言語・言葉

2020年7月 3日 (金)

詐欺もどきの(と言うと失礼かもしれないが)、意味不明瞭な発表

経済効果などに関する政府(関係官庁)の発表でよく使われる手のひとつに、大きそうな経済効果の金額だけを提示して、それが1年間での経済効果なのか、10年間という長期での経済効果なのかについては、当該発表の中では明らかにしないというのがあります。

読む方は1年をデフォ期間と考えますが、発表当事者は10年を想定している。10年でその金額なら別に経済効果云々というほどのこともない些細な金額です。たしか、TPP議論が盛んなときにそれを積極的に推進する担当官庁が使った手だと記憶しています。

今回もマイナンバーポイント制度に関して、同じ手の、よく考えると何を言っているのかよくわからない発表、換言すれば詐欺もどきの発表に出合いました。

ニュース記事(時事通信 2020年7月1日)によると

《マイナポイント(マイナンバーポイント)制度は、消費者がスマートフォンのQRコードやクレジットカードなど決済手段を一つ選んでマイナンバーとひも付け、買い物額の25%分を還元する。上限額は5000円。》

その理由は

《6月末までの「ポイント還元」制度では複数のキャッシュレス決済サービスが利用できたが、マイナポイントでは1人一つに限られるためだ。》

これを読むと、買い物ごとに、毎回、買い物金額の25%を還元、ただし上限額は5000円、と解釈してしまいます。つまり、2万円の買い物を月に5回すると、その月の還元額は10万円の25%で2万5000円(上限額の範囲内)。

しかし、同じ記事に

《マイナポイントに必要なマイナンバーカードの普及率は低く、「5000円程度の還元で消費者がマイナンバーカードを取得するとは思えない」(決済事業者)との声がある。》

とあるので、5000円還元は一度限りのようです。

なぜ、「5000円還元、ただし一度限り」と明記しないのでしょうか。そんなものに訴求力がないのは当事者もよくわかっているのでしょう。だから、失礼を承知で言えば、詐欺もどきの発表内容になる。


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2020年6月23日 (火)

消極的に電子書籍を選ぶという場合

基本的に書籍は紙媒体が好きだとしても、それは読みやすい大きさの活字が並んでいる単行本や全集や、活字のポイント数が大きくなった最近の文庫本や新書版の場合であって、雑誌や料理関連などの実務本は、たいてい必要なところしか読まないし本棚が不要という理由で電子出版物を選択します。

それをとりあえず積極的な理由で電子書籍を選ぶ場合だとすると、消極的な理由で電子書籍を購入する場合というのもあって、それは、紙媒体としては古い作りの文庫本しか手に入らないような場合です。

古い作りとは、たとえ発行年度は比較的最近だとしても作りの古い、つまりそうしないとページ数が膨大なものになってしまうのでポイント数の小さな活字を並べた眼のいい学生向き文庫本などのことで、古典とされるロシアの長編小説や長い現代小説などがある。

単行本でも上下二段組みというのも、厚い文庫本を二冊いっしょにまとめたようなものなので活字は小さく読みやすいとは言えません。

そういうのは紙媒体だと目が痛くなるので、文字サイズを好みのものに変えられる電子書籍がありがたい。パソコンでもタブレットでもスマホでも機器に応じて好みのポイント数で読み進めます。「大きな活字の文庫本」感覚なら、専用端末は持っていないので、使うのはやはりスマホでしょうか。

それから、これは積極的に選んでいるのか消極的なのかわからないけれど、電子媒体でしか手に入らない読み物も電子出版物を買うしかありません。

 


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2020年5月28日 (木)

マーケティング教科書の教材にしたいある小説の一節


以下に引用したのは25年くらい前に出版されたある長編小説の一節(ページ数だと1ページ半くらい)ですが、マーケティングの教材としてとてもよくできています。それで、少し長いですが、以下に引用しました。つまらない教科書よりははるかに役に立つ。今日のブログ記事はこの引用だけです。ご参考まで。

別のことを調べていた時にふとその内容を思い出したものの、それがどの小説のどのあたりだったかは忘れていました。しかし、本棚の前に立ちそれらしいと思われる数冊に当たりを付けてページを繰っていったら意外と簡単にその箇所が見つかりました。その小説の作者は若い頃にジャズバーのオーナーとしての経営経験があると聞いていますが、その一節には当時の体験も反映されているのでしょう。

 叔父はまたひとくちウイスキーを飲んだ。

「たとえばだね、どこかに店を一軒出そうとする。レストランでもバーでもなんでもいいよ。まあ、想像してみろよ、自分がどこかに店を出そうとしているところを。いくつかの場所の選択肢がある。でもどこかひとつに決めなくちゃならない。どうすればいい?」

 僕は少し考えてみた。「まあそれぞれのケースで試算することになるでしょうね。この場所だったら家賃が幾らで、借金が幾らで、その返済金が月々幾らで、客席がどのくらいで、回転数がどれくらいで、客単価が幾らで、人件費がどれくらいで、損益分岐点がどれくらいか・・・そんなところかな」

 「それをやるから、大抵の人間は失敗するんだ」と叔父は笑って言った。

「俺のやることを教えてやるよ。一つの場所が良さそうに思えたら、その場所の前に立って、一日に三時間だか四時間だか、何日も何日も何日も何日も、その通りを歩いていく人の顔をただただじっと眺めるんだ。何も考えなくていい、何も計算しなくていい、どんな人間が、どんな顔をして、そこを歩いて通り過ぎていくのかを見ていればいいんだよ。まあ最低でも一週間くらいはかかるね。その間に三千人か四千人くらいの顔を見なくちゃならんだろう。あるいはもっと長く時間がかかることだってある。でもね、そのうちにふっとわかるんだ。突然霧が晴れたみたいにわかるんだよ。そこがいったいどんな場所かということがね。そしてその場所がいったい何を求めているかということがさ。もしその場所が求めていることと、自分の求めていることがまるっきり違っていたら、それはそれでおしまいだ。別のところにいって、同じことを繰り返す。でももしその場所が求めていることと、自分の求めてゐることとの間に共通点なり妥協点があるとわかったら、それは成功の尻尾を摑んだことになる。あとはそれをしっかり摑んだまま離さないようにすればいい。でもそれを摑むためには、馬鹿みたいに雨の日も雪の日もそこに立って、自分の目で人の顔をじっと見ていなくちゃならないんだよ。計算なんかはあとでいくらでもできる。・・・」(村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編」)

 


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2020年5月15日 (金)

能と居眠りとフリージャズ

札幌では二か月近く前からStay Homeの霧が立ち込めていて晴れそうでいてなかなか晴れません。その霧の中で過ごすにはいい機会なので「能」を集中的に観てみました。「井筒」「葵上」「実盛」「安達原(黒塚)」「砧」「道成寺」「俊寛」などです。以前からも能はその時々の興味と必要に応じてDVDやテレビ放送などで観ていましたが、これほど集中的には時間を使わなかった。

能楽堂に出かけるわけにはいかないので(札幌にはないとしても)、以前から持っていたDVDや今回購入したDVD、かつてテレビ放送されたのを録画しておいたのを続けて再生します。インターネットに曲の全部がまとまって(あるいは分割されて)アップロードされているのもあり、それらも利用します。そうすると同じ曲でも複数の能楽師や囃子方や狂言方の演技の違いをその場で続けて楽しめます。

とまれ、詩や和歌が詠うものであるように、能は舞うもの謡うもので、音声表現されたシテ・ワキの科白や地謡の言葉としての存在感と、笛と小鼓・大鼓という楽器の持つ浸透力の強さを改めて認識することになりました。

先日ある能関連の本を読んでいたら、一般的な観客として能を観賞するとはどういうものかを実に的確にまとめた一節に出会いました。その一節を以下に引用します。

「能楽堂に行って聞くともなしに能の囃子(はやし)を聞いていると、段々眠くなってくる。(中略)時々薄目を開けて舞台を見ると、さっきと同じところにシテが座っている。また目を閉じてしばらくすれば能は終わっている。これがお能の鑑賞である。」(多田富雄「死者との対話-能の現代性」

たしかに能の囃子とゆったりとした科白を聞いていると夢幻能タイプでも歴史物語風でもいつの間にかウトウトしてきます。しかし「霊」や霊的なものが主人公のものであってもウトウトとは縁遠い曲もあって、六条御息所の「生霊」が登場する「葵上」や男性にすげなくされた女性の「死霊」が登場する「道成寺」などはウトウトする暇がない。

とくに「道成寺」の「乱拍子」などは名手のプレイするモダンジャズないしはフリージャズに近い。山下洋輔トリオの、ピアノとアルトサックスとドラムスがお互いに相手にどう反応し合って次にどう展開していくのかその両者(ないしは三者)の緊迫感に、ジョン・コルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングズ」におけるソプラノサックスの官能性が加わったような世界を、道成寺におけるシテの舞と謡と小鼓と笛は、能舞台空間に創り出します。

今回観ることができなかったのが金春禅竹(こんぱるぜんちく)作の「芭蕉」。舞台は中国。(バナナの親戚であるところのつまり植物の)芭蕉の精が女性となって、僧侶の読経を、夜毎、そっと聴きに来るという内容の能です。しかし生の無常をずっと感じ続けてきたらしいその女性は、冴えわたる月光の下、静かにゆったりとした舞を舞い、舞いの後は、吹き荒ぶ秋風とともに消え去ってしまいます。僧侶の前には破れた芭蕉の葉だけ残されていたそうです。

この「芭蕉」の名演を収録したDVDがあれば欲しいと思っているのですが残念ながらこの曲は人気がないのかどこにも見あたらない。能のDVDには古い名演の録画が多い。しかし音楽やオペラや映画のDVDと違ってともかく値段が半端なく高い。

関連記事は《「井筒」と「死者への七つの語らい」》。


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2020年4月24日 (金)

読者に読む努力を強く求める文章

プロの物書きでも読者にわかりやすい文章を書くタイプとそうでないタイプがいます。文章は内容を伴っての文章だとしても、読者に読む努力を強く求める種類の文章と読者に極力そういう努力を求めない種類の文章があります。ベストセラー作家は読者が読む努力を特別には必要としない、わかりやすい文章を書くようです。そうでないと多くは売れない。

吉田健一は、読むときに精神の緊張の持続が必要という意味で読者に読む努力を強く求める書き手です。そんなに簡単に私の文章を読んでもらっては困る、と考えていたのかもしれません。そのことに関して本人の言を引用してみます。

「・・・我々には何か書く時に我々に既に持ち合わせがある言葉と文体で表せる範囲内に書くことを限る傾向があり、勢ひそれは他のものも書き、又読者の方でも大方の見当を付けて期待してゐることでもあるから書くのに苦労することがないのみならず出来上つた文章が解り易いといふ印象を与へる。・・・
 併し我々が実際に或る考へを進めるといふのは話を先に運ぶ言葉を探すことに他ならなくてその上で言葉を得ることは考への進展であるとともにそれを表す文章の開拓でもあり、かうして考へが言葉の形で進んで終りに達した時にその考へも完了する。・・・それで書く方は言葉とともに考へを進めるのであるよりも自分が得た言葉に導かれて一歩づつ自分が求めてゐることに近づき、これを読む方でも同じことをして書く方に付いて行くことになる。それは書くものにも読むものにも或る程度の努力を強ひずには置かないがそれを読み難い、書き難いとするのでは言葉を使ふといふことの意味がなくなり、ヴァレリイを読んでゐて気が付いたもう一つのことといふのはヴァレリイにあってはこの努力が当然であるのを通り越して極めて自然な形で行はれてゐることだった。」(「書架記」)

あるいは

「・・・文章で読めるものと読めないものを区別することが出来る。それでどれだけ簡単に解り易く言葉が進められてゐても駄文は駄文であり、その反対に言葉遣いが慎重であって時には微妙を極めてゐてもこの真実がそこで語られているといふことがあればそれが読むものの力になって言葉について行けないといふことは起こらない。」(「変化」)

という具合です。つまり読める文章は「書く方は・・・自分が得た言葉に導かれて一歩づつ自分が求めてゐることに近づき、これを読む方でも同じことをして書く方に付いて行くことになる。それは書くものにも読むものにも或る程度の努力を強ひずには置かない・・・」

彼のそういう考え方と特徴がよく表われているのが次の二つの一節です。

「冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。それをのどかと見るならばのどかなのは春に限らなくて春は寧ろ樹液の匂いのように騒々しい。そして騒々しいというのはその印象があるうちは時間がたつのに気付かずにいることで逆に時間の観念が失われているから騒々しい感じがするのだとも考えられる。・・・」(「時間」)

「・・・世界を時間に浸透された空間と見ることも考えられないことではない。併しこれは観念が実在するのと物質が実在することの間に多少の違いがあるにも拘らずその両面に亘って認められる時間というものから我々が直接に親密に受ける印象が我々に許さないことである。我々の眼に映る形象は凡て空間に属するものと言えば言える。併し我々が見る雲ならば雲は水蒸気の塊、物質であるよりも雲という言葉が指すもの、従ってその言葉であってそれは我々が曾て見た雲、又他の言葉に繋がり、その時に既に我々は時間の支配を感じて雲が崩れるのも移動するのも我々の現在のうちに入っている。」「(時間)」

しかし、彼の書いたすべてが上に引用した一節の風ではありません。彼のエッセイ集や評論集を手に取ってどこでも適当な箇所から読み始めたら「難解で時に意味が取りがたくなるような入り組んだ文体」(ドナルド・キーン)に出会えます。

吉田健一の文章は、指示代名詞が多用され、長くてまわりくどい。彼はそういう粘り気のある質の書き手です。そういう文体の特徴のひとつとして、あるところまではわかりやすかったものが途中で急に文意が掴みにくくなるということが挙げられます。あるところまで書き綴ってきてそこまでは文章がリズミカルに展開してきたものが、そこで急に作者の頭の中に浮んだ言葉を後回しにできずにその言葉の誘惑に引きずられてその場に急に割り込む感じでそれをそのまま書き写すので、そういう場合、彼の中ではきちんと持続しているはずの書き手としての思考リズムと読者のそれとが同期しなくなる事態が発生することがあります。つまり吉田の余計な親切(つまり新しい叙述の急な割込み)あるいは粘り強い繰り返し思考によって、読者はかえって彼が何を語ろうとしているのかわからない宙ぶらりんな状態に置かれてしまう、そういうことが少なくありません。

以下はそういう例です。

「併しアァノルドはこの詩という明確な形でこの問題を提出し、そうすることでそれが彼にとって切実にというような当世風のことでなしに、紛れもない現実として存在していたことを示し、この詩の美しさを考える時、その美しさは彼のこの嘘がない態度の属性であって、その為に彼の詩が美しいのであるよりも寧ろ、この態度がこの詩で過不足ない表現を得ていることが必然的に美しさを伴うのである。」(「文学の楽しみ」)

彼の文章にそういう特色があっても彼の世界観、あるいは彼の生きることについての基本的な考え方(ないし姿勢)が好きな読者ならそういう場合も不協和や不同期を味わうことはないのかもしれません。吉田健一の生きることについての基本的な姿勢がヒューム(18世紀イギリス経験哲学の哲学者)を軸に凝縮されているのが以下の一節です。

 「・・・もし哲学に一般の人間にとって取り上げるに足るものがあるならばそれはそこに一人の人間がゐてものを考へ、その結果が他の人間に言葉で伝へられる時で、当然のことながらその考へが明確であるということはそれが名文の形を取るといふことと同一であり、かうして哲学は文学の列に加る。ヒュウムはさういふ哲学者の一人である。それがここでは重要であって、哲学史の上でどういふ位置を彼が占めてゐるといふのが定説であるかといふ種類のことを述べることはない。・・・名文といふのはそこに人間の声が聞えるといふことであって、ヒュウムがその悟性論、宗教論などで哲学といふものの限界を示し、そのことに即して哲学にどういふ方向を取ることが許されてゐるかを明らかにしたことはその文章と一体をなしてゐる。或は彼が説いたことの別な立証が欲しいならば彼に反発したのがカントであり、カントがヘエゲルを生み、そのへエゲルがマルクスを生んだのであるが、それが十九世紀のヨオロッパの哲学といふもので、・・・」(「ヨオロッパの世紀末」)

作品の種類にもよりますが、吉田健一は精神の緊張の持続が必要という意味で読者に読む努力を強く求める書き手です。吉田の文章は長くてまわりくどくて口当たりがいいとは言えない場合も多い。そういうときにその口当たりの悪さを別の明晰な文体で口直ししようとするなら、井筒俊彦の「意識と本質」や「意識の形而上学」に優るものはありません。


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2020年4月17日 (金)

あまり劣化しない本、あるいは気持ちいい具合に経年変化する本

最近は電子書籍が存在感を増してきているとは言っても、紙の新刊書もペーパーバックやソフトカバーを別にすると丁寧な作りのものも少なくありません。でも全集などを除き読み捨てでないような質の小説であっても箱入り本は少なくなりました。

現在再読しているのは、発行が昭五十二年(1977年)のある評論家のエッセイで中古本を3年ほど前に購入しました。文庫本よりも読みやすい。箱入りで、表紙が繊細なグレーの布クロス仕上げです。だから手に持ったときの感触がとてもよくて、本文の紙も経年変化しているのには違いないにしても、40年をどこかで上品に過ごしてきたのか、もともとの紙質がしっかりしていたのか、生成り風の味わいです。活字は旧字旧仮名遣い。

ぼくが自分で購入した洋風仕立ての本で本棚においてある中でいちばん古いのは昭和二十一年(1946年)発行の谷崎潤一郎著「盲目物語」です(古い和綴じの本もありますがそれはいただきもの)。

この本は初版が昭和七年二月、手元のは改訂版で発行は昭和二十一年(1946年)七月、74年前です。終戦直後で物資が相当に不足していた頃の出版です。日本国憲法の公布が昭和二十一年(1946年)十一月三日なのでその少し前の出版ということになります。8年ほど前に北海道大学のそばの古本屋で見つけました。

A4サイズの紙を少し小さくして横にしたような作りで和紙の箱入り本です。箱は傷んでいる。しかし、柔らかい表紙の本体はしっかりとしていて、経過年数を考えるととても状態が良い。本文の紙の色にもほとんどと言っていいほど経年変化が見られません。あるいはとても丁寧に経年変化している。昭和二十一年の改訂版でも著者が良質な紙の使用を強く望んだのかもしれません。旧字旧仮名遣いの大きな活字もうれしい。明朝体の大きな活字が並んだ行替えや読点の少ない文章で、それが和綴じ本ではないにせよそういう雰囲気をわずかに漂わせています。

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2020年4月 9日 (木)

コロナウィルス:各国の対応と、日本の「空気」

下に引用した主要国別の死者数と感染者数の推移グラフ(Financial Times ”Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads | Free to read”)がコロナウィルスに関する各国の状況を一覧するには、ぼくにはいちばんわかりやすい。

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死者数グラフは、縦軸は日々の死者の数、横軸は1日の死者数が3人になった日から現在までの日数(グラフは4月8日まで)。感染者数グラフは、縦軸は日ごとの新たな感染者数、横軸は1日の感染者数が30人になった日から現在までの日数(グラフは4月8日まで)。

イタリアとスペインは1日の死者数が3人になった日から30日から40日経過して感染の拡大がピークを過ぎ、その結果、死者数カーブが横ばいからやや下降気味に(台地系に)なってきたようです。米国は感染がまだ拡大中で、日々の死者数も増加中。日本は死者数(絶対数、あるいは人口10万人に対しての死者数)は少ない。

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新たな感染者数もイタリアやスペインではピークを過ぎて減少中。米国はまだ増加中。日本では少ないことになっていた感染者数が「オリンピック延期決定」後の検査数の増加に伴ってそれなりに急に増加し始めた様子がグラフに現れています。

各国の対応を比べると、そこに国民性(ないしは民族性)の違い、あるいは西洋の思考方式や意思決定方式と東洋の思考方式や意思決定方式の違いがそれなりにきれいに反映されているようで、不謹慎を承知で言えばとても興味深い。

ヨーロッパや米国は感染防止対策として国や都市のロックダウン(lockdown)がお好きなようです。それがデフォな選択肢になっている。そしてそういう施策の一部として家計や個人の経済的な救済策が最初からセットになっていて、すぐに実施される。

中国も武漢をロックダウンしましたが、そのやり方をニュース報道やSNSで拝見していると、共産党政府らしいやり方というよりもほとんど漢王朝や唐王朝や明王朝のやり方です。各王朝でそれぞれに発生した騒乱や擾乱や民衆蜂起を制圧・鎮圧した方法のサブセットが今回も出現したようでした。

韓国は都市のロックダウンはせずに、感染検査の数を急速に増やすことで成功裡に対応してきました。この発想がどこから出てきたのかわかりませんが、西洋ロジックではない。

日本は、その点ではユニークです。都市のロックダウンはしない、大掛かりな感染検査を実施するわけではない、法的強制力のない「三密回避」と「外出自粛」を呼びかける。だからかならず「漏れ」はある。

たとえば、北海道の現在患者数が40人になってからそれを下回ることがなくてそのあたりで(最近は少しだすが急に増えたりしながら)停滞しているのは、原因はおそらく東京とのヒトの往来です。ビジネスで東京からヒトがやって来る。札幌から東京に仕事に行って二泊三日くらいで帰って来る。ヒトの往来が少なくて相互に関連のなさそうな北海道の複数の過疎部で急に同時発生的に感染者が出現したというのは学生や家族の「東京からの疎開」がその理由だと思われます。そういう「漏れ」がビルトインされている。「漏れ」としてもう一つビルトインされているのは家計や個人や中小企業や個人事業主の金銭的な救済策の曖昧さと制約と支払いの遅さです。

しかしそういう「漏れ」を抱え込んでいても、結果として「コロナ死者」「コロナ経済不況関連死者」がとても少なくて済むのであれば、ここでは、それはそれで結構であるとします。

欧米のコロナ対応を Democracy(字義通りの訳は「民衆支配」)とすると、日本のコロナ対応は「民主主義」で、つまり似て非なるものです。欧米の対応を Constitution(字義通りの訳は「いっしょに作る」)とすると、日本の対応は「憲法」です。「憲」は「のり、おきて」「法」も「のり、おきて」、つまり「憲法」は「おきて+おきて」という意味になる。欧米と日本のコロナ対応にそういう違いが出ています。

 安倍首相は4月7日の記者会見で、ある記者から、緊急事態宣言を発令しても新型コロナウィルスの感染拡大が抑えられなかった場合の自身の責任について質問された際に、「最悪の事態になった場合、私は責任を取ればいいというものではない」と答えました。本当は首相は「うまく行けば私の手柄だが、うまく行かなかった場合は私の責任ではない」というシンプルな考え方なのかもしれませんが、これは日中戦争から太平洋戦争に至る政府の意思決定を彷彿させます。

当時の政府の最終的な意思は、丸山眞男や山本七平が指摘したように、結局はその場の「空気」「空気感」によって決定されていた。今回の緊急事態宣言やその実行に不可欠な諸政策も中軸シナリオライターが不在のなかで醸成された「空気」が決定したのかもしれません。もしそうなら「最悪の事態になった場合、私は責任を取ればいいというものではない」というのは、うまく行かなかった場合に責任を取るのは閣僚や財務官僚などの官僚を含めたその場の「空気」であって「私」ではない。これももうひとつの「漏れ」かもしれません。

しかし、そういう曖昧さや「漏れ」があるにもかかわらず、ぼくには日本や日本人というもの基本部分に期待するところもあって、日本人は、よく手を洗う、毎日お風呂に入る、握手やハグをしない、マスクをするのが日常習慣である、風呂好き・温泉好きで清潔な国民である。こういう国民性要素や食生活を含む生活要素が、国民目線を失った政治家や官僚、勝手に安全地帯に疎開する人たちの存在にもかかわらず、上述のような漏れを相殺する可能性も高い。海外からのヒトの流入阻止や外出自粛というのも「ミニ鎖国」みたいなものだと考えたら、「鎖国」経験は普段はとくには意識しないけれどぼくたちの文化生活的なDNAの一部になっている。


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2020年3月30日 (月)

コロナの巣ごもり読書には「聊斎志異(りょうさいしい)」

新型コロナウィルス騒動で巣ごもり状態が要請され退屈するかと思ったら、世間は、というか政治と行政の世界はほとんど毎日がコメディなので思ったほど退屈しません。コメディは役者が真面目に演じれば演じるほど滑稽になるとしても、最近の政治行政コメディは登場人物がおのおのの利害と利権の追及にバラバラな方向で熱心なので、その結果、普通のシナリオライターが描く筋書きをはるかに超えたおかしさに満ちています。

「外出は自粛してください。」「不要不急の用事で外に出かけないでください。」「ただし、旅行券と外食券を提供しますので、(外出自粛要請などは気にせずに)旅行し、レストランで思うまま食事を楽しんでください。」「肉や高級魚の購入を支援するクーポンも用意します。」「日常生活で必要なものは政府が責任をもって製造と流通を保証するので心配無用です。」「マスクがいまだに買えないのですがどうなっているのでしょうか?」「申告所得税、贈与税及び個人事業者の消費税の申告期限・納付期限について、令和2年4月16日(木)まで延長することといたしました。」「経済的支援は、前例のない規模で速やかに行います。」「(現金による給付は)当面のキャッシュがない人など(だけ)を対象に(します)。」「(実際の現金給付は)早くても5月末になります。」「首都封鎖も検討しています。」「これでわたしの支持率上がったわね。」「花見や宴会での外出は控えてください。」「都が自粛を求めている公園で花見のような宴会を行っていた事実はない。・・・レストランに行ってはいけないのか。」

「レストランに行ってはいけないのか」を「おいしいケーキを食べてはいけないのか」に翻訳するとフランスやルーマニアではほとんど革命前夜ですが、先日の記事「Financial Times のコロナ(COVID-19)関連の無料記事」で参照した “Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads | Free to read” でも戯画化されているように、日本は「従順で社会規範が強くてマスク着用」の国なので、まだ革命には至っていないようです。

最近になって、東京都でも「密閉」「密集」「密接」の「三密」を回避しようという主旨のメッセージが飛び交うようになってきました。三密の意味は違いますが、三密と言えば密教で、空海です。ただし密教の場合は「三密の回避」ではなく、「肉体と言語と意識のひそかな相互作用であるところの三密、の勧め」になります。

空海の「即身成仏義」という著書に七言八句の頌(じゅ、韻文)があり、下にその上四句を引用します。世界はそのままで(即身)、つまり、ヒトを便利な乗り物として生存しようとしている出自がはっきりとしないがとても頭のよさそうなコロナウィルスを含めてそのままで、悟っている(成仏)という意味の韻文です。

《六大無碍にして 常に瑜伽なり》(宇宙の六つの構成要素はお互いに融けあっていて常に瞑想している)

《四種曼荼 各(おのおの) 離れず》(そういう宇宙を四種類の曼荼羅(まんだら)で象徴的に表現した場合でも、おのおのが離れることはない)

《三密加持すれば 速疾(そくしつ)に顕わる》(私たちの肉体・言語・意識の三種類の働きが仏のそれぞれの働きと応じ合えば、速やかにさとりの世界が顕われる)

《重々(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即身と名づく》(六大と四種曼荼と三密は宇宙の網の中で重なり合っていて互いに映り合うような状態であり、だからそのままで私たちは仏の状態にあると言える)

今回のコメディで登場した演者の(まだまだ進行中なので新しい役者も裏に控えていると思いますが)いろいろな言葉や表現はぼくたちの笑いを誘ってくれるし、またいろいろなことを考えさせてもくれるようです。

さて「聊斎志異」です。

巣ごもり読書には推理小説でもいいのですが、あまりに犯罪者の心理分析が重いものは鬱陶しいので、こういう場合は、神仙・幽霊・妖しい狐や妖しい美女・魑魅魍魎(ちみもうりょう)にまつわる中国の怪異譚「聊斎志異」にしくはない。

日本語訳にいくつかの種類があります。ここでは岩波文庫版の「聊斎志異」(上下二巻)が対象です。完訳本だと短篇掌篇合わせて491篇を訳すので膨大な量になるので、たいていは翻訳者と出版社が読者に面白そうなものを選んで一冊か二冊に収まるようにしてあります。岩波文庫版だと上下二巻で92篇。それぞれ450ページ余り。文字数はとても多く、各ページは(ジジイ、ババア向きでない)非常に小さいポイントの活字で埋まっています。ただし篇ごとに挿絵もついている。

この世のものではない美しさの女性や傾国の美女、えも言われぬ香りの女性が数多くの篇に現れます。路上でそういう女性に出会うこともあるし、そういう女性が深夜に戸を静かに叩く場合もあります。だから題名を手掛かりにそういう女性が登場するに違いない、その可能性の高そうな篇を選んで読み進めるのは一つの方法です。たとえば女性や女性の名前が題名になっているところの「青鳳(せいほう)」「侠女(きょうじょ)」「蓮香」「巧娘(こうじょう)」「紅玉」「連城」「花姑子(かこし)」「緑衣女」「青蛾(せいが)」「嫦蛾(こうが)」など。

「ある日も読書をしているとき、不意に室内にえも言われぬ香りが満ちてきて、しばらくすると佩玉(はいぎょく)の音がしきりに聞こえてきた。驚いて振り返ると、きらびやかな簪(かんざし)や耳輪を飾った美人が入ってきた。」(「甄后(しんこう)」

あるいは「労山道士(ろうざんどうし)」のようないわゆる道教や神仙を匂わせる篇を開くのももう一つのやり方です。「労山道士」では次のようなわくわくする描写に出会えます。

「日もとっぷりと暮れてきたのに灯もない。すると、師匠が紙をまんまるく切り抜いて壁に貼りつけた。と、その紙がたちまち月にかわって、室内をこうこうと照らし出した。・・・・『せっかくこんな月明かりをいただいたのに、黙りこくって飲んでいるのも曲もない。ひとつ嫦蛾(月宮の仙女)でも呼びましょうか』と言って箸を月の中に投げ入れたかと思うと、ひとりの美女が月光の中から姿をあらわした。」

短篇集なので頭から読んでもいいし、書き出しが気に入った篇をつまみ読みしてもいい。一度読んで好きになったのを読み返しても楽しい。


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2020年3月24日 (火)

「アクティブ・ババア」「アクティブ・ジジイ」と姥(うば)捨て山

今回の新型コロナウィルス騒動でも、初期段階でぼくたちの眼に見えた現象は、アクティブシニア層やその層より少し若いアクティブ熟年層がウィルスの攻撃対象やウィルスの顕著な運搬媒体になっていたということです(現在がどういう形の感染カーブのどのあたりにあたるのかよくわからないにしても、初期段階の現象でした)。複数の外洋クルーズ船の主要乗客はアクティブシニア層でしたし(そういう層しか参加しないということであるにせよ)、ライブハウスやスポーツクラブの主要顧客層のひとつは確かにアクティブシニア層です。彼らは体調がいいので、あるいは、体調に如何にかかわらず、昼も夕方もともかくよく動く。

以前はシニア層が屯(たむろ)する場所は午前中の整形外科の待合室や図書館や近所の公園などが多かったようです。今も公立図書館の新聞などは開館時からシニア層に占有されているらしい。早い時間帯のスーパー銭湯もシニア層のサロンだと聞きます。動いていないと気が済まないアクティブシニア層は、静的な空間だけでなく浴室設備のあるスポーツジムやスポーツクラブにも浸透し始めました。

外へ出て積極的に何かをするという意味では図書館通いからスポーツクラブ通いまで一貫していますが、外出先での彼らの自由な振る舞いが若い人の眼にはオーボーな行為と映っているのかもしれません。そういうシニア層には傍若無人な態度を見せる人たちが確かに混じっていて、そういうことも合わさって彼らが「アクティブ・ジジイ」や「アクティブ・ババア」と呼ばれている模様です。

昔々「姥捨て(うばすて)」という風習があったようです。そういう民話や伝説が日本の各地に伝わっていて、これを棄老(きろう)伝説といいます。伝説や民話が残っているということは、そういうこと(あるいは、それに近いこと)が実際に行われたということなのでしょう。柳田國男の「遠野物語」はその一例です。

「姥(うば)」とは老女や老婆を指します。爺ではない。しかし「姥捨て」となると棄(す)てられるのはお年寄りで、そこにはおばあさんもおじいさんも入ってきます。しかし古人が選んだ名称は「姥」。共同体や家族の負担でしかなくなった「ジジイ」や「ババア」を山に棄てた。

世の中には、元気であっても、大きな網に放り込んで姥(うば)捨て山に持っていって棄ておきたい、そういう婆さん連中や爺さん連中が確かにいらっしゃる。そういうシニア層が若い人たちから「アクティブ・ジジイ」や「アクティブ・ババア」と呼ばれているのでしょう。

COVID-19が猛威を振るっているイタリアでは医療スタッフや設備不足で全員を同時に同様な設備で治療できないときに、誰を治療し誰を治療しないのか、その優先順位の決定で苦しんでいる医者もいらっしゃるようです。かりにある70歳の重篤な感染者と、ある20歳の重篤な感染者と、ある1歳の重篤な感染者がいるときに、医療スタッフと医療設備が不足した環境で3人の治療優先順位をつけるとすると、

第1案は、①20歳 ② 1歳 ③70歳
第2案は、① 1歳 ②20歳 ③70歳

となります。20歳と1歳の優先順位をどうするかは「すでに才能や実績として顕在化したもの」と「今後開花する潜在能力や可能性の大きさ」をどう組み合わせてどういう視点で評価するかという哲学的な議論が絡んできますが、70歳の順番を一番後回しにすることについてはその合意形成にとくに悩まなくてもよさそうです。しかしその場合は、捨て置かれる70歳については安楽死という選択肢も必要になります。

しかし実際には当該70歳の持つ政治力や取り巻きが、「70歳の置かれた土俵」と「1歳と20歳の置かれた土俵」を切り離し、70歳の土俵を高みに持ち上げて70歳の優先治療を医者に迫るといった事態も発生します。「アクティブ・ジジイ」や「ババア」の属性のひとつです。


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2020年3月23日 (月)

濃厚接触とソーシャル・ディスタンシング

今回の、世界的にはまだまだ落ち着かない新型コロナウィルス騒動が始まった時に驚いた用語のひとつが「濃厚接触」でした。

「濃厚接触」という言葉できれいな女性のいるところに行ってお酒を飲みながら親しく歓談する場面を連想したら、それもそのひとつには違いないにしても、主にはウィルスの感染者や保有者と親しくおしゃべりしたり、食事をしたり、同じスポーツクラブで運動したり、カラオケボックスで過ごすことなどを意味すると聞いてその不思議な日本語にいささか驚いたものです。その原語というか英語を調べてみると、CLOSE CONTACT でした。もともとは一般語です。それを、どなたが最初に訳したのか、術語(テクニカルターム)の翻訳とはいえなかなかに強烈な訳語です。

ちょっと前まで対岸の火事とみなしてボーとしていたヨーロッパや米国でこのウィルスが急速に蔓延し始めてからのことですが、英語のニュースで SOCIAL DISTANCING という耳慣れない用語が目につくようになってきました(感染症や疫学の専門家にとっては日常語かもしれませんが)。

「濃厚接触」のような刺激的な日本語に訳せないので、ソーシャル・ディスタンシングというカタカナ言葉をそのまま使うとしてもその意味は、「濃厚接触をしない、あるいは濃厚接触の逆をするということ」です。

仕事の場面だと、職場に来て一緒に働くのではなくてテレワークやリモートワーク、あるいは会議室で議論ではなくビデオ会議。学校だと休校やリモート授業。イベントは中止。私的な場面だと、外出は控える、外食はしない、ススキノも行かない。スポーツクラブも行かない。ドラッグストアでマスクの行列に並ぶときに限らず複数で集まる時も前後の人やまわりとは6フィート(1.8メートル)以上離れる、つまりは引きこもり的な生活の勧めということです。

理由は、COVID-19のような接触感染で拡がるタイプのウィルスには SOCIAL DISTANCING することが有効で、そうすることで、感染カーブをフラットにして(つまり低く長く引き伸ばして)感染の拡大を抑える、あるいは感染速度をゆるやかにして医療崩壊を避けることができる。そういう考え方です。

つまり日本では、地域によっては一ヶ月前から実行していることですが、そういう方法を「濃厚接触 CLOSE CONTACT」のように印象的なひと言で要約した表現がないものか。SOCIAL DISTANCINGを「社会(的)距離戦略」としたのでは専門用語辞典風で人口に膾炙しません。「そばに寄るな」「べたべた触るな」「でもバーチャルに濃厚接触したいね」というようなニュアンスを含んで発音しやすく記憶に残る漢字の4文字用語はないものか。

密閉・密集・密接・密着・密議などを避けることなので、とりあえず、「避密のすすめ」あるいは「疎のすすめ」とでもしておきますか。

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