彼の著作について語り合う章に次のような発言があります。鼎談なので話し言葉ですが、これが「とてもいい文章」になっていて、この鼎談集にはそういう文章が多い。だから何度も読み返しても退屈しません。

《私、それもね、ほんまは全部嘘やと思うんですよ、彼女はそんなん本気で思ってないと思う。生きている間はうるさい夫やったけど、死んでしもたら私の天下や。どっとみち人生なんていうものは、私みたいにこういうふうにやっときゃええやないか。あんたら何むきになってるの、あほちがうかって。人生て、この程度のものなんや、あんたら何を論じてるのん?って言われているようなコンプレックスはずっと感じるわ。そんな人はちゃらちゃら着飾っていても、どこかに陰影がある。》《上手に退廃してはるなと思うんですよね。》

ある著作が繰り返し読めるかどうかの条件のひとつはそれがいい文章で書かれているかどうかです。いい文章というのが、ここで引用した例と違って、必ずしも、わかりやすい文章というわけではないにしても。


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2024年3月19日 (火)

カーツワイル著「シンギュラリティは近い」とハラリ著「サピエンス」と「生老病死」

特異点(Singularity)という言葉はいくつかの意味合いで使われますが、AI(人工知能)との関係において使われる特異点は、AIがヒトの知能を完璧に凌駕する歴史上のある時期といった文脈で登場します――2006年出版(日本語版は2010年)のレイ・カーツワイル著「シンギュラリティは近い」に詳しい。「2040年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう」。

そうなった場合のAIはヒトよりもはるかに高度な知能を駆使して勝手に自己更新や自己革新をともなった自己製造を自ら計画的に推し進めるので、将来のAI(人工知能)とヒトとの関係は、現在のヒトと家畜との関係に似たようなものになるだろうということをも意味します。

現在のチェスや将棋におけるヒトと人工知能の勝負、現在の検索エンジンのビッグデータ処理、あるいは現在のChatGPTの持つ能力から類推できるように、人工知能は、ヒトの情報処理能力や推論能力や情報処理量の総体をいとも簡単に凌駕します。収穫逓増ではなく指数関数的な収穫加速で人工知能が進歩するということは、人工知能そのものがとても安いコストで人工知能そのものとそれを使った製品や労働サービスなどのサービスを、アルゴリズムに沿って再生産(企画・開発・製造・サービス)するということなので、現在ヒトが従事している仕事の大部分を、人工知能が、とても高い経済効率で、代替するというわけです。

だから遺伝子工学やナノテクノロジーやロボット工学を駆使して生成される非生物的なAIは、生物としてのヒトの体内(脳や血液やその他の身体部分)に組み込まれると、とりあえずそういうことのできる富裕層はという限定があるにせよ、アナログなヒトはデジタルなAI(人工知能)とハイブリッドな共生関係を築くことができるようになります。

そういう意思を強く持つ人たちは確かに存在します。カーツワイルの文章の一節を「シンギュラリティは近い」から引用すると、「老化を人生のひとつの過程として潔く受け入れようとする人もいるが、私の考え方は違う。・・・わたしから見れば、何歳になっても病気と死は不幸な出来事であり、克服すべきものなのだ。・・(中略)・・デ・グレイは、みずからが目指すのは『遺伝子工学で老化に打ち勝つこと』つまり年をとっても身体や脳がもろくなったり病気にかかりやすくなったりしないようにすることだと説明している」。

仏教で四諦(したい)という考え方があります。「四諦」とは釈迦の説いた四つの真理「苦諦」「集諦(じったい)」「滅諦」「道諦」のことですが、このうち現世は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるということを説いたものが「苦諦」で、現世の「苦」の原因はひとが無常を認識できないからだと述べているのが「集諦」です。

つまり、ひとは生・老・病・死などの苦しみに悩まされる苦的存在であり、なぜ苦しみが生ずるかというとその原因は渇愛に代表されるところの煩悩があるからです。その煩悩(とくに渇愛)が滅した状態が涅槃(ねはん)で、涅槃に至るには八正道(はっしょうどう)などの実践行が必要というのが釈迦の基本的な教えです。

しかし「シンギュラリティ(特異点)は近い」の著者であるカーツワイルにとって、「老」や「病」や「死」は苦しいこと・不幸なこと、したがって回避したいことではあっても「生」(あるいは生き続けること)は「苦」ではないようです。

仏教の面白い――あるいは奥深い――のは、「病」や「老」や「死」だけでなく「生」も等しく「苦」の原因だと説いているところです。「生」というのは仕事でも私生活でも何でも渇愛という心的動因の連続で成り立っています――だから何とか生き続けられるとも言えるわけですが。

上述の意味での特異点やAIに、それは避けられない事態だと共鳴している「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、しかし、彼の前作である「サピエンス」のなかで以下のように述べています。ハラリは仏教についてとても造詣が深いようです。

「現代の最も支配的な宗教は自由主義だ。自由主義が神聖視するのは、個人の主観的感情だ。自由主義は、こうした感情を権力の市場の源泉と見なす。物事の善悪、美醜、是非はみな、私たち一人ひとりが何を感じるかによって決定される。」

「宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とはまったく異なる探求方法をとってきた。なかでも特に興味深いのが仏教の立場だ。・・・仏教によれば、たいていの人はこころよい感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。その結果、自分の感情に非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。・・・だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。・・・苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ。」

生の苦といっしょに死を視野に入れた場合の高齢化(あるいは生の意味合い)と、遺伝子工学やナノテクノロジーやロボット工学の成果を活用して病気や死を回避し続ける状況における高齢化(あるいは生の持つ意味)とは、同じ高齢化ではあってもその色合いはずいぶんと違います。


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2024年3月18日 (月)

大きな書店のぶらぶら歩きと、読み放題の電子書籍ライブラリ

某社の電子書籍ライブラリの読み放題サービスは、三カ月百円のお試し期間に一ヶ月千円の有料期間を加えて合計四カ月でその利用を中止しました。理由は結局読みたい書籍は個別に書籍代を支払わないと読めないという簡単な、当たり前と言えば当たり前な事実をその期間に改めて納得したからです。

地方都市の巡回を主たる目的とした美術展では――たとえばキュービズム展とか印象派展とか琳派展など――東京で集中的に開催される場合のそれとは違って、そのカテゴリーの第一級とみなされる作品が含まれていないことが多いようです。その方が作品は集めやすい。そういう意味では札幌も地方都市でした。

時間があるときにする、中規模ビル全体を占有する大型書店、あるいは大きなビルの複数階にまたがる大規模書店のぶらぶら歩きというのはなかなかに楽しいものです。ぶらぶらと歩きながら各コーナーで真剣にタイトルを眺め、本を手にとり、気が付いたら二時間以上が経過して何冊かの買いたい書物を手にしていたというような楽しさです。

月に千円の読み放題サービスで読める本の範囲は、たとえてみると、地方都市の巡回を主たる美術展で展示される作品群に相当します。一級作品は、あるいは同じ作者のものでも印象深い、インパクトのある優れた出来の作品はその中に含まれていない――そういう場合が多い。

しかし読み放題サービスにはそういうマイナス面だけでなくプラス面もあって、そのひとつが、そういうサービスがなかったならおそらく出会うことはなかったあろう本に遭遇できることです。

ゆっくり読みと斜め読みを織り交ぜて次から次へと目を通していると、「こんな本もいかかがですか?」式の当該ソフトウェアにビルトインされたお勧めサービスに思わぬ書物を紹介され新しい本や今までお付き合いのなかった作者に巡り合う場合がありますが、それは大規模書店のぶらぶら歩きで新しい著者や今までなじみのなかった分野の著作に出会う僥倖に近いとも言えます。


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2024年2月20日 (火)

いつの間にか大型タブレットで読む電子書籍になじんでしまった

縦書きだと、A4サイズに近い面積を横にした大きさの、あるいは12.9インチのタブレット端末で読む電子書籍にいつの間にかなじんでしまいました。最近はその形態での読書がいちばん心地よいようです。以前感じていた違和感があまりありません。活字がそれなりに大きい紙の本――たとえばハードカバーの単行本、あるいはワイド版岩波文庫のような本――よりも場合によっては読みやすいかもしれない。

理由は明確でページの大きさと文字の大きさの按配がいいからです。フォントはサイズを13ポイントから13.5ポイントくらいの明朝体に設定すると抵抗なく文字の流れと向き合えます。

紙をめくる感覚や、気になった所にパラパラとページを繰ったりぱっと100ページくらい前に戻ったり、また「あのあたり」への感覚的なランダムアクセスの気儘さは液晶画面のデバイスには無理だとしても、それに近い方法はあります。

紙の本だと気になる箇所を記憶にとどめるには付箋を貼ったりという方法やコメントを書き込んだり鉛筆やマーカーで印をつけたりというのが一般的ですが――本を汚すのが嫌な人は、あるいは読了後に古本として販売したい人は、書き込みや線引きはしないとしても――、電子書籍だと、気になる箇所にとりあえず淡い色で、ちょうど蛍光ペンで線を引くように、印をつけておくことができます。あとで消せるのでとりあえずの汚れを気にする必要はありません。そうしておくと読書中に「あのあたり」へ割に簡単に辿り着けます。

しかし、電子書籍への馴染みをもたらしたのは、やはり、A4サイズに近い大きさのタブレットという物理的な画面(つまりページ)の大きさと、そこに表示されるところの、紙の書籍よりも大きいサイズのフォントからなる文字の量(あるいは情報量)です。そのバランスが嬉しい。文庫本みたいなスマートフォンではこの心地よさは味わえない。


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2024年1月26日 (金)

朗読は役者に限る

たとえばテレビで放映されるのドキュメンタリ作品のナレーション(朗読)はアナウンサーでも彼女や彼がベテランならば着実にこなすとしても、文芸作品となると実績のある役者にアナウンサーは敵わないようです。声の響きが違います。声が生み出す味わいに差が出ます。

しいて分類すれば電子書籍の新種ということになると思いますが、近頃は書籍を検索すると電子書籍の隣にその書籍の朗読版(オーディブル版)が並んでいます。現在普及活動の途中らしく、無料で試すこともできる有名な文芸作品もあるし、無料でないものはちょうど読む電子書籍がそういうサービスを提供しているように、サンプルを楽しむことができます。

目の不自由なかただけでなく、年齢で活字を追うのがつらくなってきたかたにはオーディブル書籍はとても便利な媒体かもしれません。

詩は謳うもので読むものではありません。また、ホメロスが描いたとされる「イリアス」も「オデュッセイア」も、稗田阿礼が祖先から仕事として口承してきた「古事記」も、そして複数の琵琶法師がそれぞれに少しずつ変奏しながら伝えた「平家物語」も、もともとは吟じられたものでした。そのうち文字として紙に固定されることになりましたが、それまでは吟じること、詠ずることで伝承され続けてきたものです。

オーディブル書籍というのは、舞台演劇がそうであるように、声で詠(よ)むのが本来であった世界に接近する手がかりになっているかもしれません。

仕事としてオーディブル書籍の朗読を担当しているのは、舞台俳優、映画俳優、声優、ナレーション専門のナレーターまでさまざまですが、やはり上手い俳優の朗読が一等味わい深い。


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2024年1月23日 (火)

はじめて「落雪」という表記に出会ったのは札幌

四国東北部の瀬戸内は今回も雪には縁がない模様ですが、天気予報では、今週は全国各地で急に冷え込み、日本海側では大雪の降る地域も少なくないという話です。

大雪の日に限りませんが、雪国や北国では積もった雪が屋根や屋上や樹木の太い枝から急にドサッと落ちてくることがあり当たると危ないので――大きな塊が高いところから頭を直撃すると怪我をする――たとえばビルの入り口付近や人通りの多い建物の外壁付近に「落雪注意」という警告板が立ててあったり貼り付けてあったりします。

下は二枚とも札幌市内中心部で三~四年前に撮影したものです

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「落雪」という表現に通りで出会ったのは札幌で暮らし始めた頃で、それまで「落■」という漢字の組み合わせは「落雷」しか頭の中になかったので、ゴルフ場ではあるまいしはてさてなぜビル街で「落雷注意」なのかと訝ったら「『落雷』注意」ではなくて「『落雪』注意」でした。

本などを読んでいる時に寒い季節に関する文脈で「落雪」という言葉に接するのと、まだ雪の降っていないビル街で「落雪」という表記が突然に眼に入ってくるのとでは文字の印象がまったく違います。

瀬戸内では落雷注意というとはあっても落雪注意という事態はまずなさそうです。もっとも、過去数十万年の地球の歴史が十万年ごとに規則的にそうであったように、地球が公転周期に応じて十万年ぶりに寒冷化に舵を切り始めるとなるとその限りではありませんが。


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2024年1月22日 (月)

腕時計の乾電池交換と懐かしい用語

これは時計業界の伝統なのか、札幌でも瀬戸内でも、懐かしい言葉がまだ現役です。

腕時計は二つ持っていてその日の気分で使い分けています。腕時計なしで済ますことも、最近はスマートフォンなどがあるので、可能ですが、時間が気になったその時にどういう場所でも時刻をさりげなく左手首で確認できるというのは腕時計の良さです。

二つの腕時計のうちひとつはスイス製で、これは針が三本と日付表示のカレンダー窓が付いており、二十年近く使っています。もうひとつは国産でこれも針は三本でカレンダー機能などはありません。購入してから三十年が経過しました。途中でメインテナンスをしたということもあるかもしれませんがともに時刻を正確に刻み、乾電池寿命はスイス製が計ったように三年、国産のものはちょうど五年です。スイス製は乾電池寿命が近づいてくると秒針の動きが滑らかな感じから秒(か、それ以上)の単位で移動するゆっくりとした動作に変化し、電池の交換時期だということが解るようになっています。

スイス製腕時計の電池が切れていました。カレンダーの日付から判断して数日前に針の動きが止まったと判断されます。国産腕時計は電池が長持ちするので問題なく時を刻んでいます。近所の時計屋(時計と宝石を商っている店)に電話をかけ腕時計の交換は可能かどうかを確認したあと、両方の腕時計を持参しました。

電池交換料金のご案内というのが壁に貼ってあり、国産品は1,200円、舶来品は1,500円。ただし、舶来品のなかで二つのブランドだけは3,000円となっています。ぼくのスイス製はどういうわけか3,000円です。その二つのブランドは内部の作りが細かいのか緻密なのか、他のものよりも分解作業と組み立て作業に手間暇がかかるらしい。

札幌で電池交換のお世話になった駅地下の時計屋もそうだったのですが、四国東北部でも「国産品」と「舶来品」という同じように用語が使われて、時計業界、あるいは時計修理業界ではけっこう懐かしい言葉がまだ現役のようです。しかし、電池交換料金は、客の回転数が少ない分、瀬戸内のほうが札幌よりも高いのは仕方ありません。


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