2024年3月27日 (水)

“Say Yes”

メイジャーリーグで活躍しているある日本人野球選手が近頃結婚した時に、結婚について何か彼にアドバイスをとインタビュアーから問われた結婚生活では先輩格にあたるある同僚が ”Say Yes” と簡潔に答えました。奥さんに何かを頼まれたら、あるいは何かを言われたら、まずは、必ず「はい」と返事しろ、というアドバイスです。

「最近、本が増えてきたみたいです。札幌からの引越しの時にけっこう整理したのにまた本棚がいっぱいになってきました」と配偶者に言われたので、Say Yesです。

おそらくこれから読み返すこともないある作家の小説やエッセイ集をまとめて処分しました。

彼女は蚤の市サイトでの売却をデフォと考えていたようですが、すぐに売れるに違いないところの秘かに人気の料理本やお菓子作りの大型本ではないので、無駄な努力はしません。

専門書(あるいはそれに類するもの)だとそういう書籍向きのオークションサイトがあるとして、そうでないタイプの地味な文芸書は手間ばかりかかってどうしようもない。なんとか売れたとしても、買い手が現れるまでの期間は不要だと判断した本が本棚の一部を占有し続けます。せっかく処分すると決めたのに、処分対象が居続けるという状態をいい気分とは言わない。

雑誌や紙ゴミを対象としたゴミの日に紙ゴミとして躊躇いもなく捨てました。Say Yesです。


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2024年2月20日 (火)

いつの間にか大型タブレットで読む電子書籍になじんでしまった

縦書きだと、A4サイズに近い面積を横にした大きさの、あるいは12.9インチのタブレット端末で読む電子書籍にいつの間にかなじんでしまいました。最近はその形態での読書がいちばん心地よいようです。以前感じていた違和感があまりありません。活字がそれなりに大きい紙の本――たとえばハードカバーの単行本、あるいはワイド版岩波文庫のような本――よりも場合によっては読みやすいかもしれない。

理由は明確でページの大きさと文字の大きさの按配がいいからです。フォントはサイズを13ポイントから13.5ポイントくらいの明朝体に設定すると抵抗なく文字の流れと向き合えます。

紙をめくる感覚や、気になった所にパラパラとページを繰ったりぱっと100ページくらい前に戻ったり、また「あのあたり」への感覚的なランダムアクセスの気儘さは液晶画面のデバイスには無理だとしても、それに近い方法はあります。

紙の本だと気になる箇所を記憶にとどめるには付箋を貼ったりという方法やコメントを書き込んだり鉛筆やマーカーで印をつけたりというのが一般的ですが――本を汚すのが嫌な人は、あるいは読了後に古本として販売したい人は、書き込みや線引きはしないとしても――、電子書籍だと、気になる箇所にとりあえず淡い色で、ちょうど蛍光ペンで線を引くように、印をつけておくことができます。あとで消せるのでとりあえずの汚れを気にする必要はありません。そうしておくと読書中に「あのあたり」へ割に簡単に辿り着けます。

しかし、電子書籍への馴染みをもたらしたのは、やはり、A4サイズに近い大きさのタブレットという物理的な画面(つまりページ)の大きさと、そこに表示されるところの、紙の書籍よりも大きいサイズのフォントからなる文字の量(あるいは情報量)です。そのバランスが嬉しい。文庫本みたいなスマートフォンではこの心地よさは味わえない。


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2022年12月 6日 (火)

本は500冊あればいい?

「本は自分の書架には500冊もあればいい」と言った人がいましたが、その意味は繰り返し読むことのできる本、複数回の再読に堪える本が手元に500冊もあればいいということで、そういう本が500冊もあるということは実にたいしたことです。適当に買って適当に読んで適当に保管しておけば本の冊数は勝手に増えますが、繰り返して読むに足る本を、普通は、500冊も持てない。

で、ともかく、500冊の本というのはどれくらいの分量かと思いその量をざっと想定してみると次のようになりました。この計算では、文庫本や電子書籍は対象とせず、いわゆる普通の大きさの活字の普通の単行本だけを考えます。「普通の単行本」といってもサイズや厚さが違うし、箱に入っているのもあるので平均化するには思い切りが必要です。

昔ながらの縦に5段の木製の家庭用の本棚を考えます。縦は180cm、横幅は60cm。1段に20冊並ぶとして、本棚ひとつに100冊収納できます。したがってそういう本棚が5本あれば大きなサイズのものが混じっても――たとえば画集や古い著作集あるいは全集の一部――500冊の書籍を収納・配列できます。

すでに繰り返し読んだ本、再読した本、一部は熱心に読み返した本、そのうちまた読んでみたい本、一度目を通してその後気になる本、何かの按配で再読の必要が生じる可能性が高いので処分しないで保管しておきたい本などを、ジャンルを問わず、すべて繰り返して読むに足る本だとすると、全部で何冊くらいになるでしょうか。

たとえば以下の本は複数回目を通したか、熱心に再読したかした書籍の一部を本棚の前でランダムに選んでみたものです。

「老子」
「荘子」
「大乗起信論」(馬鳴造り、真諦訳す)
「三教指帰」(空海)
「日本的霊性」(鈴木大拙)
「意識と本質」(井筒俊彦)
「意識の形而上学」(井筒俊彦)
「空海の風景」(司馬遼太郎)
「孔子伝」(白川 静)

「精神と物質」(E・シュレーディンガー)
「西欧近代科学」(村上陽一郎)
「タオ自然学」(F・カプラ)
「自由からの逃走」(E・フロム)
「免疫の意味論」(多田富雄)
「アースダイバー」(中沢新一)
「日本はなぜ『基地』と『原発』を止められないか」(矢部宏治)
「愛と暴力の戦後とその後」(赤坂真理)

「伊勢物語」
「紫式部日記」(紫式部)
「象は鼻が長い」(三上 章)
「金沢」(吉田健一)
「絵空ごと」(吉田健一)
「夏の闇」(開高 健)
「ロマネ・コンティ・一九三五年」(開高 健)
「あたりまえのこと」(倉橋由美子)
「夢の通ひ路」(倉橋由美子)
「男流文学論」(上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子)
「東京プリズン」(赤坂真理)

「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)
「スローカーブを、もう一球」(山際淳司)

「寒い国から帰ってきたスパイ」(ジョン・ル・カレ)
「消されかけた男」(B・フリーマントル)
「風の王国」(五木寛之)
「テロリストのパラソル」(藤原伊織)
「クリスマス黙示録」(多島斗志之)

ある著者のある本を再読するくらい気に入った場合、同じ著者の他の複数の著作がたいていは本棚に揃っているとして、では他の著作もその本と同じように読み返すかというと、そういう場合もあるし気になる箇所をあとで参照するに止まる場合もあります。なかには古本屋や古本マーケットに直行したりゴミとして処分されるのもある。

先日、本棚から最後のページまで再読するつもりで引っ張り出してきた上記とは別の二冊のうち一冊は文芸関連でその内容や文体を新たに堪能しましたが、社会科学系のもう一冊は途中で切り上げることになりました。最後まで付き合うには時間がもったいない。繰り返して付き合える本が500冊もあるというのはたいしたことです。


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2022年1月24日 (月)

寝る前に読み返してもそのたびに楽しめる本・補遺

繰り返して読める本というのはそれなりにあるとして、そのひとつが「男流文学論」です。発行は1992年。一人の女性文学者と女性学者二人の女性三人(富岡多恵子・上野千鶴子・小倉千加子)による鼎談を本にしたもので、その鼎談の対象になった男性作家は、登場順に「吉行淳之介・島尾敏雄・谷崎潤一郎・小島信夫・村上春樹・三島由紀夫」の六人、鼎談の行われた時点までに出版されていた主要作品が論じられています。

繰り返し読んで楽しめるというのは繰り返し読んで飽きないというだけでなく、読むときに往復でも楽しめる、あるいは二重の意味でも楽しめるということを含んでいます。

富岡多恵子・上野千鶴子・小倉千加子の三人が「男流文学論」のなかでほぼ異口同音に指摘したのは――あるいは、批判したのは――熟達した女の書き手とみなされているその六人の男性作家の描く女性が現実の女とは似ても似つかないということです。

《「男流文学」のキモチ悪さをこもごもに語る三人の女のやりとりを聞いて、男の読者なら、無理解や不快さを感じるかもしれない。だがそれはちょうど「女流文学」を勝手気ままに裁断してきた男に対する女の側の不快さに通じるものである。「もう一つの性」に自分がどう見えるのかを知るのはわるくない。そしてそれを「無知・無理解」と呼ぶ前に、なぜそう見えるかを自問してもいいのだ。》(「男流文学論」における上野千鶴子のあとがきより)

男性作家がその作品の中で描く女性は、たいていの場合、自己というものを表現するための媒介あるいは鏡としての女性なので、つまりその目的のためにスクリーニングされデフォルメされ抽象化された女性なので、現実の女とは似ても似つかないという指摘はその通りだと思います。

我々が「吉行淳之介・島尾敏雄・谷崎潤一郎・小島信夫・村上春樹・三島由紀夫」などを読むときにその作品の中で出会う女性は、男性作家が自己を表現するための媒介あるいは鏡として登場している女性であり、また、そこで表現された(男性作家の)自己とは、スクリーニングされデフォルメされ抽象化された女性との関係において描かれた自己です。

したがって三人の女性(富岡多恵子・上野千鶴子・小倉千加子)の語る「現実の女」というのは実際にどんなものなのか。「現実の女」の表情、その感性や情念、その観察力、その日常の振る舞い、その思考方法などは「もう一つの性」の僕にはとても参考になります。これが「往」の楽しみです。

では「復」の楽しみは何かというと、その女性三人の語る「現実の女」と、六人の男性作家が「自己表現の媒介として描いた女性」との差異や落差です。両者の違いを眺め、違いの背景や理由について考えることです。その中には「自己表現の媒介として描いた女性」の(男性作家による)巧みな描写を味わうことも含まれます。

最後に、これは《「男流文学」のキモチ悪さ》の裏返しになると思われますが、たとえば、白馬に乗った王子を抽象化したような男性を媒介にして自己を語る女性作家の作品があるとして、男の読者がその作品に目を通し、この女性作家の描く男性は現実の男とは似ても似つかない、気持ちが悪いという感想を持ったとします。その「気持ち悪さ」は、《「男流文学」のキモチ悪さをこもごもに語る三人の女のやりとりを聞いて、男の読者なら、無理解や不快さを感じるかもしれない》における「キモチ悪さ」とおそらく同じ性質のものです。

ともあれ「男流文学論」は繰り返して刺激をもらえる本です。

 


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2022年1月14日 (金)

寝る前に読み返してもそのたびに楽しめる本

繰り返して読むに堪える本を手元に五百冊ほどお持ちの方も世間にはいらっしゃるようです。そういう本が五百冊に達するということは、それまでに半端ない読書量と教養と学識の蓄積、そして言葉というものに対するそもそもの感受性が前提されるので、五百冊という量と拡がりは常人には不可能に近い。しかしもっとずっと少ない数でいいのであれば繰り返して読んで飽きない本というのは確かにあります。

寝る前に読みたい本というのもあります。初めての本やミステリーは就寝前の読書には向いていません。面白くて気が付けば明け方が迫っているということもあるからです。だからそういうときに適しているのは、すでに二度か三度は通読した本であって内容がそれなりに解ってはいるものの、何となく開いた頁から目を通し始めても、新たな味わいや発見があり、そのままその本の持つ世界に入り込めるような本です。一度の滞在時間は十数分でも構わない。

そのひとつが「男流文学論」です。不思議な書名の本で――女流文学という用語があるので男流文学という言葉があってもおかしくはない、ただし通常のカナ漢字変換では「だんりゅう」は「団粒」や「暖流」になり決して「男流」にはならない――、発行は1992年。一人の女性文学者と女性学者二人の女性三人(富岡多恵子・上野千鶴子・小倉千加子)による鼎談を本にしたもので、「文学論」であるところの鼎談の対象になった男性作家は、登場順に「吉行淳之介・島尾敏雄・谷崎潤一郎・小島信夫・村上春樹・三島由紀夫」の六人です。

その鼎談本を手にする以前には、上野千鶴子についてはとても刺激的だった「セクシィ・ギャルの大研究」を手にしたことがあり、富岡多恵子に関しては彼女は出発が詩人だけれど詩集は読んだことがなくてお付き合いがあった著作はエッセイや小説だけです(「二ホン・二ホン人」「回転木馬はとまらない」「壺中庵異聞」など)。「セクシィ・ギャルの大研究」はデズモンド・モリスの「マンウォッチング」をなんとなく彷彿させますが、おそらく「セクシィ・ギャル」に集中した分、「マンウォッチング」よりも知的な刺激力が強く、また文章や内容の洗練度も高い。

さて、その鼎談の主旨は、上野千鶴子のあとがきから引用すると以下のような具合です。

《フェミニズム批評には二つの課題がある。一つは不当に忘れられた女性作家の仕事を発掘し、再評価すること。もう一つは不当に高く評価された男性作家の仕事を読み直し、再検討すること。》

《「男流文学」のキモチ悪さをこもごもに語る三人の女のやりとりを聞いて、男の読者なら、無理解や不快さを感じるかもしれない。だがそれはちょうど「女流文学」を勝手気ままに裁断してきた男に対する女の側の不快さに通じるものである。「もう一つの性」に自分がどう見えるのかを知るのはわるくない。そしてそれを「無知・無理解」と呼ぶ前に、なぜそう見えるかを自問してもいいのだ。》

普通、鼎談というのはしっかりとした影の司会役がいないとたいていはひとりが取り残されるか浮き上がったりするものですが、この対談本では発言量の差はあっても三人の主張や考えがいい按配に混じり合っています。時には融け合う。この本が一人の著者が綴ったエッセイや二人の対談であれば、これほどの、読み返しても飽きない面白さは出なかったと思われます。


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2021年2月22日 (月)

とても小さい活字の文庫本を何冊か処分

先週、古い文庫本を20冊くらい処分しました。古いので捨てたのではなく、もう読み返すこともないと判断してゴミ扱いをしたのでもありません。購入してざっと目を通しその後僕と一緒に何度か引っ越しをしながら本棚で座り続けていた単行本や著作集を30年ぶりに読み返すといった事態は(しばしばではないにせよ)それなりに発生します――何かの物理的ないしはその他の都合で捨てていなければ。

その処分した20冊というのは、文庫本(岩波文庫・新潮文庫・中公文庫・ハヤカワ文庫など)と新書版(岩波新書・中公新書・講談社現代新書など)だけを集めてある本棚に並べてあったとても活字サイズの小さい、従って紙の色も経年変化した文庫本の小説類です。読めなくはないけれど、たとえば読み返すかもしれないし参照用にも保管しておきたい(たとえば、プラトンの「饗宴」、あるいは「古事記」)という種類の文庫本ではない。

伊丹十三「女たちよ!」(文春文庫)はなかなか刺激的なエッセイ集です。出版年が古く、処分した小説と同じように驚くほど小さい活字が並んでいます。電子書籍があると思うので捨ててもいいのですが(註:電子書籍はなさそうだが、文庫の新版はあった)、茶色くなった紙も含め懐かしい内容なのでとってある。

以前は新聞紙の活字もとても小さかったのがある時期から各全国紙で大きく読みやすくなりました。金融情報などが満載の日本経済新聞だけが抵抗を続けていたのが抵抗しきれなくて、全国紙では最後に大きな活字に移行したと記憶しています。調べてみると、大きな活字になったのは、毎日新聞が2007年末、朝日新聞と読売新聞が2008年春、日本経済新聞はよくわからない。

そのあたりから文庫本の活字の小ささの不愉快が目につき始め、従って文庫本の出版社もその前後から大きめの活字の文庫本に方向転換したのだと勝手に考えています。

手元にあるワイド版岩波文庫の「聊斎志異」(上下)の出版は2010年、「華国風味」(青木正児著)は2001年です。「ワイド版岩波文庫」や「講談社文芸文庫ワイド」(たとえば吉田健一著「絵空ごと・百鬼の会」)がぼくは好きだとしても需要がないのか出版本数が少なく人気のないのは最初の印刷だけで廃版になってしまう。活字を読者が好みの大きさに拡大できる電子書籍という選択肢もありますが、電子書籍よりも紙の中古本です。ぼくは実用書や実用書風以外は電子書籍をあまり歓迎しないので。

 


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2020年8月26日 (水)

古本通販の楽しみ

古本屋さんを歩く楽しみはさておいて、ここでは各種の通販という手段で古本を購入するときの楽しみについてです。

古本通販の楽しみには、買う楽しみと、届いたのを読み始める時の楽しみがあります。その楽しみは、新刊書を購入してきて最初のページやあとがきに目を通すのとはまた違った種類の刺激があります。

古本の通販購入ということだけでも、一般読者にとってはチャネルの選択肢が拡がりました。本やCDの通販から開始した大手通販はそのひとつですし、古本屋さんで構成する古本通販ネットというのもあります。それから、古本の種類によっては便利なのがいわゆる「フリーマーケット」サイトで、ここもシンプルなものからオークション形式のものまであるので、欲しいものを購入するためにはいくぶんの知識と慣れが必要です。

できるだけ品質の良い(つまりきれいで)、値段が安い古本がありがたいとしても、出品者がプロの場合には言葉の状態解説だけでは購入後に不満が残ることも少なくありません。だから、最近は古本といえども片手の指の本数以上の複数の写真を掲載してくれる出品者も増えてきました。

「フリマ」サイトでは映像情報(写真)が必須だとしても、古本屋さんのネットワークでも、そういうトレンドに無理なく対応しているところも増加中です。文字情報による定形風解説にこだわっているところも当然あるみたいです。それはそれで文化だとは思います。

同じ対象を複数のチャネルを横ぐし状態にずらずらと探すということもしますが疲れるので、対象の種類によってたいていは二つくらいが候補です。

個人全集の中の一冊や二冊を、それも1970年代や1980年代に出版されたもので旧漢字と旧仮名遣いの評論集などを、たとえば古本屋さんネット経由で買い求めるとして、届いた本を消毒を兼ねてきれいにし、最初の評論に取りかかったとします。

そこに、薄い、Hか2Hと思われる鉛筆の小さな細い字で旧漢字の隣にフリガナが少なからずあったりするのに出会うと、そういうのは状態説明になかったと以前は腹を立てたこともありましたし、消しゴムで消したりもしましたが、その字がいい感じのものなら、その当時どういう年齢のかたがこれを書き込んだのか、その様子を想像してみるのもなかなか楽しいものです。


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2020年6月23日 (火)

消極的に電子書籍を選ぶという場合

基本的に書籍は紙媒体が好きだとしても、それは読みやすい大きさの活字が並んでいる単行本や全集や、活字のポイント数が大きくなった最近の文庫本や新書版の場合であって、雑誌や料理関連などの実務本は、たいてい必要なところしか読まないし本棚が不要という理由で電子出版物を選択します。

それをとりあえず積極的な理由で電子書籍を選ぶ場合だとすると、消極的な理由で電子書籍を購入する場合というのもあって、それは、紙媒体としては古い作りの文庫本しか手に入らないような場合です。

古い作りとは、たとえ発行年度は比較的最近だとしても作りの古い、つまりそうしないとページ数が膨大なものになってしまうのでポイント数の小さな活字を並べた眼のいい学生向き文庫本などのことで、古典とされるロシアの長編小説や長い現代小説などがある。

単行本でも上下二段組みというのも、厚い文庫本を二冊いっしょにまとめたようなものなので活字は小さく読みやすいとは言えません。

そういうのは紙媒体だと目が痛くなるので、文字サイズを好みのものに変えられる電子書籍がありがたい。パソコンでもタブレットでもスマホでも機器に応じて好みのポイント数で読み進めます。「大きな活字の文庫本」感覚なら、専用端末は持っていないので、使うのはやはりスマホでしょうか。

それから、これは積極的に選んでいるのか消極的なのかわからないけれど、電子媒体でしか手に入らない読み物も電子出版物を買うしかありません。

 


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